第5話

 風の匂いが青い。まだ夏が色濃く残っているのだろう。9月なんてほとんど夏だ。
 足を踏み込むたびに、ペダルを通じて自転車が敏感に反応し、身体の一部のように前へ進む。エネルギーは自分の身体、おれの心臓とその血液が送り出す酸素によって自転車は動く。驚くほどの早さで。自動車にも近い速度で。
 整備され尽くしている、とは言いがたい車道を、タイヤが滑る音が聞こえる。ジャッ、という乾いた音が一瞬だけ上がって、そのまま空気の中に消える。瀬戸内の潮風がヘルメットと、その中で蒸れた髪の中を通り過ぎる。
 ひとりだ、と思う。チーム競技のロードレースでは、決して味わうことができない感覚だ。人がほとんどいない、田舎のアスファルトを、自分の身体だけをエネルギー源にして前に進む。休まず進み続ける。太陽が照りつけ、容赦なく身体を焼いている中、吹き出す汗と上がる呼吸で実感する。
 生きている。どんなに腐った日々を送っていても、おれの身体は生きている。

「鳶がいる」
 北のささやきがきこえたのは、先に進んでいたこの男が、わざわざ隣に並んできたからだった。
「鳶じゃない。あれはサシバだよ。もう少しで渡りの季節だから、このあたりでも見られるようになってる」
 愛媛には、サシバの渡りで有名な場所がある。高茂岬だ。同じ愛媛県といえども南端に近い場所で、今治からは遠く離れているのだが、それでもごくまれに見かけることがある。
「渡り……」
 手元のサイクルウォッチを盗み見る。まだ心拍は140で余裕があった。おれはぐっとペダルを踏み込み、多々羅大橋へ登るための傾斜を駆け上がる。憎たらしい北は、息も乱さずについてきた。二千メートル級の山をもこなす北の強い足は、この程度の坂、遊びにもならないらしい。
 しまなみ海道は全長およそ70キロ。定番のルートである「ブルーライン」上を進むとすると、6つの島を渡って本州、尾道を目指すものだ。人気の秘密は、島同士を結ぶ橋、そこから見える美しい風景にある。
 島と島を結ぶ橋は、すべてそれなりに高さがあった。つまり、海上の島々を見渡せる絶景のためには、毎回坂を登らないといけないわけだ。坂を上り、ようやく橋にたどり着くと、今度は強い潮風が横から吹き付けてくる。
「なんだよ、自然の中で暮らしてたなんて豪語してたくせに。鳶とサシバの違いも分からないのか」
「どっちも猛禽の類いだろ。つまりは鳥だ」
 むっとした口調に吹き出してしまった。こういうところはかわいらしい奴なのだ。
「鳥って名前の鳥はいないんだ……って、おれも昔注意されたな」
 北が隣から怪訝な顔でのぞき込んでくる。普段からレースに出ている人間は、距離にためらいがない。常に肩が触れあいそうな(実際ぶつかり合うときも多々ある)距離で戦っているからだ。
「汀の、そういう思わせぶりな物言い、腹が立つな。どうせそれも昔寝た男なんだろ」
 当たっている。無意識に思わせぶりな発言をする癖があって(おそらく、卑小な性質ゆえに相手よりも有利に立ってその場を支配しようとするのだ)、特に寝た相手には頻発してしまう。心を許すまいと身構えるあまりに。自分に呆れて笑ってしまった。
「落ち着けよ。他人のことで感情を乱すなんてお前らしくもない。深呼吸して、この素晴らしい風景でもゆっくり見たらどうだ?」
 北は、おれに促されてはじめて海の方へ顔を向けた。晴れた朝の海面が、きらきらと北の横顔を照らしている。凜々しい横顔だった。顔だけは最高なんだよな、こいつ。整っているのに薄情そうで、強い自我がにじみでている。北は雑で乱暴で自分本位なセックスばかりするので、身体の相性はそれほど良くないけど。
「渡りって?」
「サシバはカラスぐらいの大きさの猛禽類で、本州で繁殖して、冬になるとあたたかい場所へ移動していくんだ。群れを作ってね。それを「渡り」っていう。およそ二万羽が高茂岬の上を通って九州に渡っていく。壮観だよ」
 おれは猛禽が好きだ。だから、聞き流すことが多かったあの鳥類学者の話の中でも、猛禽の話だけはきちんときいたし、頭に残した。
 彼らは、飛び方も、鳴き声も、姿形も、何もかも最高だ。鳥類の最高峰だ。
 そんなおれの気持ちが顔に出ていたのか、多々羅大橋を超えたところで、北は言った。
「だから、腰のところにサシバのタトゥーを?」
 橋が終わると下り坂になる。ひゅ、と息をのんでから、ため息のような声が出た。
「あれはハヤブサだよ、ばか野郎」
 それから、すべての島を渡って尾道に到着するまで、北は一言も口をきかなかった。何か意味の分からない勘違いによって機嫌を損ねていることは分かったのだが、おれも何も言わなかった。言い訳や説明が必要な関係じゃないし、そもそもこのタトゥーに、特別な意味などない。ただの気まぐれだ。

***

 北岳斗がこのあたりに滞在しているという噂が流れるのに、それほど時間はかからなかった。北のやつときたら、全く顔を隠さずにそこらをウロウロしていたし(初めの頃は日焼け防止のマスクをしていたが最近はしていない)、乗っている自転車も普通じゃなかった。ツールに出たバイクは企業の供与なので別物だが、ほとんど同じバイクに乗っていたし、彼は目立つ容姿をしていた。
 北は愛想が良い選手とは言えなかったが、応援してます、とか、写真お願いします、と声をかけられると拒否はしないみたいだった。笑顔を見せないのは誰に対しても同じなので、やがて住人も、ファンも、おれも慣れた。こいつはこういうやつなのだ。
 この場所でなければ、バレなかったかもしれない。日本で1番サイクリストが集まるこの場所でなければ。残念、無念である。北がよくトレーニング(本当はリハビリなのだが)終わりに利用しているという噂が流れたおかげで、谷地温泉も繁盛していた。おかげで、おれに対する姉の機嫌が「最悪」から「少し悪い」ぐらいまで改善して助かった。
「北くんだー、今日はどこ走ったの」
 姉の蜜は、おれに対する態度が1だとすると、北に対しては常に8で接した。愛想よくニコニコと笑ったし、自転車の話もした。本当は嫌いなはずなのに。いや、違うのか?嫌いになりたいだけだろうか。
「尾道まで行って、折り返してきました」
「え、何時に出たの。まだ昼の13時半だよ」
「これでも一応、プロなので」
 姉は黙って口笛を吹いた。こんな下品なリアクションは彼女らしくない。よほど北のことを気に入っているみたいだ。おれは驚いて彼女の後ろで目を丸くした。
「朝の7時からこいつの自転車を調整させられたんだ。たたき起こされてね。そしてそのまま強制連行だよ。おれは奴隷よろしくこいつの後をついていったってわけ」
 首を振るおれを睨んで、北が言った。
「その分料金は上乗せしたろ」
 帰ってきてすぐ、シャワーも浴びずにおれと寝たことを上乗せだといっているのだとしたら、首を絞めたい。どちらかというとこっちが金をほしいぐらいだ。
「K君は朝の8時に家をでました。140キロを自転車で走り、家に帰ってきたのは13時でした」
 おれの言葉を無視して、姉は天井を仰いだ。
「嘘でしょ。30キロで巡航したの。プロって本当だったのね」
 北は即座に否定した。
「40です。水を飲む休憩を挟んだのと、途中山道もあったので30に落ちたこともあったかもしれませんが、平均40は出てました」
 しまなみ街道は片道約70キロ、往復140キロある。普通の人間からすれば、自転車で(それも日帰りで)140キロも走るなんで気が触れてると思うかもしれない。だが北はプロのロードレーサーだ。プロのロードレースなら……その中でも伝統あるグランツール、ツールドフランスなら、一日に200キロ以上走ることもある。それも数千メートルという山道を含んだ道を、だ。
 彼らは平均40キロの速度で走る。北は第一線のプロなので、これぐらいなんてことない。だが付き合わされたおれは、死ぬかと思った。北は全く手加減も気遣いもしなかった。自分の走りたい速度で走り、おれを振り返りもしなかった。ほとんど意地だけでついていったおれは、本当を言えばいますぐベッドに突っ伏して眠りたかった。三日三晩雨ざらしにされた猫のように疲労困憊していたのだ。

「ご両親は何も言わないの。命の危険がある仕事でしょ」
 姉の質問は重みがあった。声はひっそりとしており、真剣だった。
「両親は長い間会っていません。生きているのか死んでいるのかも分からない。どこにいるのかも。――なので、おれの仕事についてどう考えているのか、知りようがないですね」
 姉は絶句した。そうだろうな。まだ北という人間になれていない。
「……ごめんなさい」
「こちらの言葉不足でしたね。正確には、おそらく今は東ヨーロッパのコミューンに所属しているはずです。二年前、ブレッド湖の写真を送ってきましたから」
 淡々とした受け答えだが、誠実でもあった。北は愛想がない代わりに嘘は決してつかなかった。嫌なことは嫌だと言ったし、聞こえないフリをしたりもするが、嘘はつかない。
「スロベニアね。自転車やスポーツが盛んな国」
 北が無言で驚いた気配を出した。姉は粘着テープでしつこく座椅子についた髪の毛を取りながら言った。
「私は元外交官。それぐらい知ってる」
 アルプス山脈の近くには自然崇拝などのカルトコミューンがいくつも存在していると聞いたことがある。あいにくおれは宗教に詳しくないのだが、雄大な自然を目にすると、圧倒される気持ちは分からなくもない。
 姉と北が雑談している傍ら、おれは粘着テープとクイックルワイパーで男風呂の脱衣所を掃除していた。女子風呂の管理は姉が、男風呂の管理はおれが行うことになっているが、客は男が7割なのでこちらばかり掃除が必要になる。不平等条約だ。自転車の修理業務をしながらマメに掃除をしているが、繁忙期の今は追いつかない。
 女子風呂の脱衣所に人が入ってきたので、北は従業員用の通路を使って男風呂に入ってきた。そしてそのままおれの作業を黙って手伝い、一段落すると風呂に入ってからやじ温泉を後にした。まだおれに対する不機嫌は払拭されていないらしい。あれほど好き勝手人をオナホ扱いしておいて、まだ怒っている?理不尽の極みだろ。
 腹立たしいのはこっちだった。腹いせに、やじ温泉を出てからすぐ、最近よくつかっているゲイ専用のアプリをひらいた。あんな自分本位の、鬱陶しい独占欲を向きだしにしてくる男に操立てするつもりはさらさらなかった。
 広島に住んでいる男で、何度かやりとりしているうちに寝てもいいかなと考えているやつが3人いたので、そのうちひとりと連絡を取った。時間は15時、夜はまだ始まってもいない。
 携帯端末が震えた。その番号は削除済のもので、誰からか分からなかった。無視を決め込み、シャワーを浴びて着替えを済ませる。財布をデニムのポケットに突っ込んで、バイクにまたがった。もう今日は仕事をしない。そんな元気はない。CLOSEDの看板を店の前に置き、ため息をひとつついてから、目的地へ向かった。