第4話

 薄切りした牛タンを炭火で焼いたものは、最高に美味だった。県内でとれたレモンを搾って塩を振っただけなのだが、いくらでも食べられそうだった。柔らかくて、香ばしいいい香りがして、臭みが全くない。
 特に驚いたのが北が持ってきた味噌だった。青唐辛子を味噌漬けにしたもの、とだけ説明されて、半信半疑で食べたのだが、この味噌が最高だった。ぴりっと辛くて、でも深みがあって、あまりにも気に入ったので焼き肉のあとに焼きおにぎりに塗って食べた。これもまた最高だった。北がつくってくれた、旨みの強いきのこ汁との相性最高だった。違うきのこならしょっちゅう口の中に入れているが、本物のきのこがこんなに美味いとおもったのは初めてだ。きけば、チチタケは関東で売るとマツタケ並みの高級食材になるという。
 おれたちは食事中ほとんど口をきかない。これははじめて北が我が家でピザを食べた日からそうで、今日で4回目になる会食も同じ様子だった。お互いに腹を満たすことに集中したいタイプの人間なのだ。
 鹿肉はハーブと塩をたっぷりのせて窯で焼いた。缶詰のデミグラスソースをかけて食べたので、匂いも気にならず最高だった。
「自然の中で飯を食ベるの、久々だな。昔は毎日そうだった」
 大方食べて満足すると、我々は酒を飲み始める。その短い飲酒の時間だけ、少し話をする。北は自分のことを話さないので、これはめずらしい切り出しだった。
「子どものころは親がしょっちゅうキャンプにつれてってくれた、とか?金がかからないレジャーとしてありがちだよな、キャンプ」
「いや、そんな生やさしいものじゃなかった。あれは――生活だった。今思えば、放浪といっても良かったかもしれない。家族全員で、日本中を放浪してまわっていた。同じような人々の集団に時々所属しながら、山の中を点々として暮らした……汀、たき火でもどうだろう」
 なぎさ、と名前を呼ぶ人間は、今のところ(日本では)北、ひとりだけだ。その呼び方は、忘れていたイタリア時代の感傷を呼び戻してすこし憂鬱な気分にさせたけれど、嫌な感じではなかった。なので、もう注意せず放っておいた。呼びたければ呼べばいい。おれは憂鬱がさほど嫌いではないのだ。我ながら面倒な性質をしている。
「わかった、着火剤持ってくるよ」
「いや、いい。七輪はどこに置けば良い?」
「え、でも着火剤とかマッチとかいるだろ……七輪は土間に。家に戻ったとき炭を始末するから」
「焚き火台があるならそれだけで大丈夫だ」
 立ち上がって、家の中をうろうろしながら考えた。おれはたき火が好きで、よく火を見ながら考え事をする、という話を北にしたことがあった。何しろしゃべらない男なので、おれが一方的に、うわべの話をすることが多い。毒にもクスリにもならないような話だ。まさか北が覚えているとは思わなかった。
 焚き火台と、念のためマッチと着火剤を手に庭に戻る。
「台はそれか?貸してくれ。薪と松ぼっくりは持ってきたから、マッチも着火剤もいらない」
 北はすでに種火を起こしていた。手に持っているのはナイフだけだ。よくみれば、ナイフでほどいたらしい麻紐が見えた。麻紐に火をつけて種火にしたのだろう。
「ファイヤースターターとナイフはいつも持ち歩いているんだ。抜けない幼少時からの習慣ってやつでね」
 どういう習慣だよ、と軽口を叩こうとしたが、できなかった。北の目は暗くて、まるで今の夜の、星のない場所を集めたみたいにドロドロと深い色をしていた。とてもじゃないが、楽しい理由には見えない。そこには生死のかかった必死さが見えた。
 はじめは細い薪に引火し、上に太い薪をのせて、紙を丸めた火吹き棒で少し離れた場所から息を吹き込む。あまりにも手慣れていて、おれが毎朝欠かさず米を炊くみたいに自然な動作で、北はたき火をしてみせた。あっという間に大きくなった火を、北の隣でじっと見つめる。パチパチと音が鳴り、まっすぐに煙が夜空へ立ち上っていく。
「生まれは東京だけど、そういう理由で全国を回っていた。つまり、都会育ちというわけじゃない」
 突然この話終わり、という雰囲気を出されて、おれは待ったをかけた。
「おいおい。それだけじゃ何もわかんないよ。レンジャーでもないのに、何故山の中で生活する必要が?」
 麦焼酎にレモン果汁とソーダ水を入れたもの、が、カランと音を立てた。氷がとけて味が薄くなったそれを飲みきってから、ウィスキーのロックを淡々と飲んでいる北に言った。
「もしかして、宗教か?カルトのような」
 北はちらりとこちらを見た。それはあの狼の目だった。なぜ今、性欲をちらつかせるんだ、とため息をつきたくなる。
「両親の信仰は、おれの理解を超えていた。今でも理解できない」
 カルトの二世。そんな言葉が頭に浮かんで、打ち消す。たとえそうだとして、おれには何もできない。北は恋人でも友人でもないし、彼はすでに自立していて、(おそらく)両親とも縁が切れている。そこまで立ち入る資格もないのに何も言えない。
「……ありがとう」
 ため息のような声で礼を言われて、おれは呻いた。
「なんで」
 北は、そっとおれのそばにやってきて膝をつき、手を握ってきた。見上げてくる目に炎がうつっていて、赤く燃えあがっていた。
「何も言わないでいてくれて」
「優しさで黙ったわけじゃない。面倒を避けただけだよ」
 それでもその手を振り払うことはできなかった。北の目は、何も言わない口よりもずっと雄弁だった。その目はおれを求めていた。焼き殺すような目で、欲望に潤んでいた。

 北の指はレモンの匂いがした。
 もしかしたらおれも同じだったかもしれない。歯を磨いても、シャワーを浴びても、指先のレモンが消えないままだった。
 いつもベッドの隣に布団を敷いて、そこで寝かせる。寝るとき他人がいると熟睡できない。そういう性質を伝えていたので、手で抜いたり口で抜いたりした後でも、毎回必ず別々に寝ていた。
 今日は、北は何もいわずにおれのベッドに潜り込んできた。やはり男前というのは、ワンチャンスを生かすカンのようなものが備わっているのかもしれない。おれの中に生まれた同情のようなもの(断じて恋愛感情ではない)を敏感に嗅ぎ取り、今日はヤれると踏んだのかもしれない。あるいはただ甘えたかっただけなのか。
 いずれにせよ、許してしまった事実に変わりはない。甘えでも性欲でも、侵入を許したのはおれなのだ。他ならぬおれの性欲と好奇心が最終判断を下したのであって、北のせいだけにすることはできない。
「汀」
「せめて「さん」をつけてくれない?おれ大分年上なんだけどな」
「嫌だね」
「そう言うと思った」
 緊張のせいなのか、ぎこちない動きでおれの服を脱がせようとするので、自分で全部脱いだ。北も慌てて同じようにして、背中ごしにぴったりとくっついてくる。体温が高い。子どもみたいだ。
 指がゆっくりと腹筋を、脇腹を、胸をなぞる。筋肉や骨のかたちを確かめるみたいに、手のひら全体で触れてくる。あまりにもじれったいその動きに、叫びたくなるのを必死で我慢した。
「やるならさっと終わらせよう。じらされるのって趣味じゃないんで」
 北は強引におれの顎をすくってキスをしようとしたので、手のひらで止めた。
「セックスにキスは必須じゃない」
「おれはしたい」
「やめとこう。脳が勘違いする。これは恋愛じゃない」
 強い目がぼんやりとかすんだ。傷つけたのだ、と気づくのに数秒かかってしまった。
「おい。岳斗、お前まさか童貞なのか」
 返事のかわりに首元にかみつかれる。その手や唇は、おれの都合なんて全く無視して好き勝手動いた。舐めたいところを舐め、つねりたいところをつねった。それでも性器にだけは触れてこずに、頭の中が煮えたぎってくる。
「汀がひどいことを言うから、傷つけたくなってきた」
「おい、やめろ……、い、痛い、離せってば」
 おれが用意したローションを全身にぬりたくった北は、恐怖を抱くギリギリの痛さで乳首をつまみ、ぎゅっと引っ張った。性器を甘噛みされ、恐ろしいのに感じてしまって、内股がカタカタと震える。
「も、早くしろよお、クソ童貞」
「いれてほしいってことなら、まだダメだ」
「はあ?死ね、クソ」
「悪口がワンパターン」
「ファッキンチェリーボーイ」
「意味同じだし」
 レモンの指がおれの中に入ってくる。ぐねぐねと動かされ、中を開かれて、胸で息をした。恥ずかしいほど開かされた足の間で、北が唇の端を持ち上げた。
「慣れてるんだな。今まで何人と寝た?」
「お前に言う必要、ない」
「そうか?」
 待ちくたびれたペニスが押し当てられて、おれは安堵のため息をついて自分から足を開いた。はやく、とつぶやくと、北が先だけをいれてすぐに抜くのを繰り返してくる。
「やっぱりやめるかな。童貞のセックスじゃ汀を満足させられないだろうから」
「はあ!?ふざけんなここまできて。とっとといれろよ」
「人数」
 自分でも相当荒い息をしているのに、おれを尋問することを諦めない。我慢強い男だ、童貞のくせに。
「10人以上。ただのちんぽなんかいちいち覚えてねえよ、バイブと同じなんだから」
 おれが唇を噛んでから吐き捨てるように言うと、北は心底軽蔑したような目でおれを見下した。
「美味そうにしゃぶってたものな。そんなに男が好きなのか。男ならなんでもいいんだな?」
「ああそうだよ。お前だって得しただろ、相伴に預かれて……うっ?!あ、おっき……!」
 いきなり奥まで突き刺されて、息がつまった。なんてことしやがんだ、この、非常識童貞野郎が。
 ゆさゆさと身体をゆさぶって強引に根元まで突っ込んでから、正面から抱かれた。膝裏を持ってぐっと顔に押しつけられ、北の汗が顔に落ちてくる。必死な顔だった。興奮で上気して、信じられないぐらい色っぽい顔をしていた。
「今日からおれ以外と寝たら許さない、相手を見つけて首をしめて殺すから」
 は、は、と獣のような息が落ちてくる。むちゃくちゃな動きだ。おれの身体のことなんて、何も考えちゃいない。ただの穴として使われている。
 それなのに。
 信じられないぐらい興奮する。痛くて苦しいのに気持ちいい。
「あ、ア、いい、がくと、もっと……もっとして」
「誰でもいいくせに」
 そうだ、と心の中で返事をする。そうだ、誰でもいい。
 あの男以外は全部同じだ。
 ただの気持ちよくなれる棒を持ったおもちゃ。感情なんかいらない。邪魔なだけだから。
 肩をつかまれ、後背位でズブズブと犯される。自分の口から、きいたことがない嬌声がつぎつぎとわいて出ては遠慮無く放たれた。
「いく、いきそう、岳斗、お願い……!」
 ベッドの上で他人にここまで主導権を握られるのは久しぶりのことだ。日本に帰ってきてから、ワンナイトセックスしかしてこなかった。アプリを使って後腐れ無いワンナイトセックス。それが性に合っていたし、変えるつもりもなかった。自分がやりたいようにやり、相手をいかせて自分も気持ちよくなって、それで終わり。同じ相手と二度は寝ない。感情を抱きたくないから。
 それが。そんな男遊びにばかり興じてきた、このおれが。
 いいようにされている。こんな童貞に。フェラチオされただけで恋愛感情を抱いてしまうような、バカで哀れな童貞に。
 いよいよ達する直前、視界が白く明滅してきたころ、北は突然動きをとめておれの背中にかみついた。痛みに身体をよじった瞬間、中が生暖かいもので濡れる。
 信じられないことに、北はわざとおれの絶頂を阻害して、自分だけ達したのだ。