第3話

 自宅のテレビは自転車レースを見るときぐらいしかつけないので、普段はほとんど電源が切られている。高い契約料を払っているので、できるだけ取り返したいとケチくさいことを考え、録画してみられるだけのレースをみているつもりだが、それでも全部を網羅できない。いくら暇とはいえ、一日の時間は限られているので。
 北岳斗が獲ったステージは、標高1500メートルの山が含まれた山岳ステージだった。
 その日は朝から天気が悪く、雨が降っていた。山が得意な「クライマー」と呼ばれる脚質の選手たちにとって、見せ場となるのがこの日から始まるピレネー山脈を含む戦いだ。
 北が在籍しているチームルアフは「クライマー」のチームだ。エースのアーチー・スミスは英国出身の28歳。ツールの前にブエルタで総合優勝、ジロでは山岳賞をとった。足はどちらかといえばクライマー脚質だが、身長は170センチ代の後半で平地も早い。最高のコンディションでツールに臨んでいた。
 前半のごく短い時間、プロトンはのどかな田園風景の中を走っていた。雨で曇っていても、美しい風景だった。レンガ造りの建物。雨に揺れる草原。何度か単発のアタックがあったが、すべてプロトンに吸収され、レースは拮抗状態にあった。
 やがて長い坂道がやってきた。ピレネーの入り口にさしかかったのだ。各チームの力あるアシストたちがこぞってエースの前に出て、懸命に引き始める。
 ロードレースに使われる自転車の心臓部は、人間だ。人間の足でペダルを踏み、前に進む。それゆえ、早さを阻害し選手の足を削る空気抵抗をどの程度おさえられるかが鍵になってくる。
 アシストという役割のロードレーサーたちは、この空気抵抗をおさえ、エースの力をギリギリまで温存して発射させるのが与えられた使命になる。
 チームルアフはプロトンの中でも先頭集団のいい位置をキープしていた。これもすべて、北の位置取りが素晴らしかったからだ。前から3番目に北、そのすぐ後ろにエースのアーチー・スミス。彼らは飛び出す機会をいまか、いまかと伺っているようだった。
 勾配が次第にきつくなっても、北はひとりでエースを引いた。他のアシストやチームメイトたちは、雨による大規模な落車に巻き込まれて大幅に遅れていた。誰も代わりがいない中、北は黙々と、同じペースで坂を上り続けた。目の前にいるのは、世界中からエリートを集めたチーム・エネリア。圧倒的な資金力で強い選手を囲い込んでいる、あまり好きになれないチーム。強い選手は金で引き抜き、役に立たなければすぐに捨てる。玄人好みの選手を集めて、時間をかけてしっかり育成しているチームルアフとは正反対だ。

「……おい!」
 集中していたので、突然耳元で話しかけられて文字通り飛び上がってしまった。その勢いのまま椅子から立ち上がると、勝手に家の中に入ってきた北が不機嫌そうな顔でビニール袋を手渡してくる。
「何度も観なくていい、こんなレース」
 勝手にテレビを消される。まるで自分の家気取りだな、彼氏面か?たった数回しゃぶられただけで。手でも何度かしたけど、それだけだ。安易に他人にペニスはしゃぶったり擦ったりするものじゃないと、おれはこの件で深く反省した。
「ビールと肉持ってきた。肉は仙台にいる知り合いに贈ってもらったいいやつだ、食おう」
 おれの家……小屋……のリビングともいうべきスペースのぼろ椅子に、北が注意深く腰掛けた。数日前腰掛けたときに突然崩れ落ちてしまってケガをしかけたので慎重になっているのだ。そのまま慎重に慎重を期して、家に来なくなってほしかったのだがそうは問屋がおろさなかった。卸せよ。
「なんなんだよお前は。おれの家はコンビニじゃないんだよ。なんとなく寂しさを埋めるために明かりのあるところに来るな。虫か」
 こんなところに来る暇があるならリハビリのひとつでもやれよ、と言うと、おれの言葉をまるきり無視してビールを飲もうとしていた北が、少し元気をなくした。ほんの少しだけだが。
「もう外傷はないし、あとは心の問題だと言われてる」
「それが一番やっかいなんだろ。……おい、ビールを飲んで自転車に乗るんじゃないだろうな」
「乗らない。逮捕されると困る」
 おれは叫んだ。
「泊まろうとするな!」
 北は眉を寄せてやれやれというように首を振った。
「もう酒を……いま飲んでしまった。仕方ないだろ。泊めてくれ」
 忌々しい年下のガキめ。
「良いことを教えてやろう。おれの家がやってる温泉、そう隣でやってる。やじ温泉ってしけた温泉だが、さらに隣は民宿だ。岳斗はそこのお姉ちゃんのお気に入りだからきっと顔パスで泊まれるぞ、今日はそうしろ」
 岳斗は視線ひとつよこさずにおれの言葉を黙殺し、「肉はいらないのか?」と面倒くさそうに言った。

 すぐに追い出してもよかったが、肉の誘惑に負けた。ビニール袋の中に入っていたのは、黒毛和牛のハラミと貴重な牛タン、それに鹿肉のハラミだった。ものすごく大きくて、見るからに質の良いやつだ。おれは勢いよく窯に薪を放り込もうとして――急に思い立って七輪を出すことにした。確かどこかにあったはずだ。
 9月も半ばを過ぎると夜は涼しくなりつつあった。空は晴れていて、星がよく見えたが、もはや星などどれほど見えたとしても何の感情もわかない。ありふれている。当たり前になると美しさを感じなくなる。都会の人間はありがたがって「星も空気もきれい!」「住みたい!」などと言うが、絶対に本当に住むことはないし、住んだら住んだでお客様気取り、不平不満ばかり述べてすぐいなくなる。
「もう二ヶ月になるだろ。まだ調子戻んないの?」
 七輪を家の外、庭というにはあまりにも無整備の野原に置いて、椅子がわりの切り株に腰掛ける。このあたりはしょっちゅう野焼きが行われているし、隣の家との距離が離れている(なんなら数分かかる)ので、七輪で肉を焼こうが、枯れ葉で焼き芋を焼こうが、誰も何も言わない。
「普通には乗ってる。今日だって登ったり下ったりしながらここにきた」
「てかさ、お前どこに住んでんの。オフっていったってずっとじゃないんだろ」
 また沈黙。こいつはいつもこうだ。答えたくない質問には答えないし、自分のことは何も話さない。
「岳斗」
 しつこく問いかけると、勝手に隣の切り株に腰掛けた北が低い声でつぶやいた。
「オーベルジュ ソワレ」
「あんな良いとこ泊まってんの?!2週間以上も?!ワールドツアーチームだとそこまで儲かるのかよ、アシストレベルで」
「飯が美味いんだ。融通もきいてくれるし、部屋に自転車も置かせてくれる」
「ここをどこだと思ってんだよ、どこの宿でもサイクリストには特別サービスしてくれる街だよ。特にツールとったプロなんか尚更だ。ソワレじゃなくてもいっくらでもあるだろ、そんなとこ!」
 北はいまいちおれの言葉が響かないような顔でぼんやりと炭火の赤を眺めていた。暗闇の中でぼんやりと光る炭火に照らされた北の横顔は、日焼けしていて、精悍で、薄暗さが滲んでいた。
 北の足元に、どうやらこいつが持ってきたらしい薪が、束になって縛って置いてあった。素人はこれだから困る、木ならなんでも燃やせるわけじゃない、キチンと乾燥した……と蘊蓄を垂れようとしてやめた。

「お前何者。ただの都会育ちのボンヤリじゃないな」
「今度は何だよ」
「薪もそうだけど、牛タンと一緒に入ってた鹿肉。お前が狩ってきたんじゃないのか」
目を少しだけみはって、北がこちらを見た。
「おかしいだろ。お前はよそ者でここらに鹿肉譲ってくれる猟師の知人なんていないし、近辺に鹿肉を売ってる場所もない。なのに肉は新鮮で、キチンと処理されている。怪我で休業中なのにアシストの給料で、一泊五万はするオーベルジュに2週間も滞在なんてのも変だ。そしてソワレのすぐ近くには、関連会社がやってるジビエの食肉加工所がある」
急に立ち上がった北は、ニヤリと笑っておれを見下ろした。
「汀は頭がいいな」
「呼び捨てにすんな」
「やじ、って呼びづらいんだ。汀でいいだろ」
「だから勝手に決めんな。そういうことは相手にお伺いを立てて、了承を得てからすることなんだよ。お前他人との距離感バグってんじゃないの」
 北はおれの悪態を無視して、家の裏にある森の中へ入っていく。突然の行動に呆然としていると、少ししてから戻ってきた。
 ナイロン袋いっぱいの何かを「ん」と手渡される。のぞき込むと、そこにはきのこが山盛り入っていた。
「何が「ん」だ。素人がきのこに手を出すなよ、死ぬぞ」と立ち上がって警告したおれに、北は肩をすくめた。
「ハタケシメジとチチタケが採れた。きのこ汁にすると美味い。良かったら作るけど」
「勝手に他人の山で山菜やキノコをとっちゃいけない、小学生のころに習わなかったか?」
「どうせ汀の家が持ってる山だろ」
 鋭い。オレが黙っていると、北は、あの山もう少し手入れした方がいい、家が近いから危険だ、と余計なことを言った。
「わかった、元レンジャーか何か?」
「そんなわけないだろ。自転車の乗り方しか知らないよ。台所借りるぞ」
 北は何も答えないし教えないまま勝手におれの家に入って行こうとして──くるりと振り返った。
「ちなみについでにとってきたその紫の花」
 袋に残されたうす紫色の花のことだろうか。たまに見かける花だ。
「きれいな花だが、トリカブト、猛毒だ」
うわ、と叫んで袋ごと放り投げる。北が声を上げて笑った。
「毒は根っこにある。これでもまだ都会育ちのヤワだと思うのか?立派な田舎育ちの汀サン」
嫌味を言う時だけほくそ笑む。本当にいい性格をしている。おれは北の後ろ姿に中指を立ててやった。