9 つれ添う2匹の魚(後編)

―成田―

 朝起きてすぐ、ベッドから降りると多和田が土下座していた。
「申し訳なかった。昨日は無礼なことをいろいろ言ったんじゃないか。許してくれ、どうにも、酒を飲むとダメで……」
 ベッドに腰かけてその様子を10秒ほど黙って眺めていると、焦れた多和田が顔をあげておれを見た。
「風呂を貸してやるからシャワーを浴びてきたらどうだ。今日も仕事だろ」
 ポカンとした顔をしている多和田を見ていると、笑いがこみ上げてきた。少しだけ笑いながらバスタオルを投げてやると、ぺこりと頭を下げて浴室の方へと歩いていく。
 早風呂の多和田と入れ違いでシャワーを浴びた。暑いので上半身裸のまま洗面所で歯を磨いたり髭を剃ったりしていると、後ろから声をかけられた。
「もう現役で投げてないんだろ。どうしてそんなにいい体してるんだ」
 感嘆混じりの声に、おれは髭を剃りつつ肩をすくめた。
「トレーニングはしてるけど、生まれつきらしい。代謝が良くて筋肉がつきやすい体質なんだ。そっちこそ鍛えてるんじゃないのか、警察関係者だろ……いや、エリート様はデスクワークばっかりか」
 顔を洗ってタオルで拭う。振りむくと、多和田はむっとした顔でシャツを脱いだ。
「頭でっかちなエリートかどうか、その目で確かめてみろよ。おれだってなかなかのもんだぞ」
 頼んでもないのに上半身裸になった多和田が胸をそらす。シャツの上からでは分からなかったが、確かによく鍛えられている。上背もあり、顔立ちも精悍だからきっと異性にモテるだろうなとおもったが、多和田を喜ばせる必要性をまるで感じなかったので言わないでおいた。
「どうやったらそんなに上手く背中まで筋肉がつくんだ?」
 指で背中をなぞられて、変な声が出た。注意しようと振り返ったとき、ギギギと不吉な音を立ててしまる扉の手前に、金剛仁王像のような顔で殺気を放つ影浦が立っていた。

 へびに睨まれたカエルのように固まってしまった。隣の多和田も同じ様子だった。
 影浦は靴を脱いで家の中に上がってきて、多和田の肩を掴んで振り向かせてから、玄関の壁に突き飛ばした。
「ちょっと待て。違うぞ」
 おどろきのあまり、まともな説明が出てこない。
 多和田は目を見開いたまま何もいおうとしない。突き飛ばされたことにショックをうけているらしかった。
 どうしておれが、と思いつつ説明しようとすると、影浦が低い声で言った。
「服を着ろ。家を出る時間だろう」
 振り返った一瞬の間に上半身を検分された感覚があった。どこかに妙な痕跡がないか、影浦の目がおれの体をすみずみまであらためていく。
「遼、今日の21時にここへ来い。用事があっても来い。必ずだ。来られないなら説明する気がないものとみなす」
 急いでシャツを着て髪を整えた。遼と呼ばれた多和田も同じようにしてから、「仁、それは」と泣き出しそうな顔で訴えた。
「いいな。来なければお前との友情はここまでだ」
 いくらなんでもそれはひどいだろう、とおれが反論するよりも早く、多和田が靴を履いて外へ飛び出していく。なんだこれは。何もなかったのに、まるで三つ巴の修羅場みたいになってしまった。
「話ぐらい聞いたらどうなんだ」
 カバンを持ち、キーケースを玄関の小物入れから取り出して、真後ろの影浦をにらんだ。影浦はおれの言葉を無視して勝手に家の中へ入っていき、ネクタイを何本か持ってきて勝手におれの首に引っ掛けた。
「話?」
 指先でネクタイを弄ぶ影浦は目を伏せていて、前髪が落ちているせいで表情が分かりづらい。至近距離からあの魅惑的な香水の匂いが漂ってきて、朝だというのに変な気分になりそうだった。
「他の男を夜、家に上げたあげく、泊めるに至った経緯のことか?」
 突然首に回したネクタイを交差させて左右に引かれ、ぐっと息が詰まった。首を締めたまま影浦の顔が近づいてきて、キスされた。
 窒息しそうな状態で舌を絡められ、唇を吸われて、あっけなく欲情してしまった。影浦の背中に両腕をまわし、乱暴にシャツを掴んで抱きつく。
「次、男を家に上げてみろ。連れて帰って監禁してやる」
 近づくと首が締めづらいのか、息苦しさがマシになった。
「……は、はあ、やめろ、離せ。遅刻する」
 力づくで影浦の手からネクタイを奪い、廊下に放り投げる。連休前なら首を絞められようがベルトで殴られようが構わないが、週半ばの平日だ。首に痕がのこったら、この暑い季節にボタンひとつ緩めることができない地獄が待っている。
 ホッとしたのも束の間、舌打ちした影浦がシャツの裾から手をいれて直接肌を撫で回してきた。洗面所の鏡に、シャツをたくし上げられ、両手で胸を掴まれて揉まれている自分が映って、顔がカッと熱くなった。
 後ろから耳を噛まれ、顎が上がる。痛みが勝るぎりぎりの強さで耳朶を噛み、なだめるように舐めながら、両指が乳首を撫でたり、引っ掻いたりする。芯を持ち立ち上がったそこを、人差し指と親指で強く摘まんで引っ張られた。
「ん、仁、仕事が」
 舌が耳の後ろを舐める。全身が熱くなり汗がにじんで、洗面台をつかんでいる両腕が震えた。じんじんと熱を持った乳首を押し込めたり指先に引っかけたり、しつこく弄ばれ、鏡にうつる自分の顔が、だらしないものに変わっていく。
「朝のミーティングは飛ばした。そのあとはお前と客のところへ行くと三城に伝えてある。時間ならあるから安心しろ」
三城というのは影浦の秘書だ。三ヶ国語を操る帰国子女で、影浦に似た雰囲気を持つ美女。実際親戚縁者らしい。性格のキツさまでよく似ている。
 鏡越しに影浦と目が合った。高くて端整な鼻梁がおれの頬にこすりつけられ、優美な外見と似合わない欲望にぎらついた眼が、鏡の中のおれを視姦している。
「一応きいてやるよ。経緯を説明してみろ」
 影浦が手をのばした洗面台の上にある鏡は、手前に開くと物を収納できるスペースになっている。そこに置かれていたローションに声が裏返ってしまった。
「いつのまに置いた!」
 髪の中に笑い声を吹き込まれて、背筋が震えた。
「ほかにもあるぞ。ヤりそうな場所に隠しておいたから今度探してみろよ――それで?」
 聞き捨てならない発言だが今はそれどころじゃない。流されそうになる理性を必死で手繰り寄せ、説明を試みた。
「昨日の夜、多和田が家に来て……、う、擦るな、やめろ」
 ローションのうるおいを大げさなほど指に絡ませたまま、前を擦られる。痛いぐらい強くくびれのところを擦ったり、先端を指で撫でまわされて、出社の意思が目減りしていく。
仕事なんかどうでもいい。触りたい。影浦にさわりたい――ダメだ。ダメに決まってる。今日は得意先の主催しているパーティがある。まわらなければいけない営業先がある。それなのに。
「どうせろくでもない話だろ。多和田はおれとお前の関係に、何か意見をお持ちのようだったからな」
 すっかり張り詰めた自分の性器が、かろうじて羽織っているシャツにぽつりと染みを作っているのを鏡越しに眺める。濡れた音を立てて遠慮なく扱き立てられ、項をたどった唇が肩甲骨の下に吸い付き、噛みついた。
「あっ……、うう、仁」
 舌が噛んだ場所を慰めるように舐めてくる。もう腕に力が入らなくて、その場に座り込みそうになったのを影浦の腕が支えて持ち上げた。顔を赤くして身もだえしている自分の姿をみたくなくて、かたく目を閉じる。
 どうしてそんなに気持ち良くなる触り方を知っているんだろう、と何かしらの疑念を抱きそうになるほど、影浦の指も唇も、快楽を引き出すことに長けている。普段からそうだ。痛みと快感の間、ちょうどいい強さで引っ掻いたり、撫でたり、かんだりしてくる。
 舌はそのまま背筋をたどり、戻ってきて、首筋に遠慮なく吸い付いて痕を残した。右耳の下、ぎりぎりシャツの襟で隠れない場所に痕跡を残され、抗議したいのに、中に入ってきた指が無遠慮に抜き差しされるせいで声が出ない。
「おれと別れろとでも言われたんだろ。それで、お前は何と答えたんだ」
 膝裏を掴まれて、右足が持ち上げられた。そのまま洗面台の上に片膝を乗せさせられ、片足立ちの背後から圧し掛かってくる。性急な動作でシャツや足元にたまっていたスラックスを脱がせておれを裸にすると、顎を掴まれ、後ろ向きにキスを強要された。
 頭を振って影浦を振りほどこうと試みたが、簡単に押さえつけられてしまった。本気で抵抗していないからだ。もはや、身体は影浦と寝たくてたまらなくなっている。
「ん、んん、は、なせ」
「まだ『やめろ』というのか、その顔で」
 鏡をよく見てみろよ、と影浦が言った。頑なに首を振って目を閉じていると、後ろから、ゆっくり影浦のものが入ってくる。掴むものが洗面台以外ないから、おれは必死で白いつるつるした陶器のふちを掴んだ。
 腰骨のあたりを両手で支えながら、はじめはゆっくりと、次第に早い動きで腰を打ち付けられる。肌がぶつかる音の合間に、十分すぎるほど濡らされた中から、ローションのぬめりが水音を立てて伝い落ち、足の間にぽたぽたと落ちる音がした。
「あ、あ、いやだ、そこは……」
 容赦なく中から前立腺を擦り上げられ、身体だけではなく目の奥まで熱くなってくる。片足で立っていられなくなってしゃがみこみそうになると、影浦が腕で持ち上げてひたすら後ろから中を抉られた。
 達しそうになるたびに動きを止められ、涙がにじんだ。もっとついてほしい。服を脱いで、直接肌を重ねて溶け合いたい。でもそんなことが言えるはずがなかった。
「悠生、目をあけろ」
 耳元でささやかれた甘い声に従ってしまった。うすくまぶたを開く。鏡に映っているのは、頬を赤く染め、目を潤ませて男に犯されているおれと、その後ろでほとんど服を着たまま目を細めている影浦だった。
「ずいぶん早いが、こういうのが好きなのか?適当な場所で乱暴にヤられるのがたまらないなら今度外で滅茶苦茶にヤッてやろうか」
 なあ?と問いかけてから影浦が耳を噛み、うなじを舐め、そこにも歯を立てた。
「ちが…、ちがう……!」
「違わない。お前はおれに抱かれるのが好きだ。言わなくても分かる。おれがそうなるように仕向けたからな。でも……」
 肩をつかまれ、体の向きを変えられた。首に捕まるように腕を掴んで誘導され、影浦の首にすがりついて腰に足を巻き付けた。そのままゆさゆさと縦に揺さぶられ、次第に激しく、根本まで性器が出入りして、欲情の声が隠せなくなった。
「あ、あ、仁……、きもちいい、もう、イ……ッ」
 持ち上げられたままはめられているから、いつもより奥深くまでつながっているような気がする。気持ち良くてたまらなくて、おれは身体を反らせて絶頂に達した。吹き出した精液がおれの腹と影浦の腹を汚す。
「近頃思うんだ。お前の中にもともと淫蕩な素質があって、おれはそれを引き出したに過ぎないんじゃないか、ってな」
 そうかもしれない、と腹を立てることなく納得する。きっとそうだ。なぜなら、影浦に触られるともっと、もっとといくらでも欲しくなる。自分にこれほど性欲があったなんて知らなかった。
 落ち着いた甘い声と裏腹に、影浦は余裕なくおれを床に横たえた。いったばかりでまだ呼吸が荒いおれの足を肩の上に担ぎ上げて、上から叩きつけるように犯される。
「は……、っ、く、いく……悠生…、おれを見ろ」
 影浦の背中に爪を立てようとしてやめた。狂いそうな快楽に抗って背中を抱きしめ、眉を寄せて感じ入っている影浦と視線を合わせる。いつ見ても、非の打ちどころのない美しい顔だと思った。顎の先から汗を滴らせ、目を潤ませて欲情している。
「仁」
 別れない、とおれは言った。
「誰に何を言われても、おれがお前と一緒にいたいと思っている間は、そばにいる」
 今日みたいなことがまたあるかもしれねえぞ、と暗い声で影浦が言って、指で顔に張り付いた前髪を横に撫でつけた。思いがけない優しい仕草だった。
「おれが気付かないまま、お前に嫌な思いをさせることが……これからもあるかもしれない。おれの友人や、身内が…、心ないことを言うかもしれない。それでもいいのか」
 こんな気弱な問いかけ、影浦らしくない。おれの答えは決まっているのに。
 溺れかけている者のように喘ぎながら、言った。
――それでもいい。
「お前と一緒にいられるなら、どれだけ傷つけられても構わない」
 影浦は驚いたように目を見開いた。それから、少し情けない声で「あっ」と言ってから達してしまったので、顔を背けて拳で顔を隠した。
「クソ、笑ってんじゃねえ」
 こいつのエベレストよりも高いプライドを考慮して笑わないように気を付けたつもりだったけれど、バレてしまったらしい。怒るかと思った影浦は、想像に反して笑っていた。自分で前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、バツの悪そうな顔をしてから、覆いかぶさってきてキスをした。クッションフロアのぺったりとした冷たさを背中に感じながら、影浦の髪をなでてやる。柔らかい髪は汗でしっとりと濡れていた。
「お前は他人を甘やかして増長させるところがある。弟もそれでダメになっただろ、学習しろよ」
 憮然とそう言い放った影浦をかわいいと思ってしまった。末期症状だな、と心の中で苦笑する。
「傷つけられてもいい、なんて簡単に言うな」
 ささやくような声だった。まだ息が荒い影浦の背中を撫でながら、おれは言った。
「本気で嫌になったら全力で逃げだすから安心しろ」
 冗談とも本気ともとれない口調で影浦は言った。
「おれから逃げられると思うのか?」
 問いかけてきた影浦は、セックスの最中よりも満足気な表情をしていた。

 慌ててシャワーを浴びて身支度を整え、影浦の予定に同行してから出社すると、普段からおよそ3時間遅れの始業となってしまった。まあ、土日もイベントごとで出勤することが多く代休もままならない状態なので、これぐらいの休暇は許されてもいいかと思うが。
「まったくもういい加減にしてほしいですね。予定を再調整するこっちの身にもなってくださ……ああっ!?ちょっと、もう……代表!!」
 ランチタイムであるにもかかわらず、仁王立ちで待ち構えていた三城に、代表の個室(とは名ばかりの、ほとんど応接室)で頭を下げる。影浦は「何の問題があるんだ。それがお前の仕事だろ」とまるで悪びれずそれがますます三城の怒りに火を点けてしまったので、おれは影浦の後頭部を掴んで、無理やり頭を下げさせた。
「成田さんのこんな、目立つところに痕を残して!嫉妬深いのも大概にしてくださいよ、彼、これから営業に出るんですよ?ほんと信じられない。あなたって本当に欲深くて自己中心的で相手のことなんかなんっにも考えてないんですね」
 右耳の下に残っているらしいキスマークを指でなぞられて首をすくめる。触るな、と隣で影浦が頭をあげようとするのを、無理やり力づくで押さえつけた。
「いてえ、もういいだろ!契約は取ってきたし何の問題があるんだ」
 仕事以外で人に頭を下げるのが大嫌いな影浦は、おれの手を振り払ってふんぞり返っている。おれは姿勢を正してから手のひらで首元をおさえ、三城がみせてくれた手鏡でその痕跡を確認した。確かに、くっきりはっきりと赤黒い痕が残っている。
「これはやりすぎだろ。処す」
 影浦の膝裏にローキックをきめると、低いうめき声が聞こえてから全く同じ場所を蹴り返された。
「朝っぱらから散々よがってたくせに被害者面してんじゃねえよ」
「よがってない」
 言い合いになりかけたとき、三城が手に持っていたファイルを応接室のテーブルに思いきり叩きつけた。
 途端に静かになった個室の中で、三城がひやりとした笑みを浮かべたまま言った。
「わたしはその痕跡、昨晩のことかと思っていたんですが、違ったみたいですね。社会人で、それも片や会社の代表、片や営業のユニットリーダーともあろう方々が、性交していて会社に遅れたと、そういうことなんですか?」
 せいこう、とハキハキ女性の口から責められて、おれは言葉を失くしてしまった。何も言えない。あの口から生まれた影浦ですら、一瞬反論が思い浮かばず黙っていた。
「人間も動物だからな。そういうこともあるだろ。三城、うちの会社はブラック企業じゃないからな。年次有給休暇は代表であるおれですら認められた権利だし、お前もいつでもその権利を行使していいんだ……うっ」
 減らず口を最後まで叩くことができなかったのは、三城が持っていたボールペンを影浦の額めがけて投げつけたからだった。
「てめえ、雇用主に向かって何しやがる」
「黙りなさい、この下半身直結型ケダモノ男!成田さん、あなたもあなたです。流されてないで、抵抗しなさい!」
 突然こちらに向いた矛先に、おれは素直に頭を下げることにした。
「申し訳ない。三城にもほかの社員にも迷惑をかけてしまった」
 三城はおれの顔をじっとみつめてから、にっこり笑った。
「成田さんはかっこいいから許しました。代表、あなたは別ですからね。次同じことしたら……わたし、いきなり辞めますよ。誰が困ります?あなたです」
 先に開放されたおれは、まだ叱られている影浦を後目に、そっと社長室を抜け出た。それからは部下に指示を出して自分も営業にまわったので、一体どれほど影浦が絞られていたのかは分からない。ただ、三城に辞められると困るので、おれも次からは流されないように気をつけよう、と心に誓った。

 その日の夜、多和田がおれの家にきてドアフォンを鳴らしたのは、影浦が指定した時間のぴったり5分前のことだった。さすが警察官僚、時間には正確だ。思い込みかもしれないが。
「……仁はいるか」
「中にいる。まあ、入ってくれ」
 家で音楽を聴くときはランダム再生にしていることが多いので、MIKAの『We Are Golden』が流れていたが、この空気や話の内容にはそぐわしくない気がしたので、消そうとすると影浦にとめられた。
「そのままでいい。――遼、まあ座れ。信じられないぐらい狭い家で済まないがな」
 お前が言うな、これが普通だ、と思いつつもおれは黙っていた。一体何の話をするつもりなのか想像もつかなかったし、自分がその場にいるべきなのかどうかも分からなかったので、とりあえず3人分のコーヒーを淹れることにした。味にうるさい影浦も、自分が置いていったコーヒー豆なら文句を言わないだろう。
 音楽のボリュームを少し絞って、気まずそうにリビングに腰を下ろしている多和田と、腕を組んでベッドにもたれかかっている影浦の前にコーヒーカップを置いた。それから少し迷って、影浦の隣に座った。長方形のローテーブルを囲んで、多和田の正面になる。
「お前との付き合いは何年になる?」
 影浦の質問に、すかさず多和田が答えた。
「幼稚舎から一緒だからな……もう、二十五年以上になる。だから仁、おれが一番お前のことを知っているつもりだ。少なくとも、その男よりは」
 怒りをこめて睨まれたが、おれは目をそらさなかった。仕事でも試合でも、気持ちで負けたらおしまいだ。
 おれは多和田をじっと睨み返した。いつも「猛禽類のような眼」といわれる目で。
「一番知ってる、か。おれもそう思っていた。でも違ったらしい」
 怯えたような眼で多和田が影浦を見た。影浦は肩をすくめ、「別にお前だけじゃない。おれも自分のことを知らなかった。つい先日までな」と言って、おれの方を見た。
「知っていると思っていた世界は『すべて』じゃなかった。そう感じる。もちろんお前と一緒にいた時間は楽しかったさ。お前をはじめとして幼稚舎から一緒だったメンバーは、本当に気が合った。生活水準もものの考え方もよく似ていた。姉の言い方を借りるなら――同じ水槽の中の魚だった。酸素をたっぷりと含んだ澄んだ水の中で、高級なエサを食って、安全な群れをつくって生きていた。それはそれで悪くなかった、外の海を知るまでは」
 おれは影浦の言葉について考えを巡らせていた。同じ水槽の魚。つまり、多和田や、かつての婚約者が影浦にとってそうであった、ということだろう。
「外の海っていったいなんのことだ」
 多和田は不安そうな顔でそう尋ねた。影浦はあいかわらずこちらを見ていた。目を合わせたままでいると、不意に、影浦がやさしい微笑を浮かべてからうつむいた。
「仕事を始めたら驚いた。生まれも育ちも何もかも違う、異なる海で育った魚とばかり交わることになって、水も汚ねえし言葉も上手く通じねえ。イライラした。なんて頭の悪い連中ばかりなんだと――でもな、それが面白くてたまらない」
 テーブルの下に置いていた手を突然握られて、おどろいて身体が揺れた。ジャケットの影になっているから多和田からは見えないものの、人前でこんなことをするなんて影浦らしくないことだった。キスやセックスは当たり前のようにしているが、手を握られたことはほとんどなかったのに。
 影浦はおれから顏をそらして多和田を見たが、その横顔は平然としたものだった。
「特にこいつはすごいぞ。とてつもなく頑固で、納得しない限り絶対におれの言いなりにならない。表面上言いなりになったフリをしても、心は従わないんだ。驚くだろ?今までそんな人間に出会ったことはなかった――誰もがおれに従い、媚びへつらい、言いなりになった――つまり、お前と一緒にいた水槽の中では」
 影浦の手にそっと指を絡ませると、力強く握り返された。
「遼、おれは今生まれて初めて、自由に海を泳いでいる。水槽から飛び出して、外の海を泳いでいるんだ。この、嘘をつかない頑固な魚と二匹で、しばしば殴り合いながら」
 多和田は何故ここにいるのか分からない、というような顔でおれを見た。おれは、少し泣きそうになっていたので、唇をぐっと引き結んで耐えていた。本当に気を抜いたら涙がこぼれてしまいそうだった。
「そういうわけで、お前に残された道はふたつだ。ひとつめは、余計な事は言わずにおれと友人であり続ける、という道。もうひとつは、お前の信条、男とセックスなんて信じられないという信条に従っておれと絶縁し、別々の人生を歩む。おれはどちらでも構わないから好きに選べ」
 言い終わると影浦は立ち上がって玄関へと多和田を誘導した。多和田はショックを受けたのか、足取りがふらふらとしていて危なっかしい様子だった。
 なんとか靴を履き終えた多和田を、三和土の上から影浦とふたりで見送る。ドアを開けて外に出る直前、多和田が振り返って小さい声でこう言った。
「仁……、おれはただ、お前に幸福になってほしいだけなんだ」
 影浦は眉を上げて応戦した。
「幸福とはいったい何だ?」
 多和田は険しい顔で言った。
「こんな問答は無意味だ。分かってるだろ。女と結婚して子どもをもうけ、家を継いで社会を変えるような大きい仕事を成し遂げることだよ。仁ならできると思っていた。おれは、その手助けがしたいと考えていたんだ。お前なら社会を、もっとよりよいものに変えることができる。そう信じていた」
「なんだそりゃ。独身の人間や子どもがいない人間は幸福じゃないって言うのか?お前が言っているのは多数派が決めた『幸福らしきもの』に近ければ近いほど安心できるってだけの話だろ」
 影浦の挑発的な物言いに慣れているのか、多和田は落ち着いた低い声で「家庭で苦労や不安の少ない人生のほうが幸福に決まってるだろ。その分仕事に集中することができる」とつぶやいた。
 そうか、よくきけよ、と前置きしてから、影浦が言った。
「おれの思う幸福はそういうものじゃない。家庭を持つだの子どもをつくるだの、家の仕事を継ぐだの、社会の役に立てるかだの――ステレオタイプの典型のような考え方を表にして、どれぐらい〇があるか数え、〇が多ければ安心し、×が多ければ不安になる。そんなもんは自分の人生を生きてると言えねえ。そうしてりゃ安心できるってのはよくわかる。多数派に属していれば安心するのは人間の性だ。だがな、そうやって輪の中に入ってるだけの奴は何もうまねえんだよ。みんなと同じです、安心しました、終わり、この中から新しい発想や商業モデルが生まれるわけがねえ。苦しい道の中にこそ正しい答えや幸福がある。私生活も仕事も同じだ。おれはそう考えている。なぜならその苦しさは自分で選んだ苦しさだからだ。誰かの意見や考え方に流されて決めたことではなく、自分で考えて決めたことだからこそ、乗り越えられたとき自分の力になる」
 苦しそうな顔で多和田が溜息をつくと、影浦がダメ押しのように付け加えた。
「おれは自分で考えて仕事を選び、成田を選んだ」
 その声はまっすぐでゆるぎなく、おれの胸を刺し貫いていった。
 多和田は黙って、視線を玄関マットのあたりに落とした。心の中が嵐のように吹き荒れていることが、外からも見て取れるほど動揺していた。
「固定的な観念に毒され、自分の頭で考えて自分の道を選べない。それこそが不幸なことじゃないのか。おれの友人だというのなら、一度よく考えてみてくれ」
 すっかり青ざめた顔色になってしまった多和田がドアを開こうとしたとき、「あと言い忘れていたが、」と影浦が言った。
「おれは生まれつき子どもを作る能力がない。つまり、どこの女と結婚しようが後継ぎなぞが生まれてくることはない。今後、おれに『後継ぎ』を期待するのはやめたほうがいいぞ」
 

 
 
 すっかり意気消沈して小さくなった背中がドアの向こうに消えてすぐ、影浦は長い溜息をついた。それから隣に立っているおれを振り返って、小さく笑った。
「数少ない友人をなくしたかもな」
 廊下を通り抜け、ジャケットやシャツを脱いでいく影浦の後を追うように、おれもシャツやスラックスを脱いだ。こうこうとした明かりの中でふたりとも裸になってから、影浦の腕を引いてベッドに倒れ込む。
「さっきの話……知らなかった」
 子どもをつくる能力がない、と影浦は言った。まるで冗談のひとつでもいうかのような軽い口調だったが、内容はとてつもなく重い。
 何を言えばいいのか分からなくて悩んでいたら、影浦が前髪をかき上げて額にキスをしてきた。
「言ってなかったからな。そういうことだ。まさか『あいつにも子どもを作る権利がある……』なんて今時流行らねえ昼ドラみたいな悩みを持ってたのか?」
 おれが何も言わずにいると、影浦は顔をしかめて「ガキは嫌いだ。うるせえし、きたねえし、欲しいと思ったことは一度もない」と心のこもった調子で吐き捨てた。およそろくでなしそのもののセリフだったが、影浦らしくて少し笑ってしまった。やがて影浦もつられて笑いはじめ、お前も子どもなんか嫌いだろ、ときいてきたので、「おれはふつうに好きだぞ。向こうからは嫌われるけど」と返事をすると、ますます影浦は笑い転げた。一体何がそんなにおかしいんだ。
「多和田、あんなふうに帰して良かったのか?」
 お互いの笑いが落ち着いてからしてから質問すると、影浦は首筋にキスを落とし、囁いた。
「ああ。お前がいれば十分だ。足りないものは何もない」
 明日は雨じゃなくて槍が降るかもしれない。それぐらい、影浦の口から出たとは思えない、甘い言葉の連続だった。正直に言って嬉しいというよりも気持ちが悪い。
「お前、一体誰だ?おれの知ってる仁をどこへやった?」
「洋画の定番は止めろ」
 それからおよそ三時間、お互いの気が済むまで交わった。最後にはもう無理だ、とか、さすがにもう出ない、などと言い合い、中断して雑談したり食事をとったりした。最後、影浦がいれたまま眠ってしまったので、名残惜しく思いながら引き抜いて、おれも眠った。

 疲れていたせいか、夢をみた。
 海中で、影浦が少し先を泳いでいる。赤と黄色が混じった、尾びれの長い美しい魚だったが、おれにはそれが影浦だと分かってしまう。
 流れが速く泳ぎにくい海中だった。美しい尾びれを目印にしつつ、影浦の後ろを必死で泳いで追いかけた。光の差し込む海中は深い青で、色とりどりの魚や海藻がゆらゆらと揺れていた。
 影浦は泳ぐ速度を緩めない。おれが後ろにいることすら、もしかしたら忘れているか、気づいていないのかもしれない。
 それでもいい。追いついてみせる。
 お前が先を行き、その姿を追いかけていく。影浦が影浦のままでいる限り、そうするだろう。

 おれは知っている。付き合うよりもずっと前から、気づいている。

 影浦の行く先には常に、もっと広くて新しい海が広がっていることを。