10 荒野を歩く(前編)

注意書き:
※影浦(攻め)の浮気を匂わせる表現があります。(本人にそのつもりはないですが)
※受けが攻め以外の人にえっちなことをされる描写があります

 最終的にはハッピーエンドですが、上記要素が苦手な方はご注意ください。

 どうせ身体だけの関係なら自分でも良いだろう、的な誘い文句を受けることが増えた。
 仕事絡みの、同じ性的指向の人間からである。
 不思議なことに、ゲイの中にはなんとなく相手もそうであると察する能力を備えたものがいるらしい。彼らはおれと影浦の関係をすぐに察し、自分も混ぜろと言ってくる。もちろんおれはきっぱりと断るし、しつこく誘われることはないのだが、ひどく残念そうにされる。まさか二つ返事でオーケーされると思っているのか?
「まさかあの王様影浦と本気で愛し合ってるなんて思ってないよな?」
 取引先が開催しているパーティの最中、トイレで手を洗っていると、先ほどベッドに誘われて断った男が追いかけてきてそう言った。
「一般的に愛し合っている状態がどういうものなんだか知らないが、あいつと一緒にいたら面白いからそうしてるだけだ。セックスもいいしな」
 男は目をパチパチさせてから笑い混じりにため息をついた。
「まさか、影浦としか付き合ったことがないのか?」
「ああ」
 男はな、と心の中で付け足したが言わずにおく。
「それは可哀想に。あいつは仕事のためなら誰とでも平気で寝る男だよ。君と寝たのだって、自分の会社のために君の能力が欲しかっただけだ。まあ、君は顔も体も……同じ男性からみたって相当魅力的だけど、あの男はそんなこと二の次だよ。目的のためなら恋愛感情だって利用するからな」
 影浦に対する侮辱は自分に対するそれよりもずっと腹がたつ。おれは黙って目を細め、男を睨みつけてからその横を通り過ぎた。男は後ろからまだ何か話していたが、無視した。男の言動には影浦の恵まれた境遇に対する嫉妬が透けて見えていた。おれを誘ったのも対抗心からだろう。
 イライラしながら影浦の姿を探したが、見つからなかった。電話をかけようかと思ったとき、ポケットの中の端末に影浦からメッセージが届いた。
「用事が出来た。先に帰れ」
 おれは暗い顔で画面をながめて、電源ボタンを押した。
 男の言ったことは嘘ではない。
 影浦は、仕事のためにどうしても必要なとき、他の人間と寝る。そしてそれを、おれに隠さない。

 音楽プレイヤーでカーラ・トーマスが歌う「B-A-B-Y」を聴きながら陰鬱な気持ちでタクシーから降りた。
 怒るべきなのか、悲しむべきなのか分からない。何故なら仕事のためだと分かっているからだ。目的達成のための手段。それもほかにどうしようもなく手づまりなときだけ。そう分かっていても、自分の恋人が枕営業にいそしむことを受け入れられる人間は、一体どれだけいるだろう?
 お互い以外とは寝ない。そのルールは「感情を伴って」という前置きが入っていた。つまり「感情が伴わなければ」誰と、どれだけ寝たとしても、ルール違反にはならないのだ。少なくとも影浦にとって。
 カーラが歌う。『いけないことだと分かっていても 目を見るだけで熱くなっちゃう』と。価値観も考え方もまるで違う。それでも愛することをやめられないなら、話し合うしかない。
 自分の家ではなく影浦の家に向かったのは、帰って来たあいつと話し合おうと考えていたからだ。
 先に風呂に入って寝仕度を整えてベッドに横になった。日付が変わっても影浦は帰ってこず、うとうとしては目を覚ましながら朝になった。6時を過ぎても帰ってくる気配がなかったので、起きて服を着替え、自分の家に帰った。

 代表とケンカしたでしょ、と顔をしかめた後輩に飲み屋に連れていかれて、おれは仕方なく説明した。
「ケンカじゃない。しばらく会ってないだけで」
 影浦の有能な秘書である三城絵麻みき えまが柳眉をしかめる。美しいからこそ迫力のある表情だった。
「あからさまに避けてるじゃないですか。やめてくださいよ、とばっちりが全部こっちにくるんですからね!」
 彼女がおれと影浦の関係を知っているのは、影浦が隠さなかったということもあるが、会議室で口論になった後ネクタイを掴まれてキスされたところを、ケンカを止めるために入ってきた三城に目撃されてしまったせいだ。会社であんなことをするなんてどうかしている。彼女は驚きはしたものの「不思議じゃないなって思いました」という一言で受け止めてくれた。
「影浦は職場で不機嫌を表に出したりしないだろう」
 ビールは接待で飲みすぎてるから嫌だ、という彼女の意見で、今日の店は日本酒バーだった。日本酒はあまり飲まないが、三城は日本酒党なのだ。彼女はおれの酌をしゃらくさいとばかりにはねのけて、手酌でぐいぐい冷酒を飲んだ。彼女のペースに巻き込まれたら明日起きられないので、おれはちびちびとグラスを呷った。
 彼女は炙った剣先イカをワイルドに歯で噛みちぎりながらおれを睨んだ。
「成田さんが絡むと別なんですよね!!ものすごーーく静かに、機嫌が悪くなるんです。本当にわずかな差ですけど、一日中一緒にいますから。わたしにはわかるんです」
 肩の下でふわふわと巻かれている栗色の髪と、色素の薄い美しい目は本当に影浦によく似ている。遠縁の親戚だというのは本当らしい。(影浦の秘書は親戚か高齢の女性にしないと、もれなく影浦に惚れて面倒なことになる、とは本人談である)彼女は英語、中国語、ドイツ語が堪能な帰国子女で、ズケズケものを言うが能力値は高い。
 ただ、かなり率直に自分の意見を言うので、言葉の後ろすべてに「!」がついているような錯覚に陥る。
「仕事のために取引先の人間と寝る。そんな恋人をどう思う?」
 剣先イカをほとんどひとりで平らげたあとで、あんかけ蓮根饅頭を口にいれようとしていた三城が、ぴたりと動きを止めた。声は十分ひそめたつもりだったが、カウンター席だ。おれはもう一度周囲を見回してから、そっとつけたした。
「影浦……、代表は、そういうことをする。止めてもきかない。これも業務だと言い張る」
 三城はだまって口をあけたままおれを見ていたが、1分ほどたってから大きい声で「えええええっ!?」と叫んだ。
「仁く……代表がそんなことを?信じられません、証拠はあるんですか」
 声が裏返っている。おれはため息をついてグラスを傾けた。
「本人が認めてる。それしかないときはその手段を使う、と。相手は女性限定らしいが」
 カン!と音を立てて荒々しくぐい飲みを置いた三城が、低い声で言った。
「許せねえ」
 おれは耳を疑った。
「なんだって?」
 声が裏返ってしまう。あの、お嬢様代表、三城と申します、といった風貌をしているこの女性の口から発せられたとは、信じがたい口の悪さだった。
「許せねえ!!そういうのが一番嫌いなんだよ!!性的なことを仕事に利用するやつはクソだ!!仁くんは昔からクソ・女たらしだったし、来るもの選びまくって去る者追わずだったし、婚約者の目を盗んで千人は抱いたのでは?って感じだったけど、卑怯なことはしない人間だと思ってたのに」
 婚約者の目を盗んで千人の女を抱いた男が卑怯じゃない、というのは同意しかねて、口を開けたまま黙ってしまう。そんなおれを見て、三城は首を振ってため息をついた。
「成田さんみたいな唐変木はしらないでしょ?女が働いているとね、そういうのしょっちゅう見るわけですよ。上司をたらしこんで仕事で楽しようとする女。寝るとか寝ないとか別にして、媚びを売るわけです。それは違うだろって思うことでもにこにこ引き受けて、あとでグチグチ陰口叩く女ね。ほかにも自分をアゲるために周りを下げる女!仕事を教えなかったり嘘教えたりして足引っ張るの。あと気のない男にもやたらと愛想振りまいて他人に仕事させる女!!とにかくね、そういうの山ほど見てきた。日本社会どうなってんの?騙される男も頭おかしいんじゃねえの?って思ってたんだけど、仁くんはそういうことしないって信じてたのに。家に背いて、実力でこの会社作って成り上がっていくんだ、なんてかっこいいんだって、そう思ってたからついてきたのに。あの××××野郎!!」
 おれは慌てて彼女の口を手のひらで塞いだ。カウンターの中にいる板前が、唖然とした顔でこちらを見ている。首を振り、なんでもない、と訴えると、彼らはぎこちなく自分の仕事に戻っていった。
 落ち着くまで手で彼女の口をおさえていたのだが、しばらくすると手のひらでとんとんと腕を叩かれたので、様子を伺いながら離した。彼女は少し落胆した様子で、肩を落としてため息をついた。
「……すみません。取り乱しまして。――成田さん、このままでいいわけないですよ。これはなんとかしないと。仁くんのセックスがいかほど素晴らしい天国なのか知りませんけど、女の口がそんなに堅いとは思えませんし。こういう手段を使わせないようにしないといけません」
 勢いにおされて、おれは首を縦に振った。
「そうだな」
「恋人としても最低ですよ。ほかの人と寝るなんて。成田さんが同じことしても平気なのかな……あっ!!」
 急に輝かしい笑顔でこちらを見られて、背筋に寒いものが走った。
「それですよ成田さん」
 え、と返事したおれに、彼女はニタリと笑った。

「目には目を作戦でいきましょう」

 よりどりみどりですよ、と手渡された顔写真入りのファイルを前に、おれは頭を抱えた。
 記憶はある。2軒ハシゴして、かなり飲んでから三城と肩を組んで帰った。彼女が筋金入りのビートルズファンだということが判明したため、『A Hard Days Night』 を歌いながらシュプレヒコールのように影浦の悪口を挟んだ気がする。おれが「影浦のセックスはねちっこい」と叫ぶと、三城が「でも顔がいい!」と返し、おれが「仕事のためならだれとでも寝る、万年亀頭ビショビショ野郎」と叫ぶとすかさずまた三城が「でも顔がいい!」というような。
 確かにある種、ハードな夜でもあった。本当にハードな夜はこれから訪れるのだろうが……。
 酩酊していても女性をタクシーで送ることは忘れなかったと思う。半ば放り込むようにタクシーに乗せて運転手に金を渡して、そこから、あまり覚えていないが、朝になるとひとりで家に帰って布団の中にいた。シャワーを浴びてから清潔なTシャツとジャージにも着替えていた。
 そして今、自宅のリビングに置いてあるローテーブルに置かれた紙ファイル一式を前に、水を飲みながらこめかみをおさえている。この頭痛が精神的なものによるものなのか、二日酔いによるものなのかわかりづらい。二日酔いが原因だと思いたい。
 冷房の勢いを弱めてから、目の前のファイルをぱらぱらとめくった。よくここまで情報を集めたものだな、と感心するほど、そこには「おれにコンタクトを取りたいと言った」男の情報がぎっしりと記載されていた。
「これ、はつさんだな……スキルをこんなことに使わなくても」
 主だった秘書業務を三城に引き継ぎ、「年寄りはそろそろ隠居いたします」と微笑んでいた老婦人を思い浮かべる。このファイルはあらかじめ影浦が持っていたものらしく、三城は二日酔いの中これを会社まで取りにいき、家のポストに入れてくれたのだ。
 調査も影浦に命令されたのだろうか?だとしたらますます意味がわからない。おれが仕事のために誰かと寝るのはダメで、探偵を使って男の素性まで調べるくせに、自分は必要とあらば女と寝る?ふざけるのもほどほどにしろ。
「男にモテるのか……?」
 さほどうれしくない。
 飲みかけた水をすべて飲み切ってからごみ箱に捨てて、今度は一枚ずつ丁寧にファイルの紙をめくった。年上の男に興味がないので、10以上年上の、ダンディな紳士のページはろくに読まずに飛ばした。ひょっとすると、年齢を経た男のほうがめくるめく快楽のようなものを教えてもらえるのかもしれない、と想像したものの、性技について、影浦を超える、もしくは同等の男を探すのは難しかろう。それならば純粋に見た目が好みであるかどうか、だけで選んだほうが良い。
 考え込みながらページをめくっていく。ううん、この男は何かにやけたところが鼻につく。この男は少し細すぎる。こっちの男は唇のかたちが好みじゃない。そんな風にページを繰っていくと、残すところ1ページとなってしまった。
 以前、羽田に連れていかれた風俗店で、誰を指名するか選ばなければならなかったときのことを思い出してしまって、どっと疲れが押し寄せてくる。あのときは本当に困った。なんとなく物静かそうな女性を指名して、話をするだけで済ませてもらった思い出がよみがえる。
 なんだこれは。どうして休日に、好きでもない男に抱かれるための人選などしなければならないんだ。
 影浦が悪い。すべての元凶はあの男だ。
 おれは影浦への怒りを燃料にして自らを奮い立たせた。素直に「ほかの人間を抱くのはやめろ」と伝えたところで、やめる男ではないのだ。こと仕事のことになると、あの男の中でタブーはなくなる。それが分かっているから、こんなにまわりくどい方法を選ぶことになる。
 最後のページを暗い気持ちでめくる。視界に飛び込んできた男の顔は繊細で美しく、はじめて気分が少し良くなった。年齢はひとつ上で、都内で最近勢いのある高級焼き鳥店や、20~30代をターゲットにした旅館などを経営している若手の実業家だ。いかにも好青年といった風貌の男だった。影浦とはタイプが異なるものの、この男ならありだ。…いや、「あり」だの「なし」だの、はなはだ失礼な話だ。重々承知しているが、ともかく、だれか選ばなければならないのならこの男がいい。しかも、趣味は「草野球」とある。ほかの男のような「ゴルフ」だの「クルージング」だの「自家用セスナの運転」だのといったものよりもずっと共感できるし、話も合いそうだ。
 それにしても、この感じが良くて頭もよさそうな男性が、本当におれと(性的な意味で)コンタクトを取りたいなどと考えているのだろうか?と疑問を感じたが、とりあえず選ばなければ話にならないので、前日三城にいわれたとおり、それぞれのファイルに記載されている番号をメッセージで送った。

 休日明け、数日は業務に忙殺されているうちに過ぎた。
 できたばかりの会社で代表を担っている影浦の多忙はおれの比ではない。文字通り分刻みの予定をこなしているので、秘書の三城とも影浦とも、目を合わせることもないまま一日が終わっていった。
 まあ、顔を合わせることを避けるために外勤をいれているおれにも、すれ違いの原因はあるといえばあるのだが。
 幸い代表とふたりで参加するようなイベントは今月入っていないため、営業の若い部下を引き連れて料飲店を回ったり、めまぐるしく変わっていく飲食店のオープニングパーティに私費で参加したりした。
 東京という立地のおかげで、「営業先が何もない」ということはありえなかった。馴染みの取引先が突然飛んでも、すぐ代わりの飲食店に営業をかける。
 契約が取れないことを嘆く部下の浅岡に対しておれが言った言葉、「ここは戦国、生きるか死ぬかの(東京)23区だ」がツボに入ったらしく、ことあるごとに「ここは戦国」と言ってくるのにうんざりしつつ、週の半ばまで何事もなく終わった。
「成田リーダー、お疲れさまでした、お先に失礼いたします」
「お疲れさま」
 水曜日はノー残業デーに設定されているので、18時をすぎたところでフロアにのこっている社員はまばらになった。予定の隙間があるとフロアの中をうろうろしては社員とコミュニケーションを取っている、代表影浦様の姿も見えない。昼休みに出先から戻ってきてからずっと、締め切った代表専用個室の中にこもったままだ。今正念場を迎えている、業務提携先のユウヒビールとの新しい契約内容のことで、担当者と詰めの協議を行っているらしい。
 わざわざノックして声をかけるほどのことでもないだろう、と判断して、机の上を整理して席を立った。ジャケットを羽織り、タイムカードをシステムの端末にかざそうとしたところで、会議室から影浦が出てきた。
「お先に失礼します」
 影浦は腕を組み、黙ってこちらをにらんでいた。不機嫌そうな顔だった。おれは構わず頭を少し下げて、会社の入ったビルをあとにした。
 

 まさか今更迷ってるなんて言わないでくださいよ、と三城が念を押してきたので、「迷ってはいない」と返事をしたが、声に勢いがない。自分でもわかる。
「本当に羽瀬代表がおれと……?」
 三城は化粧の行き届いた美しい白い顔に強気な笑みを浮かべて言った。
「それはもう。『シャツ越しでも分かる立派な大胸筋をもみしだきたい』って言ってました!羽瀬代表から聞いたんですが、男の人の筋肉って案外やわらかいそうですね」
 『もみしだく』という言葉のインパクトにうまく返事ができずにいると、三城が「さわってもいいですか?」と尋ねてきた。上の空のまま「ああ……」とかえすと、三城が手を伸ばしてきてシャツ越しにおれの右胸をわしづかみにした。
「うわ、ほんとだ。すごい弾力がある。わたしより大きい」
 でもウェストは細いですよね、と言いながら腰のあたりまで撫で下ろされる。ここは都内でも有数の、五つ星ホテルのロビーなのだが、薄暗いこともあっておれたちの様子を気に留める者は誰もいない。
「うう、もうやめてくれ。これ性別が逆だったら強制わいせつだぞ」
 いいながらちょっと笑いそうになった。この細くて白いたおやかな手が、おれの胸をつかんで揉んでいる様は、よく言えば倒錯的、悪くいえば意味がわからない。
「すみません……生まれてはじめて胸をもみしだこうとする、痴漢の気持ちが少し理解できました。成田さんのワガママバディやばいですね。女からみても美味しそうですもん」
「褒めてるのか、それ」
 三城は勢いよく首を縦に振った。
「ものすごくほめてます。マッチョ最高」
「影浦のほうがずっと美しいだろ、全体的に。あっちのほうが異性からみて魅力満載じゃないのか?」
 おれの言葉に三城はすこしだけ首をかしげた。
「質が違いますね。影浦代表はエレガントで美しい、繊細な色気のある人ですが、成田さんは……」
 口をうすく開いたまま静止した三城が、おれのとなりに視線を動かした。おれもそちらを見る。そこに今まさに話題にしていた、エレガントな影浦が不穏な空気を身にまとい立ったままこちらを見下ろしていた。
「ここで何をしている」
 

「取引先の方と約束がありまして」
 質問にこたえたのは三城だった。
「聞いてないぞ。相手は誰だ。場所もおかしいだろ」
 おれはそちらを見ずに三城をながめていた。影浦は焦れた様子でおれの隣に座った。座り心地のいいふかふかの椅子が、あっという間に針のむしろになったように感じる。
「YTホールディングスの羽瀬代表です。場所はあちらの指定で」
 そつのない三城の応答に、影浦が沈黙した。言葉こそなくなったものの、場の雰囲気は重くピリピりとしたもので満たされていく。
「『要望』してきた関係者には、一切応じるなと伝えたぞ」
 ひどく冷たい声だった。さすがに三城も怖気づくか、と身構えたが、彼女は涼しい顔でやり返した。
「ええ、代表からそのような指示を受けておりましたが、何しろ代表自らが、社の利益を考えた際にどうしても必要であれば――女性経営者の方々からの、そのような『要望』に応えていらっしゃる、と聞き及んでおりましたので」
 そこで三城はいったん話を切って、ウェイターが持ってきたコーヒーを静かに一口飲んだ。影浦も顔負けの優雅なしぐさでカップとソーサーをテーブルに置くと、うすく笑みを浮かべた。おれは心底『女の演技力には脱帽する』と恐怖した。影浦の演技力や二面性もなかなかのものだが、さすが影浦と血がつながった一族に身を置いているだけのことはある。
「羽瀬代表はぜひにということでしたし、成田リーダーが『要望』にこたえてくださったら、全支店に弊社の『あさなさなエール』を導入してもよい、という好条件を提示してくださいました。全支店ですよ。さすがにわたくしだけで留め置くことはできないと判断しまして、その旨営業部門の成田ユニットリーダーにお伝えしたところ、社の利益のためにどうしても必要であろうから、『要望』に応えても構わない、とご了承いただきまして、いまこちらで羽瀬代表をお待ちしております」
 影浦が目を瞠った。おれも多分同じ顔をしていたと思う。
 実にあざやかな『目には目を』だった。つまり三城は、「会社のためなら社会規範から逸脱して取引先と寝る。成田がいいって言ったし、お前も同じことしてるからいいよね?」と伝えたのだ。
「み、三城……お前……」
 さすがの影浦もすぐに反論ができないらしい。戦況の不利を察したのか、影浦はおれのほうへ向きなおった。
「成田、分かってるのか?羽瀬代表が一緒に酒を飲んだだけで契約してくれるなんて思ってねえよな」
「分かってる。別に構わない、仕事のためだ」
「ついこないだまで男と寝たこともなかったくせに何言ってやがんだ。てめえ、よく考えてものを言えよ」
 影浦が低い声でおれを恫喝し、周囲から見えないように腕をつかんでくる。おれはそれを振り払い、慌てて立ち上がった。
「やあ。昨日から楽しみで眠れなかったよ、成田くん」
 『人たらし』としか言えない独特のオーラを放ちながら、羽瀬代表がにっこり笑った。その表情には容姿の優れた者特有の余裕と自己肯定感がにじんでいて、ひとつしか年が違わないなんて嘘のようだ。
 人好きする笑顔で手のひらを差し出され、強く握り返す。
 どこにいても完璧なスーツ姿の影浦とは対照的に、羽瀬代表はラフな服装だった。彼は影浦のほうをちらりと眺めてから、おれに見せたのと少し異なる、緊張の入り混じった笑みを唇の端にうかべた。
「代表までお越しでしたか。でも今日は、僕と彼のふたりで話したいんです」
 影浦が立ち上がった。営業用のスマイルを浮かべた影浦は、自ら握手を求めてしっかり手を握ってから「秘書まで使われなくても、わたしに言っていただければ」と目だけ笑っていないおそろしい表情で言った。
「代表の手を煩わせるまでもないことですよ。それに、何度か『要望』はお伝えしましたよね?うまく彼には伝わっていなかったようですけど」
 羽瀬代表はまったく負けていなかった。隣からおれの腰を抱いて引き寄せ、耳元で「さあ、行こうか」と囁く。
 追いかけようとした影浦の前に、三城が立ちふさがった。
「あとはおふたりで話されるとのことですので」
 何か言おうとした影浦に、三城が言った。
「莫大な利益を生む可能性のある打ち合わせになりますので、止める理由はありません。代表はご遠慮ください」
 自分の言動が足かせになって動けない影浦を置いて、羽瀬代表が「こっちだよ」とおれを促す。おだやかな笑みと、落ち着き払った声の奥に潜んだ支配者の匂い。抗えるはずもない。
 まるで魔法にかけられたみたいに、あっという間に高層階用エレベーターに載せられてしまった。
 

「そんな怖い目で睨まないでくれよ。いきなり取って食ったりしないからさ」
 羽瀬代表は部屋に入ると、入口のところで固まったままのおれをちらりと見て笑った。それから、部屋に備え付けらえたミニバーでウィスキーの水割りを作って手渡してくれた。
「ロックの方が良かったかな?」
「申し訳ありません。私がいれるべきところを」
「硬いことは言いっこなし。僕のことも代表じゃなくて羽瀬さんでいいよ。歳だって一つしか違わないだろ」
 きれいな顔をしたひとだ。写真よりもずっと、実物のほうが整っている。
 眉は太くてまっすぐだが、目尻はやさしく下がっている。髪はゆるいウェーブがかかっており、甘い顔立ちに良く似合っていた。
 どうこたえてよいものか迷って、おれは黙っていた。彼はロックがいい、と言ったので、部屋の中にあらかじめ用意されていたロック用の丸い氷をバカラグラスに入れ、ダブルぐらいの量を注いで渡す。「お酒の扱いが上手だねえ」と褒められたとき、どんな仕事でもなんらかのスキルは身につくのだなあと心のなかでしみじみした。
 広い部屋だ。たぶんスイートだろう。影浦がよく使うグレードの部屋だが、おれのような庶民からするとあまりにも広くて逆に居場所がない。困り果てて窓際に置いてあったソファに座ると、代表がベッドに腰かけて自分の隣をポンポンと叩いた。
「こっちへおいで」
 拒むのもおかしい気がして、水割りを窓辺に置いて近づいた。ぎくしゃくとした動きで30センチほど離れた場所に腰かける。手と足が一緒に前に出てしまったことを気づかれただろうか?笑いたそうな、でも我慢しなきゃというような、表情が見て取れるが。
「そんなに緊張されると、悪いことしてるみたいな気持ちになるなあ」
 はっとして顔を上げる。目線が合い、しばらく無言で見つめ合った。
「きみの眼、本当に猛禽みたいでかっこいいね。もっと近くでみせて」
 いつの間にかつめられた間合いに驚く暇もなく、両腕を掴まれて柔らかいベッドの上に押し倒された。シャワーも浴びていなければ、靴も脱いでいないのに、彼は押し倒したおれの上、数センチ先でじっとおれの顔をのぞきこんだ。
「……っ、ク……、あはははは!」
 突然大声で笑い始めた羽瀬代表は、そのままベッドの上であおむけになった。
「いや、もうさ、さっきの影浦くんの顔!見た!?めちゃくちゃ面白かったんだけど。あの男のあんな顔見られるなんて、三城さんの話にのって正解だったよ。ああ~僕生きて帰れるかなあ。今すぐ殺してやるって感じで睨まれてたけど!あと、きみ!!」
 寝返りを打った羽瀬代表……、いや、羽瀬さんが、おれのすぐそばで吹き出した。
「悪代官の前に連れてこられた生娘みたいな顔してさ!もうだめだ、面白すぎて死ぬ」
 ひとりで笑いころげている羽瀬さんと、ようやく三城に上手くしてやられたことに気づいたおれ。もう笑うしかない。 
 おれは靴をぬぎ、もうひとつのベッドにあおむけに横になった。脱力したせいで、ネクタイすら煩わしい。乱暴に引き抜いてからソファに投げ、シャツのボタンをひとつ外した。
「――全部きいてたんですね、三城から」
「うん。面白そうだなと思って、協力しちゃった。実際あの男、あ、代表の影浦くんだけど、あのままじゃ足元すくわれちゃうからねえ。せっかく僕んとこにも『あさなさなエール』いれようと思ってたのに、スキャンダルで会社の信頼失うなんて最悪でしょう?誠実な仕事を裏切るような真似を、代表自らしちゃだめだよ」
 笑いは一気に吹き飛んだ。今なんと?
「……聞き間違いではないですよね?エール、入れてくださるんですか」
 おれの問いかけに、寝そべっている羽瀬代表がにっこり笑った。
「かまわないよ。君とあのエールを気に入っているのも事実だし。でもタダじゃつまんないな」
 さきほどエレベーターの中でみせられた支配者のまなざしで目を細める。大きいベッドで隣り合っていることを急に意識させられて、おれは寝返りを打って彼から離れようとした。
「影浦くんと初めて寝たときのことを教えて」
 靴を脱いだ羽瀬さんが、いつのまにかおれのすぐ隣にやってきていた。腰に腕を回されて引っ張られ、胸と胸がくっつくほど密着する。
「その質問にこたえたら、うちのエールを入れてくださるんですか」
「いくつか質問して、全部答えてくれたら考えるよ」
「あの、少し近すぎます」
「どうだったの。どんな風に彼はきみを抱いた?乱暴だったの、やさしかったの。どんなことさせられた?」
 すぐそばにある顔から首をそらす。キスできそうなほど顔が近くて、離れようともがくとますます強く抱きしめられた。
「――おれと影浦は少し特殊な始まり方だったので……、舐めろ、と言われました」
「いきなりだな。それから?」