8 つれ添う2匹の魚(中編)

―影浦―

 成田の身体には不思議な引力があって、あれほど全身くまなく触って舐めて噛み付いて満足したと思っても次の日にはもう触りたくなる。何故なのか、自分でも分からない。世にも美しい肉体をしているからだろうか?男だが、同じ男でも憧れるほどに成田の肉体は完璧だった。これはおそらく骨格から、天賦のものだ。あとから努力で手に入れることが出来ないもの。
 どんな洋服でも成田が着ると最大限以上の魅力を発揮した。ファストファッションの画一的なシャツでも、スーパーで投げ売りされているシャツでも、成田が着ると普通以上に魅力的にみえた。
 だから、はじめてあいつに布から選んだフルオーダーのスーツを着せたとき、正直に言っておれは興奮してしまった。美しさで自分に比類するものはいないと自負していたが、成田はおれと違う、男性的な美しさを完全な形で体現していた。
 例えば、街を並んで歩いていても成田に浴びせられる視線とおれに浴びせられる視線は種類が違った。おれに向けられるのは賞賛と憧れだ。これだけ美しいのだから無理もない。子どもの頃からなので慣れている。だが成田に向けられる視線は性的なものが多かった。男も女も、成田を見つけたやつは(おれに気を引かれて成田を見ない者もたくさんいる)、もれなく品定めするような、舐めるような視線を向けた。抱かれたい、あるいは抱きたい、そういう直接的な視線だ。成田の目つきがあんなに悪くなければ、おそらくもっと鬱陶しい虫がたかってきただろう。だが幸いにも、というべきか、成田はひとをよせつけない、鋭い目つきと独特のオーラをまとっていたし、成田本人が驚くほど他人に無関心な性質をしていた。
仕事に能力値が全振りしているのか?と心配になるほど、プライベートにおける成田はひどかった。こと業務が絡むと貪欲で、負けず嫌いで、粘り強いのに、私生活になった途端、興味のない人間に対して鈍感で、無関心で、傲慢な男になる──おれにいわれたくはない、とあいつは言うだろうが。
 つまり、おれと成田は表裏だったのだ。
 よくある表現だが、月と太陽のように。

 姉のご機嫌伺いを絶やすと後がめんどうなので、月に一度は訪問するようにしている。今日がまさにその日だった。忙しい業務終了後、酒席と接待の間をこじあけて、おれは姉の住む白金の家を訪ねた。
「暑い中ようこそお越しくださいました。こちらでございます、仁さま」
 はつは会社を引退してから、姉の家で週に2回程度家事を手伝っている。おれの家にも週に一度は様子を伺いにきているので、引退といっても週の半分はまだ働いていた。
「あいかわらずだだっ広い家だ。姉さん、元気そうだな。これは手土産だ」
 昔から姉の礼子への手土産はチョコレートと決まっている。パリで買い付けさせたとびきりレアなチョコレートを姉の白い手に持たせると、彼女は白いほおを紅潮させて喜んだ。
「あらこれ、パリに行った時買おうと思っていたの。けれど時間がなくて。嬉しいわ、シャンパンに合わせましょう」
 家の者におれの手土産を渡し、客間へと案内される。相変わらず立派なアクアリウムだ。壁の代わりに埋め込まれた巨大な水槽の中には無数の熱帯魚が泳いでいて、間接照明の室内にゆらゆらとした青い光が反射している。
 ソファに腰を下ろすと、間を開けずに前に姉が、斜め後ろにはつが立ち、姉の「はつ、となりに座って」という言葉に首を振って、少し離れた後ろにおいてある丸椅子に腰かけた。
「お元気そうね。成田くんはいかがお過ごしかしら」
 最近の話題は成田のことばかりだった。おれが何も言わなくても、姉は成田の話を聞きたがった。仕方なく、おれは成田の肉体がいかに素晴らしいかという話をした。(性的な意味ではない)話すために思い出しているだけで体の中がざわついてきて、自分の中にある際限ない欲望に呆れてしまう。
「それは……ああ、この言葉をあなたに言う日が来ることを心待ちにしていたわ……、恋よ。恋なのよ、仁」
「おめでとうございます、仁さま」
 姉はチョコレートをつまみにシャンパンを飲み、おれはスモークされたチーズをつまみに赤ワインを飲んでいたが、危うく姉の白いワンピースに吹き出しそうになった。何をいっているんだ、こいつらは?
「はつ、あのシャンパンを出してくださらない?ほら、とっておきの、クリュッグのものよ」
 時価30万のシャンパンだ。正気か、こんな何でもない平日に。
 なみなみと注いでくれたはつに礼を言う。他人事なのに何故か嬉しそうなはつと姉の礼子が、目を見合わせ、笑いあっている。
「くだらない」
 何が恋だ。そんな程度の低い、脳にあらかじめプログラムされているバグに、このおれが巻き込まれてたまるか。
そう言いたいのに、確かに他に当てはまる症例がなくて納得してしまう。これがそうなのか、と。
「だってあなた。成田くんが毎日どこで誰と何を話しているのか、気になるんでしょう?」
 おれが何か言う前に、はつが身を乗り出して答えた。
「成田さまの身上を調べさせて何もかも知ろうとなさいましたね」
姉は目を潤ませて頬に手を当て、すてき、と呟く。
「それに彼との情事に溺れている。理性をうしなっているわ。それこそ恋よ」
今度こそ反論しようとしたが、またしてもはつが勝手に返事をした。
「先週は毎日成田さまを泊めていらっしゃいました。仲がいいのは素晴らしいことですが、成田さまのお身体が心配でございます」
 頬を染めるな。何もかもわかったような笑みを浮かべるな、クソ。
「あいつが妙にいやらしいのが悪い」
 ふたりから悲鳴が上がった。
シャンパンに悪酔いしたわけではなく、頭痛がする。
 本当に、この家の女どもときたらどうしてこうも鬱陶しいんだ?他の女なら適当に受け流せるしなんならコントロールできるのに、家の女だけはうまくいかない。どいつもこいつもむやみに気が強くて弁が立ち、頭の回転が早いせいか。
 ひととおりおれをからかい終わると、姉が穏やかな笑みを浮かべて室内の水槽へ視線を投げた。おれもそれにならう。いくつかに仕切られた壁面の水槽には、世界中さまざまな地域の稀少な熱帯魚が泳いでいる。
「ねえ仁。あなたは今、はじめて別の水槽にいるのよ。どんな気分かしら………いえ、言わなくてもいいの。わたしには分かる。きっと息がしにくくて、うまくいかないことが多いのに、毎日が最高にエキサイティングなの。そうでしょう」
 女の比喩は苦手だ。おれは黙ってグラスを傾けた。クリュッグは確かに美味いシャンパンだが、成田と飲んだときとは味が違う気がした。
「あなたはね、同じ水槽の魚としか出会ったことがなかった、あの頃にはもう戻れないの。変わってしまった。とてもいい方に………羨ましいわ。いつも仁は自由で、わたしたちとは違うのね」
 目を合わせずに寂しげにそう言われて、どんな顔をすればいいのか測りかねてしまった。姉にはこういうところがある。子どものころからそうだった。謎かけのような、不思議な物言いをしておれを煙に巻いてきた。
「違う海に育った美しい魚が連れ添って泳いでいるなんて、奇跡ね」
 おれは黙ってシャンパンを飲み干し、挨拶もそこそこに姉の家を出た。通りに出てタクシーを拾っている最中、ジャケットの中の端末が一瞬震えた。