7 つれ添う2匹の魚(前編)

(My manの続きです)

―成田―

 家の前に男が立っていた。
 どこかで見たことがあるような気がするが、名前が思い浮かばないから仕事がらみではないはずだ。
「何かご用ですか」
 おれの声に、男は腕を組んだままこちらに向き直った。目が合った瞬間、その顔をどこで見たのかはっきり思いだした。
「先日はドアを蹴破ってくださってどうも。話がある」
 影浦の友人のひとりで、黒縁めがねじゃないほうの男だ。警察官僚っぽい、とおれが決めつけていた男。後で影浦にきくと、本当に警察官僚だった。
「……どうぞ」
 ドアの修理代のことが頭をよぎった。影浦は上機嫌に「必要ない」と言っていたが、やはり、そういうわけにはいかなかったのかもしれない。実は純金製のドアだったとか?などと考えながら自宅の鍵を開ける。部屋を片付けていただろうか?と不安になったのもつかの間、男はドアを開けるなり、後ろから「無防備にもほどがあるだろ。知らない人が来てもドアを開けちゃだめですよ、って子ども時代に習わなかったのか?防犯意識が低すぎる」と説教してきた。
「じゃあ外で話しますか?このまま」
 嫌味を言ったつもりではなかったが、男は眉をしかめてから家の中に入ってきた。お邪魔します、という言葉ときちんとそろえられた靴。やはり、影浦の友人だ。育ちの良さがにじみでている。
「お茶にしますかコーヒーにしますか、それともビール?」
 男はさきほどよりも深く眉間に皺を刻んでから、リビングのローテーブルの前にどっかりと座って言った。
「あなたはおれの奥さんか。――コーヒーでいい」
 遠慮するのかと思いきや、希望ははっきりと述べるところに笑ってしまった。
 手を洗ってからネクタイを外し、シャツのボタンを2つ開けて腕まくりをした。慣れたとはいえ、シャツやネクタイはリラックスするにはつらい服装だ。それから電気ケトルで湯を沸かし、狭いキッチンから男の様子を観察した。
 男は精悍な顔立ちをしており、やや険しい表情や隙のない動作がいかにも警察関係者を思わせる。おれと同じぐらい短い黒髪と、白いシャツにグレーのネクタイ。厚生労働省に勤めている知り合いよりも堅い雰囲気だった。属人的なものかもしれないが。
 家にあるのはペーパードリップのセットだけなので、影浦からもらったコーヒー豆をグラインドして丁寧に抽出し、男の目の前に差し出した。
「ミルクと砂糖は必要ですか?」
「いらない。敬語も不要だ。仁と同い年なんだろ……、うん?!なんだこれ、美味いじゃないか」
 いかにも『期待してなかった』といわんばかりの顔をされたので、してやったりだった。
「じゃあまず名前から。おれは成田悠生、ビールメーカーに勤務している。ききたいことは仁のことか」
 男は片目を細めてから溜息をついた。コーヒーカップをテーブルの上に置くと、溜息をつき、腕を組んでからぞんざいに言う。
「多和田だ。警察庁の……ってお前に所属まで言う必要はないな。あと、仁を呼び捨てにするな。なれなれしい男だ」
 コーヒーの美味さで男の無礼さに対する怒りは上手く中和されてしまう。おれは男をしげしげと眺めてから、声を潜めて尋ねた。
「……仁のことが好きなのか?」
 男の手のひらがローテーブルを叩き、コーヒーがこぼれた。慌ててティッシュでテーブルを拭いたが、男は怒り収まらぬといった様子でおれを睨んでいる。
「幼稚舎からの学友だ。おれよりも仁をしっている人間はいない。あいつは女が好きだった」
 なるほど、友人としてひとこと物申したい、というわけか。おれは「なるほど」と頷いてから話の続きを待った。男はイライラと頭を掻きむしり、溜息をつき、指でテーブルをトントンと叩いてから言った。
「説明してくれ。成田といったな、仁とはどういう関係なんだ」
 時計をみると、すでに夜の十時を過ぎていた。こんな時間に、メシも食わず酒も飲まず、知らない男に詰問されているなんてツイてないなと思わないでもなかったが、人生は長いし、まあこういう夜もあるんだろうと無理やり自分を納得させた。
「影浦本人にきいたらどうだ」
 言っていい範囲が分からなかったので、そう答えてから携帯端末で影浦の番号を呼び出して手渡す。男は端末をひったくり、慌てて通話を切った。
「何するんだ。仁は忙しいんだぞ、つまらないことで手を煩わせるなよ」 
 おれは両手を挙げて降参のポーズをした。男は眉をしかめたまま顔を近づけてきて、すぐそばでおれを品定めした。立ち上がって前から後ろからくまなく見渡してから、「どこから見ても男じゃないか!」と叫んだ。
「続いて悪い知らせがあるんだが、おれは影浦と付き合ってる」
恋愛的な意味で、と付け足すと、多和田は悲鳴のような声を上げて両耳を塞いだ。
「やめろ!聞きたくない」
「分かった」
 5秒後、多和田は首を振り、おそるおそるといった様子で「本当か?」と尋ねてきた。ききたくないんじゃなかったのか?変わった男だ。図体が大きい割に気が小さいのかもしれない。
「こんな悪趣味な嘘はつかない。それを確かめるためにわざわざ来たんじゃないのか」
 重苦しい空気が面倒になって、プレイヤーの電源をつけた。携帯の端末でブルーノ・マーズの『Uptown Funk』を選んで流す。明るい曲が重い空気と奇妙に混じり合って、緊張感が消え去っていく。
「こんなときに……、なんなんだ、この軽薄な音楽は」
「軽薄とはなんだ。世界中で人気があるんだぞ。――悪いが、シャワーを浴びてくる。質問が終わったなら帰ってくれ。まだ聞きたいことがあるなら、冷蔵庫にビールがあるからそれでも飲んで待っていたらどうだ?」
 反論しようとした男に、人差し指を突き付けて言った。
「こんな夜中にアポなしでいきなり家に来たんだ。そしてここはおれの家。分かるよな?文句を言ったらつまみ出すぞ」
 ぐっと言葉に詰まった様子の男に、エアコンのリモコンを手渡す。暑ければ好きに温度調整してくれ、と伝え、そのままシャワーを浴びに行く。
 全身を洗って、パジャマ代わりのTシャツとジャージに着替えてリビング(といってもワンルームだが)に戻ると、意外なことに多和田はまだそこにいて、冷蔵庫にいれてあった自社のエールを呷っていた。
「いただいてるぞ。なかなかうまい。さすが仁が作ったビールだ」
 目が真っ赤だ。首元も顔もかなり赤い。どうやら酒に弱いらしい、と察して、冷蔵庫から未開封のミネラルウォーターのボトルを取り出し、缶の横に置いた。

「仁はなあ、幼稚舎のころからほかの人間とは違ってたんだよ。特別な人間だった。お前には分からないだろうけど……、おれだけじゃない、男も女も、みんな仁に憧れてた。あいつの持ち物を真似たり、身の程知らずにも友人になろうと近づく奴が後を絶たなかった。もちろん、仁は相手にしなかったさ。おれと、あと数人だけだ。仁のそばにいることを許されたのは」
 絡み酒だとは思わなかった。
 泣きながら影浦との友情を熱く語る多和田にティッシュを渡してやったり、水を無理やり飲ませたり、肩を組もうとしてくるのを拒絶したりするのに忙しい。飲ませるんじゃなかった。面倒だから酔わせてしまえ、と思ったのが間違いだった。
「一緒に国を変えるような仕事ができると思っていたのに……、ビールメーカーなんてちゃちな会社に勤めたあげく、男と!男とデキちまうなんて……!こんなのありか。国家の損失だ。いったい仁に何をした、新手の洗脳か?真面目そうな顔をして、実はカルトの教祖か何かか……、いや、それならおれが知らないはずはない、一体何者なんだ、お前は」
 鼻先があたりそうなほど近くでおれを睨みつけてから、多和田は首を振った。
「いや、お前の身辺はおれがくまなく洗ったから、ごく一般的な家庭で育った平凡な男だということは分かっている。野球は多少できるらしいが、それだけだ。許さんぞ、おれは」
 酒臭い息が顔にかかってくる。おれは多和田の胸を押して遠ざけながら、「お前に許してもらう必要はないし、何を言われても聞き流すぞ」と宣言した。
「おれだけじゃない。ほかの友人も、仁の身内も、神も仏も天使も悪魔も、お前たちの関係を許しはしない。不自然じゃないか、男が、男となんて……、生産性も皆無だ。もし、百歩譲って同性同士の恋愛が許されるとしても、相手はお前じゃないだろ。もっとふさわしい相手がいるだろうが。あの美しくてすべてにおいて完璧な仁が、……おいっ、きいてるのか」
 酔っぱらいの戯言として聞き流す努力はしていたが、付き合っている男の友人からこうまで拒絶されて、全く傷つかないわけではない。悪質な顧客を相手にしているような気持ちで、おれは表情を消した。こんなとき、傷ついたことを顔に出すと相手に精神的優位に立たれてしまう。
「仁の身内はおれのことを知っているのか」
 多和田はフン、と鼻を鳴らしてビールを呷ろうとした。無理やりそれを奪い取り、水を口の中に突っ込む。泥酔している多和田は、されるがままに水を飲んだ。ビール一本でこんなに酔えて、経済的でまことに羨ましい限りだ。
「さあな。――ただ、少なくともあのとき、あの場にいた連中はみんな知ってるよ。後から全員で仁を問い詰めたからな。あいつは……何も言わなかったが」
 ゲップをしてから、多和田がこちらを見た。
「それでこうして、聞きに来たってわけだ」
 時計を見る。日付が変わろうとしていた。
「ようするに、お前は影浦のことが好きなんだろう?おれと同じ意味で」
 面倒になってきた。早く帰ってほしくてそうたたみかけると、多和田は目をむいて怒鳴った。
「違うって言ってるだろうが!仁をそんな、汚らわしい目で見たことはないっ。お前と一緒にするな!」
 飲み終わったビールの空き缶を手のひらでぐしゃりと潰すと、多和田は急に静かになった。
「大きい声を出さないでくれ。夜中だぞ。あと、平日で明日も仕事がある。そろそろ……」
 帰ってくれ、と続けようとして、天井を仰いだ。多和田は水を口に突っ込んだまま、リビングのラグの上で眠っていた。