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 保大の教室に、黙っていると近寄りがたいほど顔のいい男がいた。
 ――男に興味がないおれでも、しばらくの間しげしげと眺めてしまうぐらいに。

 まず、目が良かった。並行二重の、まなじりが猫のように切れ上がった形の良い目は、好奇心を隠さずに光を持っていた。おれはよく「目が死んでる」と言われるので、目力だけで殺されそうだった。
 つまり、キラキラ感がヤバかった。リア充ってこういう男のことを言うんだろうな、とぼんやり思ったりした。
「下の名前、なんて読むの」
「かずほだよ。むらやま かずほ」
 薄い唇のかたちも良かった。鼻筋は海外の俳優のように高くて、つんと上を向いている。はきはきと話す声は低くて少し掠れていて、それもまた魅力的だった。
「かずほ」
 おれが名前を読むと、一保はじっとおれを見た。本当に目を見るのをためらわない奴だな、とおれのほうが少しためらったほど、その視線はまっすぐだった。
「おれは千葉。千葉創佑」
 一保が、くちびるをすっと広げて笑った。胸のすくような笑顔だった。
「千葉。よろしく」
 手のひらを差し出されて、意味がわかるまで立ち尽くしてから、あわててつかむ。
 思わず手をひっこめそうになるぐらい、熱い手だった。

「創ちゃん、次はいつ会えるの?」
 拗ねたような顔をみてはじめにわいた感想は、「めんどくせえな」だった。言わずにおいただけで成長したものだ。
「再来週はこっちに出てこられる」
 彼女はむすっとした顔のまま窓の外をみた。海沿いのカフェにいきたいといって連れてきてくれたのは良かったのだが、店に入るなり、学生生活が思いのほか忙しく、会う回数が減っていることを何度も指摘された。
「遠いよ。寂しい」
 彼女もおれも、出身地はこの学校がある呉ではない。広島市内の、太田川中流域にあたるところで生まれ育った。途中で実親から養親に養育者が代わったが、場所はほとんど同じだ。
「やっぱり同じ大学に進学してほしかった」
「さびしい思いをさせてごめんな」
 向かいの席から、頭をなでる。すぐに機嫌が直ったのをみてほっとした。めったに会えないから、会ったときはセックス出来ないと困る。
 学生時代から付き合ってきた彼女は、おれが海上保安大学校へ行くことを良く思っていないみたいだった。おれとしては女の感想はどちらでもよかった。彼女、といわれる存在についても、基本的には性行為の同意が得られている都合のいい存在としか考えていなかった。もちろん、そんなことを他人に言えば狂った人間だとばれてしまうので、誰にも言ったことはない。
 正直に言うと、おれには愛も恋もわからなかった。生きることと死ぬことの違いもよくわからなかった。生きたくて生きたことがなかったので、死にたいと感じたこともない。なんとなく嫌いではない道を選んでいるうちに、海上保安官になっていた。
 ぬるくなったコーヒーは美味い代物ではなかったが、飲食はすべて似たようなものだった。食えるときに食わないと飢える。飢えは最悪だ。あれほど嫌な状態はない。だから食う、それだけだった。

 女を駅まで送った帰り道で、偶然一保と会った。一保はそのとき、たしか白いTシャツと色あせたデニムを履き、あしもとは黒のビルケンシュトックをひっかけていた。右手には、麻の大きいトートバッグを提げていた。
「千葉、いま帰り?」
「ああ。村山は……、どうした、それ」
 バスタオルやシャンプーがぎっしり詰まった袋を指さすと、一保はこまったような顔で頬をかいた。
「寮の風呂壊れたんだよ。最悪だろ」
 人ごとではない。おれもいまは寮暮らしだ。
「マジかよ。それで銭湯?」
 一保はTシャツをパタパタと右手で浮かせて空気を入れていた。確かに暑い日だった。ちらちらと見える腹に落ち着かない気持ちになり、おれは焦った。さっきまで抱いていた女よりも、一保の腹のほうに目を惹かれるなんてどうかしている。抱いた回数が足りなかったんだろうか?
「ラーメン食ってから行こうかなと思って。お前もう飯くった?」
 一保が目を細めて笑ったので、本当はホテルでコンビニの飯を食らったのだが言わずにおいた。
「いや。腹へってしかたねえよ。おれも行っていいか」
 もちろん、と一保はまた歯を見せて笑顔になった。小さくてきれいに並んだ歯と、日焼けして赤くなった鼻。どうみても男の顔だ――それなのに、日焼けした首と、Tシャツのえりからみえる少し白い胸元のギャップに視線が釘付けになった。いよいよ本当にどうかしている。
 案内された店は、外見がボロボロで営業しているかどうかも怪しいラーメン屋で、カウンターに1000円を置くと勝手に100円が返ってきて目の前にちゃんぽんが提供される。メニューの選択権すらない。水はセルフで、お手拭きすらじぶんで取る。店のがんこ親父は「いらっしゃい」以外ひとことも言葉を発しない。
 おれの苦手なタイプの店だった。頑固親父がいる店はどこも嫌いだ。ラーメンごときで偉そうに、こだわりなんかもってんじゃねえよ、と思ってしまう。たかが小麦粉を伸ばしただけの食材で店の人間に偉そうにされるぐらいなら、袋麺を食ったほうがずっとマシだと思っていた。それが。
「なんだこれ、…、うまい」
「だろ!?あ、やべ。ここあんましゃべると怒られんだよな」
 野菜がこれでもかとのせられたちゃんぽんは、濃厚そうな見た目に反してさっぱりとしていて食べやすかった。海鮮も所狭しとのせられていて、これで900円なら安い方だ。
 一保は美味そうに麺をすすり、替え玉をしてスープを全部飲み干した。それから、これ以上の幸福はない、とでも言いたげな表情で「ごちそうさまでした!」と言ったので、おれも同じようにした。
 店を出ると、陽炎がゆれていたほどに暑かった気温は少し下がっていた。濃紺と橙色がまざりあった空には月が低く見え始め、あたりには夕食の香りがただよっていた。
「いきなり誘ってごめんな。はじめてなのに、道でさ」
 一保がそういってこちらを見た。銭湯にいくんじゃないのか、と言おうとして、やめた。もっと一保と一緒にいたかった。
 そうだ。思えば、はじめて食事を共にしたときから、すでに特別だった。
「いや。すごく美味かったよ。おれ、食い物に執着なくて、好き嫌いも全然ないんだけど。特別美味いと思うものもなくてさ」
 けど、ここのちゃんぽんは美味かった。ありがとう。
 おれがそういうと、一保は目を丸くして立ち止まった。
「食事すんの嫌いだった?」
「いや違う。興味がなかっただけ」
「マジか!?食事に興味ない奴とかいるんだ……」
 心底驚いた様子なのがおかしくて、おれは毒気を抜かれた。
「おれなんか食うために働いてるようなもんだけど」
「村山はたしかにそうっぽいよな」
「一保でいいよ。村上とややこしいし」
 確かに同じクラスに村上が別でいてややこしいのだが、すんなりと距離をつめられたのに不快感がなくて驚く。
 こういうタイプの人間は「そうなるのは理由があるに決まってるだろ、無神経な野郎だな」と腹が立つことが多いのに、一保は違っていた。
「じゃあさ、またなにか食い行こうぜ。千葉が気づいてないだけで、すきなもの色々あるかもよ」
 うまい店探しとくから。
 いたずらっぽく笑った一保に、おれはかろうじて頷いた。
「おれも探しておく。またいこう」
 くるりときびすをかえして、一保が元来た道にもどっていく。
 おれも一緒に行きたい。銭湯以外ならどこでも。そう思った自分にひどく驚いた。
 他人に強い感情を抱いたのは、そのときがはじめてだった。

***

 一保が隣でMaroon5の「This Love」を口ずさんでいる。
 ずいぶん機嫌がいいな、と声をかけると、一保は「そうでもねえけど、腹減ってるし」とつれない返事をした。
「空腹だと不機嫌になるもんな」
「もうすぐ着くからそれまでの我慢だよ、せいぜいおれのご機嫌取りしてくれ」
 言ってすぐに、一保は我慢できない、というように吹き出す。さっきまで、あの整った顔を憮然とさせていたくせに、数秒後には笑っている。振り回されているはずなのに居心地がよかった。
 はっきりものを言うところと、気持ちが表情に出るところは、こいつが愛されて育ったことを示していた。通常なら腹立たしい性分のはずなのに、一保においては好ましい要素になった。不思議だ。いま付き合っている女の育ちの良さには苛立つことが多いのに。
「今日も飯くったら銭湯いくんだけど、一緒にいく?」
 一保の誘いは本来嬉しいはずなのに、銭湯だけは尻込みをしてしまう。なるべく他人に裸をみせたくなかった。おれはかまわないのだが、見た方が戸惑うことが多いのだ。戸惑われても、おれだって困る。嘘をついて説明するのも面倒だった。
「おれの身体みたら、お前びっくりするから。やめとく」
 冗談めかして言うと、一保はきまずそうにうつむいた。
「無理強いはしないけど」
「おれ、脱いだらすごいからな」
 ばっかじゃねえの、と軽口がかえってくるとおもっていたのに、一保はこちらを見上げてじっと目をみつめてきた。その目には、いままで見たどの表情とも違う、不思議な色合いが浮かんでいた。
 けれど、それは一瞬だった。すぐに前を向いて、「あっちーな」とハンカチで汗を拭い、忘れたような顔をした。
「おれも脱いだらすごいかもよ」
 一保の声は、冗談のはずなのに熱のようなものがあって、おれも変な返しをしてしまった。
「それは見たいな」
「興奮しちゃうぜ」
「いいね。股間おさえて前のめりになったおれが見たいだろ」
 わけのわからない会話なのに、面白くなって結局ふたりで吹き出す。この感覚ははじめてだった。駆け引きのような――そうだ、恋愛の駆け引きってこういう感じなんじゃないか?そう考えてからすぐに戦慄した。相手は男だ。それもおれと同じぐらい、全身を鍛え抜いた海保官だ。
 夏の湿気が一保やおれの身体をしめらせる。日が暮れておとなしくなった蝉のかわりに、おれの心臓が変な音でうるさい。
 血液を送り出す冷徹なポンプ以外の役目を果たす、自分の心臓なんてはじめてだった。
 やめろやめろ、おれにロマンティックは似合わない。
 寒気がするのに、気分は悪くなかった。
 ジジジと音をたてる街頭に、振り返った一保の横顔が照らされている。
「早くこっちこいよ、千葉」
 先に歩いて行った一保が、古くさい中華屋の前で呼んでいた。

**

 村山ひとりじめせんといてよ、と声をかけられて、はじめて顔をあげる。
 プールサイドのひりつくような暑さの中、相手の男は全身濡れそぼったままこちらを見下ろしていた。
「一保?」
「あいつ飲み会に連れてったら女受けええねん。土日どっちかは譲ってや」
 なんだ、そんなことか。変な安心が胸をよぎって、おれはふと不安になった。
「一保が迷惑そうにしてたのか?おれに誘われすぎて」
 プールからあがって、顔を腕で拭う。
 7月に入り、もうすぐ遠泳訓練がある。一学年は3マイルでたいした距離ではないが、自然と自主練にも水泳訓練にも力が入った。
「いや、あいつはむしろおれが誘う飲み会のほうが迷惑そうやけど」
 大阪出身の榎本は、みためは涼しげでひょうひょうとした男だが、頭の中は女とセックスすることしか考えていないゲスだった。おおむねおれと同じだ。
「なんだそりゃ」
「せやからこうしてお願いに上がってるわけですやん」
 一保以外では、唯一たまに飲みに行く友人だった。
「あいつすごいで。女の集団からガチで狙われて、女子大生に乳あてられても平然としてるねん。性欲死んでるわ」
 モテすぎたらあんなんなるんかなあ、と榎本が首をひねる。
「客寄せパンダに使うなよ」
「ええやん。どうせあいつは努力せんでもモテるんや。不平等やんけ。ちょっとはおれらに恩恵わけてもろてもバチはあたらんやろ」
 タオルで顔をぬぐっていると、まだ立ち去らない榎本の本当の用件が気になってきた。
「で、何の用」
 榎本はニヤニヤした。ろくでもない話を持ちかけようとしている。
「順調?」
 すぐにひらめいた。そして後悔した。あんな駅前でけんかすれば、誰かが目撃するに決まっている。そして次の日には噂が広がっているのだ。
「彼女と盛大にけんかしてたらしいやん。呉の駅前で」
「けんかじゃねえよ。一方的にキレられただけ」
 榎本は嬉しそうな顔をした。こういうやつなのだ。
「わたしとその友達、どっちが大事なの!?」
「やめろ」
「お前村山と付き合ったらええやん。そしたらイケメンふたり競争から減っておれらは楽になるし」
 頭をはたこうとして、ふと気づいた。
「その話、一保もきいた?」
 おれの質問に、榎本は楽しげに頷いた。
「気にしとったで。自分が彼女持ちに遠慮なさすぎたかな、いうて。何なん、ネトラレみたいになっててウケるんやけど」
 ちらりと榎本がおれの腕にある大きな切り傷を見た。全身のいたるところにある切創、やけどの跡。これをどう思われているのかは知らないが、「こどものころ、大きい交通事故に巻き込まれた」という言い訳のおかげで、誰も何も言ってこない。大人な連中で助かっている。
 一保も何も言わなかった。銭湯に行くのをいやがっていた理由を察したのか、はじめて更衣室でおれの裸を見てからは二度と誘ってこなくなった。やがて寮の風呂は修理されてなおってしまったので、結局一度もふたりで風呂に入ることができなかった。
 どうせ知られたのに、銭湯に行くのをためらっていた自分が馬鹿馬鹿しい。けれど、どうしても怖かった。
 一保にだけは、嘘をつきたくなかった。
「ネトラレのほうが良かったかもな」
 おれのつぶやきは榎本には届かなかった。彼は手をあげてどこかへ消えた。長いため息が曇った空に吸い込まれていった。

 一保とはじめてラーメンをたべにいってから、はじめは二週に一度、やがて週に一度、食事や外出を共にするようになった。寮の食堂でもいつも一緒だった。
 共にする食事は、どれも美味く感じた。食事が、ただ義務的に摂取するものから、楽しみにするものに変わった。
 寮生活で自由になるのは週末ぐらいで、それらのほとんどを彼女にとられていたおれは、次第にその割合を一保に傾けていった。仕方が無い。美味いものはいくらでもあったし、いつ誘っても一保は「いいよ」と嬉しそうな顔で応じてくれた。
 おれにないものをすべて持っている一保。おれに足りないものを惜しみなく与えてくれる一保。
 奪う、欲しがる、子どものような彼女よりも、一緒にいてずっと楽しかった。

「なあ、次の土曜ヒマ?みたい映画があってさ」
 おれの誘いに、一保は顔をくもらせた。朝、食堂であったときのことだ。そのときは何か用事があるんだろう、ぐらいにしか思わなかった。
「悪い、千葉。その日は予定があるんだ」
 歯切れの悪い答えだった。おれは少し残念に思いながらも、そうか、じゃ仕方ないな、と引き下がった。
 あれは、おれに気を遣って断っていたのか。
 そんな必要ないのに。彼女なんかどうでもいい。おれは一保と一緒にいたかった。レコード屋をひやかしたり、昼から酒を飲んだり、飲んだ後ラーメンを食って後悔したりしたかった。土曜も日曜も全部。
 おれにある時間をすべて、一保に差し出したい。どうしてあんな女と会わなきゃいけないんだ?楽しくもないのに。あの女との付き合いに利点があるとすれば、身体を好きにできて性的にすっきりするだけだ。
 この感情がまずいものだと分かっていても、とめられなかった。
 早足で一保の部屋に向かった。おれが今会いたいのは、世界でたったひとり、村山一保だけだった。