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 眠りから覚めるとあたりは暗くなっていた。時計を確認して慌てて身体を起こす。
「うそだろ」
 三時すぎに部屋に入ってから、二時間も眠りこけていた。夜勤だったので無理もないのだが、まだ風呂にも行けていない。
「ありえねえ。絶対風呂いく」
 湯かごが置いてあったので、入浴に必要なものを入れて大浴場に向かう。平日なので人は少なく、広々とした脱衣所から真っ裸で洗い場に向かう。先客は誰もおらず、貸し切り状態の洗い場で顔や身体を洗った。
 正面の鏡に、憂鬱そうな自分の顔がうつっている。猫のような目に、自慢の高い鼻。道を歩いていると知らない女や男からしょっちゅう声をかけられる。この顔で色々得をしてきたのは分かっているのだが、そのすべての得を台無しにするぐらい、ゲイの道は険しかった。
 千葉創介と――今付き合っている男の名前だ――温泉に行ったことは一度もない。温泉どころか、まともな外出すらほとんどなかった。おれと千葉の間には、正しく言葉のとおり、「セックスしかない」。
 いつか恋人ができたらやってみたいことは色々あった。けれどそれを千葉に伝えることはできなかった。
「…おれもへたれのクソ野郎ってことだな」
 断られるのが怖くて、居酒屋以外に行ったことがない。いや、正確には一度だけ水族館に誘ったが、男同士でそんなところいってもしかたねえだろ、と一度だけ言われてから、どこにも誘えなくなった。それからは飲みに行ってからどちらかの家でセックス。つまり、付き合っていると思っているのはおれだけで、千葉にとっては気が向いたときだけ抱いてやってるセフレの男、という可能性がある。これもきいたこがなくて分からないが。
 水を頭からかぶって、岩風呂の中に入った。一瞬冷えた身体が、じわじわとあたたまっていく。
 山の暗い景色が湯気でけぶっていた。
「別れたほうがいいんだろうなあ」
 そんなことは分かっている。おれもアホではないのだ。
 でも嫌だった。相手の気持ちがどうあれ、おれはまだ千葉が好きだった。殴られても蹴られても、都合よく使われても良かった。おれを求める切実な目が一瞬でもみられる限り、きっとあの手を離すことがはできない。
 半日以上電源を切ったままのスマホのことを考えると、腹の中がひやりとした。

 夕食はそこそこ豪華なもので、ビールを2杯飲んで楽しんだ。部屋食にしたので自分のペースで好きに食べられたし、合間に給仕をしてくれた仲居さんと少し話もした。どうしてひとりで?という話題に、「ちょっと恋愛に疲れて」とこたえると、シングルマザーで、住み込みで働いているという彼女は親身に相づちを打ってくれた。
 食事を終えて部屋の中に布団が敷かれている間、敷地の中を散歩した。見事な日本庭園の中庭には数組のカップルが手をつないで歩いていた。羨ましい気持ちと、おれには無理なんだろうなという暗い気持ちが沸いてきたので、そのまま売店に寄って酒を買い足した。酒はいい。頭を空っぽにしてくれる。
 部屋にもどって、酩酊をいいことにスマホの電源を入れた。滝を観に行ったときに少しだけつけた以外きりっぱなしだった端末には、千葉からのメッセージと着信がおそろしいほどたまっていた。
『いまどこにいるんだ』
『頼むから返事をしてくれ』
 多分酔っ払っていたんだと思う。おれは自分の居場所を伝え、来られるものなら来てみろ、とメッセージを送った。そのメッセージにはすぐに既読がつき、電話がかかってきた。無視していると、返信が入ってくる。
『行けない。だから帰ってきてほしい』
 なんで来られないんだよ、と理不尽に腹を立てた。おれなら、千葉が来いといえばたとえ沖縄だって北海道だって、なんならアメリカにだっていくだろう。それなのにお前は、電車でたった一時間の県内にすら来られないのか。

「このぐらいの距離迎えに来いや!!」

 酔っ払っている上に腹が立っていたので、大声でゴールデンボンバーの「女々しくて」を歌ってやった。この部屋には他に誰もいない。困る人間も褒めてくれる人間もいない。おれがここで急性アルコール中毒で死んだとして……いや、その死に方は嫌すぎる。
 浴衣だと寒くなってきて、布団の中に潜り込んだ。さっき歯を磨いたし、風呂にも入ったからこのまま寝たって何の問題もない。鍵かけたっけ?と一瞬だけ現実的なことが頭に浮かんだのだが、あっという間に眠気が頭を真っ白にして流していった。

***

 そういやはじめの頃は痛かったよな、と大股を開いて男を受け入れている自分を冷静にみつめながら思い出す。
 男とセックスするにはそこを使うしかないのに、どう考えてもその場所は向いていなかった。千葉は女としか経験がなかったし、おれも男と寝たのは千葉がはじめてだった。
「一保、痛い?」
 自分が殴ってできたあざに、千葉がキスをした。痛いに決まっている。でも嫌ではなかった。何も残らないよりはいいよな、と思っていた。
 千葉が来たことに驚く時間はなかった。第一声を発する前に布団に押し倒されて浴衣の裾を割り開かれたので、あとはただ没頭するだけだった。
「思い出してた」
 余裕だな、と苛立ったような顔で千葉がおれの足を抱えた。前からぐっと体重をかけられて、ふかく中に入ってくる。ンァ、と変な声が出た。そこを擦られるとめちゃくちゃ気持ちいい。何もかもどうでもよくなる場所を、千葉がしつこく突き込み、ぐりぐりと揺すってくる。
「はじめてのとき、狭すぎて痛かった。ここに本当に入るのかよって思ったのに」
 千葉がそういって、おれの首をしめながら激しく腰を動かす。苦しい。くるしくて、息ができない。
 もっとしてくれ。何も考える余地がなくなるぐらい、痛めつけてほしい。
「いまじゃ、最高に気持ちいい」
 耳を噛まれた。あいしてるよ、一保、と荒い息と一緒に吹き込まれる。
 満足そうな、汗に濡れた千葉の顔。きりっとした眉のしたの、少し垂れ目の甘い目元を指で撫でる。
「いいよ」
 おれには何をしたっていい。それでお前が少しでも救われるのなら。
「許してくれるのか」
 その顔をされると弱い。すがりつくような、この世界におれしか味方がいないような顔だった。
「はじめから全部許してるよ」
 抱きつくように、千葉が覆い被さってくる。
 中で性器が震えて、腰に足を絡めた。