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 答えを間違えた、と気づいて青ざめたときには、すでに千葉の蹴りがみぞおちに入っていた。
 あの顔だ。青ざめたような、恐ろしく冷えた目に、まっすぐに引き結ばれた唇。
 しまったと気づいた時にはいつも遅い。

「どうしてすぐに返事をしなかった?」

 蹴られた衝撃で廊下の壁にぶつかり、そのままずるずると床に座り込む。千葉はゆっくりこちらに歩いてきてしゃがみこみ、おれの顔をのぞきこむ。
 言葉が出てこない。ぶつかったとき肋骨にヒビが入ったかもしれない。
「……ッ、ゲホ」
「なあ」
「酒、飲んでたし、気づかなかった」
 吐きそうだった。あまりにも突然で、受け身もとれなかったのだ――格闘技なら複数心得があるこのおれが。
「一保かずほ」
 指がやさしく顎をなぞる。手のひらが大きくて、長い指をしている。目が合うと、千葉は意外にも慈愛に満ちた表情をしていた。
「まだおれから離れられると思ってるのか?」
 恐怖と悦びは共存可能なのだということを、おれはこのとき身をもって知った。

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 最近付き合い悪いですよね、と後輩の二見ふたみが頬を膨らませておれの前に座る。
 ネイビーの制服に身を包んだ二見は、ここ第三管区海上保安庁の潜水士だ。おれは配属されて4年目、二見は2年目の新人だが、度胸があって人なつこい性格の二見は先輩みんなにかわいがられている。
「顔色も悪いし。なんですか、夜遊びしすぎですか?」
 思わず手が出た。頭をぽかりとやられた二見は、叱られた犬のようにしゅんとしておれの机に突っ伏す。
「一保先輩がいないとつまらないです」
「名前で呼ぶな、名字で呼べ」
「だって村山先輩だと村上先輩とかぶってややこしいんですもん。隊長も一保って呼んでるしいいじゃないすか」
 チッ、と舌打ちをすると、二見が大げさに嘆いて首を振る。
「ここ半年ほど先輩おかしいです。飲みにも誘ってくれないし、さそってもほぼ断られるし!このあいだなんて、合田隊長来る飲みも断ってましたよね、あんなの変ですよ!」
 海保の生きた伝説、わだつみの生まれ変わりとまで噂されている合田隊長は、すべての潜水士の憧れだ。おれも例外ではなかったが、彼と飲みに行くことはできない。というか、今ほかの誰とも飲みに行けない。行けばケガをすることになる。
「一保、出動だ。釣り船が座礁!」
 隊長から声をかけられ、これ幸いとその場から逃げ出す。ウェットスーツに着替える間も、ずっと二見がいぬっころのようにまとわりついてきて難儀した。
 救助はおおむね順調だった。おれのバディは二見で教育係もかねているが、二見はメンタルが強いし飲み込みも早い。海外暮らしが長かったおれは物言いが率直すぎると注意されることがあり、繊細な人間の相手は向いていないので大変助かっている。
「……、そのあざ、どうしたんですか」
 潜水士はウェットスーツに着替えるため、どうしても他人に裸をさらすことになる。となりでウェットから制服に着替え終えた二見は、いつになくこわばった真剣な顔でおれの腹部を凝視した。
「転んだ」
「それはない」
 クソ、と悪態をつくと、出た、一保先輩の「クソ」発言!と二見がケラケラ笑うのがいつものやりとりなのだが、今回ばかりは無反応だった。
「けんかふっかけられたけど、おれ無抵抗だったから普通に食らったってだけ」
「まあ、公務員してると反撃できないですよね……普通の人は」
 普通の人、というところに妙に力が込められていた。おれは無視して続けた。
「逃げらんなかった。突然蹴られて無理だったんだよ」
 二見をよく飲みに連れ回していたころ、街で何度も絡まれた。おれはそこそこ目立つ風貌をしているので絡まれやすく、二見は巻き込まれた形だ。だがそのたびに実力行使で相手を血祭りにあげてやったのを知っている二見は、「相手ゴリラか何かですか!?」と叫んだ。
「一保先輩が人間相手のけんかに負けるなんて考えられない。確か師範代とかですよね、前米兵に絡まれたときも締め落としてたし……、クッソ強かったじゃないすか」
 さすがに声を落としてくれて感謝した。隊長をはじめ、他の隊員にきかれてはまずい。
 急いで制服に着替えてから、二見を事務室の裏手にある人通りの少ない廊下に誘った。
「説明してください」
 並行二重のやさしい垂れ目が真摯にこちらをみつめてきた。二見はやさしげで整った容姿をしている。中身はそれなりに遊んでいる今時の若い男だが、最近できたという彼女のことは大切にしているようだ。配属されてからずっとかわいがってきた後輩だし、信用してもいいのかもしれない。
 だがその説明にはおれがゲイであるという前提が必要になる。却下。絶対に言えない。
「ちょっと揉めてるだけなんだ。身内で…、反撃できない状況で」
 二見は少し変な顔をした。それから、ああ、とひらめいたように頷く。
「もしかして、認知症とか…、介護が必要な病気のご家族がいるとか?」
「まあ、そんな感じ。思い通りにいかないと突然暴れることがあって。やり返すわけにもいかないから、全身にあざができる。」
 今後のことをかんがえて、ごまかせる理由を必死で口にする。二見はそうですか、と真剣な顔で近づいてきた。
「おれにできること、あります?じつはおれ、子どものころばあちゃんの介護手伝ってたんで。結構役に立ちますよ」
 すごく大変でしょ、とねぎらうように言われて胸が痛んだ。だがとても真実は口にできない。
「ありがとう。また相談させてくれ、誰にもいえなくて、辛いときもあるから」
 目を伏せる。嘘をついてごめん、と心の中でふたりに謝罪した。ひとりは恋人である千葉に、もうひとりは目の前の二見に。
「いつでも聞きます。一保先輩の頼みなら、おれなんだってやりますよ」
 でもおれだけにしてください、と二見がすがるような声で言った。言われるまでもなく、誰にも言うつもりはなかった。二見に言うのだって本当は嫌だった。本当のことは絶対にいえないが、嘘をつくのも苦しい。
「ったりまえだろ、他にいえるかよ、バカ」
「そのかっこいい顔からするする出てくる罵倒がたまんないですよね、もっと言って!」
「キモい」
 向こうずねを蹴ると、二見は大げさに飛び上がって痛がった。
 その様子に救われる気持ちがしたが、笑顔はすぐに引っ込めた。誰かと笑っているだけで、後で殴られるかもしれない。千葉にばれたら……、そう考えると落ち着かない。

 仕事が終わり、身支度を調えて庁舎の外へ出ると、スマホにメッセージがいくつも届いていた。
「昨日はごめん。本当に悪かったと思ってる。早く帰ってきてほしい」
 スマホを握りしめたまま、その場にしゃがみ込んでしまう。
「家で待ってるから」
 ――嬉しいとおもってしまう自分が惨めだった。
「今家にいんの」
 おれの返信はしばらくしてから既読がついた。動物が謝罪している妙なスタンプが届く。
「今は外出してるけど、昼まえにはそっちに行くから。一保の帰宅には間に合う」
 電話をかけてみた。7コール目でようやく出たと思ったら、女の声だった。
「今そうちゃんお風呂入ってるんですけど、どなたー?急ぎなら取り次ぎますよ」
 すぐに電話を切る。またしくじってしまった。こうなると分かっていたはずなのに。
 千葉は今女の家にいるはずで(千葉はゲイではないため本命の彼女がほかにいる)、その片手間に殴ったおれを懐柔しようとしているのだ。これが惨めじゃないわけがあるか?地獄で小便を漏らすよりも惨めだろ。
 自分のあちこちはねている短い髪をがしがしとこすってから、スマホをメッセンジャーバッグの一番下に放り込む。今日は明けで、明日は非番だ。
 当直明け、春の海はまぶしく輝いている。水平線の近くに、さきほどまで乗船していた「いず」が航行しているのが見えた。
 スマホの電源を切る。それからもう一度バッグの一番下に放り込み、桜木町まで早足で歩く。
 ひとりになりたい。誰にも話しかけられず心配もされず、誰も傷つけてこない。安全な場所でゆっくりしたい。
 電車に乗って適当な温泉地に行く。当日泊まれそうならどこでもいい。
 決めてしまえば即行動、がおれの美点だった。電車に乗り込んですぐ、スマホで行き先を探した。