世界の終わりに見る夢は

6.

 

 令状を取ってその家に立ち入ったとき、あまりの異様さに立ちすくんでしまった。
「血の匂いがしますね」
 警察官として勤務している限り、その匂いと縁を切ることはできない。
 おれも、澤村も慣れている。親しんでいるとまでは言えないが。
 家中に充満している血、糞尿、人間の垢。バナナが腐ったような、鼻の奥がツンとする匂い。澤村は眉をわずかに顰めて「くせえ」とつぶやいた。
 児童相談所の職員も同時に立ち入りをしたので、この状況に慣れていない若い職員が腕で顔を覆って吐きそうな顔をしている。鼻が利くとこういうとき最悪だ、と澤村が囁くので、おれも静かに首を縦に振って同意した。
 この家のすべての窓には「×」印を書くように黒いガムテープが貼られている。電気が止まっているのか、昼間であるにもかかわらず家の中は薄暗い。異臭も相まって、まるで現実感のない空間を演出していた。
「ホラー映画じゃあるまいし」
 歩くたびに軋む廊下はありとあらゆるもので汚れていた。油を含んだ新聞紙、犬か猫の排泄物(もしかしたら人間?)、鶏の骨、無数の虫のフン(これはゴキブリだろう)、ほこり、髪の毛。あまりにも汚いので、おれも澤村も靴にシューズカバーを付けた状態で家の中に入っている。
「マスクしててもこんだけ匂うなら、近隣住民がキレるのも無理ないっすね」
「……その割に落ち着いてるな、お前は」
 廊下を抜けて、居間に入る。先に立ち入った職員がくぐもった悲鳴を上げた。
「もっとひどいもん、見聞きしてるんで」
 何か図形を描いた紙が散乱している。無数の食べかすやゴミが散らかる室内には蠅が飛び回っており、我々以外、人の姿はなかった――ひとりを除いては。
「宇治田麗奈さんですね?」
 ダイニングテーブルに裸で正座させられている人間。おそらく、人間だ。ガリガリに痩せて骨と皮になってはいるが。
 彼女は縄で縛られて正座のまま身動きができない状態でテーブルの上に居た。意識があるのかどうかすら分からないほどにやせこけており、返事もない。
 児相の職員が初めての臨検に緊張しているのが分かる。警察にとってはそれほど珍しいことではないが、彼女はまだ若い。臨検の一時保護がはじめてのことなのだろう。
 保護者の姿が見当たらない中、職員が令状を読み上げている。児童の一時保護において、あくまで警察は「助言・援助」機関で主役は児童相談所の職員だ。彼らが必要な手続きを執行していくのを、おれと澤村で注意深く周囲に気を配りながら見守る。

「あなたを保護します」




 一時保護自体はめずらしいことではない。
 むしろ、以前に比べれば迅速に一時保護や施設入所がすすめられるようになってきた。警察と行政の連携にはまだ課題が残るものの、問題意識が大きく変わってきたのを感じる。
「臨検まではめずらしいっすけどね」
 缶コーヒーが落ちるガコンという音に視線だけをそちらに向けた。署の中、喫煙所の近くに置かれた長いベンチに座り込んで考え込んでいると、澤村がやってきて隣に座った。
「いつもごちそうなってるんで。これよかったらどーぞ」
「なんだよ気持ち悪いな。明日台風でもくるんじゃないのか」
 ただの虐待事案じゃない。そう思っているのはおれだけではなかった。
「3件目だそうです」
 まるで考えを読んだようなタイミングで澤村が言った。
「宗教団体『にじのこ』。山奥で集落をつくって自給自足の生活をしているカルトのひとつです。彼らは農業法人もやっていてそれを隠れ蓑にしてます。普段は信者だけで生活してるんで、今回みたいなことは発覚しないんですが、そのカルトから最近分裂した、街での勧誘を専門にしてる宗教が『いのちのこ』って言って……」
「ちょっと待て。3件目って、他にも今回みたいな事件が起きてんのか」
 澤村は気だるそうに椅子に浅く腰掛け、顎を上げた。
「ええ。いのちのこの支部は全部民家なんです。その民家の中で教義だなんだつって子どもを監禁して飯食わせずに色々やってたみたいすね。それも変なことに、全部兄弟、姉妹の片方だけなんすよ」
 意味が分からなくて無言で澤村を見た。澤村は例の、感情なんて生まれてこの方知らないといった目でおれを見返す。
「この半年でにじのこ絡みで保護されたこどもは3人。この件もいれてね。で、全部兄弟、姉妹がいて、その片方だけが宗教団体に預けられてます」
 それが意味するところを考えていると、澤村は鼻から息を出した。
「双子ばっかりです。これ偶然ですかね」
「入信させられていない方の兄弟はどうなってる?親も入信してるのか」
 乾いた風が通り抜けた。冬は終わりが近づいているが、春というにはまだ寒い。
 腕まくりしていた袖を手首まで下ろしてボタンを留めていると、澤村が立ち上がった。
「その辺の情報は細かく手に入んないんですよ。公安絡んでるみたいでロックかかってます。おれの情報も独自ルートのもんなんで、あんまあてにしないでください。ただ……、かなり以前から似たような事案があります。つまり」
 おれも立ち上がって澤村の空き缶を手に取り、ごみ箱に向かって投げた。
「認識されていなかっただけで、連続性があるってことか」
 公安が絡んでいる。その言葉が意味するものは、『深入りするな』。これ以上入り込んで捜査すると、連中がしゃしゃり出てきて面倒なことになるかもしれない。
 だが、おれの気分は高揚していた。高揚という表現は正しくないかもしれないが(被害者がいる以上適切ではない)、そう表現するしかない。
「あのー、なんで嬉しそうなんですか。気持ち悪いんすけど」
 笑みがこぼれてくるのをおさえきれない。
「こういう顔なんだよ」
「それは100%嘘でしょ」
 やっと手に入った。両親の殺害と関係があるかもしれない、組織の情報が。






 コートの襟を立てて寒さにわずかばかりの抵抗を示してみたが、無駄だった。
 夕方から降り出した雨が上がってから急に気温が下がってきて、ようやく見え始めた春の兆しに対する期待を粉々に打ち砕いた。


「相変わらず寒いのが苦手か」
「弟をストーカーするのはやめろよ。アンタも暇じゃないだろ、榮倉三等空佐」
 保護した子どもの手続きに時間がかかって、自宅に着いたのは22時前だった。大きい事件で帳場が立った刑事課よりはマシな忙しさだが、それでも、地域で交番のお巡りをやっているよりははるかに忙しい。くたくたに疲れて帰ってきたときにドアの前で立っている兄を見ると、疲れは倍増どころか泥のように粘土を増した。
「美味いおでんをテイクアウトしてきたぞ、好物だろう。ひとつどうだ、榮倉巡査部長」
 階級ひとつとっても兄とは雲泥の差だ。舌打ちしたい気持ちをおさえて溜息をつく。どうせ追い返しても帰らないだろう。兄はこうと決めたらその通りにしかしない。強固な意志とそれを実行できるだけの知性。おれには何一つ持ちえないものだ。
「婚約者の飯を食えよ。なんでわざわざおれのところに来るんだ」
 鍵を開ける。兄は肩をすくめて靴を脱ぎ、中に入ってきた。
「いい情報があったからな。お前の追いかけてる情報だよ、啓。『にじのこ』の話だといえば分かるか?」
 手を洗ったあとで勝手にテーブルの前にあぐらをかいた兄は、気が進まないような顔でそう言って振り返った。なりふり構わずテーブルの前に詰め寄ったおれに、兄は片眉をあげて「条件がある」と言った。
「どういう風の吹き回しだ。おれにしつこく警察をやめろと、……手を変え品を変え圧力をかけ続けてきたくせに」
 テーブルを叩いた衝撃で、兄が勝手に注いだ日本酒がこぼれた。だがまるで動揺する様子もなく兄は言った。
「以前みたいに名前で呼んでくれ。そうすれば、おれが組織や同期のルートから手に入れた『にじのこ』情報を、すべて啓に回してやる」
 ふざけるな。そう叫びたかった。ついでに澄ました横っ面にビンタのひとつでもくらわせてやりたい。でも兄の情報への興味と好奇心がそれを許さなかった。
「至、教えてくれ」
「……ああ、最高だ。お前の声で名前を呼ばれると……たまらないな。今後もそれで頼む」
 おれが黙っていると、兄は……いや、もうこの男を「兄」だと思うのはやめよう。今日限り、この男は他人だ。榮倉至という名前の、かつての兄弟、現在の他人。
 至は立ち上がって勝手に持ってきたおでんをあたためはじめた。漂う上品な出汁の匂い。これは確か、予約も半年待ちだという有名なおでん専門店のテイクアウトだ。
「事情が変わってな。これまでお前に情報が届かないように機能していたものが、役立たなくなった。このままだと、いつかお前は探りあてるだろう。危険な真似をしてでも。それなら、おれが流してやった方が安心できる」
 やけになって日本酒を煽る。長い間、この本心を他人に見せない男が、どうして友人を多く作れるのか不思議だったが、最近になって分かったのは、『利用価値の高い人間』や『親しくしていると利益のある人間』を求める者はいくらでもいて、兄はそういう人間にすこぶる受けが良かった。
「あんたが情報操作でもしてるっていうのか。いくらなんでも妄想が過ぎるだろ」
 至が唇の端だけで笑った。
「おれが何かをする必要はないさ。お前の組織が、自分たちにとって不都合だから勝手に隠していただけだ。だがそれも終わりらしい」
 前に座った至が、立ち上がろうとしたおれの腕を掴んで座らせる。手首が軋むように痛んだ。おれも決して弱いわけじゃないはずなのに、全く身体が動かなかった。
「離せ」
「食事が終わるまでいい子で座ってられるか?」
「クソが」
 負け惜しみのような悪態しか出てこない。背筋を伸ばした兄が、きびきびとした動きで箸を持って唱えた。
「いただきます」
 黙って食べたが、渡されたおでんは正直に言って食べたことがないほど美味いものだった。よろこびが顔に出ないようにするのに苦労した。
「お前は分かりやすいな。根が素直だ」
 バレていた。
「食ったぞ。情報を寄越せよ」
「それしか言えないのか、啓。バカのひとつ覚えだな。警部補への道は遠そうだ」
 殺意が湧いた。至は肩をすくめてから写真を3枚投げてきた。
「おい。説明しろよ――」
 首に手がかかったのが早すぎて対処する暇もなかった。陰気な蛍光灯の光が視界に入ってきて、至の鋭く冷たい視線がすぐ近くでおれを見降ろしている。
「あの日。お前が殺されたと思っている『善良で愛情深い両親』は、実在したと思うか?」

 仰向けで押し倒し、なんなくおれを押さえつけている至が、耳元でねっとりと囁く。低く、甘い声。この声ひとつで誰でも思い通りに動かせる、そんな声だった。

「どういう、意味だ」
「父と母がどういう人間だったのか、啓は分かっているのか」
 質問の意図が分からない。
「帰ってきたら両親が殺されていた。お前は血まみれの両親と、家から逃げる子どもを見た。犯人は逮捕されないまま二十年以上が過ぎ、法が裁けないなら自分で裁いてやろうと思い警察官になった。陳腐だな、啓。もう誰も興味がないような陳腐なドラマの筋書きだよ」
 至の発言に寒気がした。自分の両親でもあるはずなのに、そこには情というべきものがまるで感じられない。
「どうして……、父さんも母さんも優しかっただろ。おれたちは大切に育てられてたはずだ。なのに至は、何も感じないのか。理由も分からないまま親を殺されて、犯人も捕まらないままで、どうしてそんなことが言えるんだ」
 片目を細めた至の手がおれの首にかかる。息苦しい。暴れて膝で至の横腹を蹴ってもびくともしない。
「ほとんどの物事は多面的なのに人は一面しか見ない。見たいところだけをみて、自分の都合のいいように受け取る」
 目の前が霞む。息苦しくて暴れると、至の手がゆるんでそのままネクタイに指がかかった。


「啓。おれは、両親が殺されて悲しいと思ったことは、一度もないんだ」