世界の終わりに見る夢は

5.

 風呂から出てくると、新品の下着やパジャマがドラム式洗濯機の上に置かれていた。
 兄のサイズだ、とひと目でわかる。それもぴったり兄の体に合うサイズで、おれはどこか怖い気持ちで袋の封を開けた。
「啓には大きいな」
 先に月子さんと里穂さんを風呂に入らせたので、リビングに残っていたのは兄だけだった。ソファからこちらを見た兄は、笑い交じりにそう言った。
「アンタがデカいだけだろ。おれはふつうだ」
 バスタオルで乱暴に頭を拭い、テーブルに置かれている水を飲んだ。この気遣いは里穂さんだろうな、と分かって、また少し怖さが増した。親切にされているのに、これほどもてなされているのに、この家にいると首を絞められているような、息苦しい感じがする。
「まだ濡れてる。ちゃんと乾かさないと風邪をひくぞ」
 後ろに立った兄が髪に触れようとするのを、大げさにならない動きで避ける。宙に浮いた兄の手は、さほど気にする様子もなく元の場所へ戻っていく。おれは背を向けて、水の入ったペットボトルを冷蔵庫の中に仕舞った。
「これからは、好きな時に飯を食いにくればいい。里穂も喜ぶから」
 隣に立たれただけで圧倒される、そういう存在感のある肉体から遠ざかりたくて、冷蔵庫の前を通り抜けて洗面所へ向かった。歯ブラシや歯磨き粉、カミソリまで新品が置かれていて閉口する。ここまでくれば、怖いというよりも気持ちが悪い。まるでおれが泊まりに来ることをあらかじめ知っていたようで不気味だった。
「本気でそう思ってるのか」
 寝仕度を整え、兄の部屋で布団を並べて横になったとき、ようやくそう問いかけることができた。
 常夜灯のあわい光の中で、兄がこちらに顔を向けたのが分かる。
「そう、とは?」
「里穂さんもおれが来れば喜ぶなんて、本気で思ってるのかってきいてるんだ」
 兄は少し笑ったようだった。笑われるようなことを言った覚えがなかったおれは鼻白んだ。
「あらかじめ言ってある」
 低い声は淡々としていた。なにを、と問いかけることも許さないような、断ずるような響きで兄が言った。
「『君は永遠に2番以下になるが、それでもいいなら結婚しよう』、と言った。そして彼女は了承した。つまり、おれの行動は――」
 起き上がって怒鳴りたくなった。でもそんなことをしたら、隣の部屋で寝ている里穂さんや月子さんに聞こえてしまう。おれはこみあげてきた怒りをやり過ごすために、鋭くて短い溜息をついた。
「一切制限されない。里穂がどう思っているかは全く関係ない。おれが「啓が来れば里穂も喜ぶ」と決めればそうなる。嫌なら婚約を破棄して別の男を探せばいい。おれは止めない。結婚したいのはおれじゃないから」
 殴りかかろうとしたおれの肩を掴んで、兄が覆いかぶさってきた。体格に差があるから、兄が本気でおれを押さえつけると身動きが取れない。自分もそれなりの力を持っていると自負していたけれど、この男の前では無力だ。
「地獄におちろ」
 声をおさえてそう吐き捨てると、兄は目を細めた。
「とっくにおちてる。お前のせいで」

 

 

 

***

 

 

 

 兄のてのひらは憧れの対象だった。
 子どものころはなかなか身長が伸びなかったおれと違って、兄の至は長身で、近所でも有名だった。まさに美丈夫という言葉がよく似合う男だったと思う。家の前や学校の前で、他校の女子生徒が待ち伏せていることも多々あった。
 それでも兄は、他人の視線にまったく注意を払わなかった。関心がなかったのだろう。唯一の家族だと言ってはばからなかったおれ以外を、兄は石ころか何かだと思っている節があった。
 だから油断していた。信じ切っていた。兄が自分を置いて、家を出るなど思いつきもしなかった。
「兄ちゃん、行かないで」
 そう言って泣いてすがりついたおれを、まさに絶望的な、それでいて少し喜びをにじませた顔で見ていたのは記憶違いじゃないはずだ。兄は、同情と切なさを(あの男にしては)目いっぱい顔に浮かべて、おれを強く抱きしめた。
「啓、泣かないでくれ。お前の将来のためにはこれが一番いいんだ」
 兄は給料が出るという理由で防衛大学校を選んだ。
 両親を亡くしてから、おれと兄は親戚の家に引き取られていたのだが、そこでは完全に厄介者扱いだった。生活に必要なものを買うことすら文句を言われながら暮らし、彼らの子どもからは見えない場所で嫌がらせを受けた。それは兄が、隠密に制裁を課すまで続いた。そんな家の中で、ひとりぼっちで置いて行かれるなんてあんまりだと思った。今でもあの頃のことを思いだすと頭をかきむしりたくなる。
「大学なんか行かなくてもいい。なんなら高校だっていかない。中学を出たらすぐに働くから、一緒にいてほしい」
 当時まだ小学生だったおれは、そう言って必死に兄を引き留めた。当時11歳だったので、論理的に兄を説得することはできなかった。
遠縁の親戚に引き取られてから、何かと理由をつけては両親の遺産を使いこまれ、おれの大学進学費すらない。それを知ってから、兄は突然防衛大学校へ進学すると言い出した。
つまり、おれの存在が兄の職業選択の自由を奪い、将来を決めてしまった――頼んだことは一度もないけれど。
兄さえ一緒にいれば、他の事はどうでもよかった。中卒でも高卒でなんでもいい。どうにだって生きていける。
兄はこの世に残された唯一の家族で、生きるよすがだと思っていたからだ。けれど、兄は首を縦に振らなかった。一度決めたら絶対に譲らない、そういう性格だと分かっていたから、おれは泣きながら絶望した。泣こうが、喚こうが、この男を止めることはもうできない、と悟って。

「あの家に置いていくぐらいなら、そこの川におれを捨てて殺してくれよ!!」
 

 駅に向かう兄は振り返らなかった。あのとき、おれは「捨てられた」のだ。

 

 

※※※

 

 

「嫌なら拒否すればいい。でも大きい声を出せば、里穂や月子が飛び込んでくるぞ」
 ことさらにゆっくりとパジャマのボタンを外しつつ、兄が言った。顔を背け、目を閉じる。
 こわかったのだ。拒絶して、あの日と同じようになってしまうことが。
「――いま付き合っている女はいるのか?」
 仰向けのまま、上半身を裸にされて、産毛が逆立つような心地がした。エアコンから流れてくる冷気のせいだけではなく、兄の指が表面をそっとなでるような強さで腹を、胸を撫でていくからだ。かさついた指の表面が乳首に触れたとき、びくんと身体が揺れてしまった。
「いたとしたら、また奪うのか」
「奪う?その言い方は正しくない」
 長年兄に片思いしていた月子さんは、兄が防大にいくために街を出た日、家に押しかけてきて一緒に泣いてくれた。思えばあれが異性を意識したはじめのきっかけだった。彼女のやわらかい身体と甘い匂いは、同級生のものと全く違っていた。
 家に居場所がなかった。酸素の薄い別の星に、裸で放り込まれたようだった。中学は義務教育で逃れようがなく、帰りたくないがために、月子さんの家に入り浸るようになった。
「月子さんにも興味なかったくせに。おれが彼女と寝た途端に……」
 月子さんと付き合いだしたとたん、兄が頻繁に家を訪れるようになったのだ。そして、高校2年の夏休みに――
「はっ、……んん、や、やめろ」
 指が胸の先を強く摘まんで引っ張る。痛みを感じて身をよじろうとすると、舌が執拗にそこを嬲った。
「お前がここを覚えたのは、月子の影響か?それとも次の女か」
 音を立てて吸われて、背筋がのけぞる。胸を押しあてるようにしてしまったことに気づいて、慌てて背中をマットレスにつけた。
「やっぱりあの日、我慢するんじゃなかったな」
 低いつぶやきに、頭の中が真っ赤に染まった。もう一度捨てられた日のことを思いだして、怒りで声が出ない。
「……ッ、んう」
 唇が首筋を通ってから顎を噛み、息を奪うように重なってくる。
あの日。
兄が帰ってきたあの日だ。確かあれは高2の夏休みだった。捨てられて、それでも忘れられなくて、月子さんに兄の影を見つけて縋り付いていたころ。彼女はおれに兄の影を探した。おれは彼女の中にいる兄の記憶を探した。お互いに兄の不在はあまりにも大きく、その穴を埋めるには身体を使うしかなかった。
突然返ってきた兄は、ベッドの上で怠惰な時間を過ごしているおれと月子さんをみて目を瞠った。
「おかえり至くん。ねえ、わたしたち付き合ってるの」
 彼女の宣言に、兄は、見たこともないほど歪んだ顏をした。
何も言わずに扉を閉めて出て行った兄をみて、おれと月子さんは顔を見合わせて少し笑った。捨てた者に執着するなんてどうかしている。そんな風に思っていた、夜、兄が部屋に来るまでは。

 官能的に這いまわる手のひらが、忘れて久しい欲情を引きずり出してくる。下着の上から、硬くなったおれのものをゆるゆると数度撫でられ、抵抗するどころか、全身から力が抜けていく。
「あの日と同じことするつもりかよ」
 自分の先走りで湿ってしまった下着の中が気持ち悪い。兄の手はやめるどころか次第に大胆になっていき、大きな手のひらは勃起したおれの性器を掴んで直接刺激しはじめた。くちゅくちゅという水音に耐えかねて顔を反らす。兄の唇は追いかけてきてまた息をとめてくる。
「おれがどんな思いでお前から離れたか……、あの日のことを繰り返し思いだして生きてきたか、」
 荒い息が耳に吹き込まれる。耳を舐られ、舌がいやらしく産毛を撫でた。
「お前には分からないだろうな」
 手のひらの動きが早くなった。声をおさえるために、枕の中に顔を突っ込む。腰が跳ねて、体中の血が下半身に集まって爆ぜた。
「あ、もうはなせっ、いくっ」
兄の手のなかで射精してしまった事実に呆然とした。枕から顔を正面に戻すと、兄が、暗闇の中でも光って見えるほど獰猛な目でおれを見おろしていた。
「月子を殺してやろうかと思った」
 下着とズボンをずらし、そそり立ったものを取り出した兄は、膝立ちで自分の性器を擦り始めた。逃げればいいのに、おれはそれを見つめていた。赤黒く脈打つ兄のものから目を離せなかった。
「だから月子と付き合った。あいつがおれに恋愛感情を抱いていることは分かっていた。長年身体を利用するだけして、結婚を期待し始めた頃に捨ててやった」
 心に火が点いたのが自分でも分かった。許せない。
「人の心をなんだと思っているんだ、人間の屑め」
 そう罵ったおれに、兄は笑った。それはそれは幸福そうな笑みだった。
「小さいころに教えただろう?――啓、お前以外の人間なんか、みんな虫けら以下だと」
みるみるうちに極限まで滾ったそれを、だらしなく足を開いたまま脱力しているおれのものに擦りつけてくる。見るものを魅了する、男らしくて美しい顔は、情欲のせいか、獣じみていた。
「や、擦るな……やめろ、ああっ」
 兄は自分のものとおれの性器をひとまとめにして握り、加減もせずに上下に擦った。さっき手淫されたときよりもはるかにいやらしい音がしてきて、あっという間に息があがってしまった。ぬじゅ、ぐちゅ、ときいたこともないような音に耳から犯されているような気がした。
「ずっと触りたかった」
 やめろ、と叫びたいのに声にならない。突き飛ばそうと兄の胸をおしていたはずので腕は、いつのまにか首へとまわされていて、髪をかきだいてしまう。
 体中が発火しそうなぐらい熱かった。したたり落ちてくる汗が、首元を濡らす。兄の匂いがした。どれほど目をそらしても瞼をとじても、目で犯されていることがわかった。目で、耳で、皮膚で、五感のすべてで兄は自分を犯している。1秒だって取りこぼさないように、と注意深く、執拗に蹂躙されていた。
 ふたたび上り詰めるのに、ほとんど時間はかからなかった。さきほどよりも強い射精感がこみあげてきて、息を吸うこともできずにはくはくと口を開閉した。酸素が足りない。あまりの快楽に、目の前がちかちかした。
「決めたんだ」
 興奮のせいか、上ずった声で兄は言った。

「啓のいない世界に生きるぐらいなら、地獄を選ぼう」
 
  

 

 

****

 

 

 

 

 澤村の視線を感じる。普段にない、好奇心に満ちた視線だ。
「この家か」
 理由は分かっていたが、訊かれたくないので仕事の話をした。澤村は眉を上げてからすぐに車を停め、いつもの狼の目で窓の外を見た。
 内偵は車で行うことが多いが、ぼんやりと何もせずに家を眺めていたら不審者として目立ってしまい、最悪通報されてしまうので、お互いに携帯端末を眺めているフリをしたり、シートを倒して寝ているフリをしたりしながらその家の出入りに目を光らせる。
「被疑者が言ってた『エレナ』の家はここで間違いないんだよな。人の気配ないぞ」
 あくまで視線はスマホと家に置きながらおれが言うと、頭の後ろで手を組み、寝たふりをして家を観察している澤村が少し笑った。
「疲れてんすか?さっき2階で人影動きましたよ。榮倉先輩らしくないっすね」
 1階の窓はすべて黒いごみ袋とガムテープで養生されていて中が見られないようになっている。それだけで十分異常だが、電気のついていない家の中に人影があるなら、『何かあります』といっているようなものだ。
「公安がなんか情報持ってそうだなと思ってちょっと知り合い当たってみたんすけど、ダメでしたね。アリ一匹分の情報もくれやしなかったんですが……ひとつわかりましたよ。連中が嫌に神経質になってるってことは、今そこがホットってことです」
 『エレナ』というのは偽名だった。坂田が言っていた『エレナ』は、宗教団体『ひかりの家』の創始者である宇治田和夫の三女で、本名は宇治田麗奈という。現在14歳で、保育園の4歳児クラスの夏頃から登園しなくなり退所している。小学校は1年生のこれも夏休みごろまで登校していたが、その後は不登校。中学校に至っては一度も登校しておらず、教諭が何度も家を訪ねているが、毎回不在だった。
「ホット?別件で引っ張ろうとしてるってことか?」
 だとしたらまずい。公安の案件と少年事件の案件では、強さと優先順位が異なる。子どもの命がかかっている、と主張したところで、現状何の証拠もない。虫でも追い払うようにされるかもしれない。
 周辺の住民からたびたび「異臭がする」「夜中に人が出入りしている」「変な声が聞こえてきて気持ちが悪い」「大声、悲鳴が聞こえる」など苦情が絶えず、幼対協に登録されていて見守りが必要な子どもとされていた。児童相談所、警察も家を訪ねているが毎回不在。手紙にも応じず、電話は通じない。何度か立ち入りもされているが、毎回両親のみで子どもの姿がなく保護には至っていない。何を訪ねても「祖母の家にいる」「家を出て行ってみつからないが、そのうち勝手に帰ってくる」などと答える。
 内偵の目的は、被疑者の出入りや関係者の状況把握以外にも、活動時間の把握が重要だ。取り調べしようにも捕まえられなければ意味がない。
「任意には応じないだろうな。令状がいる」
「現状無理っすね。まだ何も起こってないんで」
 ガリガリにやせて、妙な儀式に参加させられて逃げ出した、その隠れ場所がガールズバーだった、という坂田の証言だけでは確かに難しい。本人を保護し、話を聞かなければ。
 内偵を開始して4時間が経ったころ、交代の時間が迫ってきて気が緩んだのか、澤村が「榮倉先輩もそういうのするんすね」と軽口をたたいてきた。
 相変わらず人の出入りのない家から目をそらさずに答える。
「何だ」
「耳の裏に痕のこってます。いや~なんかちょっと安心しましたね。榮倉先輩も男なんだな~」
 説明のしようがないので黙殺していると、澤村はあくびをしてから目を閉じた。
「あんまり楽しそうじゃないですけど、それ恋愛ですか?」
「セックスと恋愛って関係あるか?お前はどうなんだ」
 質問に質問で返すのは分かりやすすぎるかな、と逡巡したが、澤村は乗ってくれた。これもこいつなりの気の遣い方かもしれない。
「おれダメなんすよね。恋愛とかそういうの」
 交代要員からメッセージが入ってきた。澤村は身体を起こし、ハンドルを握ってゆっくりと発進した。
「資格ないんすよ。誰かに愛されるとか愛するとか、良く分からないっていうのもありますけど、おれは誰にも許されちゃいけないし、許しちゃいけないって思ってるんで」
 軽い言い方ではあったが、内容は重いものに聞こえてしばらく何もいえなかった。交差点を曲がり、大通りに出ると、澤村はハンドルに顔をのせて溜息をついた。
「特定の誰かと付き合ったりしないのはそういう理由です。執着されても何も返せないし。――でも榮倉先輩は違うでしょ。意外と情が深いってか、一度面倒みたらとことんって感じでしょ。気を付けた方がいいですよ。人のやさしさに付け込んで思い通りにしようとする、そういう人間あふれてますんで。やつらは善人のツラして愛だの恋だのぬかしますけど、自分を埋めたいだけなんですよ。自分の穴をね。なんでもいいんです、利用できたら」
 こちらを向いた眼はやはり狼のもので、けれど少し寂しそうにみえた。澤村のこんな表情をみたのは初めてだった。
「今日は夜飯一緒に食いましょうよ、榮倉先輩のおごりで」
 澤村は確かに得たいの知れないところがある。けれど、やさしい。押しつけがましくない、適度に離れたやさしさだ。それが今のおれにはとてもありがたいことだった。
「一服亭だな」
「ラーメンかよ」
 踏み込んでこないやさしさには同じように返すことにしている。おれは澤村の足音がほとんどしないことや、異常に頑丈なこと、体術が独特で、少なくとも日本の武道ではないことが気になっていたが、何もきかないと心にきめた。
 車の窓を開ける。冷たい風が、アスファルトとゴミの匂いをさせながら車の中を通り抜けていった。