世界の終わりに見る夢は

7.

 覚えているのは換気扇がまわる耳障りな音だ。
 電気がしょっちゅう止められていたのか、部屋は常に薄暗かった。
『愛想のないガキだ。本当にこんなやつでいいのか』
 髪をつかんで持ち上げられる。この頃、毎日のように全身のあらゆる場所が痛んでいたので、首を無理に持ち上げられる痛みは軽微なものに感じた。
『身体能力値が高いらしい。あと、耳がいい』
 ドアの近くで誰かがそう話しているのが聞こえる。確かに、おれは耳が良かった。様々な音声を瞬時に聞き分けることができた。
『しかし、あの計画は正気なのか?誇大妄想としか思えんがな』
 持ち上げた頭を突然手放されて、床で顔を打った。これも普段の痛みに比べればたいしたことはなかった。
『ボスに聴かれたらまずい』
 まあいい、と男は下卑た笑みで浮かべた。そして汚らしい舌を見せた。
『アジア人の子どもは肌がきれいで楽しめるからな。好きにしていいなら合間合間で仕込んでやるよ』
 相手の男のため息がきこえた。
『楽しむのは自由だが、任務は全うしろよ。あと、殺すな』
『分かってるとも。――До свидания』
 さようなら。男はそう言ったのだ。
 ロシア語。そうだった。記憶に残っている。一番はじめに覚えた言語はロシア語だった。

 殺人の記憶はどれも鮮やかだが、特に心地良く何度も思い出すのはあのロシア人を殺した時のことだ。
 男はダニールと名乗っていたが、偽名だろう。生活に不便なのでダニールと呼んでいたが、おれが名前を呼んでも虫けらを見たような不快な顔しか見せなかった。だが仕事には忠実だった。ボスが恐ろしかったのかも知れない。男は段階を追って、おれにナイフを教え、銃を教え、ロシア語を教えた。家から一歩も出さずに、ありとあらゆる格闘術をたたき込んだ。そして気が向けばおれの尻を使って好き放題した。男は幼児性愛者だったため、あるとき突然抱かれなくなったが。
 家を抜け出すのは容易かった。だがおれはそうしなかった。家の周りに広がっているのは果ての見えない森で、迷い込んだが最後、狼の餌になるしかない。
 家は広く、倉庫のような作りをしていた。ひどく長い冬が終わると、つかの間の春と夏がやってきて、またすぐに雪に覆われる。睫毛が凍るほどの極寒の中で、何度か足の指が深刻なしもやけになった。逃げ出した後は死の淵をさまようほどの折檻を受けたので、逃げるのは利口じゃない判断なのだとすぐに悟った。力を蓄えるほかない。生きるためには。そうしておれは逃げることを諦め、目の前の訓練に明け暮れた。
 絶望的な状況にもかかわらず、生きることに執着していた。分からないことが多かったせいだ。自分の名前も、生まれ育ちも、なぜここにいるのかも分からない。軍事的な訓練を受けさせられていることは次第に分かったものの、理由はまるで分からなかった。
 知りたかった。なぜ、という言葉が頭の中で爆発しそうだった。自分は何者なのか。なぜ、なぜ!
『仕上がりはどうだ』
 組織の使いである男――名前は知らない――がドアの前で問いかけてくる。この男はしばしば家を訪ねてきたが、椅子に座ることも、飲み物を飲むこともなく、ただ進捗だけを確かめて消える。今日もそんな様子だった。
 問われたダニールは灰色の目をわずかに細めて言った。
『いつでも使えるぞ。はじめにキルギスか?』
 相手の男は返事をせずにおれを見た。そう、確かにおれを。そして低い声で言った。『証明しろ』
『なんだって?』
 ダニールは意味が分からないようだったが、おれには分かった。
『お前が本当に使える道具になったのか、自分自身で証明しろ』
 男の銃がこちらを向いたのと、おれがダニールの顎に拳をたたき込んだのはほぼ同時のことだった。どんなに鍛えている人間でも顎を殴られると脳が揺れる。それは鍛えようがない人体の反射だ。脳が揺れて足下がふらついたダニールに、ノーモーションで打撃を打ち込む。右、左、右。揺れる波のように、少しずつ威力を上げる。動きは止めない。おれを狙っている銃口の方は見ない。
 ダニールが反撃に転じる。腰元からナイフを抜こうとするのを、高い打点の回し蹴りで防ぐ。獲物を持たれると面倒だ。それに何よりも、おれは素手で殴りたい。打撃は気持ちがいいものだ。いままで打たれる一方だったならなおさら。
 拳ごしに、骨が砕ける感触がする。ダニールの鼻が折れ、鼻血が噴き出す。信じられない、という顔が心地良い。自分が武道を教えた、尻の穴をたまに使うだけの汚いガキに、まるで肉塊のように殴られることが理解できないという顔。おれは動き続ける。波の動きだ。ダニールが教えた。絶対に止まるな、と。深い呼吸も止めない。緊張も興奮もすべてがおさまる深い呼吸。この武術の神髄たる呼吸と波の動き。
『いいぞ。とどめはどうする』
 男が言った。おれはこのまま殴り殺したかった。ぐにゃぐにゃの肉塊になるまでひたすらに殴りたかった。だがそれはおれの拳にも深刻なダメージが残る。
 立っているのがやっと、という状態のダニールを蹴って、ナイフの場所まで飛んだ。こいつが落としたナイフだ。逆手に持ち、ダニールが襲いかかってくるのを待つ。叫び声を上げながらダニールが駆け寄ってきた。その目にはすでに敗北が浮かんでいた。おれを恐怖している目だった。
 ダニールのでがおれの首をねらって伸ばされるのを弾き飛ばし、逆手に握ったナイフで頸動脈を断ち切る。おびただしい量の血を流しながら、ダニールが崩れ落ちた。
『ナイフか。悪くない。やはり遺伝的素質は素晴らしいな』
 男は拳銃を倒れているダニールに向け、3発撃ち放った。頭に2発、心臓に1発。確実に葬るために。
『グラッチは悪くない銃だ。お前にやろう』
 投げて寄越されて、慌てて拾う。ずっしりと重く、そして熱い。
 おれが顔を上げると、男はわずかに唇の端を持ち上げてみせた。
『ようこそ、我々の組織へ。――地獄に落とされた方の、気の毒な片割れの子よ』