世界の終わりに見る夢は

2.


「弟」ができたとき、またか、と思った。
 また両親の大好きな「実験」が始まったのか、と。
「弟」ができるのは初めてではなかった。両親は時々「今日からしばらくこの子があなたの弟になるよ」と言って、見たこともない子どもを連れてきた。その度、おれは彼らの存在を無視して、ないものとして過ごした。両親の酔狂に本気で付き合っていたら疲れるからだ。今まで連れてこられた「弟」は、みんな情をうつしたころ、突然いなくなった。何度もそういうことが繰り返されると、自然と距離を置くようになる。
 今度の「弟」も同じだと思っていたのに、啓のときは違った。記憶を掘り返してみても、母親の腹が大きくなっていたかどうか覚えがない。両親は研究を生業としていたので、海外を飛び回っていたし、本当に自分たちの子どもだと言っていたから、これまでの「弟」とは違って産んだのかもしれない。そうじゃないかもしれない。出産の場にいたわけではないのでよく分からない。
 弟は俺と対になる名前を与えられ、愛情を注がれて育った。赤ん坊だった啓はすくすくと育ち、人目をひく美しい子どもになった。

 ※※※

 おれが休憩から帰ってくると、ちょうど入れ違いで取調室から澤村が出てきた。頭を掻きながらあくびをしていて、その表情はいまいち冴えない。
「カンモク(完全黙秘)か」
 問いかけると、澤村が目をしぱしぱさせてからへらりと笑った。顔立ちは端整で甘えたな犬っぽいのだが、眼だけが狼のように鋭いままおれを見る。
「ちょっとずつ話してくれるようにはなってきましたけど、それに近いす。なかなか手ごわい。弁護士ついたから余計すかね」
 軽い物言いだが、澤村が落とせないのは珍しい。澤村は実に鮮やかに被疑者を落とすのだ。雑談を経由して同じ質問を少しずつ変えてしつこく聞いてみたり、また全く無関係な雑談で盛り上がったり、そうして油断させて揺さぶりをかけながら、相手の発言の違和感や齟齬を見つけ、突いていく。
「まさかあんなに早く弁護士つけるとは。金持ちの子どもってアレっすね~。ま、ここからは榮倉パイセンの腕のみせどころってことで。よろしくオネシャス」
 オネシャスってなんだよ、と眉を寄せつつ、休憩に出た澤村と入れ替わりで取調室に入る。おれの調べも澤村と似ているが、時系列の整理や矛盾を突くしつこさは澤村からも「蛇みてえ」と言われる。褒められているのか、けなされているのか分からないが。
 それにしても、逮捕してから数時間で弁護人(※刑事事件において職務を行う弁護士の呼び方)が付く、というところに、なんとなく嫌な予感を覚える。もしかして、と、まさかな、を繰り返しつつ、取調室に入った。

 澤村の書いた供述調書を見て指摘したり、直させたりして、結局署を出たのは21時過ぎになってしまった。班長にも、他の先輩にも、『お前は澤村に甘い』とよく言われる。自分でも自覚がある。おれは、澤村が文字を書いている姿に弱いのだ。成人男子とは思えないほど不器用でへたくそな字を、デカい背を丸めて懸命に書いている姿をみると、なんともいえない切なさで胸がいっぱいになってしまう――本人に伝えたことはないが。
 おそらく、子どものころの「あのこと」を思い出すからだ。朧気な記憶の中で、必死で字を習う自分と年の変わらない子どもの姿が脳裏に浮かんでくる。そう、顏も背格好も全く似ていないのに――
「榮倉先輩、鍋セット買って家でやるってのはどうすかね」
 白ネギを握りしめたままぼんやりしていたので、澤村の声にはっとして顏を上げた。
「いいな。それならお前も食うものがあるし」
 行く予定をしていたおでん屋は臨時休業中だった。困ったおれたちは、夜遅くまで開いているスーパーで、すでに切られた状態の鍋野菜セットを買って、一緒に帰路についた。実はおれの家は澤村の住んでいるアパートの真向かいにあるのだ。どちらもボロイ単身者向けの木造アパートだが、警察の上下関係が抜けない独身寮にいるよりは何倍もマシだった。
「明日も早いから酒はなしだな」
「つまんねえなあ。やっぱあのガキ殴って吐かせたいわ~」
「とんでもないこと言うな。クビで済まないぞ」
 声に心配がにじんでいたのか、澤村が肩を揺らして笑った。
「しませんて。榮倉先輩に迷惑かけるのはありよりのナシなんで」
 澤村の肩を無言で殴ると、いてえ~と全く痛くなさそうなのんびりとした声が返ってきた。
「ナシよりのナシにしろよ。口の中にあつあつのこんにゃく放り込むぞ」
「それだけは勘弁」
 するどい目がすこしだけ細められる。澤村は人に恩義を感じるとか、忠誠心を持つようなタイプの人間ではないし、おれにも特に懐いているというわけではない。嫌なことははっきり嫌だという(業務外では)ので、おれにとってそれが心地よかった。
 警察というのは風変りな組織だ。警察学校からして異常者でないと続かないのでは?と思うほどきつい環境で、外部との連絡手段を断たれ、男ばかりの環境に半年以上監禁されてひたすらに無意味な集団行動や運動に貴重な時間を費やされる。その後の仕事にしたってそうだ。目的や目標のない人間はどうやって続けているのか疑問しかない。
 仕事の相手は犯罪の被疑者ばかり。市民からは苦情の嵐、マスコミには目の敵にされ、臭い汚いキツイの3K職場だといって差し支えない。おまけに公務員だというのに年休なんか使ったことがないし(代休すらたまっていく)、労働基準法がはだしで逃げ出すブラック企業である。
 そのせいなのか、キツイ仕事を一緒にこなしていく仲間との絆は、どうしてもほかの仕事よりも深まりやすい気がする。この仕事に就く前にいくつかアルバイトを経験したけれども、どの仕事でもこの仲間意識、連帯感を持ったことはなかった。

 澤村のアパートは常に片付いている。というよりも、物がほとんどない。間取りはおれの部屋とそっくりで、畳8畳のワンルームに標準的な設備がついている。風呂や台所、トイレだけはリノベーションされていて新しいところまでそっくりだ。そこまでしたなら部屋もフローリングに変えてほしいものだが、その分家賃が安いし、布団は週末干す以外敷きっぱなし、家は帰って寝るだけという環境のおれたちにとって都合がよかった。
 勝手に石油ストーブの電源をつけ、部屋を暖める。手を洗って居間に戻ってくると、澤村が部屋の真ん中に丸いテーブルを出して、鍋や電磁調理器を置いたところだった。
「澤村、先に布団を片付けろ」
 部屋の隅に敷いたままになっている布団には触りたくない。というのも、枕元に使用済みのコンドームや丸めたティッシュがそのままになっていたからだ。
「はーい。あ、あいつわざと下着忘れていったな。捨てちゃお」
 ゴミ袋をもってきて、周辺のごみや女が置いていったらしい下着をごそごそと捨てている。おれは背を向けて鍋の準備をした。
 澤村と女の話をしたことがないが、相当だらしないことは間違いない。なにせ寝る相手には困らない様子なのに、「付き合っている人間はいない」と平然と言ってのけるからだ。このままだといつか上に目をつけられそうで、先輩としてハラハラしている。
「片付けました。酒…はダメなら水でいいっすか」
「買ってきたのを飲むから、いい」
 そうすか、と澤村が言って、使い捨ての皿や割りばしを渡してくる。箸やお椀を買うという発想は持ち合わせていないらしい。同じように多忙なので気持ちはわかるが。
「先輩でも無理でしたか」
 あらかた鍋の中身を食べつくしたあたりで、澤村が言った。食事の間中、無意味な笑い声だけがあふれているバラエティ番組がついていたのだが、チャンネルを回してニュースに変えた。
「弁護士が誰かってことは分かったけどな。多部月子だよ」
 おれの言葉に澤村は天井を仰いだ。気持ちはわかる。
「ええー……、先輩の元カノめんどくさいんだよなあ。なんであの人、少年事件ばっかりやるんすか。おれらの関係ないところで華麗に活躍してくれりゃあいいのに」
「おれの元カノじゃない。兄貴の元カノだ」
「どっちでもいいすよ。とりあえず面倒だってことに変わりないでしょ。はあ……。まーたギャーギャー騒いで刑事処分に出来ねえかも。今回の被疑者、年齢もぎりぎりだしなあ」
 しばらくの間、『多部月子』の話題で盛り上がった。確かに面倒な相手ではあるが、おれは彼女のことを嫌いではない。――いや、どちらかというと好きな部類に入る。何しろ、自分の童貞をささげた相手だ。特別といってもいいかもしれない、彼女にとってみれば一度入っただけの近場の食堂という程度の認識だろうけど。
「あ、いま初カノの思い出に浸ってました?」
「うるさい。付き合ってない、おれは弄ばれただけだよ。…結局兄貴にとられたんだからいい思い出なわけないだろ」
 おれの苦い声に、澤村が声を上げて笑った。珍しいが、笑うとあの狼の目が形を潜め、あどけない感じになるのでおれも楽しくなって、少し笑った。

 道路を挟んで正面にある自分の家に帰るだけなのに、玄関で澤村が「気を付けて」と言ってきたことにびっくりした。今まで何度も食事を共にしてきたが、こんな言葉を言われたことがない。
「なんでだよ。すぐそこだぞ」
 革靴を履き、上着に腕を通しながら言うと、澤村が目を細めた。
「これ言うと榮倉先輩怒るかなと思って言わなかったんすけど、あなた男そそる顔してますから。気を付けたほうがいいっすよ、こういう冬の暗い夜なんかは」
 顔をしかめると、澤村が「ほら、怒るでしょおー」とおどけた。
「おれがどれほど強いか知らないなら思い知らせてやる」
 自分のどこが『男をそそる』のかさっぱり分からなかった。髪は短いし、顔立ちだって兄ほど整っていない。優しい目の形をした兄は、誰もが認める美丈夫だったが、おれは目尻がつり上がっていて地味な顔で、愛想がいいとも言い難い。
「極真空手の師範代でしたっけ?まあ、おれよりは弱いっすけど」
 無言で澤村の太ももを蹴ってから、アパートを出た。本気で蹴ったのに、澤村は全くダメージを受けた様子がなく、それがまた癇に障った。あいつは一体何者なんだ。
 空は曇っていて、空気が冷たかった。上着のポケットに手を入れて道路を渡り、自宅の鍵を探る。振り返ると、まだ澤村がこちらを見ているような気がしたが、当然気のせいだった。あいつは人との別れを惜しんだりしない。
 鍵を取り出してから、ようやくドアの前に人影があることに気づく。
「連絡ぐらい、してから来いよ……」
 家の前に兄が立っていた。
 精悍な美丈夫は柔らかく微笑み、「相変わらず一人身か?こんなボロ家に住んで」と言った。
「余計なお世話だ」
「いれてくれ。立ち話もなんだろう」
 確かに外は寒い。それにこんなところで兄と言い合うなんて年でもない。
 ドアを開け、無言で中へと促す。久しぶりに会った兄、至(いたる)は、じろじろと家の中を眺めまわしながら靴を脱ぎ、居間にどすんと腰かけた。
 できすぎた兄だった。何でも持っていた。だからこそ、相談なしに決められた兄の進路と、あの日あった出来事が許せずにいる。
 おれは無言でコーヒーを淹れた。兄がこちらをじっと見つめているのが分かって、ただ湯を注ぐだけなのに緊張した。昔からそうだ。兄の視線は執拗で、容赦がなく、隙もない。
「ミルクも砂糖もいらねえんだろう」
「ああ、ありがたいよ」
 エアコンのスイッチを入れる。暖房をつけても効いてくるのは30分後になるが、この家にはそれ以外の暖房器具がないので仕方がない。
「那覇からノンアポで来るなんてどうかしてる。おれが当直だったらどうするつもりだったんだ」
 おれの言葉に兄がカップから顔をあげてこちらを見た。相変わらず、憎たらしくなるぐらい整った顔だった。自衛官らしく黒髪は短く切られていたが、それでもなお精悍で、美しく、野性的で……。昔から女という女はみんな兄を好きになった。そう、初恋の女性、月子さんもそうだった。
「異動になった。これからは同じ町に住むことになるから、その挨拶に来た。ついでに、引っ越し先の部屋が余っているからお前も一緒に住まないかと」
「なんだって?」
 声が裏返った。兄と一緒に住む?ありえない。
「お断りだ。17年前……、アンタは何の説明もせずに勝手に家を出ただろ。あれからおれが、あの家で、どんな思いで暮らしていたか分かっているのか?絶対に嫌だね」
 そうだ。17年前、何の相談もなく家を出て行ったくせに。よくもこんなに都合のいいことが言えたものだ。どれほど泣いて止めても、あんたは背を向けて出て行っただろう。他人しかいないあの家にたったひとり、叔父の子どもと常に扱いに差をつけられ、たとえそれが義務教育でも、金がかかるたびに溜息交じりに嫌味を言われて、どれほど泣いても誰も助けてはくれなかった。
「……、こっちを向いてくれないか」
 兄と目を合わせたくなかった。きっと目を見られたら、すべての感情を読み取られてしまう。だからおれは目をそらし、うつむいたまま言った。
「帰ってくれ。もうここへは来るな。いまはおれなりに、ひとりでなんとかやれてるんだ。両親が殺されて、アンタが家を出て行った日から、おれに家族はいない。いなくなった。そう思って生きてきたし、これからもそのつもりだ」
 手のひらが伸びてきて、無理やり上を向くよう促された。いつの間にかすぐそばに来ていた兄が、膝立ちになって座っているおれを上から見下ろしている。
「まだバカげたことを考えているのか?」
 振り払おうと思えば簡単なのに。おれはその手を払いのけず、至近距離で兄の目をみた。悲しげな表情を浮かべ、ゆっくり動く唇と、その奥にある赤い舌。ぞくりとしたものが背中を駆け上がってきて、唾を飲み込んだ。そう、あの日、兄はあの唇で――
「ああ。この仕事をしていれば、いずれ必ず情報が入ってくると思っていたからな。犯人を見つけたら、この手で殺してやる」
 そうでなければ裁かれない。なぜなら、犯人はそのころのおれと――つまり、9歳だった自分と――年が変わらない子どもだったからだ。今更捕まえたところで、彼は当時の年齢に照らし合わせた裁きしか受けることがない。つまり、刑事処分に処せない。この手で殺すしかないのだ。
 手のひらが頬をなぞってから髪の中へと侵入してくる。オールバックにしている髪をくしゃくしゃにほどかれ、前髪が額に落ちた。
「お願いだからやめてくれ。両親はあの日、死ぬ運命だったんだ」
「よくそんなことが言えるな!」
 今度こそ手を振り払って立ち上がった。死ぬ運命?ナイフで見知らぬ子どもに惨殺されて?そんなものが、そんな運命があってたまるか。
「お前が知らないだけで、父と母は、」
「聞きたくない。今すぐ出て行け」
 ドアを指さすと、兄はしばらくその指をじっと見ていた。それから緩慢な動きで立ち上がった。
「啓」
「出てけって言ってるだろ」
 感情の読み取れない顔で兄がこちらを振り返る。彼はスーツではなく私服で、靴はスニーカーだった。白いコンバースだ。年の割に若い靴だと思ったが、不思議とよく似あっていた。
「まだひとりで夜飯を食えないんだろう?いつでもうちへ来い。それなりのものを食わせてやるから」
 力任せに突き飛ばす前に、兄はドアの外へ消えた。そのドアをじっとみつめてからその場にしゃがみこむ。
「なんなんだ今更」
 息が苦しかった。もう忘れていたのに。忘れていたかったのに。
 兄が崩した髪を自分の両手でかきむしる。あの指の感触は、否応なしにあの日を思い出させた。
 泣いて引き留めたおれの腕をとり、苦しそうに兄は言った。
『お前のためなんだ、啓。お前に不自由な思いをさせたくない。大学に行って、好きな仕事を選んでほしい……、警察以外の』
 知っていた。分かっていた。兄がおれを置いて防大にいったのも、そこで必死に出世したのも、すべておれのためだった。

 そのことが、死にたくなるほど苦しかったのだ。