世界の終わりに見る夢は

1.

 正義とは何か。
 悩んだときにいつも思いだす言葉がある。

「人は、自分にこそ正義があると信じ込んだとき、もっとも危険な存在になる」
 兄の大きな手のひらが、おれの髪を撫でた。兄と唯一似ている、かたくて真っ黒な髪を黙って撫でてから、眼を細めて笑った。
「それぞれに『正義』がある。お前が犬を虐待していた男に怒りを覚えて石を投げたのは、お前にとっては正義かもしれないが、男にとってはただの暴力になる。分かるか?」
 近所の公園で犬を散歩させている若い男が、たびたび蹴ったり、殴ったりしていることを腹に据えかね、飼い主らしき男に石を投げたことがある。男は額が切れて血が出てしまい、兄に頭を下げさせることになってしまった。男は家の近所にある建設会社の下っ端で、社長の犬を散歩させる傍ら、ひそかに虐待をくわえていたということが分かったのだが、社長らしき男も犬にまるで気を払うそぶりはなく、男がクビになって終わった。
「ぎゃくたい、って何」
 兄の大きな手に引かれ、河川敷を歩きながら問いかけた。兄はことさらゆっくり歩いていた。いつもそうだった。7つも年が離れていたし、大柄な男だったので、当時7歳になったばかりのおれと歩調を合わせるのは大変だったと思う。けれどそんなことは微塵も感じさせず、穏やかな笑みを浮かべて一緒に歩いてくれた。
「ああ、啓(ひらく)にはまだ難しかったか。いじめることだよ。男が犬をいじめていて、それに腹を立てて、啓は石を投げたんだろう?」
 おれは黙って頷いた。それから兄の指を強く握った。
「犬は何も悪いことしてないのに、あいつは何度も何度も蹴ったり、殴ったりした」
 日常的に虐待をくわえられていた犬は、何か所も毛がはげたところができており、おどおどとした目で人を見た。かわいそうでならなかった。
「あいつも痛い目にあえばわかるとおもった。おれは正しいことをした。謝りたくない」
 兄は他人に対して口数の多い人間ではなかったが、おれに対してはよく声をかけ、心を砕いてくれた。両親のことがあってから他人と口を利かなくなってしまった1年間、兄は根気強く話しかけ続けた。天気の話や、学校の話や、今日は何を作るか、などを。
 立ち止まったおれと視線を合わせるために、兄はアスファルトに膝をついておれをじっとみつめた。その視線は透明で、おれを責める色なんて全く見当たらなかった。当時こんな目でみてくれるのは兄の至(いたる)だけだったから、涙が込み上げてきた。絶対に泣くまいと思っていたのに。
「わかるよ、啓。おれの正義と啓の正義は、全く同じじゃないけど良く似ている。だから安心していい。世界中の人間がお前を悪い人間だと言ったとしても、おれだけは絶対に啓の味方だ」
 でも、ケガをさせてはいけない、とやさしい、諭すような声で兄が言った。
「石を投げた瞬間に、啓も犬を蹴ったヤツと同じになってしまった、そう世間の人間は見るんだよ。お前の正義は誤っている、なぜならお前も人を傷つけたから。そういう風になってしまうんだ」
 おれの頬に流れ落ちた涙を親指で拭い、真剣な表情に変えて兄が言った。
「今のは『タテマエ』ってやつだ。自分の命に危機が迫ったときは、遠慮なく暴力を行使していい。いや、むしろ殺したっていい。啓より大切な命なんてないからな。容赦なく相手を殺してしまえ。どうせお前以外の人間なんかみんな虫けら以下だ」
 やわらかい声で恐ろしいことを言われて、おれは怯えた。兄はおどけて「なんてな。冗談だ」と言ったけれど、その声はまるで冗談にきこえなかった。
「自分の正義を信じすぎるのは危険だ。特に怒りと絡んだ正義は間違えを起こしやすい」
 目を伏せた兄のまつげの隙間から、自分とは異なる、目尻のやさしいダークブラウンの目がのぞいていた。
「戦争がそうだ。正義と正義がぶつかり合うから収拾がつかない」
 ひとりごとのようにも聞こえたけれど、そのときのおれにはまだ難しくて首を傾げることしかできなかった。
「正義とは何か、一体それは何のための、誰のための正義なのか、常に自分に問いかけるようにするんだぞ」
 それが、ひとを正す仕事に就くものの義務だ。
 警察官になると決めていたおれに、兄はそう言った。それから10年以上経ち、警察官になった今でも、この言葉だけは忘れずにいる。

※※※

 仕事の合間に空を見上げていると、後輩の澤村がいつも同じ問いかけをしてくる。
「あの辺の空に榮倉主任のお兄さんいますかね」
「んなわけあるか。那覇にいるのに」
 その前は三沢、その前は千歳。兄がいた基地も乗っていた戦闘機の種類も知っている。今はF2に乗っていて、厳しい情勢が続く南西空エリアで年間600から700回のスクランブルをこなしている。
 兄から聞いたわけではない。兄の至(いたる)は、弟のおれに仕事の話をしたことがない。嬉しそうに近況を教えてくれるのは、兄と高校の頃から付き合って半年前に別れ、いまや親友になったという元恋人の月子さんだった。
 今日も遅くなるんだろうなあ、と嫌そうな声で澤村が言った。
「パクるからな。まあ日付が変わる前には終わるだろうけど」
 パクる、とは逮捕することの隠語だ。澤村は大して面白くもなさそうにヘラリとした笑みを浮かべ、冗談とも言い切れない声色で「殴って、脅していいならもっと早くゲロさせられんのに」などと怖いことを言った。
 澤村巡査は直の後輩にあたるのだが、任官後、初めて配属された地域課で半年間だけ一緒に仕事をしたことがある。飲み込みが早く、頭の回転も悪くない。何より身のこなし、身体能力が人並はずれた男だ、という印象だった。包丁を持った犯人と対峙してもまるで動揺せず逮捕していたし、シャブ中男に職質をかけたとき突然発車した車に引きずられたことがあるのだが、その時だってへらへらと笑っていた。そして驚くべきことに、腹筋の力だけで下半身を持ち上げて窓を蹴破り中に入ったのだ。想像できるだろうか?体育の授業でやった「後転」の足を伸ばした状態、これを走る車にぶらさがりながらやってのけ、その足で窓をけ破って運転席に入ったのである。おまけにケガひとつしなかった。
澤村と関わったことがある人間はみな口々に「あいつの目が怖い」と口にする。隣でのんきにあくびをしている澤村の目は、優男然とした、(それでいて軽薄な)表情の中で、唯一乾いていて抜け目がないように見える。
「主任、今日おでん食って帰りましょうよ」
「お前さ、行っても毎回ちくわぶしか食わないだろ。なんで誘ってくるんだ……」
「おごってもらえるからすかねえ」
「せめて大根ぐらい食べろ。おでんへの冒涜だ」
 冒涜って、と可笑しそうに背を丸めている澤村は、『怖い』人間にはまったく見えない。
「急に寒くなってきましたし、おれはちくわぶさえあれば満足なんですが……分かりました!こんにゃくも食います!!腹が冷えますけどビールも飲みますから!」
 一般的なセダンの助手席に乗り込み、隣の澤村の頭をはたいた。
「しぶしぶ付き合ってやってるみたいな言い方するな、頼んでない」
 笑いそうになるのをこらえて、さっさと出せ、と命令する。警察組織は筋金入りの縦割り社会だから、年齢が同じでも採用も階級も上のおれに、澤村は逆らえない。
「パクれどもパクれどもクソガキいなくならず……」
「やめなさい」
 くつくつと澤村が笑った。少年(未成年者は女子も男子も少年と呼ぶ)と仕事で関わるものとして、「クソガキ」という言葉はいかがなものか、と何度か注意したが、澤村は「事実っす」と言って聞く耳をもたない。
 車は交差点を抜け、目的の場所へ近づいていく。軽薄な印象からは意外なことだが、澤村の運転は安心感がある。おれはシートに深く腰掛けてもたれ、窓の外を眺めた。
 11月の空は晴れていてもどことなく鈍色を帯びている。
「冬は嫌いですか」
 ウィンカーのカチカチという音に眼を閉じ、「ああ」と返事をした。
「好きじゃない。終始暗いだろ」
 冬が嫌いな理由は別にある。だがそれを澤村に説明する必要はない。あのことを知っているのは、現在兄と月子さんだけだった。――ひょっとすると組織は知っているかもしれないが、そのことで何か言われたことはなかった。
「じゃあ夏が好き?榮倉主任には冬が似合いますけどね、泣きぼくろあるところとか。イケメンだけど目元に影があってセクシー!って矢田さんたちが」
 矢田というのは別の班にいる女性捜査官のことだ。女性が少ない組織だが、係に数人程度なら在籍している。
 車が動き出す。被疑者の家からほど近い駐車場にすべりこんだ車は、ハイブリッド車らしく静かになった。
「嫌いな季節があるだけで、取り立てて好きな季節はない」
 コーヒーを口に運ぶ。被疑者の家は明かりがついておらず、しんとしていた。
「家出するガキって不思議ですよね。家があるだけありがたいと思わないんでしょうか。外に出たって悪い大人の食い物にされるか、もっと悪いガキに搾取されるだけなのに」
 被疑者は一週間に1度程度しか家に帰らないのだという。その間、悪い仲間の家を転々としたり、コンビニで万引きをしたり(違法)、勤め先のガールズバー(当然違法)で寝泊まりしたりしているようだが、ねぐらを頻繁に変えるので確実にパクるには実家を狙うのが一番だった。
「……家に自分の居場所がないと思うから家出するんだろ」
 居場所。居場所ってなんだろう。そんなもの、おれだってなかった。特に兄が防大に入ってからは――……
 そういう顏をしていたのだろう、澤村が鼻で笑った。
「飯が食えて、布団で眠れる。それだけで十分居場所でしょうが。贅沢なんだよな」
 子どもたちを助けたい。正しい方向へ導きたい。そういう気持ちがあったのははじめのころだけで、おれは次第に心の中に虚しさをため込むようになっていた。無知で愚かな子どもたちを救っても補導しても施設にいれても、結局彼らのうち半分程度はまた道を踏み外していく。その道しか分からないし、居場所がないと思っているのだ。まだ20にもなっていない子どもなのに、もう社会のはざまに落ちて抜け出せない。日本は構造的にそういう国だった。一度転落したら、這い上がるのは困難を極める。
「警察官になる前は、もっと物事がシンプルだと思ってたな」
 澤村が視線だけをこちらに寄越す。おれはコーヒーをカップホルダーに置いて、腕を組んで被疑者の家をじっと見た。
「加害者がいて、被害者がいて、自分たち警察官は加害者を捕まえ被害者を救う。そういうシンプルなものだと……。でも、全然違うよな、現実は。加害者が被害者でもあったり、被害者が加害者の仲間だったり……、正義ってなんだろう、おれがなりたかった警察官ってなんだろう、最近よく考えるよ」
 澤村はまるで何も聞こえなかったかのように黙っていた。こいつにこういう話をしても返事がないことは分かっていたので、おれも電信柱や壁に向かって話すつもりでいる。
 コーヒーが空になった。ダッシュボードに両腕をのせて溜息をつく。澤村はハンドルに顎をのせて退屈そうにしていた。被疑者の行動パターンはあらかじめ調べてあるが、その通りに動くとは限らない。
「あ、帰ってきましたよ」
 中学生には見えない派手な化粧と金色に近いアッシュ系の髪色をした少女が、耳を覆うヘッドフォンの音楽に身体を揺らしながら家の前に歩いてきた。
「裏おさえてるよな」
 逮捕のとき最も気を付けるべきことは、裏口や窓からの逃走だ。
「田村班長と工藤さんが裏にいるそうです」
「よし。帰宅後行くぞ!」
「へい、りょーかい」
 少女が家に入ったのを見届けてから、シートベルトを外して車を出る。無意識に身体を探り、令状、手帳、手錠(ふつう保護者の前ではめることはない)を確認する。周囲に眼を走らせてから、ドアフォンを強く押す。
『はい?どちらさま?』
「――県警察本部、生活安全部少年事件課 少年係の榮倉と申します。いま坂田美憂さんはご在宅ですね?」
『え、……警察?なんですか、どういうことですか』
 この声はおそらく母親だ。戸惑いと、疑心が露わになった声。聞き慣れた声だった。
 おれのあとを引き継いで、澤村が言った。
「ご近所の眼もあるでしょうし、このまま外でお話しないほうがいいかと。美憂さんを呼んで来ていただけますか」
 ブツンと切れたドアフォンに、澤村と目を見合わせる。慌てた様子で玄関の扉を開けた母親の後ろで、憮然とした顏でガムを噛んでいる坂田美憂の姿が見えた。
「坂田美憂さんですね。警察ですが、何の件で来たか分かりますよね」
 少しだけ開けられた玄関のドアの隙間に、澤村が革靴を突っ込んで大きく扉を開いた。その間に入り込み、狼狽して「任意ですか!?」「娘が何をしたんです!」と叫んでいる保護者の後ろにいる坂田美憂をまばたきもせずに見つめた。
「何のことか分かんないんだけど」
 まさか警察が家まで来るとは思っていなかったのか、声は動揺で震えている。おれは逮捕状を取り出して広げて見せ、事実の読み上げを行った。恐喝、強盗、詐欺。おれが母親なら卒倒しそうな内容がずらずらと並んでいる。
 手錠はしなくても大丈夫だよね、と震えている坂田美憂の腕を掴んで引き寄せながら澤村が言った。おれは母親を見た。彼女は動揺から怒りへと感情をシフトさせようとしている。面倒なことになる前に畳みかけることにした。
「ちょっと勝手に連れて行かないで!!説明して!!」
「他の2名の男性と共謀し、SNSを利用して被害男性を言葉巧みに呼び出し淫行に及んだ後、未成年であることを理由に脅迫、応じない被害男性に3人で暴行を加え全治2か月のケガを負わせた上、現金20万円を脅し取った疑いです。ちなみに同様の被害届が複数提出されており、うち1名は現在も意識不明の重体となっています」
 母親は蒼白な顔で娘を見た。娘は忌々しげに眼をそらし「はあ?知らないし」と強がりにもなっていないようなことをつぶやいた。
「澤村、時間」
「16時45分、逮捕」
 いわゆる『美人局』の事案だった。県内で同じ手口で複数の被害届が出ており、共謀した2名(いずれも未成年。配管工ととび職の少年2名)はすでに逮捕済だ。
 裏口からこちらに回ってきた工藤巡査と澤村が、坂田美憂を挟む形で後部座席に乗り込む。
 ほっとする暇はなかった。これから48時間以内に送検しなければならない。
 どことなくゆるんだ顏をしている澤村を振り返って口を開く前に、先を越された。
「事件は逮捕後こそが本番だ、でしょ。分かってますよ」
 逮捕後の取り調べで自白を目指すが、証拠をそれなりにそろえたつもりでも、それだけで刑事処分にできるほど甘くない。いまは防犯カメラの映像ですら、弁護士の「本当に本人だという証拠にならない」という言葉で証拠として採用されないことがある。
「帰署するぞ。――ドアロックもう一度確認しろ」
 様々な苦い気持ちがこみあげてきたが、すべて頭の奥へ押しやってからアクセルを踏む。ポケットの中で何度かスマートフォンが振動していたことに、このときは全く気付かなかった。