9:― 1回目 ―(2)

 海保官の中でヒエラルキーの頂点といえば、なんといっても羽田基地だ。
 おれたちはその羽田特殊救難隊と同じ管区、第三管区で潜水士として勤務していた。
 潜水士でさえ、海保官のうち2パーセント弱しかおらず、その頂点に位置しているのが特殊救難隊、すなわちトッキュー隊になる。トッキュー隊は羽田に部隊があって、合田さんがいる場所で、千葉が目指している場所でもあった。
 その日、漁船と不明船の衝突事故が起きたのが発端だった。九月の終りごろ。台風が近づいていて、海は大荒れに荒れていた。おまけに、昨日の雨のせいで海中は濁っていて視界が悪く、救助には悪い条件が揃っていた。
 潜水士として救助業務についたおれと千葉の3隊は、海中にエントリーしてすぐに、海の異常に気付いた。波の高さや油漏れによる汚れは想定の範囲内だったが、海に投げ出され、救命胴衣もつけていない船員たちの様子が、明らかにおかしかった。彼等は顔色が悪く、冷静さを欠き、ひどく動揺していた。
(密入国船だな。ガリガリにやせてる)
 近隣諸国のどこからかは分からないが、ブイにしがみついている痩せた女(別の潜水士に救助されていた)をみていると、そうだろうなと納得した。
 腰がだるくて全身が重いのは、昨日何かで嫉妬した千葉に無茶苦茶されたからだったが、今はそんなことを言っていられない。バディシステムはダイビングの命綱であり、要だ。悪い視界の中、海中に沈んで行った2名の要救助者を探すため、お互いの位置や状態に気を配りながら、海の中へと進んでいく。
 合図を送り合い、要救助者を確保する。海中から10メートル程度沈んだ場所で、男性が一人見つかった。千葉が肩に抱え、マウスピースをくわえさせて酸素を与えている。自発呼吸ができることに、内心胸をなでおろした。千葉とはバディーブリージングを行い、自分のレギュレーターから交互に酸素を吸い込み、ゆっくりと海面に向かって浮上した。
「要救助者確保!」
 一名救助。しかし海中には、まだまだ救助を必要としている人がいる。おれと千葉は酸素の残量を確認し、まだ十分任務につけると判断して、ふたたび海の中へと潜っていく。
 不思議なことに、地上ではうまくいかない意思疎通が、海中では驚くほどスムーズだ。わけのわからない嫉妬や、思い込みなどぶつける隙間が、仕事にはないからかもしれない。おれは千葉が何をしてほしいのか、今何をしようとしているのか、誰よりも分かっていたし、千葉もまたそうだった。
 そう、バディとしては、千葉よりも信頼できる人間はいなかった。言葉のとおり、命を預けることができた。いやー―海の中では、相手のために死んでもいい、とすら思っていた。
 だから、あんなことになってしまったのかもしれない。
千葉が指でおれを指し、それから、海中のとある方向に向けて指を向けた。眼で合図し合い、その場所へと進んでいく。
 ダイバーウォッチを見ると、水深27メートル。潜水士が許されている深度、ギリギリだった。これ以上の深度は危険だ。
千葉にそう伝えようと肩に触れる直前、船体の一部に挟まれ、身動きが取れなくなっている男性1名を発見し、救助してからふたりで浮上する。親指を上に向けた千葉の合図に、指で返事を返した瞬間――左胸に、違和感が走った。
『大丈夫か、どうした』
『なんでもない』
 ジェスチャーで合図をし合い、海面へと向かう。5メートルほど浮上したところで、違和感は激痛に変わった。息が苦しくて、レギュレータからは確かに酸素が出ているはずなのに、吸っても吸っても吸収できている気がしない。
―――気胸だ、と自分でもすぐに分かった。バクバクとうるさい心臓の音とは逆に、頭の中はつめたく冷えていた。
 大丈夫だ、冷静になれ。酸素はまだまだあるし、隣にはバディだっている。痛みと呼吸困難は酷くなる一方だが、要救を背負ったこの状態で、自分の身体の異常なんて告げられない。イグジットして、今日はもうダメだと伝えればいい…。
 そう自分に言い聞かせていた矢先、耳元でジュワッ!という大きな音がした。突然ホースが破損したのだ。ものすごい速度でエアーがまき散らされ、胸の痛みは酷くなり、おれはパニックに陥った。
 少し先にすすんでいた千葉が、おれの様子に気付いて戻ってきた。優秀な千葉は全く慌てず、バディブリージングでおれに酸素を与え、ゲージで酸素残量を確認して軽くうなづいた。
『大丈夫、まだ三人で浮上できるだけの酸素ならある』
 もう、平気なフリができなかった。胸をおさえ、吸っても吸っても追いつかない酸素を振り払う。首を振り、先にイグジットしろ、と合図を送った。
 千葉の眼が、ゴーグルの中で見開かれたのが分かる。頭がいいから、おれの症状が気胸であることに気付いたのだろう。もはや、一刻の猶予も許されない、と判断したのか、右肩に要救、左肩におれを強引に背負い、ぐいぐいと海面へ浮上しようとする。だが荒れ始めた海が、それを妨げた。海面のみならず、海中の流れも複雑化していて、ふたり背負いながら酸素を分け与え、海面に上がるのは困難を極めていた。流され、おもうように浮上できず、酸素だけがどんどんなくなっていく。
 珍しく焦りの浮かんだ横顔を眺めながら、おれは決意した。
――要救助者と、お前だけでも助かってほしい。
 あと8メートルまで迫ったところで、おれはそっと、千葉の肩から離れた。もうほとんど意識がないまま、『浮上しろ』と指で合図を送りながら、自分の身体が、海底へと沈んでいくのを感じていた。冷たくて、暗い、何もない場所へと。

 病院で目を覚ましたとき、側にいたのは深雪と親父のふたりだった。ふたりとも目を真っ赤にしていて、見るからに憔悴していた。
 視線を動かすと、ベッドに突っ伏して眠っているのは母さんだ。おれにそっくりの顔は疲れ切っていて、目の下がどす黒く見えた。声を出すことも、指一本動かすこともままならず、ただ視線だけを深雪になげて、安心しろ、という風に細めてみせる。
 それから丸2日間、眠った。
 そして、起きたとき、二度と目を覚まさなければ良かった、と後悔した。
「千葉さんは…要救助者の人を助けた後で、周りがとめるのもきかないで、お兄ちゃんを助けにいって…それで…」
 助け上げた後、力尽きて、海に沈んだのだ、と深雪がとぎれとぎれに説明した。
「まだ、遺体もあがってないけど。あの海の様子なら、まず…無理だって」
 嘘だ、と思った。信じたくなかった。
 あの千葉が。おれを助けるために――死んだ?
「いやだ…」
 おれの顔を見て、深雪が泣き崩れた。親父も、母さんも、言葉もなくおれにしがみついてきた。
「いやだ、千葉が死んだなんて、嘘だ、嘘だ!」
 嘘にしたかった。なかったことにしたかったのだ。
 だから、千葉の後を追うまえに一度だけ試してみようと思った。コタのノートに残されていた、おれの『能力』というものを。過去に戻り、やり直すことができるという、禁断の力を。

 

 コタは未来ノートの中で、こう書いていた。

 

『カズくんは、ぼくと逆のちからをもっている。過去にもどるちから。でも、そのちからは、ひとのいきをこえたものなの。3かいがさいご。4かいちからをつかうと、かずくんは、このせかいからきえてしまうんだ。ぼくみたいに、みんなにわすれられて、さいしょからいなかったことになってしまうから、よくかんがえて。ほんとうにひつようなときに、だれかのためだけに、そのちからをつかってね』