10:その曲、おれも好き

  水がこわい、という気持ちはわからないでもない。
 たぶん、『異物だ』『息ができない』『なんだか塩辛くてきもちわるい』、そういったいろんな要素が絡み合って、泳ぐのがにがてな人はどんどん水がおそろしくなるのだろう。
「成一、肩の力を抜いて。そうそう。めを閉じたままでいいから、ゆっくり海面に顔をつけてみな。大丈夫、おれがちゃんと見てるし、てのひら掴んでるから」
 夜明けはもう訪れていたが、時間が早いから人影はほとんど見当たらない。もともと、この海岸は比較的穴場なのだ。いわば、おれの秘密基地のような場所。
 服の下に海パンを着込み、ふたりで海辺にやってきたのは朝の7時前だ。成一の家にやっかいになりながら不動産屋を回り始めて一週間が経ったが、なかなか条件の合う物件は見つからない。
 海パンを下着がわりに身に着けてきただけの成一に呆れ顔をしながら、そんなことだろうと思って、余分にもってきた黒のラッシュガードを貸してやった。おれよりもずっと手足が長いので少し寸足らずになっているが、それは我慢してもらうことにする。ちょっと日焼けしたいんだよね~と何も考えていない顔で成一が笑うので、全身真っ赤になって丸二日ほど身もだえしたいならいいけど、制服に擦れ汗にかぶれて相当つらいことになるぞ、と脅すと、結局素直に従った。
「ぶはっ…!どうだった?!」
「さっきよりは長い間水の中にいられたぞ。エライエライ」
 まずは水の中でリラックスして浮くことからはじめて、海なら波に抵抗せず身を任せること、息をとめて潜ることから始めた。最初はガチガチに緊張しておれの手を握って離さなかった成一も、次第にリラックスして海の中にとどまれるようになり、正午まえには、無抵抗で水に浮くことができるようになった。
「すごい。一保さん、水泳のインストラクターになればいいのに!」
 兄をはじめとして、いろんな人間に教えてもらったけれど、水嫌いだけは克服できなかったのだ、と成一が笑いながら言った。あまりにも屈託なく嬉しそうに笑うので、なんだかおれも「カフェ店長クビになったら、それもありかもな」とおもってしまった。
「お前が泳げるようになったら、説得力あるけどな。でもあれだろ、消防学校卒業してんだから、クロールぐらいできたんじゃねえの?」
 海辺のカフェで昼食をとろう、と言い出したのは成一だった。喉もかわいていたし、日差しがきつくなってきてもうそろそろ泳いでいられない時間帯になりつつあったので、おれもそれに賛成した。
「クロールっていうか…溺れながら進んでるって感じだったねえ」
「それは災難だったな。まあ、救急隊だと水難救助なんかしねえもんな」
「水難救助…想像しただけで背筋が震えるよ。兄貴は学生のときライフセーバーのバイトしてたからさ、泳ぐのすっごい得意なんだよ」
「へえ。そういえば、成一の兄貴って何やってる人?」
「由記市のハイパーレスキュー隊に所属してる」
「そうなのか。じゃあ仕事中に会ってたかもしれねえな」
 おれの仕事は、海難救助が主だった。
 周囲を海に囲まれているこの国の領海は、排他的経済水域も含めると200海里(陸地から380km)になる。この広大な面積を無数の船が行き交い、経済活動の礎を支えている。あるときは漁船として、またあるときは商船として。
 陸上に住んでいる人々は想像すらしたことがないかもしれない。一体どれほどの物資や漁獲物が、船にのり、海を越えて行き来しているのか。当たり前のように思っている、一枚の服や、小さな部品や、果物のひとつにいたるまで、海運がとどこおればたちまち立ち行かなくなるのがこの国の現実なのだ。
 その無数の船がときに事故を起こし、海難事故になれば――もしくは、オイルが漏れだしたり、破損した船体が海を汚染したときに――海上保安官の出番になる。
 潜水士はその中でも、主に対人、溺れたり、船体に閉じ込められたりしたひとびとの救難にあたる仕事だった。
「一保さんは…どうして前の仕事、やめちゃったの?」
 ボリュームたっぷりのロコモコ丼セットを食べ終え、アイスコーヒーを飲んでいるところで、成一が何気なく訪ねてきた。
「いまきくか、それを」
「きくも涙、語るも涙なら今はやめとくけど」
「そりゃあもう涙なしには語れねえよ…ってほどじゃねえけど。職業病っていうか…。じゃあクイズな。若い、やせ形の男性に多く、潜水士なんて仕事には致命的になる病気、なーんだ」
「えっ…もしかして…気胸?」
「さすが救急救命士。正解、肺気胸な、3回やっちゃってさ。潜水士としてはやっていけないって言われて、そのとき配属されてた組織でも色々あって、海に潜れないならやめちゃおうって思ったんだよ」
――嘘だ。一回目、千葉をうしなったときに一度。そして二回目には二度。
 三回目の今は、なんと保大で一度やって、そのあと現場でも二度。実を言えば、計五回も肺に穴があいている。
「肺気胸は軽いものなら自然治癒するよね?やめないといけないほどひどかったの?」
 成一の声は静かで、淡々としていた。おれは肩をすくめる。
「そうだな。おれの場合、なおっても繰り返し再発してさ。ドクターストップがかかったんだ。潜水士をやめれば、組織の中で生きて良く方法はいくらでもあった。でもそれは、おれのなりたかった海保官とは違う。あそこにいる意味がなくなったと思った」
 だからやめたんだ。まあ言ってみればしっぽ巻いて逃げ出した、ってわけ。
 冗談めかして言ったつもりだったが、成一の顔がしんと静まり返ってしまったので、おれもつられてしんとした。落ち込むなら訊くなよ。
 成一が何かをいおうと口を開いてから、何も言わずに視線を海にうつした。海風と、水面に反射したまぶしい陽光が、成一の顔をきらきらと縁どっている。
 同じように視線を海に投げて、変わっていないようで、日々かわっていくその姿を眺めた。こどものころから知っている海はそれでも、こどものころから少しずつ変化している。あの頃いくらでも存在していた魚が、今はほとんど見当たらなかったり、いなくなっていたりする。
「海って、遠くから眺めるものだと思ってたけど。泳いでみると、また印象が違うね」
 ぽつりと成一が言った。ああ、と相槌をうち、まぶしい海面から目をそらして空をながめた。晴れた八月の空には、飛行機雲が白く線をひいている。
「人間の源があそこからうまれて、進化して、別の進化をとげた海洋生物をエサに生きて、そしてときどきあそこで死ぬ。すごいよなあ。海はなんていうか…とてつもなくでけえよ。自然はみんなそうだけど、抗えないよな。潜水士やってたころは、厳しい牙を向けてくる波だとか海流だとかに立ち向かってたけどさ。たびたび、人間は自然には勝てないんだって打ちひしがれたもんな」
 進化論についてはまったく詳しくないので、なんとなくである。だが『海から最初の生命が生まれた』という言葉には、かなり説得力とロマンがあると思う。まあ、隕石がぶつかってその隕石に微生物がついてたとか諸説あるんだろうけどおれは『海から説』を信じたい。
「何十億年もかけて、顕微鏡つかわないと見えないようなバクテリアから、こんなに立派な男にまで進化したんだなあって思うと感慨深い」
 180センチは超えてそうな、すらりとした成一を眺めながら言う。
「おっ…一保さん、話の規模がおおきくなってきたね」
 目を合わせて笑い合った。
 平日ということもあって、人もすくなくてのんびりとした空気が流れている。平日が休みだと人と合わせられなくていやだと思っていたが、成一のように夜勤がある仕事だと二日に一回(ないしは三日に一回)はやすみなので、予定を合わせやすい。
 もう少し泳げるようになったら、シュノーケルぐらい連れてってやれるかもしれないな。
 そんなことを考えていたら、テーブルに置いてあった成一の携帯電話が鳴った。ききなれたLINEの通知音だ。画面に表示された内容は見ないようにしたが、発信者である「野中奈緒子」という名前が目に入ってしまい、急にここにいることが申し訳ない気持ちになった。
「なんか…ごめんな。なるべく早く家見つけて出ていくから」
「えっ、なになに急に。おれ嫌だとおもったことないよ、家事手伝ってくれてるし!作ってくれるご飯、いつも美味しいし」
「おまけにコーヒーだって上手く淹れられるし?」
「そう。バリスタを独占して毎日のようにコーヒー飲ませてもらうなんて贅沢だよね」
「ミルク入れないと飲めないお子様のために、それに合う豆まで選んでくれる天使だからな、おれは」
「天使のわりに寝言すごいしイビキうるさいけどね」
 うるせえ、とほっぺたを引っ張ってやると、おもいのほか柔らかくてよく伸びた。
「…だって女も連れ込めないじゃん、おれがいたら」
「わざといってる?連れ込む女性がいたら家に来いなんていわないでしょ」
 冗談めかしながらも、おれに気を遣わせまいとしていることが分かって、眉が下がる。
「連れ込みたいときはいつでも言えよ、その日はどこかしらに世話になるから」
 成一のおそろしいところ(素晴らしいところでもある)は、裏や打算なく、誰にでもやさしくできるところだ。おまけに誰相手にも丁寧。いまだって、「女」なんていわずに「女性」という言葉を使ったぐらい、性別を分ける単語のつかいかたにすら気を使う。
 なんとなく分かってきたことだが、こいつの育ちの良さは、おれたちの両親よりももう少し目上の…祖父母、ぐらいのひとに可愛がられて構築されたものじゃないだろうか。それも礼節を重んじるような、特別な仕事をした人。剣道の師範だとか、着付の先生だとか。
 ちらりと成一を見やれば、彼は携帯電話を手にとり、「一件だけ返信させてね」と断ってから、短いメッセージを返している。こういうふうに、親しくなった相手にも礼儀を失わないところも、半ば呆れながらも感心してしまう。
「おれに言えた話じゃないけど、振った相手に返信するのって優しさじゃなくね?」
 こいつの性質を知っているから「良いヤツだな」で済むが、こういう態度は相手によって危険を伴う。勘違いしやすいヤツ、思い込みが激しいヤツ、すぐに惚れるヤツ。そういう女に痛い目にあったりしなかったのだろうか?…まあ、とっくに成人した男なんだからおれが心配するようなことじゃないけども。
 立ち上がって伸びをして、会計を済ませる。もどってくると、少し困ったような情けない顔で、成一がおれをじっと見た。
「…そうなのかな、やっぱり」
「気持ちを返せないなら、いっそ嫌われる覚悟がいるんだって深雪にいわれて、本当にそうだなって思った」
「でも、頼られると助けたくならない?誰にでも」
「それは分かるけど。お前も別に、好きになってくれって頼んだわけじゃないもんな。傷付けるようなことは言いたくないだろうし、どうしてそんなことしなきゃいけないんだって思うのも分かる。言い方は悪いけど、相手が勝手に成一のことがすきなだけだもん。でもさ、それでも辛いんだよ。付き合ってくれないのに、親切にしてくれる、なんてのは」

 着替えを済ませてから海辺を歩き、バス停でバスを待つあいだの短い時間。
 潮風の匂いをかぎながら、千葉の浮気相手が電話に出た日のことを思い出していた。
いま、つまり三度目の千葉のことだ。
あの日も暑かった。海帰りにパサついた髪と身体にまとわりついた潮のかおりに、千葉と会いたくて仕方なくなったのだ。
 保大を卒業し、三管区に配属されてしばらくたった頃だった。潜水士になるといっても誰でもすぐになれるものではなく、巡視船任務を二年ほど経験してから、選抜されたものだけが『潜水研修』に参加できる。おれも千葉も、配属されるまでそのことを知らなかった。大学を卒業すれば、すぐにでもその研修が受けられるものだと思っていた。
 同期と海に行った帰りだった。非番の日だったし、朝から泳いで散々騒いだ。みんなと別れてひとりになったとき、しんとしたバス停で、不意に千葉のことを思い出した。あまりにも楽しい時間の後だったから、花火が終わったような、名残惜しくてさびしい気持ちだったのかもしれない。 
 電話のコール音が鳴る間に、自分から千葉に電話をするのが初めてだということに気付いた。広島(保大)のときは寮の部屋が近かったからいつも側にいたし、卒業してからも同じ管区にいた上に千葉のほうが連絡がマメだったので、あえてこちらからかける必要がなかった。
 8回目の呼び出し音の後、切ろうとしたところで電話がとられた。ちば、おれだけど、と声に出すまえに、電話口の相手が「急ぎの用事ですか?創ちゃんは今お風呂に入ってて…」と気安い調子で伝えてきた。
『あなた、創ちゃんがよく電話している人でしょう?――もしもし?』
「……またかけなおします」
『えっ、男の人!?なーんだ、わたしてっきり創ちゃんの浮気相手だと』
「失礼します」
 その日は一日落ち込んで過ごしたが、もう電話はかけまい、と決意したのはその翌日だ。
 千葉がおれの家を訪ねてきて「昨日は悪かったな」と笑ったのだ。なにごともなかったような顔をして、当たり前のように玄関口でおれを抱きしめ、そのままセックスに持ち込もうとした。
 腹を立てて責めたてても、怒鳴っても、千葉は他人事のようにしれっとしていた。「いいじゃん、本命はお前なんだから」とか、「たまに女も抱きたくなるさ、男なんだから」とか、耳を疑うようなことを平気で口にした。そして面倒くさくなったのか、勝手に靴を脱いであがりこみ、おれをベッドに押し倒して全てを有耶無耶にしようとした。
「おまえ…なんでそんなことすんだよ?おれが同じことしても平気なのか?!」
 声が震えた。情けなかったが、平静を装えるほど大人じゃなかったし、落ち着いた恋心でもなかった。ときどき考え方が合わなくて苦しいこともあったけれど、少なくともおれは、心底千葉を大切におもっていたし、してきたつもりだった。
「一保が同じことをしたら…嫌だな。だってお前は相手にすぐ情をうつすだろ」
「お前は違うって言うのかよ。おれだって嫌なんだよ、浮気されるのは!」
 けれど、千葉にとっておれは、大切にされるような存在じゃなかった。
「だって一保。おれはお前が好きだけど、お前とは結婚できないだろう?」
 腕を押さえつけ、後ろから耳朶を舐めながら、千葉はそう囁いた。甘い声で、やさしい顔で。
 あのとき、自尊心と一緒に、心が引き裂かれた音がきこえた。
 それまでも何度か、怪しいと思う事はあった。でもあえて追及しようとは思わなかった。――こんな日が来るのが恐ろしかったから。
 千葉はことあるごとに、家庭を築きたいと口にしていた。家に帰ったら嫁さんと子どもがいるって、幸せだろうなあ、とも。そのビジョンの中に自分が組み込まれていないことは、分かっていた。思い知らされていた。
 それでも、面と向かってナイフを突き立てられるのとは違う。刺された心からは血が噴き出して、その傷を治すので精一杯で、また怪我をしそうなことからは遠ざかるしかなかった。つまり、「別れる」か「この件は水に流して二度と電話をかけない」かの二択。
 そして、後者を選択したわけだ。誰が考えても間違えていると分かるのに。

 

 

 

 スーパーに行くとゴーヤが安かったので、ゴーヤチャンプルを作ることにした。余り物のしめじとほうれんそうでおひたし、あとはわかめの味噌汁。栄養を補うために麦を混ぜた白米も並べると、成一が目を輝かせてこちらを見た。
「ほんと、手際いいしすごいよねえ、一保さんは」
 すごく美味しい。そういって嬉しそうに笑う顔を見ていると、おれもついつい微笑んでしまう。
「そうか?あー、あれじゃねえかな。マズイもん我慢できねーんだよ、おれ。美味いものしか食いたくねえから、自然と上達したわ」
 どうやらおれは生まれつき嗅覚と味覚が人よりすぐれているらしい。だからこそバリスタなんてできるんだと思う。飲食店を経営している知り合いからは、ソムリエを目指したらどうだとしつこく誘われたこともある。
「外で食べて、まずっ!って思うことあるの?」
「あるある。特に肉料理とか魚料理な。下ごしらえサボったらくさみが出るからテキメンに分かる。逆に、手間暇かければ高い材料じゃなくても美味い料理は作れるんだよな。美味いけど安い店って、そこのバランスをよく分かってる」
 姿勢がよくて食べ方が美しい男とメシを食うのは、やっぱりいいものだ。おいしそうに完食した成一が、「明後日の明けの日はおれが作るね、ごちそうさま」と嬉しそうに笑って片づけを始める。おれは立ち上がって、干した洗濯物を取り込んでから、今日の水着やタオルを洗濯機に放り込んだ。特別に分担は決めていないのに、自然と息が合ってぶつかったりケンカになったりしないのが不思議だ。
 洗い物を終えて、時計を見るともう午後4時過ぎだった。
 泳いだせいで眠そうな成一を「あとやっとくから、寝てくれば?」と寝室に追いやろうとしたが、酒を飲みたいから寝たくない、と言って、冷蔵庫から冷えたワインを持ってきた。
「もらい物なんだけど、ひとりじゃ飲めないから一緒に飲んで」
 そこから、ふたりで酒盛りになった。ワインがなくなり、ビールを4本空にしたころ、BGMがないぞー!と酔っぱらった勢いで絡む。すると成一が、おぼつかない足取りでレコードプレイヤーの前に立ち、少し迷った後、針を落とした。
 流れ出した曲は、ザ・ビーチ・ボーイズの『素敵じゃないか』だった。
「この歌…すっげー好き」
「奇遇だね、おれも」
「この曲が入ってたペット・サウンズはあいつらの最高傑作だ。乾杯!あのアルバムがなかったら、ビートルズのサージェントペパーズは生まれてねえ」
「乾杯!」
「ブライアン・ウィルソンにも乾杯!」
「ブライアンありがとー!」
 海で泳いだ後に、酒を飲みながら彼等の音楽を聴くなんて最高だ。
 ソファに浅く腰掛け、コロナビールを飲んでいる成一が、楽しそうに目を細める。ふたりでいると、テレビなんか必要なかった。会話を探したり間をうかがったりしなくても、話は続いたし沈黙も気を遣わない。相手に悪意や、企みなんてないってことが分かっているから。
 おやすみを言った後も一緒にいられるって素敵じゃない?とブライアンが歌う。いっしょに口ずさむと、成一が酔っぱらった勢いで、タンバリンを鳴らし始めた。やけくそになって大声で立ち上がって歌うと、「やっぱり発音がきれいだよな~」と的外れなことを言って、成一が尊敬のまなざしで見つめた。
「…この歌みたいに、結婚はできないんだけど」
 曲が終わって、ソファに座り込んでワインを呷る。シャン、とタンバリンが場違いな音をたてて、ローテーブルに置かれる。ワインクーラーの周りに置かれたチーズに手を伸ばそうとすると、「一保さん」と真剣な声で名前を呼ばれた。
「結婚なんかしなくても、好きな人とふたりで幸せになることはできるよ」
 言い返そうとして、やめた。琥珀色をした成一の眼。そこにみえた優しさと思いやりが、胸に響いてズキンと痛んだ。
 言葉ではなんとでもいえる。好きだ、愛してる、一生一緒にいよう。口に出すのは簡単だ。けれど、実現するのは限りなく無理に近いように、おれには思える。
「…男同士に、未来なんかねーよ」
「そんなことない。一保さんにはすてきなところがいっぱいあるし、あなただけを大切にして、愛してくれる人がきっと出てくる。でもあなたがそう思っている限り、変えられないよ。自分を大切にできなければ、誰からも一番大切にはしてもらえない」
 きっぱりとした口調で、成一が首を振った。
 真っ直ぐでやさしくて、なによりも正しい。しかも自分のために言ってくれているとわかっているのに、そのきれいごとに腹が立った。
「お前になんか、分かんねえよ。自分のこと、消えてしまえばいいって、なんで生まれてきたんだって、考えた事もないくせに」
 正面から睨み付けて吐き捨てると、成一が悲しそうな顔をした。その表情をみて、自分がとんでもない八つ当たりをしてしまったことに気付く。
「あ…ごめん、おれ」
 成一が立ち上がり、冷蔵庫からコロナビールの瓶を持ってきた。手渡されたその瓶のつめたさに、一瞬熱くなった頭が、一気に冷えていくのが分かる。なんて最悪なやつなんだろう、おれは。
「……一保さんは、お母さんのこと、なんて呼んでる?」
 ビールに口を付けてから、成一が囁いた。
「呼び方?なんだろ…。あんまり呼ぶことないんだよな…ふつうに『母ちゃん』って呼んでるかな。なんか一時期、「わたしは母ちゃんって名前じゃないからミチカって呼んで」とか言い出したけど、妹にもおれにも丸無視されてて笑ったけど」
「面白いお母さんだね」
「破天荒っていうか…とにかく滅茶苦茶なんだよあの女は。なにせカミングアウトした息子をとりあえず多文化に触れろっつってアメリカに送り込むようなヤツだからな」
 成一が笑って、ソファが軋んだ。ビールを一口のんでからテーブルに置いて、止まってしまったターンテーブルの前に立つ。レコードの入った棚にカーペンターズをみつけて、勝手に取り出して針を落とす。わずかな雑音のあとで、カレンが『青春の輝き』こと『I Need to Be in Love』を歌いはじめる。正直にいって、邦題よりも原題のほうがしっくりくるし好きだ。
「おれはさ、星野先生って呼んでた。母親が経営してるバレエ教室に通っていたから、そう呼べって言われて。バレエが上手く踊れたときだけ、すごく笑って褒めてくれるんだ。でもそれ以外は…ほぼ無関心。失敗なんかしたら最悪、めちゃくちゃ怒られるし一日無視だよ、無視」
 驚いた。物腰や話し方、それに性格から、あたたかい家庭で悩みなく育ってきたものだと思い込んでいた。
――悩みのないヤツなんて、いるはずないのに。
 とっさに言葉が出て来なくて、口を明けたまま成一をみつめた。本人はおだやかな表情のままおれを見つめ返してきた。
「でもばあちゃんがすごく可愛がってくれたから、大丈夫だったよ。母とも、一人暮らししてからは普通に話せるようになったかな。あの人、母親は向いてないと思うけど、バレエダンサーとしては尊敬してる。だからこそ、認めて欲しくて頑張ったんだけど…才能がなくて」
 おれは、自分の浅はかさを恥じた。よく知りもしないで、成一のことを「恵まれた甘ったれ」だと心のどこかで決めつけていた。
 恋愛の初期において、相手の良いところを見てのぼせ上がるのは健全な証拠だ。おれはというと、たいへんひねくれているので、相手のダメなところや嫌なところを探して、熱を冷まそうとする。別にこいつのことなんか好きじゃない、と思いたいから。そうしたら好きにならずに済むし、傷つかずに済む。
「怒られてばっかりだったけど、バレエは今でも好きだよ。土日はたまに踊りにいって生徒さん見たりするよ。もう本気では踊らないけどね」
 苦しそうに、それでも笑って見せた成一を見ていて、分かった。
 たぶん、妬ましかったのだ。
 このやさしさを受けるのが、自分だけではないということが。他の誰でも、困っていれば、そしてこいつの側にいれば、手を差し伸べてくれるのだということが分かって…。
――いやいや、なんだよそれは。独占欲みたいじゃないか…違う違う…絶対にそうじゃないしそうだと困る。おれはもう、二度と辛い恋はしないと決めたのだ。ストレートを好きになったらどうなるか、骨身にしみて思い知ったばかりなのだから。
 成一のやさしさや思いやりが、真心が、どれほど素晴らしくてもおれとは関係ない。いつか可愛い女の子が彼の隣で微笑み、幸せな家庭を築く日がくるのだから。
「……おまえ、早く彼女作った方がいいよ。なんか、勿体ない」
「いやー、まだ無理かな。幾分前向きにはなれたけど、やっぱりまだ写真とか見ると辛いし、他の人からうわさを聴いたりするとさ、胸が痛いのにもっと聞きたいって思っちゃうんだよな。当分恋愛はいいやって感じ」
 ふうん、とつぶやいて俯く。なにが面白いのか、成一がそんなおれをみてふき出した。
「なんだよ!?」
「なんでもない」
「言えって」
「なんでもないってば」
 ソファの上でぐいぐい押し合いをしていたら、押し返された勢いで、後ろ向きにラグに落ちてしまった。受け身を取るよりも早く、成一の手のひらが頭をかばってくれて、痛い思いはせずに済む。
「わるい、成一…」
 謝ろうとして、声が喉元で止まる。マウントをとられていることに気付いた瞬間、全身がすくんで固まってしまった。
 目を見開いたまま一時停止しているおれを見て、成一が怪訝な顔をする。「一保さん、どうしたの」と問いかけて覗き込もうとした。
「…どいてくれ」
 偶然おれを床に押し倒すような体制になっていた成一が、慌ててとびのく。
「一保さん、もしかして、はじめてじゃないの?」
 震えが止まらない。違う、そんなわけない。
 千葉を殴り飛ばさなかったのは、情があるからだ。決して怖かったからじゃない。
 座り込み、自分の身体を抱くようにしているおれの腕を、成一がぐっと掴んだ。
「それ、PTSDでしょう?おれが上に乗ったからフラッシュバックしたんだ。暴力振るわれたの、絶対はじめてじゃないでしょう、その様子じゃ!」
 ずっとおさまっていたのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう、と考え、ついこないだのレイプがきっかけなんだと思い至るまで、時間はそれほどかからなかった。2回目の、ひどい暴力に比べたら、あんなのどうってことないのに。忘れていたのに。
「はじめてだよ」
 そう、3回目のいまは。
「一保さん」
 成一が泣きそうな、縋るような声で名前を呼んで、おれの背中をそっと撫でた。慰めるような、落ち着かせるようなしぐさなのに、おれはまだ息もままならない。
 さらに言葉を重ねようとしたとき、ドアフォンが鳴った。そして同時に、成一の携帯電話がさわがしく音をたてはじめる。
「なんだろう…もう夜なのに」
 膝をかかえたまま、リビングから玄関を盗み見た。ドアが開いて、成一の驚いたような声が聴こえる。その声はすぐに、困惑にみちたものに変わった。
 深呼吸をして立ち上がり、玄関へ向かう。もしかしてこの別れるのが下手そうな男が、女の子を上手くフレずにいるのではと思ったのだ。
 玄関にいたのは、ベリーショートといってもいいほど髪の短い、眼の大きな可愛い女の子だった。顔立ちは整っているのに妙に表情がさめていて、ほとんど口を開かずにしゃべるような感じの。
「お願いします。しばらく、ここに泊めてください」
 静かな落ち着いた声で彼女はそういって、深々と頭を下げた。