8:あなたは何も悪くない

 真夏に差し掛かると、店は目がまわるぐらい忙しくなった。きっかけは、夜中にテレビでやっているローカル番組の中の、『突撃!イケメンのいるお店』で紹介されたことだ。このタイトルからして軽率きわまりない番組に推薦したのは、アルバイトの新見さんだった。まさか通るとは思わなかった、と打ち合わせに訪れた番組のディレクターに話しているのを見て、申し訳ないがおれは殺意を抱いた。
 番組は芸人ふたりぐみが毎回違うまちをぶらぶらしつつ、視聴者から推薦された『イケメンのいる店』を突撃して話をきくというもので、低予算丸出しではあったがそれなりに視聴率が取れているらしい。近辺にスタバが出来て苦戦するようになったオーナーアフロは、おれの意見なんて聞く耳をもたず人身御供に差し出した。おかげさまで毎日忙しいし、知らない人間に携帯で勝手に写真を撮られるし、声をかけられるし、最悪である。どうしてくれるんだ。
「ちょっとほんとにどうしてくれんの。おれの静かな生活を返して」
 カウンターに座っていた女性客ふたりに盛んに話しかけられて、ぐったりしながら新見さんに愚痴る。平日夕方のピークを過ぎて、閉店前の束の間のひととき、おれと新見さんだけでは手が足りず、アフロもせっせと机を拭いたり椅子を片づけたりしている。笑えるぐらいオーナー感ゼロである。
「すいません…女性がこんなにイケメンが好きだとは思いませんでした」
「まあおれはかっこいいからしかたないけどな!」
「そうです!店長がかっこいいのが悪いんですよ」
 持ち上げて有耶無耶にしようとしているのがありありと分かって、おれは眉を寄せたまま笑いかけて言ってやった。
「ファック・ユー」
「発音きれいすぎて怖い。ごめんなさい」
 ドアが開いて、誰かが入ってきた。あと30分で閉店ですが、よろしいですか。新見さんが声をかけているのをBGMに、コーヒー豆の在庫に目を走らせる。
「あ、イケメンの人だ」
 力の抜けた声は、さいきんすっかり聞き慣れたもので、しゃがんでいた体制から立ち上がり様、手刀を頭にたたきこんでやった。
「いって!何するんだよ」
「いかにもおれはイケメンだが、その言葉今日だけで30回ぐらいきいて最高に機嫌が悪いんだよ」
「テレビ映り悪いよね、一保さんは。実物のほうがかっこいいよ」
 目を細めて笑いながらそう言われて、顔が熱くなる。
「お…おまえ本当に、よくそういうこと言えるよな…このたらし!たらしヤロウ!いままでその手で何人の女をたらしこんだ!」
「人聞き悪いこといわないでよ。――新見さん、カフェラテください」
 おれの悪態を聞き流して、成一はさっさとレジの前に並んだ。ちっ、逃げ足の早いやつめ。
 ふたつあるレジのもう片方を精算しようとしたとき、ふたたび店のドアが開いた。はっと息を飲むような、美しい顔となんともいえない色気。成一がすきだった男の恋人が、ドアの前に立っていた。
 なんとか成一に気付かれる前にもう閉店ですから、と知らせたかったが、無理だった。おれの視線が入口に張り付いていることに気付いて、財布を仕舞いながら成一が後ろを振り返る。
 そのときふたりの間に流れた空気は、親密とも、緊張ともいえないものだった。しいて言うならば、戸惑いが一番近い。どうしよう、という言葉が聞こえてきそうなぐらい、お互いに戸惑った顔をしていた。
「せいちゃん。ひさしぶり、なんか日焼けしたなあ」
 男がにっこりと笑って話しかける。花が咲いたような、うつくしい笑顔だった。成一は一瞬、複雑な表情をしたが、すぐに打ち消して笑い返した。
「お久しぶりです、三嶋先生。相変わらず、真っ白ですね」
「病院にこもりきりやからなあ、日焼けするチャンスがないねん」
 成一の心情を想像して、さりげなくカウンターの席へ案内した。会話が途切れた事に、三嶋さんは寂しげな顔をしていたが、成一は目を伏せて自分の手のひらをみていた。
「…いらっしゃいませ。こちらでお伺いいたします」
「ホットコーヒーください」
「かしこまりました。お席までお持ちします」
 注文をきいたのにその場から動こうとしない。視線の先に、おれの首筋や口元の傷跡があった。殴られた後の、生々しい痣。テレビに映るときには、メイクできれいに消されていた。 
「…前から気になってたんやけど、それって身内からじゃないの」
 ぎくり、と身体が強張る。とっさに周囲に視線を巡らせるが、新見さんとオーナーは店の外で作業をしていた。セーフ。
「ケンカですよ。結構気が短いんで」
「それはそういう傷やないなあ。おれ、一応医者やから、分かるんよ」
 本当に耐えられなくなったら、連絡して。おれはアンタを助けたい。
 耳元でそう囁いて、エプロンのポケットに名刺のようなものが入れられた。固まったように見つめ返すと、三嶋さんは寂しげに笑った。
「むかし、同じ境遇の人を助けられへんかってな。おれはしがない救急医やけど、専門の医師で知り合いもおるから。…ただの自己満足やけど、力になる」
 他のだれにも聞こえない小さな声でそう言ってから、三嶋さんは成一の隣ではなく、窓際のいつもの席に座った。彼は、分かっている。成一を傷つけた事や、まだ成一が苦しんでいることを。だから隣に座ろうとはしなかった。
 黒いエプロンを握りしめながら、息を吐いた。忘れよう、忘れたいと思っていたあの日のことが頭によみがえってきて、心臓がどきどきする。深く息を吸って、何度か吐いてから、コーヒーをいれるべく持ち場についた。
 三嶋さんは何冊かの本をパラパラと眺めながらコーヒーを飲み、飲み終えると、店の外でタバコを一本吸って帰って行った。口にくわえて左手で風を避け、マッチで火をつける様子がかっこよくて、なんとなくタバコがやめられない自分とは全然違うなと思った。きっとあの人には、タバコがないと耐えられないような瞬間が、これまでに何度もあったのだろう。
「おい、もう閉店するぞ」
 何かの動画を熱心に眺めていた成一に声をかける。慌てて隠したのをみて、「ひとの店でエロ動画みるのやめてもらっていいですか~」と冷やかすと、顔を真っ赤にして「違うよ!」と叫ばれた。
「じゃあ何みてたんだよ」
「べつになんだっていいでしょ」
 帰る、といって背を向けた成一の腕をつかむ。その反動で、携帯電話がすべりおちて床に転がり落ちた。
 画面には、「初心者からはじめる水泳講座」の動画。
 沈黙が流れて、てのひらで顔を覆った成一が恥ずかしそうに「返して」とつぶやく。
 あきれた。こいつ、泳げなかったのか。
「おまえ…それでよく『ダイビングしてみたい』とか言ったな?!」
「だから泳げるようになろうと思ってたんじゃん!!」
「泳げなくても消防士ってなれんの?レスキューとかいけないだろ」
 たしか、消防学校は水難の授業もあったはずだ。どうやってそれを乗り切ったのか?
「…学校のときは必死で泳げるようにがんばったんだけど…もともと泳ぐの苦手だから、地獄だったよ」
 なんでもそつなくこなす成一の、唯一苦手なことが、水泳。いつのまにかおれは笑っていたらしく、成一が怒ったように「笑わないでください」と睨み付けてきた。
「泳げない人ってめずらしくないんですよ。都会の学校だとプール自体がないもん」
 新見さんが閉店作業をしながら話しかけてくる。おれもテーブルに椅子をあげながら、「このあとヒマならメシ食いにくる?奢るから手伝って」と成一に声をかけた。少しだけ迷ったような顔をしたあとで、結局、やけくそのように椅子を上げはじめる。
 意外だ。運動神経も育ちも良さそうなのに。バレエなんて難関なダンスが出来て、泳ぐなんていう単純な、人間ならだれでもできそうなことができないなんて。

 

 

 店の閉店作業を終えて、ふたりでおれの家に向かう。バスの窓に肘をついている成一は、まだ少し怒っているのか口数が少ない。こういうところは年下だなあと思って、おれは少し楽しくなってしまう。
「悪かったよ、べつにバカにして笑ってたわけじゃねーから。怒んなよ」
「……一保さんが泳げるのは仕事だったからでしょ、あんなに笑わなくていいのに」
「ごめんって。ちょっと意外だったから」
「なにが」
「だってお前。バレエより水泳のほうがずっと簡単なのにさ」
「おれにとっては簡単じゃないんだよ」
 バスが揺れて、肩がぶつかった。体温が高いところもこどもみたいで可愛い、と考えて、慌ててその考えを打ち消す。
「人間は生まれてくる前から母親の胎内でずっと泳いでるから、本来だれでも泳げるんだぜ」
「そういう話は聞き飽きたよ。兄貴にも死ぬほど言われたし」
 ぷいっと顔を背ける。…なんというか、いつも親切でにこやかなところしか知らなかったので、心を許してくれている気がしてちょっと嬉しかった。
「もし成一が嫌じゃないなら、泳ぎ、教えてやろうか?まあ休みが一緒のときだけだし、盆過ぎたらクラゲでてくるから海じゃ無理だけど…。泳ぐのって、ちょっとしたコツさえ分かれば本当に簡単だからさ」
 お前が泳ぐの、好きになってくれたら嬉しいし。
 頭の後ろで腕を組みながら、何気なく提案してみた。まあ、知り合ったばかりだし断られるかな、という軽い気持ちだったが、成一は前のめりに食いついてきた。
「ほんと!?おれほんっとうに泳げないけど、っていうか水がちょっと怖いんだけど、それでも教えてくれる?」
 顔が近い。きりっとした眉と反対に、やさしげなかたちをした眼が、大きく見開かれている。淡い色あいの、だからこそ存在感のある眼。ぐ、とのけぞって「顔が近いんだよ、お前は」とてのひらで押しのけた。
「水に顔つけるのが、怖いっていうかすごい嫌なんだ」
「まあ、構えすぎてるか、最初に水泳教えた奴がクソだったんだろうな。大丈夫だよ、いちからじっくり教えてやるから」
 安心させるように笑いかけると、成一がじっとおれをみつめてきた。
「一保さんは、笑うと雰囲気かわるよね」
「どういう風に?」
 成一が答えようとしたところで、バスが最寄りの停留所に到着してしまった。先におりていく人々に続いて、慌てて降車した。
 夜風に乗って流れてきた潮の匂いはいつも、自宅に帰ってきた安堵をもたらす。
 坂道を登って、海辺のボロアパートへと歩く。途中でコンビニに寄って、飲み物とタバコを買った。成一はタバコを見て少し眉をしかめ、「肺活量に影響するのに、海保の人がタバコすうの?」と問いかけてきた。
「潜水士ってああみえて、すごくストレスがたまるからな。酸素ボンベとバディの存在だけが命綱で、いつ死んでもおかしくないし。喫煙者は多いんだぞ」
「ええー……信じられないなあ。そもそもタバコの匂いが好きじゃないし」
「たしかに。他人のタバコはくせえな」
「なんだよそれ。じゃあやめればいいのに」
「おれのはクサくねえからいいんだよ」
「はい、意味不明です~」
 まあおれは退職してから吸い始めたんだけど、と言おうとしてやめた。意識高い系アピールをしたところで無意味だ。もうおれは潜水士じゃないんだし。
 軽口でやり取りして小突きあいながら歩いていれば、もう家だ。
 2階には自分以外住んでいないのに、無意識に視線を投げたのは、やはり待ち伏せされた、あの日のことがあったのかもしれない。何気なく顔を上げて、それから、自分でも分かるぐらい血の気が引いた。
 人影があった。長身の影。あんなシルエットの知り合いは、ひとりしかいない。
 突然立ち止まったおれを不審に思った成一が、視線の先を追ってから、眉をひそめた。
「千葉さんだよね。おれ、話してくる。こういうの犯罪ですよって」
 押し殺した声で、成一が言った。慌てて首を振り、腕を引く。
「やめろ。巻き込まれてケンカにでもなったら、仕事柄大変なことになるだろ」
 角を曲がればもう家だ。それなのに、路上で腕を引いてこそこそ言い合っている。情けない。
 でもおれは、ケガをしようが死のうがどうでもいいが、成一を巻き込むことだけはしたくなかった。ケンカなんてしたら、懲戒処分の対象にされてしまう。海外派遣されるほど優秀なやつの前途を、絶対に傷つけたくない。
「じゃあどうするの?あそこは一保さんの家でしょう、どうしてあなたがこそこそしなきゃいけないんだよ。何も悪いことしてないのに。こんなのおかしいだろ!」
 正面から見据えられそう言われて、その瞬間、胸の奥の、澱んだところにすっと、風が通り抜けたような気がした。何度も何度も千葉といることを選び、失敗するうちに、心に刻みついた『おれが悪いから、こうなったんじゃないか』『おれのせいで、千葉はおかしくなったんじゃないか』そういう暗い心に、手を差し伸べられた気がした。
 言葉を失ってみつめ返していたら、成一は苦しそうに顔をゆがめた。
「どうしてそんな、驚いたみたいな顔してるの」
「……ごめん…。おまえ、何度も言ってくれてたよな。おれは悪くないんだって。でもいま、はじめて、そうかもしれないなって思ったんだ」
「あたりまえだろ!何度でもいってあげるよ、あなたは悪くない。だから、こんな風に逃げる必要はないんだって」
 うれしい。こんなに真摯に、こころから自分を心配してくれる人がいることが、本当にありがたいと思った。
 だから、おれは成一の腕を掴んで、一目散に走り出した。突然走り出したおれに、成一は「ちょっと?!」と声を上げながらついてくる。家の周りを迂回して、海に向かって、おれは走った。街灯の明かりの中走り続けるうちに、成一は抗議するのもあきらめて、後ろを走ってついてくる。成人男子が夜中に全力疾走しているところなんて怪しさしかないので、どうか誰かに見とがめられませんように、と祈りながら、いつも走ったり寝転んだりしている、海辺に向かった。

 

 

 

「満月だから明るいな」
 砂浜に腰を下ろす。逃げた事に納得できないのか、成一は憮然とした表情のままそれにならった。
 星は出ているが街明かりと月光のせいであまり見えない。
「悪かったよ、こんなところまで付き合わせて。…あー、腹減った」
 海の家に置かせてもらっているブルーシートを広げて、ごろんと横になる。溜息をついてから、成一も仰向けに倒れ込んだ。視界には、月と星しか見えない。
「やっぱり、お前を巻き込むのは違うと思ったから。まあ、そうなるまえにおれがあいつを投げ飛ばすけどさ、その場に居合わせるとまずいことになるかもだろ」
 隣接している海の家のオーナーは、知り合いどころか親友レベルで仲がいい。彼の娘が海でおぼれかけていたときに助けたことがあって、それからはいろいろと融通を利いてくれるのだ。
「……一保さんが、それでいいならおれはいいけど」
 きっと納得していないのに。
 成一は怒ったり大きな声を出したりせずに、そう言って眉を下げた。
 寝ころび、波の音に耳をすませながら、これからのことを考えた。つい最近まで、失恋に落ち込んでいたのに。失恋ステップの「抑うつ」の後はなんだっけと思いだそうとする。
 やめよう。ばかばかしいし、もっと考えなければいけないことは山ほどある。
「そういえばさっき、三嶋先生と何はなしてたの?」
 あえて話を変えてくれた気遣いに感謝しながら、顔を隣に向けた。汗のにじんだ前髪が、走った勢いですっかり跳ねあがっていておかしい。指を伸ばして髪を整えると、成一はくすぐったそうな顔をした。
「…顔の傷あととか、首の傷が、DVじゃないのかってきかれた」
「そうか、あのひと救急医だから…。運び込まれてくる患者さん、たくさん診てるからね」
「うん。違うっていったけど、分かるって言われた。それで…」
 眼を閉じる。大きく息を吸って、吐いた。
「引っ越そうと思う」
 別れ話をした。着信拒否もした。千葉にいたっては結婚して子どもまでいる。
 この状況で、もうできることはこれしかないと思った。
「うん……そうだね、それがいいと思う」
 諦められなくて何度もやり直した。どうしても、千葉じゃないとダメなんだとおもっていた。
 けれど分かってしまった。距離を置き、ひとりになってはじめて気付いた。
「好きだから一緒にいるのと、執着して離れないのは全然違うよな」
 心から笑って、安心して話して、顔色をうかがわずに伸び伸びと過ごす。そういうことを、おれはずっと忘れていた。千葉が悪いとかあいつのせいだとか、そういう話じゃなくて、誰かのせいじゃなくて、恋愛ってそうじゃないだろうってことがはじめて分かった。
 他におれを愛してくれる人なんて、いないかもしれない。二度と現れないかもしれない。合わないところはいろいろあるけど、そんなの誰といたって同じだろう。
 甘い言葉を、触れ合う温度を、愛されているという安心を失うのが怖くて、そう思い込んでいた。
「おれは千葉に執着してたんだ。成一といたら気づいた。だから…ありがとう」
 気持ち悪いと思われるかもしれない。そう怖かったけれど、眼をひらいて、成一をみた。
――成一は、切なくてたまらないものをみてるみたいな顔をして、それから眉をぎゅっとよせて、「おれは何もしてない、できてない」と言った。
 そんなことはないのに。現に、おれは本当に救われているのに。
「おれも、一保さんにお礼を言わなきゃいけないんだ」
 きれいな眼だ。
 ずっとみていたくなるぐらい、澄んでいて、やさしい。
 前に「顔が近い」と遠ざけられた距離で覗き込む。今度は避けられたりせずに、ゆるく微笑みかけられた。
「失恋して、すごく辛くて、忘れられなかったのは、…かみくだけない、硬い岩みたいなのがあったからなんだ。その正体に気付かせてくれた。そしたらね、納得して…少しずつ、らくになってきたんだ。ああ、そういうことだったのか、おれの思い上がりや勘違いじゃなかったんだって、それだけですごく心が救われたんだ」
 何の話をしているのか、おれには分かる。
 精悍な顔をした、無口な男の顔が浮かんできて、黙ってうなづき返すと、成一が泣くのを我慢するみたいに、口をへの字にして鼻から息を吐いた。
「すごい殺し文句だ、っていってくれたでしょう。あれから、ずっと考えてた。あの人がくれた言葉のひとつひとつを思い出して…すごい、苦しかったけど…あの人も好きでいてくれたんだって、分かったから。形は違っても、いっしょにいることができなくても、それで、それだけで、前を向いて歩いて行ける」
 だから、ありがとうはこっちの方なんだよ。
 そう言い終える前に、おれは成一を抱きしめていた。男に抱きしめられるなんて、キモいだろうななんて、考える余裕はなかった。どうしてもそうしたかった。衝動だったから、後から理性がやってきて、顔が真っ赤になっているのが自分でも分かった。何をしてるんだ、おれは。
「ごめ…」
 体を押して離れようとすると、成一が笑いながら抱きしめ返してきた。もうちょっとこうしてていい、と甘えるように言われて、柄にもなくドギマギしてしまった。
「がっ…い、いいけど…」
 なんとなく甘い空気が流れそうになった、その瞬間。
 波の音の合間に、とつぜん大きく鳴ったのはおれの腹の音だった。
 ぐううう、という間抜けな音はあっという間に親密な空気を破壊して、成一もおれも「ぐはっ」と吹き出して大笑いした。
「タイミング!いくらなんでもどうにかならないの」
「しかたねえだろ!は、腹の音なんかコントロールできっかよ!」
 おれたちふたりでは、シリアスなシーンがどうしようもなく決まらない。それがたのしくておかしくて、ビニールシートの上で笑い転げた。腹が減った!!とおれが叫ぶと、おれのほうが減ってるよ!と成一が叫び返す。男子高校生じゃあるまいし、星なんかみて青春モドキしてたってで腹が膨れるわけはない。意を決して起き上がり、腰に手をあてて「よし!食いにいこうぜ」と呼びかけた。同じく立ち上がった成一が、「まだバスあるし、おれの家においでよ。どうせ帰れないんだし泊まっていけば?」と軽い調子で提案した。
「とま…」
「おれの家だと、一保さんの勤務先も近いじゃん。家事分担してくれるなら、いつまでだっていて良いよ、家が決まるまでうちにきたらいいよ」
 当たり前のように優しくされて、困ってしまう。――この優しさになれたら、ひとりで生きていけなくなりそうだ。それに――
「ありがたいけど、やめとく。千葉にお前の家知られたら…迷惑かけるかもしれないから」
 どうしても小さくなってしまう声が情けなかったが、俯かずに言えた。
「正直に言うと、目に見えないところで何かあるほうが心配なんだよ。それとも、ほかにアテがあるの?それなら無理にとは言わないけど…。実家も知られているし、夏樹さんの家にお世話になることもできないでしょう?」
 成一は首を傾げて、不安そうな顔で問いかけてくる。
 夏樹さんっていうのはなっちゃんの名前だ。水川夏樹がなっちゃんの姓名。
「それは…」
「よし決まり。善は急げだ、スーパー寄って帰ろう。いまほんっと冷蔵庫の中空っぽなんだよね、こないだ兄貴が来たときに、掃除機みたいに食い物吸い込んで帰って行ったからさあ」
 文句を言いながらも楽しそうな様子に、頬がゆるむ。
 やさしいのに強引だ、とおもったあとで、違う、やさしいから強引にしてくれているんだ、と気づいて、心の奥がじんわりとあたたかくなる。
 こんなひとと、ずっと一緒にいられたら楽しいだろうな。
 おれに、そんな資格はないけど。
 バス停へ向かう後ろ姿を眺めながら、せつなくなりそうな心を戒めた。
―――勘違いしないように、しなければ。
 野中さんという会ったこともない女の子のことが、頭をよぎる。振った相手にも親切に手紙を返し、たまたま通りかかって親しくなっただけで家に泊めてくれる。好きな人の幸せのために、自分を犠牲にしたみたいに。
 成一は誰にでもやさしい。それが彼の性質なのだから、勘違いしてはいけない。