8:― 1回目 ―

 潜水士は海保官全体のうち2パーセントしか存在しない。おれと千葉、両方とも同時期に潜水士になって、おまけにバディを組むなんて、奇跡としか言いようがなかった。
 体力的には限界に近かったが、精神的には毎日充実していた。おれも千葉も官舎が嫌で一人暮らしをしていたが、徒歩圏内に住んでいたので、お互いの家を通い合った。一緒に住んだら経済的なのにな、と考えたこともあったが、全国転勤が2年~3年置きにある海保官にとって、引っ越しのたびにのしかかってくる保証金や契約更新料はかなり痛手だ。そのうえ海保大出は数が少ないから情報が筒抜けで、男同士で住民票が同じだったりしたら、すぐにおかしなウワサになってしまう。
 1回目の千葉は、いまの千葉よりもずっと一途だった。
 けれど、異常に世間体を気にしたり、外面が良かったり、束縛が激しかったりした。今思えば、それが千葉の本性で、彼の餓えた部分だった。
「……なあ、まだ怒ってる?悪かったよ」
「……」
「一保、ごめんな。なんでも奢るからさ」

 

 

 一昨日のフェリー火災はあまりにも大規模で、おれたちだけでは対処できず、特殊救難隊にお越しいただくことになってしまった。火事から逃れようと海に飛びこんだ人々の救助をしている傍ら、トッキュー隊員たちはさっそうとヘリで船に降り立ち、くらくらするような速度で救助していく。
 彼等のうちのひとり、隊長の合田さんとは友人を介して知り合いだった。お互いに絶対に口外はしない約束をしていたが、彼もゲイだった。ときおりふたりで酒を飲んだり、お互いの恋愛関係について相談し合うことがあった。千葉は、おれがほかの人間(男女問わず)と仲良くすることを嫌がったので、合田さんの話をしたことはない。だから彼がおれの近くにやってきて肩を叩き、「待ってるからな。早く特救隊に来いよ」と爽やかな笑みを浮かべて去って行ったとき、内心(まずいことになるぞ)と背筋が寒くなった。合田さんは海保の頂点である特殊救難隊の中でも、伝説的な存在で誰でも名前を知っているような有名人だったのだ。
引きつった笑みを返してから隣をうかがう。ウェットスーツのままおれの隣に立っていた千葉は、ものすごい形相で合田さんの後姿を睨んでいた。
 お互いにへとへとのまま帰宅したのが昨日、日付が変わる直前だった。おれの家でシャワーを浴びた後、千葉はものすごく意地悪で、しつこいセックスを強いてきた。
「なぜ合田隊長と知り合いなんだ?トッキュー隊と接点なんかないはずだろ、年も離れてるしな」
 声はやさしく、顔は微笑んでいるが目は少しも笑っていない。うつぶせにベッドに押さえつけられ、達する寸前まで追い立てられては寸止めされて、もういやだ、許してとすすり泣いても許されなかった。
「友人だよ…!」
「寝たのか?」
 耳を疑った。疑われていたことに、ではなく、そんな人間だと思われていたことにショックを受ける。
「寝るわけないだろ…!友達だって、いって…ぁ…あ、いやだ、お願い、もう…」
「ふつうの男なら、男とは寝ないな。でもお前は違うだろ?」
 あの言葉は未だに忘れられない。振り返り、千葉を睨みつけたら、うなじに強く噛みつかれた。ウェットスーツを着るときに裸になるから、あとを残すことだけはしない、と約束していたのに。
「やめ、あと、つけんな…っ」
「二度と会わないって約束しろ。連絡先も消せ。…でないと、ずっとこのままだぞ」
「そんな、できない」
 振り払って、投げ飛ばして、絞め落としてやることだってできるのに。
 おれの身体は、頭は、そんなこと忘れたみたいだった。忘れたことにしているみたいだった。ひどいことをされているのに、身体は千葉が欲しくて、嫌われたくなくて、冷たい眼でみられるのが怖くて言いなりだった。
 いやだ、と反抗し続けていたら、千葉が勝手におれの携帯を持ってきて、目の前に突き出した。そしていきなり後ろから、とっくに開かれているおれの中に、いきりたったものをねじ込んだ。強いられていた四つんばいの姿勢が保てなくなって、ベッドにくたりと寝そべる。そんなことお構いなしに、千葉は後ろから、強く突き上げてきた。
「一保。早く、消して。おれのことがすきなら…お願い」
 命令の次は哀願だった。耳朶を音をたてて舐められ、耳を覆いたくなるような水音がして、それにすらどうしようもないぐらい感じていた。
 その頃は、束縛されることが、愛情表現なんだと思っていた。好きな人に愛されたかったから、嫌われたくなかったから、おれは千葉の歪んだ愛し方をひたすらに受け入れていた。セックスで好き勝手されても、ひどい言葉を投げつけられても、黙って耐えた。
 千葉のひどい束縛のせいで、友人のほとんどが疎遠になった。なんでも話せる唯一の友人だった、合田さんまで失いたくなかった。
 ずっと同意しないまま首を振っていたら、業を煮やした千葉が、勝手におれの携帯のロックを解除して、合田さんの連絡先を目の前で消した。信じられなく声を上げようとすると、口の中に服を突っ込まれた。勝手に操作された携帯電話は、もう千葉の興味の対象から外れて、ベッドの隅にポイ捨てされている。
「おれ以外見ないでくれ」
 それからはもう滅茶苦茶だった。泣いても謝っても、千葉は許さなかった。まるで殴られているような抱かれ方だった。気持ちも献身もなく、ただひたすらに欲望を一方的にぶつけられるだけの。
 どうして信じてくれないんだろう。どうしてこんな、ひどいことばかりするんだろう。
 押さえつけられた両腕が痛かった。そして今、ほとんど眠らせてもらえなかったせいで、両目の奥も刺すように痛んでいる。
「なんで、こんなことするんだ」
 掠れた声がやっと返事をしたことに、後ろから抱きついていた千葉がため息をついた。裸の身体が密着しているせいで、とても暑い。唇がうなじを辿ったあとで、耳の裏に吸い付いた。それからしばらくそこに居座り、音を立てて離れる。
「不安なんだ。一保も、いつか誰かに盗られるんじゃないかって、いつも不安で」
 盗られるわけないだろ、と軽口を叩けないぐらい、暗く沈んだ声だった。振り返り、首元に顔を埋めると、千葉は安心したようにおれを抱きしめた。独占欲のにじんだその腕がどうしても嫌いになれなくて、自分自身でもどうかしていると思う。
「おれは千葉が好きだよ。なんで、信じてくれないんだよ」
 縋るような声に、千葉が眉を寄せた。それから小さな声で「ごめん」と謝って、おれの髪に鼻先を突っ込んだ。
 しばらく黙り込んでいた千葉が、ひとりごとのように「おれの親、子どもの頃再婚してんだけど」と呟いたとき、おれは少しまどろんでいる最中だった。
「そういえば兄弟が多いって言ってたよな」
「おれの父親、頭悪いし、最低最悪のクソヤロウだったからな。避妊てものを知らないんだ。女を作っては離婚して、何人も子ども産ませてさ」
 はじめて訊く話だった。胸が痛んで、あっという間に目が覚めた。
「女の連れ子がさ、まあ血の繋がってない兄弟だけど。昔から、おれが大事にしているものをみつけては、盗ったり壊したりした」
 どれほど隠してもシラを切っても、必ず探し出しては奪われた。
 そう説明する口調はあくまで淡々としていて、同情を引こうとするような雰囲気は感じられない。はじめて訊いた千葉の家庭事情に、おれは言葉もなく髪を撫でた。黒くて硬い、短い髪が、指の間でくしゃくしゃした。
「ここには、お前の兄弟なんかいないじゃないか……」
「そうだよな。分かってるんだ。でも怖い」
 一番辛かったのは、可愛がっていた犬を川に捨てられたことだ、と千葉が言った。2歳になったばかりの犬は雑種で、ひとなつっこくて、千葉にとっては一番愛着のある家族だったという。
「ダンボールにいれてさ、目の前で川に流された。必死で走って追いかけたけど、追いつけなくて……。あのときの鳴き声、忘れられない。暴力は忘れてもさ、あのことはいまでも夢にみるよ」
 夏でも長袖を着る意味を、知った気がした。失うことを恐れるあまり、ひとを信じられない千葉が可哀想で、さきほどまで痛みに軋んでいた身体や心のことを、頭の奥に追いやる。
「誰も盗らないし、いなくならない。ずっと一緒にいるから、おれを信じろ」
 目を合わせて言い聞かせてから、深く唇を合わせた。泣き出しそうな声で名前を呼ばれて、大丈夫、と囁く。
――抱かれているのはおれなのに、抱いているみたいな気がするのはどうしてだろう。
 千葉はおれよりも身体が大きい大人で、力だって強い。それなのに、おれを押さえつけながら、縋りついているように見えることがあった。きっと、世間のほとんどの人は、当時のおれたちを見て『共依存』だったり、『DV加害者と被害者』という枠組みの中に入れられただろう。実際そうだったと思う。それでも、おれは千葉を嫌いにはなれなかった。少なくとも1回目の千葉は、一途に、不器用におれを愛してくれた。浮気をしたりしなかったし、長年付き合っていた彼女も捨てておれの手をとった。
……記憶の隙間に、声がきこえる。

 

『力で相手を思い通りにするなんて間違ってる』

 

 そのとおりだ。頭では、おれも千葉も分かっていた。
 わかっていたのに、出口が無くてもがいていた。1回目も2回目も、そして今も。