7:きっと君は忘れる

 絞り出すような声を上げて泣いた。悲しくて悔しいのは、自分がされたことに対してだけではなかった。大切な人を、大好きだった人をこんな風にしてしまったことが、どうしようもなく辛かった。やり直しを繰り返したことが間違いだったのだろうか。出会わないようにしても、好きにならないようにしても、引き寄せられて出会ってしまう。決して幸福にはなれないのに。
「おれが悪いんだ」
 一回目のあのとき、キスを返したこと。そしてその後、何度も後戻りできたのに前に進んだこと。そして昨日。拒むべきだったし、それができたはずなのに。――心が拒んでいないから受け入れてしまったこと。
「一保さん、これは暴力なんだよ。どういう事情があっても、力で相手を思い通りにするなんて、間違ってる。犯罪行為だし、絶対に許しちゃいけないことだ」
 肩を掴んでおれを引き離すと、感情をおさえた低い声で成一が言った。
「わかってる。でも、おれが選んだんだ。何度もやりなおして。だから千葉だけが悪いんじゃない。それに、千葉にも事情があるんだ。こうせずにはいられないような事情が」
「どんな事情か知らないし、知りたいとも思わないけどね。例え生まれ育ちが不幸であっても、今の自分の言い訳にはならないんだ、っておれの尊敬している人は言ってたよ。その人は本当に大変なおもいをしながら生きてきた人だったけれど、人を助ける生き方を選んでた」
 成一の言葉は正論で、だからこそ深く心に突き刺さった。弱さの原因を探してなすりつけても、今の自分は何も変わらないし、どこにもいけない。
 しっているから、わかっているから、辛い。
「みんながその人やお前みたいに、強いわけじゃない」
 反論をしようとした成一が、痛みをこらえるような顔をして目を逸らす。
「…そんな顔しないでよ、ずるいよ。何も言えなくなるじゃないか」
「言わなくていいから、もうちょっとだけハグしてくれよ。そしたら元気出るかも」
 それから、成一は何も言わずにおれを抱きしめたままじっとしていた。大した知り合いでもないのに、こんなにも親切にしてくれる成一のことが、おれは少し不思議だったが、偽善だとか、何か裏があるとか、そういう風にはちっとも感じなかった。星野成一という人間はもともとこういう性質なんだろうな、と納得させるものが、彼からは常に溢れていた。誰にでも親切で、笑顔があたたかくて、惜しみなく与えることができるのは、愛情あふれた家庭で愛されて育った証拠なんだろう。
「つらいときはね、好きなものを数えるといいよ」
「すきなもの?」
「そう。一保さんは、何がすき?ごはんでも、場所でも、なんでもいいから」
 すぐそこに、微笑んだ成一の顔がある。おれは思わず吹き出しながら、「たとえば、子猫のヒゲ、とか?」と返す。
「そう。バラの上の、雨のしずくとかね」
 My favirite thingsじゃねえか!軽くこぶしで肩を叩いて突っ込めば、成一がわざとらしく眉を上げて「あ、バレた?」と笑った。
「おれはね…日曜が休みの日に、朝早く起きてね。ランニングが終わった後、ひと気のない公園の広場で踊ることかな」
 不審者みたいだよね、と成一が付け加える。
「踊る!?おまえ、踊れるの?」
「バレエダンサーとしてはこれでもちょっとしたもんだったんだよ、神奈川県では。…まあ、やめちゃったけど」
「すごいじゃん!!…おれ、ミュージカル映画すっげー好きでさ。アメリカ住んでたときも、遠いのにブロードウェイまで何度も通ったよ、伯母さんと泊りがけでさ」
「そうなんだ。じゃあ、タップダンスは好き?」
「大好き!習おうかと思ったもんな、リズム感全くねえから諦めたけど」
「じゃあ今度、何か踊ってあげるよ。一保さんのすきなものは?」
 驚いた。
あんなことがあったのに、いつの間にか、おれは笑っていた。
「…そうだな、まずは、朝の海が好きだ。まだ誰も踏み入れてない、砂のたっていない海中を、潜って、泳いで、朝日を浴びるのが大好きだ」
「いいね、ほかには?」
 身体を離して、考える。
「コーヒー。辛いときも、あの香りをかいだら元気が出てくる」
「一保さんのいれるコーヒー、美味しいもんね」
「本当か?嬉しいな」
 よほど無邪気な顔をしていたのか、成一は目をぱちぱちさせてから破顔した。
「いますっげー可愛い顔してた」
「可愛いいうな」
 おかゆを下げてから戻ってきた成一が、「あとはね、音楽。前も話したけど、アメリカのロックが好きだな。オルタナとか…夕方、車の中で聴くweezerなんて最高」と言ってベッドに座る。
「音楽好きなのか。家行った時、たしかにいいステレオ使ってそうだなと思った」
「JBLだよ。清水の舞台から飛び降りる気持ちだったけど」
「うわいいな~~…JBLか…たっけ~もんな~」
 てのひらがのびてきて、額を覆う。つめたい手のひらだった。
「熱下がったみたい。顔色もだいぶよくなったよ」
 敬語ではなくなっていることがうれしい。Maroon5の初期が好き、とおれが言うと、成一が「おれも!」と嬉しそうに返してくる。
「ファーストアルバム、名作だよなあ」
「Sunday Morningのメロディは、ちょっと歴史に残したいぐらいだよね」
 ひとしきり盛り上がったあとで、沈黙が訪れる。年が近くて、お互い失恋したばかりで意気投合していても、成一は基本的にはストレート(異性愛者)だということが分かっている。求められている説明はなかなか言い出しづらかった。
 窓の外から、波の音がする。薬が効いて痛みはマシになっていた。もともと病気というわけではないので、身体を動かすことはできるらしい。掛け布団をどけて、成一に「ビール飲むか?」と尋ねるが断られた。
「暑いな。クーラーつけるから窓しめてくれるか」
「うん。キッチンの窓しめてくる」
 買ったばかりのエアコンは、その能力を存分に生かしてあっという間に部屋の中を冷やしていく。ベッドに腰掛けた成一の髪が、風に揺れているのをなんとなく眺めた。品のある端整な顔立ちをしているが、目の色が明るく目力があって、視線が合うと外せなくなる。
 つらいときに何の見返りも求めずに優しくされたら、好きになってしまいそうだ、とおもって、すぐにかぶりを振った。
さっき抱きしめられたときに感じたいい匂いは、男の匂いじゃない。間違いなく、女物のシャンプーやボディソープの香りだった。俺は別に匂い鑑定士とかじゃないけど、それぐらいは30年近く生きていれば分かる。
 制止する成一に笑ってこたえながら冷蔵庫にたどり着き、口を付けていない、水のペットボトルを投げて渡す。ありがと、とお礼を言う成一は、まだ心配そうな顔をしている。
「野中奈緒子さんって、彼女?」
 隣に腰掛け、何気なく尋ねる。
「違うよ。でも、友達よりは親しいかも。なにしろ一年以上文通してたからね」
「いまどき文通って!」
 でも、似合う。なんとなく、フェイスタイムやスカイプよりもしっくりくる。
「お互い写真が趣味だったから、ハガキにしてメッセージを添えて送り合ってたんだ」
 それから、野中さんについて成一が短く説明した。救急隊の業務で、倒れた人の救命処置をしてくれたのが野中さんだったこと。姉を心臓病で亡くしていること。要救助者(救急隊では傷病者と呼ぶらしい)を病院までいっしょに運んだ時、仕事内容に感動して救急隊になりたい、と言われたこと。それをきっかけに一緒にランニングしたり、トレーニングのアドバイスをするようになったこと。
 普通ならそのまま恋愛関係になりそうなものなのに、成一はそういうつもりは全くなかったし、これからも無いのだと言い切った。
「すごくいい子なんだ。だからこそ、なんとなく寂しいから付き合ったり、とりあえず抱いとくか~みたいには絶対に思えない」
「確認だけど、成一は異性愛者なんだよな?」
「多分そうだと思う。男性を好きになったのは、直近の失恋がはじめてだった」
 生真面目な横顔を、まじまじと眺めてしまう。「ちょっと、近いよ」と顔を逸らされて、すぐに離れた。表裏はなさそうなのに、何を考えているのか、表情から読み取りづらい。
「エライなあ。据え膳喰わぬは男の恥、じゃなかったのか?その子、お前のこと好きなんだろ」
「どうしてわかっちゃうの?…はは、すごいな」
「いっとくけど、おれお前より年上だかんな。経験が違うんだよ、経験が」
「はいはい、傷付いた経験が、ってことね」
 成一が言葉でチクリとおれを刺してから、手で口元をおさえ、あくびをひとつかみ殺す。そういえば昨日が明けで今日が非番だった。明けの日おれに付き合ったせいで、睡眠時間が足りていないのかもしれない。
 眠いなら、ベッド貸すぞ、と言おうとしてやめた。シーツも交換されていたが(死にたい)、このベッドに横になれというのはあまりにもひどい話だと思った。
「客用の布団があるから、そこに敷いてやろうか?」
「んーん、いいよ。…やっぱごめん、ベッドの端借りてもいいかな」
 返事をする前に、成一がごろんと横になる。セミダブルのベッドから、彼の長い脚は一部はみ出していた。動揺しながらも窓際いっぱいに寄って、仰向けのまま天井をみる。ふれていないのに、あまりに近い距離のせいで、成一の体温を感じてしまっていたたまれなくなった。
 なにやってるんだろう、おれは。
 無理やり犯されたベッドで、ボロボロの自分を見られた後で、なぜか一緒に横になって眠ろうとしている。
――千葉といるとき、おれはいつも緊張していた。好きなのに、確かに一緒にいると満たされるし興奮するのに、安心して眠ったことなんて多分一度もなかった。いつかくる別れのことや、浮気を責めることができない自分の卑小さや、時々乱暴になるセックスが気になって、明け方になるといつも先に目が覚めてしまう。昨日や、よほど疲れている時でない限り、千葉より後に寝て、先に目が覚めていた。そしてそれを、やはり他人といるから、緊張するのかな、と受け入れていた。
 けれど今、確かにとなりに成一の体温を感じるのに、眠くて、目を開けていられない。隣の横顔、蛍光灯にうすくてらされた、こげ茶色の睫毛は、いまにも眠りに落ちそうに半分以上閉じられていた。広い胸が、ゆっくり上下に動いている。深くて、しずかな呼吸につられるように、おれの呼吸と心音が落ち着いていく。
「そうだ…アイコンの折鶴のはなし、…ごめん、ねむい。あとでするね」
「…うん」
 どちらが先に眠ったか分からないぐらい、静かに眠気が落ちてきた。遠くで、「おやすみ」という声が聴こえた気がした。

 

 

 

 ☆☆☆

 ぼくが死んだら、次の日にはみんな、ぼくを忘れる。
 でもお母さんは、ぼくを忘れるけどすごく悲しいってことだけおぼえていて、たいへんなことになるんだ。
 だから、やくそくだよ。ぼくがいなくなった日の夜、庭のいちばん大きな木のねもとを、かならずほりかえしてほしい。そこに、ノートをいれておくから。カズくんや、おとうさんやおかあさんがいきていけるように、ぼくがかんがえた未来ノートをいれておくから。
 カズくん、ぼくはいなくなるけれど、きっとかずくんはわすれないよ。だってぼくらはおなじ卵からうまれたもの。ひとつのたまごがふたつにわれて、そうしてできた兄弟だもの。
 でも、やっぱりさびしいな。
 なによりも、だいすきなカズくんにあえなくなることが、さびしい。
 おとうさんやおかあさんが、ともだちがぼくをわすれてもかまわない。
 カズくんにだけは、おぼえていてほしい。ぼくがいたこと、いっしょにいろいろなことをしたよね。いつもまもってくれたよね。ありがとう。

 だいすきだよ、カズくん。
 いつか、どこかで、ちがうふうに会えたらいいな。

 

 ☆☆☆

 

 

 ドアフォンが鳴って、うすく目をあけた。
 霞んだ視界のピントが完全に合ったとき、ねそべったまま、肘をついておれをのぞきこんでいた、成一と眼が合った。琥珀色の美しい眼が、じっと見つめ返してくる。
「…もしかして、千葉さん?」
「さあ…違うと思うけど…」
 このぼろアパートには、カメラ付きドアフォンなんてものはついていない。頼りないドアスコープから見るしかないのだが、窓の外を見る限り日は落ちていて、こうなるとほとんど外は見えない。
「警察を呼ぼうか?」
「それはダメだ。なっちゃん…家主にも迷惑がかかる」
 最初から期待していなかった、というように、成一が溜息をついて立ち上がる。
「じゃあおれが見てくる。千葉さんの写真とかあるかな?」
 無言で携帯電話の写真フォルダを開き、成一に見せた。冷たい、感情を殺したような顔で、成一が「見てくるね」と言って玄関へ向かっていく。
 しばらくして帰ってきた成一は、笑いをこらえるような顔で「誰が見ても兄妹だってわかるような、可愛らしい女の子が来てるよ。吟遊詩人みたいな人と一緒に」とささやく。言い終わるまえに、彼等はドアをあけてなだれ込んできた。看護学生の深雪は今にも泣き出しそうな顔で「お兄ちゃん大丈夫!?」と叫んで抱きついてきて、その後ろでなっちゃんが眉尻を下げていた。
「きれいな顔が台無し。千葉さんに会ったとき、もしかしてと思ったの」
 手入れの行き届いた茶色いロングヘアを撫でてやりながら、なっちゃんに「どうしたんだ、ふたりして?」と問いかける。朝方出張から帰ってきたなっちゃんは、ただならぬオーラを放って帰る千葉とすれ違ったらしい。すぐに深雪に連絡をして、ふたりで部屋に来たのだと説明した。
「ごめん、僕がいたら何か役にたてたかもしれないのに。…平気?」
「平気と言ったらウソになるかな。まあでも、殺されてはいないからそのうち元気になるよ」
 三人でのやりとりが一段落したころを見計らって、成一が控えめな声で言った。
「一保さん、おれそろそろ帰るね」
 もうひとりいたことに初めて気づいたような顔で、深雪となっちゃんが成一を見た。好奇の眼にさらされてもなお、成一は姿勢がよく、品のいい物腰で「おじゃましました」と微笑む。
「待てよ。ふたりに紹介するからさ、」
「でも…」
「折鶴。まだ、きいてない」
 深雪がおれと成一を交互に見てから、何かを察したかのような顔をした。それからニタリと満面の笑みを浮かべる。大体中身の想像はつくけど、違うからな、と先手を打って黙らせた。
 身の置き場に困っている成一に、みゆきが手のひらを差し出しながら言った。
「わたし、村山深雪といいます。兄の…新しい彼氏ですか?」
 おれとなっちゃんが同時に目を見開く。当の成一は、突然の剛速球に何度かまばたきはしたものの、あの人を惹きつける優しい笑みを浮かべて「友人です」と訂正した。
「隠さなくていいのに」
「本当ですよ。お互いに失恋したばっかりで。…失恋ステップを競いあってるんです」
 秘密を打ち明けるような親密さで、成一が耳打ちする。深雪は嬉しそうに悲鳴をあげて、なっちゃんにそれを伝えた。なっちゃんが笑って、ベッドサイドに腰掛けておれの額に手を当てた。
「打撲がひどいと熱が出るからね。…他にどこか殴られていない?」
 成一がこちらに視線を投げたが、眼で『言わなくていい』と合図を送る。聡い彼は、すぐに意図を察してくれた。
「顔が一番ひどかった。あとは応急処置をしました」
「こいつは星野成一。ラッキーなことに救急救命士だからそのあたりばっちりだ」
 成一が『吟遊詩人みたいな人』と言ったのも頷ける。伸びた髪が奔放に散らかったなっちゃんは、スナフキンがかぶっていそうな形の帽子とゆるいTシャツを着て、何故か首からハーモニカをぶらさげていた。事実彼は相当な旅人でもあるので、元々もっている自由な雰囲気と相まって、むかしのRPGでいう『吟遊詩人』にぴったりだ。顔をみてフハッと笑われたことに驚いたのか、なっちゃんが長いまつげを揺らしてゆっくりまばたきをする。
「どうしたの?」
「成一がさ、なっちゃんを吟遊詩人みたいだって言うから、ほんとそうだなって」
 抱きついている深雪が笑った。なっちゃんは意味がよく分からなかったのか、へにゃりと困った顔をした。
「youtubeで、音楽に合わせて小鳥が踊る、っていうのをみたんだよね。それで、うちのスイの前で吹いてみよう!って思いついて」
 今度は、おれと成一が目を合わせて吹き出す番だった。スイというのは、彼が目に入れても痛くないぐらい可愛がっている文鳥の名前だ。長く家を留守にするときは、おれか深雪がスイのお世話を仰せつかっている。
「実験はあとでするとして、とりあえず、ご飯食べませんか?」
 成一の提案に、全員が賛成の声をあげた。

 

 

 なっちゃんの部屋に招かれて、四人で彼の手料理をごちそうになった。一階には小さな庭があって、そこから海は階段を下りてすぐの距離だ。古くても、おれはこの家が気に入っていた。だから風呂のタイルが剥がれていてたまに窓からアマガエルが入ってくるような部屋でも、不満を抱いたことはない。最優先条件が、海の近くに安く住むことだったから。
 今日はアジア料理が食べたくて、と言って、カンボジア料理やシンガポール料理をふるまってくれたのだが、それがなかなか美味しかった。とにかく辛い物が多いイメージだったけれど、やさしい味のものもあって、とくに海南鶏飯ハイナンジーファンというゆで鳥のスープで炊き込んだご飯と柔らかい鶏肉は、くせになるぐらい食べやすくて美味しかった。
「これ、下ごしらえにすごい時間がかかりそうだなあ…」
「そうでもないよ、教えようか?」
 成一は台所で食器を洗いながら、なっちゃんと盛り上がっている。理由はよくわからないが、なっちゃんは成一をすごく気に入ったみたいだった。
 一応オーナーの家になるから、おれの部屋よりは広い。リビングも13畳ぐらいはあって、壁に沿って並んでいるビンテージっぽい棚には、異国のさまざまな布や、よく分からない置物が並んでいる。
「ねえ、お兄ちゃんの本命ってどっち?」
 ソファにもたれて残ったお酒を飲みほしてから、深雪がすっと近づいてきて耳打ちした。本当に女の子という人種はみんな、他人の色恋沙汰が大好きなんだから呆れる。
「どっちも友達」
「つまんない!古い恋には、新しい恋を上書きするしかないのに」
「そういうお前は最近どうなんだよ?また親父より年上の男と付き合ったりしてんじゃないだろうな…」
 いろいろあって、深雪は親父と口もきかない。それでも内心では父性を求めてでもいるのか、二回り以上年上の男とばかり付き合っている。妹と母は仲がいいようだが、おれは親父に同情しているしどちらかというと共感もする。深雪が親父を毛嫌いすることになったきっかけを思い出しながら苦笑した――男だから、分かる面もあるのだ、それが正しいことではなかったとしても。
「付き合ってるよ?でもねえ、束縛が激しくって。毎日毎日電話がかかってきて、友達とも遊ぶなっていうの!昨日なんて、ご両親に挨拶に行きたいとまで言いだすし。わたしまだ22だよ、結婚なんて考えた事もないのに」
 なんとなく視線を感じてキッチンに視線をなげると、成一となっちゃんが何か囁き合いながらわらっている。なんだよ、と問いかけると、「あまりにもふたりが似てるから」と言って成一が眉尻を下げた。
「美男美女の兄妹だから、近所で有名でしょうねえ」
「ありがとう。でもわたし、どちらかというと美人というより可愛いほうだって言われるの」
 得意気に微笑む深雪の小生意気な可愛さときたら。顔立ちはおれとそっくりなのに、女の子というだけでこんなに守ってあげたくなるのだから困ったものだ。
「そうだな、おれなんかと比べたらだめだって。深雪は世界一可愛い」
「一保さんは、深雪ちゃんを甘やかしすぎだからね」
 間髪を入れずになっちゃんが指摘してくる。隣で成一が「言えてる」と言って呆れ笑いを浮かべた。うるさい、分かってんだよ。年が離れているし、航太郎のこともあって、つい甘やかしてしまうのだ。
「君たち兄妹は、どちらも優しさを勘違いしていて、DV被害者になりやすい性質ってとこもそっくりだよね」
 突然なっちゃんが放り込んだ爆弾に、おれと深雪は口をあけたまま固まった。ちなみに、ソファへ向かおうとしていた成一も固まっていた。かちんこちんと。長い間冷凍庫の隅で忘れ去られていたソーダバーみたいに。
「……コーヒー…飲みます?」
 敬語になったおれを、ぎくしゃくと深雪が見上げて「わ、わーい、飲みたい」とぎこちなく同意を返す。おれじつはバリスタ持ってるんですよね~。誰もきいてないのにそんなことをぶつぶつと呟きながら、お湯を沸かし、ネルドリップでコーヒーをいれた。その間、沈黙。驚くほど重い沈黙。
 テーブルの周りに集まって、はじめてわかった。なっちゃんはすごく怒っていた。多分、おれよりもずっと。殴られただけじゃないってことが分かって、そして本当ならおれはそれを防げたのにそうしなかったってことも分かって。
 4人でコーヒーを飲む。成一には、スチームミルクをたっぷりと。なっちゃんにはブラックで。みゆきには、ラテアートでネコの絵を描いて手渡した。
 なっちゃんの眼は怒ってはいたが、責めてはいなかった。だからこそおれは何も言えずに黙っているしかない。深雪は深雪で、普段はやさしいなっちゃんの厳しい言葉にショックを受けているみたいだった。
「黄色い折鶴の話でしたね」
 成一だけは例外だった。彼は一瞬ソーダバーになったものの、そのあとはごく自然に振舞った。コーヒーを飲み、おかわりを入れ、重い沈黙の中自分の携帯を取り出して、おれたち三人に見せた。
「このアイコンの折鶴、確かにボロボロですよね」
 これね、派遣先のカンボジアで、仲良くなった女の子が作ってくれたんです。リティという名前でした。一度、あまりの暑さで熱中症にかかってしまったことがあって。病院まで、作ってもってきてくれたんですよ。
 成一が微笑みながらそういって、愛おしげに携帯電話の画面を撫でた。貧しい家の子だったが、勉強が良くできた。外国人がめずらしいのか、よく消防署に遊びにきていた。
 空いた時間にJICAのひとたちも混じって、タップダンスを教えたり、他の近所の子たちも交えて縄跳びをしたりして遊んだのだという。
「でもぼくらの友情に彼女の母親は良い顔をしなかったんです。児童買春をするためにやってくる日本人はたくさんいたから。疑われているのかな、と思っていました」
 成一の話はシビアで、だからこそヒリヒリするほど現実だった。
「でも違ったんですね。彼女は、リティが僕ら大人に相談して、自分の犯罪がバレることを恐れていたんです」
 ある日を境に、リティは街から姿を消した。消防署のほかのメンバーも、知り合ったNGOの友人も、警察に掛け合い、母親にも何度も問いかけた。
 けれど、母親から帰ってきたこたえはいつもおなじだった。「あの子は親戚の家にひきとられた」
「そんなのウソだって、みんな分かってました。――半年後、児童売春宿を経営していたシンジケートが一斉摘発されて、リティは…」
 もう亡くなっていました。殴られた痕、注射の痕、タバコを押し付けられた痕がいっぱいの、変わり果てた姿で見つかって。
「そのときにね、おれは何をしにきたんだろう、って思ったんです。救急システムの構築、それはすごく大切なことです。意義のあることです。現地のスタッフもみんな熱心で、きっとあの国の救急医療は向上したと思います。でも、目の前の子どもひとり救えなくて、来た意味ないよなって。日本にいたときと、何も変わってないじゃんって」
 そのときの気持ちを忘れないために、この画像を見ているんです。
 成一の言葉に、おれたちはみんな言葉をなくしてうなだれた。
「でも、もうダメだっておもったとき、必ず思い出す言葉があったんです。その言葉があれば、おれはいくらでも頑張れた」
 そのとき切なげに揺れた眼をみて、おれはその言葉を言った人物が誰なのか察した。
「どんな言葉?」
『迷わずに進め。お前が正しいと信じることを、一緒に信じる』
 背筋が、しびれた。あの真っ直ぐな目をした、嘘をつけなさそうな男最大限の、愛の告白にすら思えた。いや、むしろ「愛してる」よりもずっと重く、強い言葉だった。
「…すごい殺し文句」
 おれの呟きに、成一が目を細める。雨が流れる窓のような、胸が痛くなる表情だった。
「あの人以上に好きになれる人なんて、……今後、現れる気がしません」
 話が終わると、成一は携帯電話を大切そうに鞄に入れて、窓の外をみた。おれもそれにならった。内心、なんだよ、片思いじゃないだろそれは、と思ったが言ってやらない。
 深雪は、なっちゃんに言われた言葉の意味を考えているのか、無言でソファに転がっていた。なっちゃんは、おもむろにハーモニカを吹きながら鳥かごへと近づいて行ったが、残念なことにスイは踊らなかった。真っ白な文鳥のスイは、なっちゃんの肩にのってこちらにやってきた。そっと指の腹で撫でてやってから、柔らかい羽に覆われた頭に鼻を寄せる。香ばしい匂いがした。
 ラグの上に寝ころんでスイをお腹の上に乗せたり、頭に乗せたりして遊んでいると、どこからか強い視線を感じた。ソファをふりかえると、そこでは酔った深雪と成一が身を寄せ合うようにして眠っている。顔の上に影ができて、声を上げる前にその影はおれに覆いかぶさってくる。額に、つめたい唇がふれた。
「…な、に」
「僕は世界で一番、一保さんの幸せを願っているから。だから、ひとのことじゃなくて、自分のことをもう少し大切にしてもらえないかな?」
 長い前髪の間からみえる眼が、かなしげにゆがむ。やわらかい声や顔立ちを見ていると、彼にどこかで会ったような気がしてきて困った。遠い昔、どこかで会ったような。彼は長い間海外に暮らしていたのだから、そんなはずはないのに。
 ぼんやりとみつめ返す。きれいな眼だった。指が頬をなで、睫毛にふれて、祈るように額を合わせてくる。
「相手の弱さを許しても、ますます苦しめるだけだよ。それは優しさじゃない」
「…うん、知ってる」
 5歳も年下なのに、時折自分よりもずっと大人びた顔をするなっちゃんが、時々わからなくなる。彼はどんなときでも変わらず親切にしてくれるけれど、自分の事はほとんど話さない。