5:暴力的な愛

 週に一回会ってるとか彼氏かお前は、とおもいつつバス停に向かう。日はまだ明るかったが、今日はかなり暑い日だったので、ベンチに座っているだけで汗が噴き出してきて困った。
 由記駅は市内で一番大きい規模を誇っているので、乗車する人、降車する人でロータリーはごった返している。ロータリー沿いにはデパート、ファミレス、飲食店が並んでいて、高架下には、そろそろ灯りがともりはじめた飲み屋群がしのぎを削っている。
 外で飲むのも悪くないが、成一なら家に来てもいいのに。冷蔵庫にはビールしか入っていないが、適当にスーパーで食材を買って帰れば、料理はそれなりに出来るし安く済むし。
 安定した月給のみならず、夏と冬の賞与まできちんと出ていた公務員時代と比べれば、カフェの店長という(名ばかり)社員は、かなり安月給の部類に入るだろう。それでも雇ってもらえるだけありがたいと感謝はしているが、オーナーの話をきく限り、この不景気に飲食店経営は決して楽ではないようだった。たまたま縁があって、海保をやめてすぐ雇ってもらうことができたけれど、店の経営が苦しくなったら、まっさきに自分をリストラしてくれと伝えてある。遠慮はいらないと。
 潜水士の資格を使えば、もっと給料のいい仕事はいくらでもあった。一等航海士も持っているし、海に関わろうと思えばできたはずだ。
――でもおれは、そうしなかった。あの頃、とてもじゃないがそんな気持ちにはなれなかった。ボロボロのどん底にいたとき、助けてくれたなっちゃん、深雪、それにアフロ(オーナー)。彼等のためなら、ほとんどどんなことでもするだろう。
 通り過ぎていく人々を眺めながら考える。彼等にも、それぞれの人生があり、大切な者がいて、やり直しの効かない人生を必死に生きているのだ。おれは――許されざる力で、何度もやり直した。すべて千葉を生かすためだけに、幸福にするためだけに、自分のエゴを押し通して。
「一保さん、待たせてごめんなさい」
 柔らかい声に顔を上げた。昼前に店に来たときと同じ服装で、成一が目の前に立っていた。息が上がっていて、首筋に汗をかいている。
「なんだ、走ってきたのかよ。そんな急がなくても、」
 待つのは慣れてる、と言おうとして、やめた。過去のろくでもない恋愛の話を、わざわざ持ち出す必要はどこにもない。
「…?なんですか?」
「こっちの話。なあ、今日どっか店決めてんの?」
「いえ、それなんですけど、おれの家ここから近いんですよ。良かったらうちで飲みませんか?」
 立ち上がり、まじまじと成一の顔を見た。彼は全く他意の無い、賢そうな眼でおれを見つめ返してくる。
 黙っていたことを何か勘違いしたのか、頭をかきながら「無理強いはしませんけど…」と言い足す。まったく、お前ってやつは、どこまでいいやつなんだよ。
「おれもそれ、考えてたからびっくりしただけ。うち来るか?どっちでもいいぞ」
「いえいえ、先日ごちそうになったばかりですし。適当でよければ作りますよ。ジントニックも、ゴードン・ロンドン・ドライジンでよければ」
 立ち上がり、ふたりで駅近くのスーパーに向かって歩きながら、おれは肩をすくめた。
「まさにジントニックのためのジンじゃねえか。ライムとトニック・ウォーターがあれば完璧だな。…ま、おれはタンカレーで作ったジントニックしか飲んだことねえんだけど」
「ちょっと苦みがあって、なかなかイケますよ。友人にバーテンダーがいたので、教えてもらったんです」
 駅前のスーパーは、さすが由記市でも高級住宅地に近いだけあって、なかなかの品ぞろえとお上品な値段設定だ。ふたりでライムの高さに悲鳴を上げたりしながら、グレープフルーツ、それに南蛮漬けのためのサーモンや野菜、唐突に食べたくなった餃子の具材(生地から作るのがおれの得意料理)をかごの中に放り込む。
「いたってことは、もう今いなくなったのか?そのバーテンダーの友達は」
「そいつ、バーテンダーだけどジャズピアニストでもあったんですよね。で、ピアニストとして修行するっていって、ニューヨークへ。もう一年…ちょっとぐらいになるかな?」
 スーパーの袋をふたりで下げて、成一の家へ向かう。駅までは自転車で15分ほどかかるらしく、バスにのるかと尋ねられたが、運動がてら歩くことにした。
「お前は友達たくさん居そうだな、うらやましい」
「あなただって、人見知りしないし多そうですけど」
「おれはなあ…なんていうか、後ろめたくて。あんまり友達はいねえかな。あ、そうだ。敬語いらねーから。おれ別にお前の上司とか同僚じゃねえし、年が上ってだけで敬語使う必要ないだろ」
 成一の家は、古いがよく整備されたマンションだった。不動産屋に勤めている友人に紹介してもらった、と笑っていただけあって、設備や築年数が古い代わりに、1LDKで充分な広さがある。
 部屋のいたるところに配置されているグリーンも青々と茂っていて、マメに手入れしているんだなと微笑んでしまった。
「一年も留守にしてたのに、よく無事だったな、お前ら」
 クワズイモの葉に話しかけながら、家の中に入る。お邪魔します、と声をかけると、成一がどうぞ、と応じた。
「派遣されてる間は知人にあずかってもらってましたが、植物って意外と強いですね。あ、リビングにソファがあるんで、そこに座っててください」
「なんでだよ。おれも手伝うって。手、勝手に洗わせてもらうぞ」
 お客様に手伝わせてすみません、などと成一が言うのでローキックをかましてやった。家に上り込んでるのはこっちなのに(おまけに先日のお礼とか言って金も成一が出した)、お客様なわけないだろ。
 一人暮らしの部屋にしては広いキッチンに、ふたりで並んで料理を開始する。お互いに嫌いじゃないらしく、おれが餃子の生地を作っている間に成一がサラダを作り、サラダが出来上がると特に何も言わずに生地に具を詰めはじめる。何も言わなくても、お互いに何をしてほしいのか察し合えることが新鮮で、おれは黙々と料理に集中した。
「一保さん、すごい手際いいね。飲食店だから?」
「いやー、一時期アメリカに住んでたからじゃね。あっち、自炊しねえとほんと太るからさー。ケータリングの数も種類も多いんだけど、金かかるしな」
 驚いたのか、一瞬成一の手が止まった。
「いつごろ、どうして住んでたんです?」
「中学1年から高校2年まで。理由は、おれが家族にゲイだとカミングアウトしたから」
 フライパンに火をつける。サーモンの土佐酢マリネは、おれの大好物だから集中して仕上げたい。手のひらを成一に見せて「しばし待て」の合図を送り、お互いにキリのいいところまで仕上げてから、「いいぞ。他に質問は?」と問いかける。
 成一は、冷蔵庫からスーパードライを取出し、おれに手渡した。使い終わったフライパンをさっそくシンクで洗いながら、「いただきます」と声をかけて一息に半分ほど飲む。ああ、暑い夏には最高に美味いな、この炭酸強めの感じ。
「どうしてアメリカに?」
「伯母が住んでたから。カリフォルニア州、アラメダ郡、バークレーってとこに。おれちょっと周りと違うみたいだな、って気づいたのが小学生の頃で、毎日思い悩んでたら母親の方から『あなたもしかしてゲイじゃない?』って言われてさ。死ぬ気でうちあけたら、『そんなことで悩む必要なんてないのよ!世界にはいろいろな人がいるんだから。みんな違いを認め合って共存してるわ』って目をキラキラさせながら言われて」
 成一が、何故か羨ましそうに目を細めておれを見下ろした。
「いいお母さんですね」
「そうか?まあ…そうなのかな。日本にいると、違いを認め合う文化が身につかないから、多様性のある国でしばらく住めばいいわ!っていわれて伯母の家に住んでたんだ。おかげさまで、あんまり自分のセクシャリティには今悩んでないな。バークレーにいるときは途中からカミングアウトして暮らしてたけど、みんな「ああそう」って感じで受け入れるか、面と向かって差別的に罵倒してくるかどっちかだった」
 一通り餃子を詰め終わった成一が、ホットプレートを出してきて、リビングのテーブルに置いた。なるほど、一気に全部焼くわけね。
 こちらで出来上がっている料理を全部移動させていると、彼は宣言どおりジントニックを作り始めていた。ジンの、爽やかで刺激的な香りが、ライムの酸味と交じり合って鼻をくすぐる。海辺で飲んだら美味いだろうな、と想像して、どこまで海に取りつかれてるんだよ、と自嘲した。
「なんかさ、性的マイノリティは日本だと空気みたいっていうか、いないみたいな扱いされることが多いだろ?でも向こうだとさ、そうじゃないんだよな。みんな別々に、それぞれの個性や嗜好がそこにあるんだ。差別がないわけじゃない、むしろ正面切って差別されることもあるんだけど、いないもの扱いではないんだよな。だから、すごく救われた。あっちで出来た友人、教師、叔母、みんな宝物だ。良い国だよ、あそこは。別に日本が悪い国ってわけじゃないけど」
 色々なことがどうでもよくなる。おれの髪が黒いことも、肌の色が黄色いことも、男が好きなことも。たくさん存在している個性のひとつになり、特別でも珍妙でもなくなる。それが、気持ちを楽にさせてくれた。
 おれの言葉に、成一が「うん」と返事をしてじっと見つめてきた。ちょっと恥ずかしくなるぐらい、それは熱っぽい視線だった。
「…なんだよ、警戒してんのか。大丈夫だって、襲わねえから」
「そうじゃないよ。一保さんが真っ直ぐで、強くて、眩しいなって思っただけ」
 強くなんかない。アメリカでだって、いやがらせされたり酷いことを言われて、ひとりで泣いた夜もあった。けれど、強くなりたいとは常に願っていた。些細なことで傷ついたりしないように、どんなときでも前を向いて歩けるように、起こったことを誰かのせいにしないで引き受けられるようになりたかった。
「ありがとう」
 笑ってみせると、成一がどこか苦しそうな顔をして、わずかに口角を上げた。それはまるで、航太郎が未来を予知するとき、おれにだけ見せてくれた顔のようで、不意に全てを、航太郎のことや自分の秘密を、打ち明けたい衝動に駆られた。
「…なあ、成一。会ってそんなに経ってないのに、何いってんのって思われるかもしれないけどさ」
「うん?」
 作り終えたジントニックを手渡されて、乾杯した。
「いつかおれの秘密、きいてくれるか。なんでだろう、お前には知っててほしいんだ」
 食事を並べ終えて、あぐらをかいて食べ始める。いただきます。
 ――うん、美味しい。どれを食べても、すごく美味しいのは、料理の腕だけの問題じゃない。
 ゆっくり咀嚼して飲み込んでから、成一は苦笑した。
「なんだかおれ、秘密を打ち明けられやすい性質にあるのかな」
「かもな。多分…お前からは、誠意とか優しさとか、そういうものがにじみ出てるんだと思う。特別何かに突出してるってわけじゃねえのに、強烈な個性があるわけじゃないのに、みんなお前といるとホッとするんだ。すごいことだよ」
「たまに、みんなおれのこと『秘密を打ち明ける壺』かなんかだと思ってるんじゃないかな?って疑問に思うときあるんですけど。王様の耳はロバの耳かよ」
「それな。いやほんと、すまんな、壺野成一」
「やめて!変な名前に変えないで!」
 開けている窓から、夏の風が吹き込んできた。カーテンを開ける。今日は三日月がとても綺麗だ。部屋を見渡すと、おれも大好きなロックスターのポスター、硝子のトレイ(部屋の鍵がいれられている)、柴犬の写真集と、雑然としているのに居心地がよくて、まさにこの部屋は星野成一そのものだった。
 weezerの『Island in the Sun』がスピーカーから流れてきて、ジントニックのおかわりを自分で作りながら耳をすませた。
 自分が大多数の男性と『違う』ことを確信した十代の頃、道しるべの代わりにきいていた。
 千葉と付き合うようになり、歌詞のように願った。『ふたりで逃げてしまおう 永遠に楽しい時間を過ごすんだ』
 好きなだけで一緒にいられる、誰もが認めて祝福してくれる世界へ行けたら。…そんな世界はどこにもないし、結局、願っていたのもおれだけだったけれども。
 ソファに座っていたのはおれだけで、成一はカラフルなクッションの上にあぐらをかいている。リラックスした様子で空のグラスを片手に、気が付けば窓の外、同じ月を見ていた。
――多分、同じようなことを考えているに違いない。過去の恋愛を、その恋愛が残した燃えカスと焦げた道路の痕跡を辿りながら。
 知っている星野成一のことを羅列してみる。年は確か27、8で、由記市の救急隊員で、地毛が茶色くて、顔立ちは甘くて犬っぽくて、背が高くて手足が長い。オシャレで、料理ができて、……たまにウチの店にくるイケメンのことが大好きだった。失恋から一年経っても、まだ忘れられずにいる。
 目が合った。優しげな顔立ちの中で唯一、強さを放っている明るい眼が、おれを探るようにじっと見つめ返してくる。ダメだと頭の中では警鐘が鳴り響いているのに、おれはソファを下りて、テーブル越しに距離を詰める。
 奇妙に張り詰めた空気の中で、成一の携帯が鳴った。
『野中 奈緒子』
 着信者の名前をみて、頭の中が一気に冷えた。
 今、おれは何をしようとしてた?
「電話だろ。出ろよ、おれは、そろそろ帰るから」
 食器やキッチンは作りながら片づける習慣が身についているので、洗い物はほとんど無かった。出ようかどうか迷っているような成一に、笑いながら空き缶を集めて押し付ける。
「バスがなくなる。今日はありがとな、ごちそうさま」
「一保さん」
 スニーカーを履く足がもつれそうになる。呼び止める声もろくに聴かずに、成一の部屋を飛び出した。携帯電話さえあれば、しらない場所でももう迷うことはない。それがいいことなのか、悪いことなのか最近はよく分からないけど。
 頼りない三日月の明かりの中を、早足で駅に向かって歩いた。大声を出したくなるぐらい、自分が恥ずかしい。少し親しくなったぐらいで、そして同じような寂しさを抱えている、それだけの理由で、おれは成一にさわろうとした。浅はかで、みっともない行為だ。電話がかかってきて本当に良かった。
 寂しさは不治の病だ。心がどんどん弱くなる。
 二度と女の子と比べられたくない。だから、ストレートの男にはもう、近寄らないようにしよう。友達のままでいられる自信がない。
 坂道を下りながら、成一の言った言葉、『あなただって友達が多そうだ』という言葉に感じた罪悪感について考えた。その場では正確に説明しなかったけれど、例え恋愛対象としてみているわけではなくても、好きになるかもしれない可能性がある限り、男と純粋な友情を成立させるのは難しい。もちろん、99%の男には興味すら湧かないし、好きになるのはごく一部だ。けれど、残り1%に対してはまったく無意識で――いわばストレートの男が、男友達を見るような眼で――みているか、といわれると自信がなかった。好きでもなんでもないとしても、恋愛対象という輪の中には入ってしまうし意識はしてしまう。相手が全面的に信頼してくれればくれるほど、後ろめたい気持ちが湧いてきて辛くなる。
 驚くほどの速度で、成一に心惹かれている。寂しいからだろうか。優しくしてくれる人ならだれでもいいのか?――そうかもしれない。
 きっと、もう会わないほうがいいんだろう。このままでは、お互いにとって良くない結末になりそうだ。
「…たった二回しか会ってねえのに、哀しい話だ、まったく」
 海。いまおれに必要なのは、あの波音だ。心臓の音のように、生まれた時からきいてきた音。その中で、何も考えずにただ、ひたすらに横になりたかった。眠りがすぐに訪れることはないにしても。

 それなりに飲んだはずなのに、酔いは回っていなかった。こういうときこそアルコールの力で頭がパッパラパーになれたらいいのだが、酒というのは不便なもので酔いたいときに酔えるとは限らない。
 自宅から海が近い利点として、窓をあけているだけで波音が聞こえる、というものがある。夏場は毎日窓を開けて寝ているから、夜中、つねに海に抱かれながら眠っているような気持ちになれる。
 波打ち際を歩いて、海面にうつる三日月を眺めたり、砂浜に落ちている石を拾って投げたりして遊んでから、仕方なくひとりの家に向かう。なんだかひどく疲れていて、それなのにひとりでいたくなくて、いっそ徒歩10分圏内の実家に帰ろうか悩んだが、いま深雪の顔をみてしまうと強がっていられない気がした。7つも年下の妹に抱きつき、オイオイ泣いてしまうのだけは避けたい。
 建て替えの決まったぼろアパートに向かいながら、家主のなっちゃんに声をかけて、一緒にコーヒーでも飲もうかな、と思いついた。彼は一階に住んでいるから、二階の自宅にあがるまえにチャイムをならしてみた。…誰も出ない。もう一度鳴らしてみる。……だめだった。
「帰ろ」
 鍵の入った右ポケットを探りながら、外階段をのぼる。俯いていた足下に、影が落ちた。自分の影にしては、妙に長い。
 顔を上げて──驚きのあまり、鍵を落としてしまった。
「よう。元気そうだな?」
 金属が落ちて、乾いた音を立てた。拾い上げることなんて思いつきもせずに、おれは目の前の男を凝視した。
 肩頬だけを持ち上げ、眉を上げる皮肉っぽい笑み。スーツ越しにでも分かる、立派な体躯。短く跳ねた黒髪に、頬の傷。
「千葉……」
「まだ名前覚えててくれたんだな。良かったよ、すっかり忘れられたかと思ったね。深雪ちゃんにもすっかり嫌われて、悲しいったらねえなあ。あんなに慕ってくれたのに」
 おれの家のドアにもたれて足を組んでいた千葉が、身をかがめて鍵を拾い、目の前に差し出す。
「実家に、行ったのか」
 深雪の初恋は、いつもおれとつるんでいた目の前のクソ野郎だった。そうちゃん、そうちゃんと呼んで、「次はそうちゃんいつ来るの?」と見上げてきたかわいい妹のことを思いだし、おれは両手を握り締める。
「まさか。必要ないだろ、ここに来る途中にあったんだよ。もうお兄ちゃんには近寄らないで!って言われちゃったけどな」
 鍵、いらねえの?
 あのころと変わらない、余裕すら感じさせる笑みを浮かべて、千葉が目の前で家の鍵をちらつかせる。
「帰れ。もう、おまえと話すことなんか何もねーよ」
 精一杯の虚勢を張って、にらみつけた。目をそらし、弱気な声にならないように。心の中をのぞかれたりしないように、静かな声で言った。
「東京から来たのに、コーヒーぐらい出してくれてもいいんじゃないか?それとも、警戒してんの。家に入れたら何かされるかもしれないって?」
 どのみち、千葉が鍵を持っている限り家には帰れない。このままでは、なし崩し的にこいつを家に上げるに違いなく、それだけは嫌だと思った。
「勝手に来たんだろうが。勝手に帰れよ。鍵が欲しけりゃくれてやる、おれはもうここにはかえってこねえから。出入りしたきゃ好きにしろよ」
 さすがに予想外の答えだったのか、千葉が眉を寄せ、軽く舌打ちをした。
「やめとけよ、こんな夜中にどこ行くんだ」
「友達の家。あいにく、友達はおまえだけじゃないんでね」
「おれはおまえと友達だった覚えはないぞ、一保」
 低い声に、逸らしていた視線を引っ張られ、再び千葉を見た。心の底からふつふつとわいてきたのは、怒りだった。もしも、万が一千葉が家に来たりしたら──まさか本当に来るとは思わなかったが──冷静に、感情をみせずに話そうと決めていたのに。
「そうかよ。じゃあ何だったんだろうな。保大からトータルして十年近く、おまえと一緒にいたけどあれは何だったんだ?頼むから恋人だったなんて言うなよ、おれの定義してる恋人っていうのはな、もっとお互いを大切に思い合うようなものなんだよ。相手をボロボロにするほど踏みつけたり、あげく裏切って別のやつと結婚するような人間は、含まれてねえから。でもそうだな、会うたびにセックスだけはちゃんとしてたから、セフレってやつか。それならやっぱ友達の一種だな、長い間性欲発散につきあってくれてどうもありがとう!」
 とてつもない怒りのせいで、徐々に怒鳴り声に変わっていく。周辺には小さな工場と、誰も住んでいない別荘があるだけなので、おれが多少大きな声を出しても迷惑にはならない。
 千葉は、おれの鍵を手に握ったまま、黙っていた。顎を上げ、見下ろしてくる視線は、どんどん冷たくなって今や凍り付きそうなぐらい鋭い。
 海保大出のエリート軍団でも、ひときわ優秀な千葉は感情コントロールに長けていて、めったなことでもない限り、大声を出したり取り乱したりすることがなかった。そう、三回目の今は。
 静かに張りつめていた空気の中に、フン、と千葉が鼻で笑った音が響いて、おれは目を見開く。
「一保、おまえ何もわかってねえのな」
 突然腕を捕まれ、強引に引き寄せられた。鍵を持った千葉はおれの家をこじあけ、玄関に入ると、廊下におれを突き飛ばしてマウントを取る。千葉の後ろで、金属製のドアが重たい音をたてて締まり、その音で『2回目』のことを思いだして恐慌状態に陥った。
「おれが、何のために結婚したと思ってんだよ?」
 千葉の腕が、おれの両腕をひとまとめにして押さえつける。猛然と暴れて足をばたつかせ、横腹に蹴りをいれようとしたが、肘で受け流された。
「なあ、この国でさ、おれたちが誰からも邪魔されず、ずっとつきあい続けるには、これしかなかったんだよ。くだらねえ噂や、クソみてえな差別や、冷たい視線にさらされる必要なんかどこにもないだろう」
 本気で暴れれば、振り払えたはずだ。体格差はあるが、おれは武道の達人なのだから。
 けれど、おれを力付くで押さえつけ、足のあいだに入り込んだ千葉の表情をみていると、それ以上暴れることも殴ることもできなかった。
「どうしてわかってくれないんだ。なあ、どうしてだよ。おれとおまえだけじゃ、子供もできないし後に何も残せない。誰も認めないし、幸せにもなれない。だからおれは、好きでもない女と結婚して、こどもまで作ったってのに、どうしておまえは分かってくれないんだよ!?」
 そんなの、おまえの自己保身じゃないか。
 身勝手な、そして臆病な、どうしようもない最低男だ。
――それなのに、どうしておれは、千葉を振り払えないんだろう。
 大きな手がおれの襟首をつかみ、強く廊下にたたきつけた。力が強い上に受け身がとれなかったせいで、衝撃で頭がくらくらする。
「一保……好きなんだ。おまえの顔も、声も、話す言葉も体も、全部愛してる」
 やめてくれ。
 愛してるなんて言葉を、今使わないでくれ。
 耳を塞ぎたい、と思い、でもそれは建前にすぎないと気付く。千葉の手が乱暴におれのTシャツをめくりあげ、ジーンズのボタンを引きちぎるみたいに外していく。廊下の冷たくて硬い感触と、乱暴しているのは自分のほうなのに泣きそうな顔の千葉。いま、この腕を振り払って顔を思い切り殴れば、逃げられる。突き飛ばして、家を飛び出して、そうすればいい。分かっているのに、おれの体は全く動かなかった。
 それどころか、千葉の熱い舌が鎖骨に触れ、胸の先を含んで吸い上げた瞬間、途方もなくいやらしい声が漏れて、体から力が抜けていった。
「お願いだから、別れるなんて言わないでくれ」
 Tシャツが、デニムが、追い剥ぎにでもあったみたいに強引に脱がされ、廊下に散らかっていく。鼻の奥がツンと痛んで、泣きそうになっている自分を必死で宥めた。だめだ、こんなことで泣くな。こんな、自分が愚かすぎて死にたくなるようなときに泣いたら、まるで自分に同情しているみたいじゃないか。
 唇をかみ、顔を横にそらして、千葉の荒い息と切羽つまった顔から視線を逸らす。目を強く閉じて、感覚すらも遮断したいと願ったけれど、千葉の舌が、てのひらが、知り尽くしたおれの体を蹂躙し、暴き、ほどいていってしまう。
「ああ……やめてくれ、頼むから」
 声がかすれて、泣いているみたいになる。悔しくて悲しい。でも泣きたくないから顔を、解放された両腕で覆った。足首に絡まったままの自分の下着や、前だけをくつろげた千葉のケダモノじみた吐息が気持ち悪くて、それなのにおれ自身は、硬くなり、興奮に先を濡らしている。
「一保、好きだ。お願いだから、おれを許してくれ」
 持ち上げられた裸の太股に、千葉がかみついた。哀願と、罵倒がくちびるからこぼれ落ちていく。肩におれの両足を担ぎ上げた千葉は、かみしめすぎて血がにじんだおれの唇を舐め、舌を入れて、無理矢理黙らせようとする。濡れた指が後孔に入ってきて、せき立てるように強引に中を開いていく。
「んん、千葉……!もう、やめて、やめて」
 泣かない。絶対に。こんなことで、こんなくだらないことで、泣いてなどやらない。そう強く決めていたはずなのに、顎を捕まれ、強引にあわされた視線の先で涙を流して許しを請う千葉を見た途端、こらえきれなくなった涙が一気に頬を流れ落ちていく。知りすぎた指がおれをあっという間に溶かし、中を、うねるほど飢えさせてから、千葉が一気におれの中へ入ってきた。いつものように、優しく丁寧な愛撫や動きではなく、性急で、まるでほふるようなセックスだった。硬くて、とてつもなく熱い凶器がおれを割り開き、容赦なく突き立て、前後に激しくこすりつけられる。
「別れないからな、」
 荒い息を吐き、汗を飛び散らせながら、千葉が呻いた。
「おれは、絶対に別れないからな、一保」
 両膝を顔に押しつけるようにして、千葉が激しく動く。汗が落ちてきて、おれの顔で涙と混じり合ってから廊下に落ちた。あまりに激しく、容赦のないセックスに、おれはもう助けを求めるような、か細いあえぎ声しか出てこない。どうやらクライマックスを迎えたらしい千葉が、小さく叫んでからおれの鎖骨に噛みつき、奥の奥まで性器をねじ込んで、震えた。おれはとっくに達していて、自分の精液で濡れた腹に千葉の腹が擦れるのを、人形のように揺さぶられながら唖然と眺めていた。体の中が、そして全身が、燃えるように熱い。千葉がおれをかき抱き、耳元で長いため息をついてから、引き抜いた。中に出されたらしい精液が、どろりと廊下に流れ落ちるのが自分でもわかる。
「言えよ」
 かすれた声で、千葉が言った。汗と精液と涙でドロドロの全身、汚れた廊下で、ほんの10センチもない距離で、千葉が俺に命令した。
「別れたくないって言え、一保」
 情けないことに、泣いたせいでうまく声が出なくて、絞り出すように、おれは言った。
「誰が言うか、クソ野郎」
 目の前で、千葉の表情が変わった。
 セックスで少しゆるんでいた頬が、厳しく硬く変わる。寝ころんでいた体制から、おれの首を掴んで起きあがらせーー右手の甲で、強くおれの頬を打った。くたびれていたおれは、その勢いのまま廊下の壁に頭を打ってしまい声も出なくなる。
「言わないなら、思い知らせるだけだ」
 慣れた体でも順応できないほど、激しく抱かれた後だったので、千葉がおれを抱き上げ、ベッドに放り投げても、ろくに抵抗もできなかった。うつぶせに寝かされ、腰だけを持ち上げられて、タオルで後ろでに縛られる。枕に顔を押しつけながら、おれは自分の失敗を知った。──2回目と、似たような失敗に。あのときは、千葉は結婚なんてしなかった。
 どうして、いつもうまくいかないんだろう。
 縛られた両腕を後ろに引かれ、後背位で雌犬のように犯されながら、ぼんやりと考える。
 どうして、おれと千葉はいつも、こうなってしまうんだろう。

『大丈夫ですか?』

 一瞬、成一の赤い傘と濡れた犬のような眼が頭の中をよぎって消えていく。その余りの遠さと息が詰まるような憧れに、喉の奥から嗚咽が漏れた。