4:失恋仲間

  店は、おれの家の近くにある、魚介の美味い居酒屋にした。
 家族ともよく訪れるので、店長も店員も全員顔見知りだ。一度服を着替えに戻った星野と、由記駅で待ち合わせをした。
 そこからはバスで、自宅や実家にほど近い、由記市南区の小さな町に降り立った頃には、太陽のほとんどが海に沈んでいた。
 星野とおれは、生ビールを一杯飲み終わるまえに意気投合した。お互いにあまり人見知りしない性質だったこともあるし、音楽の趣味だったり、食べ物の趣味が驚くほど一致していた。
 なによりも、タイミングのいい共通点が距離を近くした。…どちらも、『失恋を引きずっている』というあまりカッコよくない共通点が。
「すごく好きだったんですよね」
 ガラス戸からみえる、マジックナイトの空を背に星野がぽつりと言った。長屋を改築したこの店は、隙間だらけなので冷房の効きが悪くて、お互いに汗をぬぐいながらビールを呷る。
 土曜ということもあって、店の中は人でいっぱいだった。店主と顔見知りなので、座敷のいい席に通してもらえて、窓の外には海と空が一望できた。
「すいません、ビールおかわり。なんかもう中ジョッキだとめんどくせえから、大でふたつ」
「喜んで~」
 通りかかった店員を呼び止め、おかわりを頼む。星野が申し訳なさそうに腰を浮かせたので、「おいおい、これは職場の飲み会じゃねえんだから。気を遣わなくていいって」と手を振った。
「…付き合ってたのか?」
「いいえ。その人には、長い間べつに好きな人がいたんです」
 かさごの煮つけを口に運び、おいしい、と微笑んだ星野に、これも美味いぞと剣先イカの刺身をすすめる。箸使いがうまくて食べ方が上品だ。ビールを飲むときだけ、ゴクリと音をたてる喉骨が、やはり男だなあと視線を奪われてしまう。
 相手は会社の上司だったらしく、口の重い星野からなんとか話をききだし、おれたちは何度目かの乾杯をした。「フラれた者同士、奇跡の出会いに」とかなんとか言って。全く笑えない。それなのに楽しいのだからどうかしている。
 出会いから、別れまでの経緯を簡単に説明させて、おれは驚きのあまり、まじまじと星野をみつめた。まさか。好きな奴が別の人間とくっつくのを手助けするやつなんか、この世にいるのか。
「そこまで来ると偽善でもなんでもねえな。根っからの『いいやつ』じゃん」
 話が盛り上がるのと比例してビールが減っていく。店のBGMが、おれの好きな歌に変わった。
「今でも時々思います。何度も夢にみました、あのときもしも、おれがふたりを結びつけなければ、今頃隣にいたのはおれだったのかもしれないって。ダサいでしょ、笑っていいですよ」
 正直な星野は、唇を突きだして拗ねた顔を隠さない。おれは指さして笑った。
「そこまで引きずるって、よっぽど美人だったのか?」
 蓮根のはさみ揚げに舌鼓を打ちながら、問い返す。すると星野は、なんともいえない不思議な表情を浮かべた。限りなく苦笑に近いような、無表情だった。
「美人は、その相手ですね。おれが好きだった人は…まっすぐで、ちょっと臆病なところもあって、でも……尊敬できる人でした」
 よく分からなくなってきた。星野の好きだった人の、相手が美人?
「男性だったんです。おれが前に、好きだった人」
 何故か挑むような目で、星野が言った。おれのほうが視線を逸らしそうになって、踏ん張った。
「へえ。それは奇遇だな、おれもだよ」
 また、あのまばたき。丸い目が、ますます大きくなっていて可愛いな~と感じてしまう。
「おれはゲイだからな。あ、勘違いすんなよ。男ならなんでもいいってわけじゃねえから。襲われるとか狙われてるとか、そういう風に思われても期待には添えないんでね」
 世間に広くカミングアウトしない理由は、それだ。同性愛者に対する偏見どころか、この日本では未だ、「同性を好きになるなんて、病気か何か」だと思っている奴がたくさん存在しているせいだ。自分の存在や性的嗜好を否定する段階はもう過ぎたけれど、いちいち石を投げられるぐらいなら、黙っている方を選ぶ。おれは石を投げられて黙ってうなだれるタイプではないし、おそらく投げた奴が大怪我する羽目になる。まだ檻の中に入りたくはないし。
 星野が箸を置き、肘をついて(彼にしては行儀のわるい仕草だ)、おれを遠慮のない眼差しでじろじろ眺めた。黒くて短い髪(てっぺんだけピンと毛が立つ、へんな癖がある)を、真っ直ぐで太い眉を、その下にある「猫みたいな」黒々とした眼を、形がいいと自慢の鼻筋を、やや不機嫌そうだと言われることがおおい、薄いくちびるを、星野の視線が流れていく。
「一保さんはきれいなお顔をしているし、相手はいくらでもいるんでしょうね」
「それが残念なことに、さっき説明した千葉しか付き合った事ねえんだよな」
「口が悪くて色気がないからでしょうか?」
「お、やる気か。ケンカ負けなしのおれに売るとはいい度胸だ」
 立ち上がって星野にヘッドロックをかましてやった。いたたたた、ギブ!ギブ!と叫んでいる星野を落ちるギリギリまで締め上げてやってから、フン、と鼻息荒く元の席に戻る。
 職場が離ればなれになったとき、寂しくて、ゲイが集まるバーに何度か行った事もある。それなりに声をかけられたし、モテないというわけではない。けれど、おれにとってそれは意味のないことだった。千葉でなければいけなかったのだ。男である、という第一段階だけでは寝ることができない、それがおれだった。
「その人とはもう会わないほうがいいですよ。こう言っちゃなんですが、クズです」
「……あいつだけが悪いんじゃないよ。おれも、悪かったんだ」
 つい庇うような発言をしてしまって、星野は溜息をつきながら頬をかいた。
「ショックで青くなって、気を失っちゃいそうになってたのに?」
「それはまあホラ。時とともに痛みは癒えるだろ」
「おれはフラれてから一年以上たちましたけど、今日の朝電話がかかってきて…声聴いただけで、あーまだ好きだー、全然諦めきれてねー、ってなりましたよ」
 どこからみてもリア充そのものの星野が、男の上司に片思いしてフラれてこんなに落ち込んでいる。外から見ただけでは、誰が幸福で誰が不幸かなんて、分かりやしないのだ。
「ほんとは今日、そいつと飲みに行くはずだったんだろ?でも、お前はまだ過去にできてないから、行きたくなかった」
 返事はなかった。
 テーブルに突っ伏した星野の髪を、そっと撫でた。短い茶色い髪は、家で洗ってきたのか、ワックスも何もついておらず、ふわふわと柔らかかった。
「子ども扱いしないでください」と星野が唸った。
「だってお前、なんか可愛いんだもん」というと、「可愛いっていうのもやめてください。トラウマです」と返ってきて笑ってしまう。どんなトラウマだよ。
「失恋に一番効くのは時間だっていうけど、お前をみてると自信なくなってくるわ」
「……男の場合は必ずしも時間が良薬にはならないですよ」
 深雪が言っていたくだらないカテゴライズが頭に浮かぶ。いわく、『女は上書き、男はフォルダ分け』。新しい恋で女は過去を忘れるが、男にとって過去の恋はいつまでたっても別物として保存されてしまう。
「確かに。よし、ここで文明の利器に頼ろうぜ」
 鯛めしが運ばれてきた。土鍋で供されるそれは、おれの大好物なのだ。おいしそう、と涎をたらしそうな顔で鍋の中を覗き込んだ星野に、茶碗山盛りの鯛めしをよそって渡してやった。
「とりあえず冷める前に食え。おれはグーグル先生にきいてみる」
「何をです?!」
「失恋から立ち直る方法、とかで検索すんだよ」
 酔っぱらっているせいで、手元がおぼつかないからSiriにきいてみることにした。ヘイSiri。失恋から立ち直る方法は?くそまじめな顔で問いかけているおれをみて、星野が身体を折って笑っている。お前さ、笑ってる場合じゃないからね?一年以上経っても引き摺ってるお前にだけは笑われたくないから。
 検索結果に、『失恋から立ち直る6つのステップ』なるサイトが出てきたので、おれと星野は向い合せで、額を突き合わせてじっと画面を見つめた。

 ステップ1:拒絶
(彼をまだ好きな気持ちや、それでも別れることになった今を受け入れよう)
 ステップ1は、まだ現実が受け入れられていない段階です。別れたなんてまだ信じられなかったり、本当は相手が自分を好きなままではないか、などと考えてしまいます。

「あー…おれまだステップ1だ」
「おれはそこの段階は超えたかなあ」
 よし、次いくぞ。おれたちは5回目のおかわりを頼んでから、携帯の画面をスクロールした。

 ステップ2:怒り
(溜め込みは厳禁!ちゃんと発散しよう)
 ステップ2は、こみ上げてくる怒り。元彼に対する怒りや憎しみだけではなく、幸せそうな周囲にまでその怒りは飛び火します。失恋したせいで友達までなくしてしまうなんて泣きっ面に蜂もいいところ。人に当たらず、運動などで発散しましょう。

「ぐっ…思い当たるフシがあるぞ…。だめだな、気を付けよう」
 星野がニヤッと笑って顔をあげた。
「おれもありました。日本を発つとき、ふたりでくれたプレゼントがあったんですけど、何度それをゴミ箱に叩き捨ててやろうと思ったか分かりませんもん」
「お前が?もっといい子だと思ってたのに、意外」
「結局はできませんでした。…おれ、相手の人のことも、嫌いになれなくて。好きな人が幸せなら、って思ったのも本当なんです。ただ、きれいな気持ちだけに徹することはできなかった」
 想像してみる。もしも、千葉が「申し訳なかった」とか言って、嫁とふたりで買ったプレゼントをおれに持って来たらどうするか。――考えるまでもない、おそらく顔にめり込むぐらい強く、顔面に叩きつけてやるだろう、そのプレゼントとやらをな!!
「…ほんと、キツかったんだな、お前。かわいそうに、よしよし」
 ふたたび頭をわしわしと撫でると、星野はもう抗議せずにされるがままになっていた。
「で、ステップ3は?」
「めんどくさいからまとめていくか。ステップ3.取引。よりを戻せるのでは、などと考え始める時期です。周囲の信頼できる友人に話をきいてもらい、平等な視点で審判を下してもらいましょう」
 おれに続いて、星野がよみあげていく。
「ステップ4…抑うつ。未練を乗り越えると、もう戻ることは出来ないのだ、という深い絶望と無力感を感じ始めます。友人といても気を遣ってもらっていることが申し訳なくなったり、誰とも会いたくない、と思ったりします。こんなときは、癒される場所でゆっくりしていましょう」
 畳の席なのをいいことに、おれはくつろぎきって胡坐をかいて、硝子戸にもたれかかっている。星野もさすがに少し酔ってきたのか、目元が赤い。
「おれはステップ1で…星野は3ってとこか?」
「そうですね。…一保さん、なんか飲むと雰囲気変わりますね」
「果てしなく陽気になるって言われるぞ」
 ステップ3ってことは、もうすぐ抑うつになるのかあ。
 そう言って、星野が憂鬱そうな顔でテーブルへ視線を投げた。

 

 

 しこたま飲んで、店を出るころにはどちらも千鳥足になっていた。「海の匂いがする!」と嬉しそうに星野が言うので、「ちょっと海辺、散歩してから帰るか?」ときいてみた。
「いいですね、行きましょう。…あの、一保さん。ひとつお願いがあるんですけど」
 海までは、徒歩5分もかからない。坂道をフラフラしながら下り、灯台の明かりに気を取られながら、立ち止まった星野を振り返った。
「なんだよ?」
「星野って呼ぶの、やめてもらっていいですか?その呼び方、思い出してしまうんです」
 切なげな表情に、はっとした。
 名前にコンプレックスがあるおれは、「一保」という呼び方を千葉にだけ許していたはずなのに。星野に「一保さん」と呼ばれるのが全く嫌ではないことに、気づいたのだ。
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ?成一か?」
 立ち止まっている星野…、成一を見上げながら、小声でもう一度呼んだ。
「成一、元気出せ」
「……あなたは人の心配してる場合じゃないでしょ」
 さきほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、成一が破顔した。うるせえよ、と憎まれ口を叩いてみたが、それはどこか甘い響きを帯びていて困ってしまった。
 昼間の雨がうそのように、星のきれいな夜だった。半月が海に浮かんで、砂浜を歩くおれたちや、腕を組んで歩いているカップルの影を長く伸ばしていた。波打ち際を歩いていた成一の足もとに波が押し寄せ、足跡を消し、おれがその後に続いた。波はおだやかで、夜風が髪のあいだを通り過ぎ、街へ抜けていく。
 立ち止まった成一は、物憂げに地平線を眺めていた。おれは側に立ち、千葉と過ごした3回の失敗を考えた。1回目、おれを助けようとして海で死んでしまった千葉のことを考え、2回目、ひどい束縛から暴力に発展し、殺されかけたことを考え、3回目は…今がそうだが…失敗に終わったことを考えた。
 好きになるたびに心が傷つき、傷つけ、どうしてもうまくいかない。分かっているのに、諦めることができなかった。
 もうやり直すのは終わりにしよう。――もとよりあの力は、自分のためには使えない。

『誰かを助けるためだけに、使うことができる。でも、4回だけだ。4回目の力を使ったとき、カズくんは、みんなの記憶の中から消えてしまう』

  航太郎の未来ノートの中に書かれていた、約束事を思い出す。
 おれはすでに2回、やり直してしまった。
 未来をみることが出来たおとうとの航太郎と、過去へ戻ることができるおれ。ひとつの卵から生まれた命は、ふたつでひとつだ。
 例え世界中の人間が航太郎を忘れても、おれたちの絆を断ち切ることはできない。

 

 

 夏といわれる季節は全部大好きだが、中でも一番は7月だ。
 夏はこれからだぜ、って感じの爽やかな暑さと、太陽に焦げたアスファルトの匂いと、にわかに盛り上がりを見せる海辺の雰囲気。全部、とてもいい。
 カフェ店長という立場からすれば、アイスコーヒーの稼ぎ時だ。つめたく冷えたコーヒーは、会社帰りのサラリーマンや、出勤前のOLの背中を押す、心強い味方らしい。うんざりした彼等の表情が、つめたいコーヒーを一口飲んだ途端にホッとする瞬間、この仕事をしていて良かったなと思う。
 少し前まで注文を取りに行くスタイルだったこの店も、昨今のコーヒーチェーン店の影響で、カウンターで注文を取るスタイルに様変わりした。カフェラテもブレンドも、すべて注文を受けてからペーパードリップで淹れて持っていく。
「お待たせいたしました。オリジナルブレンドのお客様…」
 今日は土曜なので、大学生の二人組や、近所の主婦が集いを催していたり、店の中はカウンター2席以外満員だ。目の前の女子大生とおぼしきふたりは、おれの笑顔につられるように曖昧に微笑んでから、店の入り口に視線を奪われ固まってしまった。
 振り返って、納得した。『窓際の美形』がいつものイケメン従えてご来店だ。
 カウンターの中で注文を取っている新見さんが、赤くなり、しどろもどろで説明している様を、おれはカウンターに戻りながら観察した。面白くて、つい片頬が持ち上がってしまう。
 アイスコーヒーふたつ、お持ち帰りで。珍しい。プラスチックのカップを出し、アイスコーヒーを注ぎながら、カウンターの前にいるふたりを盗み見る。精悍な男が、美形の男に「アキ、おれが持っていくから先に出て、特急券を買ってきてくれ」と話しかけている。男に名前を呼ばれたとき、ほんの一瞬だけれど、とても甘い顔を「アキ」がしたので、意外さに目が丸くなった。
「お出かけですか。晴れてよかったですね」
 紙袋にアイスコーヒーふたつを入れて手渡しながら話しかけると、男は照れくさそうに目を逸らし、小さな声で「海に行こうかとおもって」と言った。なるほど、デートなわけね。いいなあ、デート。どこの海かわからないけど、海はどこだって素晴らしいものだ。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
「ありがとう」
 店の外へ出て行ったアキさんが気になるのか、男は早足で店を後にしようとする。他に並んでいる客もいなかったので、おれは店の入り口をみるともなく眺めていた。そこまでは、ごくありふれた仕事の一幕だった。耳にインナーイヤホンを入れた星野成一が、ドアを開け、店の中に入ってくるまでは。
「――星野?」
 男が、成一の腕を掴んだ。音楽か、もしくは他の何かに気を取られていた様子の成一が顔を上げ、カウンターの前で男を見ると、瞬間、凍りついたように固まった。
「六人部隊長…、おはようございます…」
「おはよう。こないだは会えなくて残念だったよ。…元気か」
「はい、それだけが取り柄なんで」
「なら良かった。大友さんも会いたがっていたよ。都合のいい日があれば、また連絡してくれ」
「わかりました。…デートですか?」
 さきほどの表情が嘘のように、成一はあの人を魅了してやまない、素敵な笑顔を振りまいている。ところが出会って間もないおれにすら、その表情が少し無理をしていることが分かってしまった。
「海に行こうかと思って。でも多分、アキは泳がないだろうな」
「確かに、海ではしゃいでる三嶋先生は想像つかないですね」
 星野が手で口元をおさえ、目を細める。連絡します、と告げてカウンターの前に立った星野に、男はまだ話したそうな顔をしたまま、ドアを開けて出て行った。
 新見さんにミルクを出してもらうよう頼んで、自ら成一の注文を取ることにした。いらっしゃいませ、と微笑みかけると、成一は目を伏せ、少し疲れた笑みを浮かべた。メニューを人差し指でひと撫でしてから、「アイスカフェラテをください」と呟く。
「甘いのがお嫌いでなければ、バニラ・シロップを入れるとまた違った美味しさがあって素敵ですよ」
 疲れている時は甘いものを飲むといい。それが身体の疲れじゃないとしても、結構効くもんだ。
 ちょっとした思いつきで伝えた内容に、成一が顔を上げ、飼い主を窺う子犬のように首を傾げた。「どれぐらい甘いですか?」と尋ねるヘーゼルの眼に、「甘いものが苦手な私でも、飲める程度です」と伝える。
「ではそれを」
「かしこまりました。――お持ちしますので、かけてお待ちください」
 茶色い髪が、冷房の風に当たってゆれている。無造作にゆるくカーブしている毛先が、小麦色に日焼けした額に数本、汗で張り付いていた。
 フレッド・ペリーの黒のポロシャツと、インディゴブルーのダメージジーンズ。踵が固定されたサンダルを履いているのも彼らしい。裾をロールアップできるのは、足が長い奴の特権だ。
 頼まれたバニララテを作って、目の前に座っている星野に提供する。ワックスの香りか、それともアフターシェーブローションか何かだろうか。グラスを置くために身を乗り出した瞬間、彼の身体からシトラス系の香りがした。
「てっきり、あの美人の方と関係があるのかと思ってたよ。何度か一緒に来てたろ?まあ、お前が好きだった男のほうが、俺も好みだけど」
 成一が『隊長』と読んでいた男は、引き締まった身体に、切れ長の眼を持ち、おそらく武道を何かやっているのだろう、凛とした姿勢をしていた。
「三嶋先生は…上司の幼なじみなんです。ちょっとびっくりするぐらい綺麗でしょ、あの人」
「そうだな」おれは素直に認めた。確かに、彼と目が合うと息をするのも忘れる。「でも、光に満ちた人生を歩んできた、ってわけでもなさそうだ。なんていうか…陰があるよ。男は弱いんだよな、ああいう美人に」
「もう大丈夫かと思ってたんですけど、まだ無理ですね」
 何のことか、おれにはわかる。一週間前にきいた話を思い出し、おれは肩を竦めた。
「おれに言うか、それを?」
「一保さんの進捗具合はどれぐらいでしたっけ」
「ステップ2、ってところだな」
「先が長いですね」
 店の中は有線契約している、洋楽のヒットナンバーがながれている。これはオーナーの趣味だ。派手なアフロ頭は、JAZZなんてオシャレな音楽を受け付けないらしい。
 店内にCall Me Maybeが流れ始めて、成一がサビを鼻歌で歌った。それから、「あ」と声をあげてペーパーナプキンを一枚とり、そこに何かを書き殴った。
「一保さん、おれの連絡先。番号しか渡してなかったなと思って。先日は、ごちそうさまでした」
 きれいな字で書かれた『星野成一』という氏名と、へたくそな猫の絵。その下に、090からはじまる電話番号と、LINEのIDが書かれている。
「悪い、おれLINEやってないんだ。昔やってたけど、やめちまって」
「そうなんですか?便利なのに」
「ンー、あれって既読とか分かっちゃうだろ?既読ってなってるのに、返事が返ってこなくてモヤモヤすんのとか、そういうのに支配されてる自分も嫌で、やめたんだ。お前とLINEすんのは楽しそうなんだけどなあ…登録したが最後、知られたくない奴にも通知いっちまうし…」
 顎に手をあててうーん、と考え込んでいると、成一が「携帯貸してくれたら設定するよ」と手を差し出してきた。周囲を確認してから、そっと携帯を手渡す。いまどきの若者らしく、迷いなく指を動かしてから、「はい」と返された。
「おれだけしか入ってないので、ブロックしないでくださいね」
「しねーよ。あはは、こんなことできるのか。…さっそく送ったぞ」
 テロン。成一の携帯が音をたてた。指で触って中身を確認してから、「子どもか!」と呆れたように突っ込まれる。うんこの絵文字を一列びっしり送ってやったのだ。
「深雪となっちゃんにも教えよっかな。ID伝えたらいいんだよな?」
「お友達ですか?そうですね、ID教えたらその人だけとやり取りできますよ」
 今度はおれの携帯が震えた。開いてみると、星野から写真が一枚送られてきていた。
――それはどこか見覚えのある――異国の、暁を写していた。
「もしかして、カンボジアか」
「すごい。どうしてわかったんですか?」
「うちの組織……ああ、前の職場も、派遣されたことあったから。報告書で見たんだよ」
 半分は嘘だった。特殊救難隊に千葉がいたころ、災害派遣で現地に行った千葉が、一眼レフで撮ってきた写真。それをベッドの中で一緒に観たのだ。無事に帰ってきたことがうれしく、また国の代表として派遣されたことが、とても誇らしかった。この男が自分のものなのだ、ということに、とても優越感を抱いていた。
 今となってみれば、滑稽極まりない気持ちだけれど。
「あのー、一保さんってもしかして、おれの職業察していたりします?」
「おれもバカじゃないんで。大体想像はついてるよ、隠したいみたいだから言わねえけどさ」
「…言ってみてください」
「救急隊員。おそらく救急救命士。――由記市の消防吏員だろ、おまえ」
「理由は?」
 随分食い下がるな、と思いながら、おれは小声で説明した。
「まず倒れている人間をみつけて話しかけるとき、医療関係じゃない人間はあんなにスムーズじゃない。そこで医療関係者の線を思いついた。次に、お前がおれを軽症患者だとみなして背負って歩こうとした。そのときにお前の背中に背負われて分かったんだが、医者の身体じゃなかった。ちょっと鍛えてる程度でもなければ実用性に乏しい筋肉でもない。最後に、『むさくるしい男ばっかりの環境』って言ってただろ?病院は看護師がいるから医療スタッフは必然的に女性が多い。これで消去していったら必然的に分かった」
 隣で新見さんが拍手をした。「店長、ホームズみたい」と拍手を送ってくれたので、「ありがとうワトソン君」と気取って返事をする。わざと推理小説のような言い方をしたせいで、成一まで「じゃあ今から断崖絶壁に移動して、自白タイムにします?」とため息交じりに言った。
「あんな美人に勝てる奴は、世界中探したっていねーよ。お前が悪いんじゃない。十分魅力的だ、自信を持て、星野成一」
「まさかあなたに慰められる日がくるなんて思いませんでしたよ、ステップ2」
「うるせえぞステップ3の分際で」
「それでもあなたよりは前に進んでますからね」
 嫌味っぽいものの言い方も、成一が言うと品があるのだから不思議だ。グラスを持ち上げ、カウンターに下ろすという単純な作業ですら優雅さが漂っていて、上流階級の人間っていうのはアメリカのみならず日本にも存在するのだなあと感心した。
 今日はオーナーが来る日で、夕方からはオフだった。やってきたタイミングといい、成一とはどこか運命じみたものを感じる。――お互いに、過去の恋愛から逃れられないという点においても。
「今日は夕方で上がりなんだ。飲みにでも行くか?」
 成一がにやっと笑った。上品な顔立ちをしているので、ワイルドを気取ったその笑顔は、いまいち失敗に終わっていたが、続く言葉におれは心を打ち抜かれてしまう。
「いますぐ一保さんの仕事がおわったらいいのになあ、って考えてました。もう、昼過ぎぐらいからずっとジントニックが飲みたくて」
「いいね。あと5時間ほど仕事があるけど、お前はどこでどうする?」
「家が近いので、一度帰ってジムにでも行きます。それから待ち合わせましょう、そこの…あなたが寝ころんでたバス停のあたりで」
 成一の鼻をつまんで左右に振る。「生意気なガキはお兄さん嫌いだな~」と言いながら。となりで新見さんが苦笑しているが、店内を見回せば客はみんな、自分の人生で忙しい。夫の話、彼氏の話、友達の話。それぞれが、それなりに一生懸命な自分の人生の話を、重要事であるかのように顔を突き合わせて話し込んでいる。
 そう、おれの長い恋愛も失恋も、他人にとってみれば些事だ。生死にかかわる話ではないし、時間が少しずつ忘れさせてくれる。前へ進んでさえいれば、いつか新しい恋だってできるかもしれない。
 それなのに、ふとした時間…こうして、集団の中でひとりだと感じたときに、千葉を思い出さずにはいられなかった。店に顔を出す千葉、家にやってくる千葉。外でのデートはほとんど叶わなかったけれど、一緒にいる時間はつねに濃密だった。
 なにより、バディとして命を預け合った、横浜の日々。海に抗い、全身が溶けそうなぐらいへとへとになりながら、時に怒鳴り合いながら、人命救助に明け暮れた日々は、どれだけ沢山の朝や夜を越えても、そう簡単に忘れられそうもなかった。
「また思い出してる」
「お互い様だろ」
 おれと成一は目を合わせ、力無く笑った。二十代も終わりに差し掛かってるっていうのに、働き盛りの男がふたりともフラれて未練タラタラで次の気配もないなんて。まったく、情けない。
 成一はカフェラテをゆっくり味わってから、「ごちそうさまでした」と言って洋服のモデルのような微笑みを浮かべ、店を後にした。それから5時間ほど日々の仕事(飯のための)を丁寧に片づけたおれは、ボディペーパーで身体を拭き、服を着替えて、待ち合わせ場所のバス停へ向かった。