3:成一と赤い傘

 結婚パーティの打ち合わせが終わって由記市に帰ってきたとき、おれは全身にびっしょり汗をかいていた。多分精神的苦痛のせいだ。萩原をボコボコにしてやりたいけどあいつは何もしらないからどうしようもない。
 もしかして千葉が来たらどうしよう、という心配は杞憂におわった。打ち合わせ会場である新橋の居酒屋は、昼から飲める上に酒も料理も美味いときいていたのに、味なんてこれっぽっちも思い出せない。萩原が、「新郎新婦の写真をプロジェクターで流すんだ~」とか言いながらヘラヘラと笑い、写真をみせてきたのが悪い。すごく可愛い女の子だった。千葉も、熱っぽい視線を彼女に向けていた。
 机の上に広げられた、動物園やら水族館やら温泉宿やら、おれと二人では行けない場所でばかり撮った写真。胃がキリキリした。憎しみと妬みで頭の中が熱く煮えたぎっていた。けれども笑顔を浮かべて、「うわっこいつ温泉とかエロいな~」とか「水族館って。ピュアぶってんじゃねえよあの野郎」とか冷やかしながらやりきった。おれは本当に精神がタフだ。格闘技の心得があって本当によかった。
「なんだよあいつ、あっちこっち行きやがって」
「ほんとだよな~。こんだけ可愛けりゃそりゃ結婚したくなるわ」
 おれとはどこにも行かなかったですよね。男同士で旅行だの映画だの、ちょっとキモいだろ、とか言ってましたよね。だから居酒屋か、ホテルか、おれの部屋以外で会った事なかったですよね、しかもやったことといえばヤッてただけですよね。ひどいときは朝から晩まで。
 頭の中の千葉に、鋭い質問を投げかけるやり手のジャーナリストのような口調の自分が詰問している。妄想でしかないが。

『一保……』
 千葉が熱い息を首筋にふきかけてくる様を思い出しそうになって、頭を振った。
 外でのデートなんて、せいぜい毎年海にいったぐらいだ。男同士だから仕方がないとわかっていても、大声を出して走り去りたいぐらい腹が立った。悔しかった。
 千葉もおれと同じ気持ちでいてくれた、なんて、勘違いだった。
 だっておれはあいつとセックスしかしていない。お互いの気持ちいい場所は知り尽くしているし、なんならほくろの場所だって全部覚えている。けれど、ふたりで観た風景なんて、仕事をのぞけば家の天井、居酒屋の風景、そしてこの海ぐらいのものだ。政治家に囲われてる愛人だってもう少しマシな生活をしてるだろ。
 1回目は、千葉が死んでしまった。あのときは、生きていくれるだけでいいと、もう一緒にいられなくても、ただ生きてさえいてくれればと願ったはずなのに。はじめての『やりなおし』で2回目、歯車が狂って、こんどはおれが死にそうになり――2回めの『やり直し』を経た3回目、つまり『いま』は――ただのセフレで、不倫相手候補か。
 良いザマだ。まさに、実にお似合いってやつだった。

 

 

※※※

 

 

 疲れを忘れたくて、アパートに荷物を投げ、海へ向かう。歩いて5分の海は、どんなときでも心をやさしく癒してくれた。そう、航太郎に二度と会えなくなったあの日でさえ。

 双子の航太郎は、顔立ちこそ瓜二つだったが、中身はあまり似ていなかった。
 悠然としていて、神童だともてはやされるほど頭がよくて、おれはあいつが慌てたり、失敗しているところを見た事がない。
 家族旅行にいくことが決まっていたある日、航太郎が泣きじゃくって病気のフリをしたことがあった。おれには、それが仮病だと分かって腹が立ったが、航太郎が意味のないことをするはずがないということもまた分かっていた。そして、信頼は的中した。家族で乗るはずだった飛行機は墜落して、乗員乗客は全員死亡した。
 またあるときは、父親が新車を買おうとしていたとき、強硬に「ここの車はヤダ」と反対して「ここの車を買うなら、僕乗らない」とまで言って困らせたことがあった。父親はかねてからそのメーカーのファンで、どうしても買いたかったけれど渋々諦めた。3日後、ブレーキシステムにかかる重大な欠陥が発覚し、おれたちが買おうとしていたディーラーで同じ車種を買った人は、交通事故に巻き込まれて大怪我を負った。
 今日はこっちの道からあそびにいこう。普段はにこにこと笑いながらおれの後ろを付いて回っていた航太郎が、そんな風に言うとき、必ずいう事をきくようになった。航太郎のいうとおりにしていれば、おれたち家族は全員幸せになれる。不慮の事故や事件に巻き込まれたりしない。子どもながらに、航太郎の不思議な能力に気付いていた。

 

 

※※※

 

 

「またこんなところで寝てる」
 目を開こう、と思うのに上手くいかない。よほど疲れているのか、浜辺でぐっすりと眠っていたらしい。体がいうことをきかなくて、半分覚醒した状態のまま目を閉じている。
 頬に何かが触れた。ほんとうにそっと、ふれるかふれないかぐらいの柔らかさで、輪郭をなぞっていく。なんだかいい匂いした。ホットドッグとか、カフェオレとかの匂いだ。昼から何も食べてないから、腹が鳴って、その誰かが笑った気配がした。
「ちば……?」
「ちがうよ。一保さんは、俺の事信じすぎてるね」
 まぶたにつめたい、やわらかいものが当てられる。目を開くと、なっちゃんがのぞきこんでいた。優しげで、精緻に整った端整な顔立ちが、やや長い、くせっけの前髪の隙間からみえた。
「信じすぎてるって何だよ」
「なんでもない。おなかすいてる?ホットドッグ買ってきたけど食べる?」
「食う!」
 お酒のにおいがする。なっちゃんがそういって、クンクンとおれの身体を嗅いできた。千葉の結婚パーティの幹事を引き受けたことをはなすと、なっちゃんは珍しく怒ったような顔をして「一保さんは人がよすぎる」と言った。年の離れた妹である深雪と友人で家主のなっちゃんは、おれのどうしようもない恋愛について知っているのだ。
「なんか断りきれなくて。同期の間ではさ、おれと千葉、親友ってことになってるから」
 レタスとマスタードがたっぷり入ったホットドッグは、すごく美味かった。カフェオレも。曲がりなりにもカフェの店長だから、コーヒーにはちょっとうるさいおれだが、なっちゃんはいつも本当に美味しいコーヒーを飲ませてくれる。
「これ、もしかしてコナコーヒー?」
「ピンポン、さすが一保さんだ。おいしいでしょ」
「そんな高いやつ、ごめんな」
「いいんだよ。飲みたい人と、美味しいコーヒーを飲む。お酒が飲めないからね、これが僕にとっての嗜好品なんだ。いくらお金をかけたって痛くないよ」
「ブラックも飲みたいな。やっぱり、香りがすごくいい」
「言うと思って持ってきたよ。ハイ、どうぞ」
 みどりいろの大きなバッグから、黄色い魔法瓶を取り出してニッコリ笑った。なんでも出てくるので、なっちゃんの魔法のカバン、とおれと深雪は呼んでいる。
「ありがとう。ほんとうに、なっちゃんがいなかったらおれ、とっくに干からびてるよ」
「まったくだよ」
 海も空もすっかり暗くなっている。さすがに市街地が近いから、田舎の海のように星は見えないが、それでもときおりちかちかと、灯台の灯りがともったりする。
「……あのさ。今日、千葉さんが来たよ。面識ないから多分だけど」
 心臓が凍りついた。美味しいコーヒーの味も一瞬でドロのようにかわる。
 黙って顔を向けたおれに、なっちゃんが視線を落とす。
「出かけてますって言ったら、一保に電話でてくれって伝えてくださいって。メールも電話も着信拒否されてて、連絡がつかないからこれ、渡してほしいっていわれた」
 いつまで経っても携帯をかえず、着信拒否もしないおれに業を煮やした深雪が、先日とうとうおれの携帯を取り上げ、千葉を着信拒否にしてしまった。アイフォンを使っているから、そもそも電話がかかってきたかどうかすら、今のおれには分からない。でも、その方がよかった。もう着信履歴をみながら何時間もぼんやり過ごしたくはない。
 手渡されたのは、二つ折りのルーズリーフだ。封筒にも入れないところが千葉らしくて、溜息に似た笑い声がもれた。

『一保、ごめん。
 どうしてもお前のことが好きなんだ。
 会いたい。声がききたい。

 さわりたい』

 声が聞こえた気がした。
 耳元で、いつも千葉がささやいていた、低くてやさしくて安心する声が、おれに言っているような錯覚をおぼえた。
「これ、いつ?」
「ついさっき。おれが部屋出るときに入れ違いで…」
 ポケットにルーズリーフを突っ込み、走り出そうとする。なっちゃんが腕を掴んで、どこにそんな力があったのかおどろくぐらい強く引いた。
「やめときなよ」
「でも、もしかしたらまだいるかも、」
「あの日、千葉さんと別れた一保さん、どんなにひどい顔してたか知ってる?海辺でみつけたとき…僕、心配でどうにかなるかとおもったよ。千葉さんと一緒にいたって、傷付くだけだ。やめたほうがいい」
 体から力が抜ける。拳を握りしめ、強く噛んだ。泣きたくないけど涙がこぼれおちそうなとき、おれはいつもこうする。痛みよ、かなしみをつれていけ。おれのなかから永遠に涙を連れ去ってくれ。
 無理だった。零れ落ちはしなかったが、涙は目のふちに浮かんでしまった。なっちゃんをそっとつきはなし、背の高い、優しげな顔を見上げる。
「それでもおれは、千葉に会いたい」
 おどろいたような顔でなっちゃんがおれを見る。振り返らずに、おれはアパートへ走っていった。

 

 

 アパートには既に千葉の姿はなかった。
 落胆といっしょに、安心がやってきて一人で笑う。
「バカだな、おれは」
 鍵を開ける。シャワーを浴びて、千葉の手紙を抱いて眠った。好きだ。一緒にいたい。酷いヤツだと思うのに、おれの心は千葉を諦めてくれない。声が聴きたくてさわりたくて、それができない今が苦しくてしかたがない。失恋がこんなに苦しいなんて誰も教えてくれなかった。生まれてはじめて好きになった人を、はじめてセックスした人を、失おうとしている。本も音楽もおれを救ってくれたりしないし、泣くのはイヤだからひたすらに苦しみを抱えているしかない。
 もし、おれが急に心臓発作とかで死んだら、千葉は泣いてくれるだろうか。

 

***

 

 

 職場と家を往復しているうちに、夏が来た。泳げる季節は毎日5時に起きて一時間ほど泳いでから出勤し、帰ってきたら海辺を走っている。どこまで海が好きなんだよ、とオーナーにも新見さんにも突っ込まれてるけど、海はもう一つのおれの家みたいなものだ。時々厳しい牙を剥いて、平和なときは美しく、夜は思わず引き寄せられそうになるぐらい暗い、いきものがうまれた場所。ずっと、あの中で暮らせたらいいのに。きっととても居心地がいいだろう。
「なっちゃん、おはよ」
「おはよう、一保さん」
 あの日なっちゃんの腕を振り払ってから、彼はまたおれとの間に距離を置いてしまった。近づいたような気がしていたのにさびしいけど、きっとこれは自業自得なんだろう。心配して、忠告してくれたのにおれは聴かなかった。たまたまあの日千葉がもういなかったから何もしなかったけど、もしドアの前にいたら、おれは絶対千葉とセックスしたと思う。それがどんなにひどい裏切りで、社会的に許されないことだとしても、絶対そうした。だから、責められても仕方ないし嫌われてもしょうがない。
 軽くストレッチをしてから、朝がきたばかりの海に飛び込む。沖合に向かってひたすらクロールをして、水と交わる。朝一番の海は砂が舞っていないから本当に美しくて、このすばらしさを一度知ると、昼なんか泳ぐ気にならない。
 もどってくると、砂浜にいたなっちゃんの姿はいつの間にか消えている。ビニールシートに魔法瓶が置いてあるのがみえて、水がしたたるままぼんやりと見つめた。魔法瓶の下には二つ折りのルーズリーフが2通はさんである。直感的に分かった、千葉からの手紙だ。
 しゃがみこんで、開いた。ビニールシートが濡れないように、砂浜の上で読んだ。

『結婚パーティの件、きいた。
 萩原は知らなかったからあいつに罪はないけど、嫌な思いをさせて本当にごめんな。
 当日は来なくて大丈夫だから』

 なんだこれ。なんの気遣いだよバカじゃねえの。
 そう思うのに。きらいにならせてくれないなんて狡い、最低だと思うのに――
 …なみだが出そうなぐらい、喜んでる自分がいる。

『一保と撮った写真、仕事中のばっかりだな。
 パーティで流すから持って来いっていわれて、部屋のなかひっくり返して探したんだけど、お前と同じ基地にいたころの写真ばっかり出てきた。懐かしくて、嫁との写真ほったらかしで一保の写真ばっかり見てた。
お前、本当に変わってない。
でもあのころと違うのは、いまおれのとなりに一保がいないんだよな。
写真は二人でふざけて、笑ってばっかいるのに。
もっと一保といろんなところに行けばよかった。会うとさわりたくて、どこかに行こうなんて考えられなかった』

 口の上手いうそつき、最低の自己中心野郎!
 そんな風に思えたらいいのに。割り切れたらいいのに。切り離せたらいいのに。
 読み終わった二枚の手紙をポケットに突っ込む。汚くて乱暴な千葉の字を、なっちゃんも見たのだろうか。なぜ、千葉はなっちゃんに渡すんだろう。東京から一時間半もかけておれの家まで来て、どうしてポストにいれずに他人に渡すんだろう。
 無言で砂浜にあるシャワーを浴びて、魔法瓶を洗ってなっちゃんの部屋のドアノブにかける。いつものお礼に、彼が好きなコーラを三本、コンビニの袋にいれてひっかけた。
 明日が千葉の結婚パーティだ。
 千葉が言ったとおり、きっとおれは欠席する。

 

 雨に濡れながら歩いている。
 買ったばかりの夏物スーツは、濡れたせいで身体に張り付いて動きづらい。濡れた前髪のすきまから、これでもかとばかりに激しく降っている雨が、白くかすんで見える。
 抜け出すはずだったパーティは、彼等の幸せそうな笑顔を見た瞬間、身体が凍りついたように動かなくなってしまって、結局最後まで会場にいた。
 千葉が愛おしくて仕方ないように彼女をみつめると、彼女も同じ目線で見上げていた。美しい白いドレスにマリアベール、百合の花をあしらった真っ白なブーケ。色とりどりの花びらを投げる、彼女の友人たち。
 絵に描いたような幸福がそこにはあって、おれはまるで絵画の背景、もしくはフレームの外の壁だった。どっちかっていうと壁のほう。ショックで白くなった壁だ。何も言えずに、救いを求めるように千葉をみていたら、目が合った瞬間に「ごめんな」と眼で謝られて死にたくなった。
 謝られるような関係だったのだ、おれたちは。
 目で謝って済む程度の思い入れだったんだ、あいつにとってのおれは。
 「結婚するけど好きだ」って言われれば、喜んで足を開くようなやつだと、見くびられていたのか。
「なんで泣けねえんだろうなあ…」
 こんなときこそ涙じゃないのか。泣いて、昇華して、忘れちまえばいいのに泣くことができない。悔しくて、惨めで、消えたいと思っているのにそれもできない。どうやって由記市まで帰ってきたのか覚えていないけど、いつの間にかおれは駅前のロータリーにいた。家に帰るにはバスに乗るか、あと数駅電車に乗らないといけない。でも限界だった。もう、立っていることも辛かった。
 ベンチを見つけて横になった。雨がどんどん降ってきて、夏だというのに全身が震えるぐらい寒く感じた。それに吐き気もした。精神的ショックがここまで肉体に現れるのだとしたら、人間は思いのほか脆い生物なんだなあと他人事のように考える。――どうせなら、このままショックで心臓が止まったらいいのに。
 目を閉じて強く願った。そうすれば、本当に意識が遠のいてきた。
「大丈夫ですか、身体の具合が悪いんですか?」
 不意に、顔に落ちる雨が無くなった気がして目を開く。赤が見えた。
「ちょっとごめんなさい」
 傘だ。
 覗き込んでいるのは…少したれ目の、甘い顔立ちをした若い男だった。指がのびてきて、下まぶたをぎゅっとひっぱられる。
「…白いですね。貧血かな…。救急車、呼びましょうか?」
 冷やしちゃだめです、と言いながら、育ちの良さそうな青年は自分の着ていたジャケットをおれの身体に掛けた。仕立てのよさそうな、品のいい彼にぴったりのそれは、やわらかくて軽くて、普段自分が着ている安物とは一線を画していた。
「いい……。救急車なんか呼ぶな。救急隊のやつらはああ見えて忙しいんだ」
 おれの言葉に青年が、ぱちぱちと瞬きをしてから、声を上げて笑った。
「忙しいのは事実ですけど。必要なときは遠慮しなくていいんですよ」
「だから、今は必要なときじゃねえの。放っといてくれ、死にやしねえよ。死にそうなぐらいショック受けてるだけだから、そっとしといてくれりゃあじきに元気になる。日はまた昇るってやつ」
 だんだん自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
 困ったように眉を下げた青年が、「放っとくのは無理ですね、仕事柄」と呟き、あろうことか、おれを背負って歩きだそうとした。
「う、わ!何すんだやめろ離せ」
「暴れないでくださいよー、うわ、おもっ。見た目より重いですね、村山さん」
「そりゃ鍛えてたから…ってなんでおれの名字知ってんだ」
 驚いておとなしくなったおれをいいことに、青年は背負ったままどんどん歩いていく。その方向は…あ、おれの職場。
「秘密、と言いたいところですけど」
「うちの店の客か。お客様におれは今背負われてるのか」
「知人と、ときどきお店に」
「マジかよ。死にてえ」
「そう簡単に人って死なないものです」
 あはは、と笑った青年の髪からは、清潔でやさしい匂いがした。染めていない、ナチュラルな茶髪は短くて、でもワックスでゆるく整えられているところが若者らしい。
 ロータリーから店はすぐ近くの距離だった。真っ白な顔色で店に運びこまれたおれをみて、たまたま居合わせたオーナーは大慌てで「救急車!」と叫んであたふたしていた。おれが事務室のソファで横になりながら、「救急車呼ぶような事案じゃねーですから」「落ち着けよアフロ頭」と何度も止めていると、何故か青年が笑いをこらえるような顔をしていた。
「ねえ、村山さん。どうして救急隊が忙しいって知ってるんですか?」
「……昔、海保にいたからな。救急救命士の隊員もいたし、消防の連中とも縁が深かったんだ。現場で居合わせることも多かったから、そんぐらいはな」
 意識は随分はっきりしてきたものの、身体が冷たくて手が震える。ソファの前に座った青年が気付いて、ためらいなくおれの手をとり、ぎゅっと握ってきた。あたたかくて優しい、純粋な励ましだけが込められた手のひら。
 今まで何度もそうやって、誰かを励ましてきた、そんな手だと思った。
「すごくショックなことがあったっておっしゃってましたよね。立ち直れそう?」
 まるで自分のことのように、痛ましそうに目を細める青年。――笑い飛ばそうとして、乾いた息だけが口からもれていく。
「泣かないで、村山さん」
 泣く?このオレが?まさか。もう何十年も泣いてない、このおれが。
 信じられなくて、指で手のひらに触れると、確かにそこは濡れていた。自分の涙で。
「……泣いてない」
「そう思うならそれでもいいです。でも泣いたら楽になることってあるから」
「楽になんか、なりたくない。忘れたくない、1秒だって」
 嗚咽がこみあげてきて、もう何も話せない。年甲斐もなく号泣しているおれを見て、引くどころかやさしく手を握ってきた青年は、「わかるよ。そういうときってあるよね」と頷いてくれる。仏様かお前は。絶対おれより年下のくせに。
「おまえなんかにわかってたまるか。お前、わかいもん」
「おれは星野成一っていう名前なんですけど、いうほど若くないですよ。27だから」
 ほしの。
 ほしのせいいち。
 年はふたつ下。ライトブラウンの眼は光の角度でヘーゼルにも見える、身のこなしが優雅な男。
 ただの名前なのに、すごく尊いもののように頭の中で響いた。
「失恋して。めちゃくちゃすきだったのに、いきなりけっこんするって言って」
 いつの間にか、子どものようにしゃくりあげながら、初対面の相手に打ち明けていた。
「…そうなんだ」
「でもあいつ、けっこんしても、お前が好きだっていってきて。おれ、は、本当に好きだったのに。大好きだったのに、あいつは違ったのかなって。だって、そんなこといえないだろ、大切なら」
 上手く話せないぐらいむせび泣いているというのに、星野成一は優しい。うん、と頷いて、手持ちのハンカチでおれの顔を拭き、他の人間に聞こえないようにそっとドアを閉めてくれた。
「なあ、せいいちって、誠実の誠に漢数字のイチ?」
 これ以上情けないところを見せるのが嫌で、話を変える。
 ほしのせいいちは、柔らかくて甘い、チョコレートよりもずっと明るい眼を細めて首を振った。
「違います。成人の成に、漢数字の一」
「一に成るか。良い名前だな」
 驚いたときに瞬きをするのは、星野のクセなんだろうか。
 ちょっと甘ったれな顔が、あっという間に笑顔に変わった。
「以前他の人にも言われたので、びっくりしました。ありがとうございます」
「星野の仕事ってどんなの?おれは、見ての通りカフェの雇われ店長だけど」
 身体を起こしてソファに座り、隣を指さして星野を座らせる。賢い犬のように、招かれてからそっと座る物腰も、すらりと伸びた手足にきれいな姿勢も、まさにいいところのお坊ちゃんといった雰囲気そのものだ。
「仕事は…公務員ですね。一年間海外派遣に行っていて、今日帰ってきたんです」
「へえ。派遣されるってことは、優秀なんだろうな」
「いいえ、そんなわけでは。あの、村山さんって下のお名前は?」
 どうも仕事についてあまり触れられたくないのか、星野がきまずそうに話題を逸らす。深追いするようなことでもないので、バスタオルで身体を拭いながら返事をした。
「カズホ。漢数字のイチに、保険の保で一保。変わった名前だろ、女みたいで子どもの頃すっげー嫌だったんだよな。もう慣れたけど」
 乱雑に拭ってタオルを放り投げたおれを、星野が苦笑しながら「まだ濡れてますよ」と咎めた。こどもにするように、タオルを頭にかぶせて優しく拭かれる。擦ったら髪が傷むんですからね、こうやって、髪をタオルで挟んで叩くといいんですよ、とかなんとか言いながら。
「変わった名前だとは感じなかったですけど」
「そうかあ?チバ、おれの同期はいつも…」
 言いかけて、口を閉ざす。何を言っているんだろう。もうあいつは他人の男だっていうのに。
 何かを察したらしい星野は、それでも、何も言わずに髪を拭いてくれた。事務室の隅にあるドライヤーを持ってきて、丁寧に乾かしてくれる様子は、実家にいたころの深雪を思い出させた。「お兄ちゃん、きれいな髪なんだからもっと大事にしなよ」なんて言いながら、いつも嬉しそうに髪にさわってくれたっけ。今でこそ、一緒にパンツ洗わないで!とか言われちゃってるけど。
「あなたに似合う、美しい名前だと思いました」
 弾かれたように振り返ったおれを、星野は平然と見つめ返してきた。なんという穢れのないきれいな眼だよ……
――天然か。なるほど、全くなんの下心も意図もないからこそ、こんな言葉を言えるのか。
 顔が熱かった。美しい名前だなんて、言われたことがない。
「うつくしいってお前…」
「あ、ごめんなさい。一保さんはどっちかっていうとかっこいいです」
「そういう問題じゃねえし」
 照れ隠しに、持っていたタオルを星野に投げつける。もう大丈夫そうですね、と笑いながら立ち去ろうとするのを、慌てて止めた。
「待てよ。なんか礼をさせてくれ、……ええっと、これ」
 事務所の引き出しを探り、コーヒーの無料券10枚つづりを見つけ出して星野の胸に押し付ける。…意外と、筋肉がついていて硬い、体幹の安定した身体だ。おれもそこそこ上背がある方だと思っていたが、星野はさらに背が高くて、自然と見上げるようなかたちになってしまう。
「ごめんなさい、こういうの受け取れません」
「便宜供与にはあたらないだろ?勤務時間中じゃねえんだし。これは、おれの個人的な礼だよ」
「お気持ちだけで充分です。村山さんも公務員だったなら、分かりますよね」
 お邪魔しました、と爽やかな笑みを浮かべて事務室を出ようとする星野を、おれは追いすがるようにして止めた。店の中にいたオーナーや、アルバイトの新見さんもぎょっとした顔でこちらを見ているが、そんなことはどうでもいい。
 おれは、人に借りを作ったら返さずにはいられない性質なのだ。恩義を受けたら、倍にして返したい。そうでないと納得できないし寝覚めが悪くなる。
「まて!わかった、じゃあこうしようぜ。お前、今晩予定はあるか?せめてメシぐらい、」
 言ってからしまった、と思った。海外派遣先から帰ってきたと、星野は言っていた。疲れているに違いないのに、自分の我を通すなんて大人としてどうかしている。
「…いや、やっぱいいや…。ごめん、忘れてくれ」
 やっぱり情緒不安定なんだろうか。もうすぐ30になろうというのに、たかが失恋で様子がおかしくなるなんて情けない。失恋がなんだってんだ、そんなもんいくらしたって死ぬわけじゃなし。
 せめて連絡先を、と口にしようとしたとき、星野が、店の名刺を一枚とって裏に何かを書きつけた。目の前に差し出されたそれを受け取ると、いたずらっ子のように、三角の口をして星野が笑った。心の底から相手を安心させる、とても優しくて暖かい笑顔だった。
「金券の類は受け取れませんけど、ご飯ならご一緒しましょう」
 気が付けば、おれも笑っていた。
 もしかしたら、二度と笑うことなんて出来ないかもしれない、と思いつめていたのに。
「何でもすきなもの食わせてやる。日本食が恋しいだろ?」
「夢にまでみましたからね。前の所属の人たちに誘われていたんですが、断ってしまったので…。さすがに今日ひとりメシは寂しいですし」
 前の所属という言葉を口にした瞬間、星野の顔に寂しさがよぎって、言葉につまった。
「何かあったのか。その、前の職場で」
「いろいろありました。すごく楽しいことも、辛いことも。一年離れていたから、随分割り切れたと思っていたんですけど……」
 説明しようとしたのか、星野のくちびるがわずかにひらいたまま、停止する。
「いいよ、無理に説明しなくても。なあ、5分、10分ぐらいなら、いま時間取れるか?」
 星野の甘い顔立ちに個性を加えている、光が当たるとヘーゼルに近い瞳を、じっと見つめた。形の整った眉に、目尻の下がった優しい眼。鼻筋にうっすらと散らばるそばかすは、繋ぐと星座になりそうな絶妙な配置で、日焼けの名残をみせていた。
「ええ、大丈夫です」
「じゃあ、コーヒー飲んでいけよ。それぐらいならいいだろ」
 ほんの少しだけ、星野が困ったような顔で首を傾げた。それでも、視線を外さないおれをみて、諦めたように笑った。
「ミルクありなら」
「知ってる。砂糖なし、スチームミルクあり、酸味が強い豆は苦手。だろ?」
 そう、おれは彼を思い出していた。甘い顔立ち、抜群のスタイルに優雅な物腰。丁寧な言葉遣い。
 星野は――…窓辺の美形が、何度かここで一緒にお茶していたお相手のひとりだ。

「じゃあ、いただきます」
 笑ったときの眼の形があまりに見事で、おれもつられて笑ってしまう。
「星野って、なんか天性のチャームがあるよな」
「どういう意味です?」
「なんでもおごってやりたくなる、って意味」
「そういえば、時々先輩方に『お前はオゴリ甲斐がある』って言われます」
「得な性分だな」
「いかつくてむさくるしい男ばっかりですけどね、うちの職場」
 へへ、と笑った星野は、嬉しそうとも、照れくさそうともとれる笑みを浮かべたまま、カウンターに腰掛けた。
――赤い傘の影から心配そうに見下ろしてきた眼…暖かい手。それにあの、心の底があたたかくなる笑顔。
 決してホレっぽい方ではないと、自負している。何せ、千葉のことが好きで、三回もやりなおしたぐらいなのだ。奴の人生をよりよいものにするためなら、おれは文字通り何でもできた。
 けれど、今日の結婚パーティではっきりした。
 おれが想うほど、千葉はおれのことを愛してくれていたわけではないのだ。
 気持ちに重さや長さなど、目に見える基準があるわけじゃない。だからこそ、感じるかどうかが全ての基準だった。愛されている、と感じることができるかどうか。どんなに困難があっても、傷つけられても、「愛さえ感じられれば」おれはそれで良かった。
 心配そうに見守る新見さんやオーナーの前で、いつもより丁寧に、気持ちをこめてコーヒーを淹れた。淹れながら、泣きそうになる。
 こどもの頃から、ずっとそうだった。
 おれが心惹かれる人は、いつも、別の人を選んでいく。