20:22年前、2月14日

 赤い傘が目の前で揺れる。
 仕立てのいいジャケットと、犬のようなまなざし。危うく救急車を呼ばれかけたこと。背中に背負われたときの、見た目よりもたくましい体の体温。
 茶色い短い髪と、外国の子供のようなそばかす。琥珀色の目は笑うと色が明るくなること。数えきれないぐらい一緒にお酒を飲んで、音楽を聴いて、趣味が似ていることに驚いた。話す言葉が全部やさしくてまるくて、声が好きで、はじめて登山をしたこと。プレゼントされたブランケットが大のお気に入りで、毎日のように使ってたこと。
 あれは、もう覚えていないだろうか。…覚えてるわけ、ないか。
 リンドウの花を髪にさしてくれただろ。あれは、すごくグッときた。お返しにってお前の髪にもさしてやったけど、鮮やかな青は茶髪にあまり似合ってなかったな。あのときはじめてキスをして、そのあとすぐにセックスもしたな。指がやさしくて唇はやわらかくて、まるで自分がこわれものみたいに扱われてる気がしてくすぐったかった。
 でも、あんなに気持ちいいセックス、したことなかったよ。本当だ。人生で一番のセックスだった。愛されてることも、愛してることも体を通してあふれるぐらい伝わって、たまらなかった。
 もう一度だけ、会いたいなあ。
 お前が、おれのことを覚えていないこと、忘れてるどころか、出会ってすらいないことになってるんだって、分かってるはずなのに。諦められなくて、つらい。会いに行くって約束したけど、本当はすごく怖いんだ。だってさ、知らない人をみるような目でお前にみられたとき、おれは耐えることができるだろうか?あんなに何度も一緒にメシ食ったじゃん、って言いそうで怖いよ。お前覚えてないってマジかよ、キスもセックスもしただろって、胸倉つかんで揺さぶってしまいそうで。
 いや、そんなことしないけどさ。うん、嘘だよ嘘。だってお前はおれに出会ってすらないんだもんな。思い出なんか、はじめから「ない」んだから。仕方ないんだ。お前はおれを覚えてないんじゃなくて、出会ってない。つまり、始まってない。死に物狂いでお前を探して見つけたときにはじめて「出会う」わけで、それはもう仕方のないことなんだけど、率直にいうとこんなに、想像するだけで胸がかきむしられそうな気持ちになるなんて、思いもしなかった。
 成一、おれだよ、一保だよ。
 ほら、酒と美味しいごはんが大好きな食いしん坊の。いつも寝ぐせのついた、海に取りつかれたイケメンだよ。なあ、コーヒー何度もいれてやったろ、それなのにきれいさっぱりか、この恩知らず。
 ダメだ。やっぱり死ぬほどつらい。嫌だ、嫌すぎて死にそう。頼むから思い出してくれ。無理なのは分かってるけど、忘れられたくない。やだよ。成一、…成一、返事してくれよ、なあ。
 なんで、そんな困った顔すんの。なんで、知らないやつに話しかけられたみたいな顔すんの。ふざけんなお前、どんな思いでおれが、ここまで来たと――

 …もうやめよう。夢にしたって、悲しすぎる。

 ここはどこだろう。海の中だろうか。海面らしき場所から、光が降り注いで揺れている。泳いで、水面へと向かった。その先に、何があるかなんて知らない、分からないけれど、このままここにいたって何もはじまらない。

 

 

 

 

 

 

 

(カズくん、おきて、カズくん)

 頭の中から、コタ……航太郎の、声がする。

(ほら、来たよ。時間がない、すぐに動きださなきゃ)

 わかってる、ちょっとまってくれ、いま起きるから………

「……保……一保!起きなさい、いつまで寝てるの」
 目を開く。天井がぐにゃりと揺れて、覗き込んでいる人物の顔が次第に明らかになってきた。黒髪、気の強そうな目元、年齢の割に若くて生き生きとした口元。
「母ちゃん…」
 ふるびた木製の天井。北欧のインテリアが好きな母親が集めている、マリメッコのファブリックボードが飾られた壁。熊の掛け時計。
 実家だ。確か、改築する前の。
「あら。なんだかぼんやりしてるね。もしかして、熱でもあるのかな」
 のぞきこんできた母が、そのまま額と額を合わせてきてびっくりした。やめろよ、と押しのけようとして、自分の小さな手に驚く。これは、まぎれもなく子供の手で、子供の力だ。
「熱はないみたい。どうしたのよ、ぼーっとして」
 体を起こされ、微笑みながらぎゅっと抱きしめられる。愛情たっぷりに育てられた自覚はあったが、こどもの自分がここまで率直な愛情を注がれていたなんて、うれしいけど恥ずかしい。
「ほら、起きたなら用意して。学校いくよ」
「……母ちゃん、あのさ」
 服を着せようとする母の手をつかむ。声変わりしていないこどもの高い声に違和感があったけれど、今はそんなことを言っている場合じゃない。
「今からおれ突拍子もないことのいうけど、信じて」
「なんなの、急に。またマンガか何か読んだの…」
 眉をよせ、振り返った母は、おれの真剣な顔をみて口を閉ざす。
「おれは今すぐ、どうしても、広島に行かなきゃいけない」
「何バカなこと言ってるの。早く着替えて、用意しないと…」
「ひとの、生き物の命がかかってるんだ」
 どうか分かってくれ、と祈るような気持ちで見つめる。朝の忙しい時間にわけのわからないことを言って困らせる子供に、母親はどう出るだろうか。
「………それは、一保の大切な人なの?」
 てっきりバカにされるか、無視されるかだと思っていたから、母親の返答におれは目を丸くしてしまった。
「うん。絶対助けなきゃいけない。おれが行かないと、そいつは溺れて死にかけるし、飼ってる犬は流されて死んじゃうんだ。そうしたら全部おかしくなってしまう、助けて運命を変えなきゃ」
 言いながら、あまりにもバカな説明に思えてきて、黙ってしまう。
 険しい顔をした母は、腰に手をあてたまま、じっとおれをにらんでいたが、おれも足を踏ん張って睨み返す。嘘は嫌いだ。分かってもらえなくてもひとりでなんとかするしかない。
「わかった。お母さんは何をすればいい?新幹線の往復チケット、とればいいの?」
「母ちゃん!!ありがとう、大好き!」
「愛する一保にはなんでもしちゃうからね、まったく自分でもどうかしてると思うわ」
 そういってウィンクしてきた若い母に、不覚にも胸がときめいてしまう。さすが、おれの母親。寛容さが半端じゃない。
「ほかに、用意してほしいものがいろいろある。浮き輪、浮き輪に空気いれる道具、ロープ、カラビナ、こども用のウェットスーツ!あと……毛布とバスタオル数枚、なるべくあったかくて、でかいやつ。それが全部入るキャリーバッグ」
「ねえ、もうちょっと詳しくきいてもいい?」
「………」
「オーケー、きかないほうがいいのね。ほかにもある?」
 独身の頃、叔母の家で何年か居候していただけあって、母もアメリカで使うジェスチャーが板についている。両手を上に向けて肩をすくめるポーズに、おれも同じように返す。生意気な子!と髪をくしゃくしゃにかき混ぜられて、ただでさえ奔放に跳ねまくるくせ毛が、手の施しようがないほどあっちこっちに向かって散らかってしまった。
「あ、携帯だ、携帯かしてほしい」
「あんたねえ…」
「絶対いるんだ」
「まったく。大きな貸しよ。出世払いでいいけどね」
 さあて、冒険の用意しなきゃね。そういって腕まくりをした母が、キャリーバッグの中になぜか自分の服まで詰め込みはじめた。
「おい、なんで母ちゃんのも入れるんだよ」
「小学生の子供をひとりで広島までいかせる親がどこにいんのよ。ほら、さっさっと着替える!…あ、学校に連絡しなきゃね、風邪ひいたってことにしとけばいいでしょ。でもあんたほとんど風邪ひかないから、怪しまれそうだわあ…」
 なぜかうれしそうにソワソワした様子で、電話の置いてあるリビングへと消える。まさかの同伴に頭を抱えたくなったけれど、考えてみれば今おれは7歳なわけで、当然といえば当然だ。
 日付は確認したから間違いないのだが、問題は時間だった。そうだ、小学生当時の学校終了時間を調べてそれまでに先に現場にいれば、千葉や犬が川に突き落とされる前に防げるかもしれない。
 手渡された携帯電話で検索しようとして「ガラケーかよ!!」と叫んで放り投げる。そうだった。当時はスマホなんて便利なものはなかったんだ。それに携帯電話一台では、消防に通報はできても、相互連絡には使えない。
「ちょっと!レンタル品なのよ、雑に扱わないでちょうだい」
 携帯がレンタルってなんのことだ。意味がわからないが突っ込んだり調べている暇はない。
「たしかうち、父ちゃんが凝ってた無線のセットあったよな、出して、おれがメンテして持ってくから」
「む、無線?そんなの使ったことないわよ、なんでいるの」
「いいから、使い方なら教える。太田川の河川敷中流域、なんて言われてもな、広いからさ、ひとりじゃ探し切れねーよ」
 おれの独り言に、母親は眉を寄せてじっとおれをみた。このままでは面倒な質問をされるとわかっていたので、先手を打って質問した。
「母ちゃん、うちってネットつながってる?」
「ネット?インターネットのこと?つながってないわよ。大体パソコンなんてまだまだ高いんだからね、ほいほい買えるものじゃないの」
 なんてこった。22年前といえば、確かにそうか。
「わかった、もういいや。じゃあさ、教えてほしいんだけど。小学校って何時に終わるんだっけ?」
 いよいよ頭がおかしくなったと思ったのか、しゃがみこんだ母が険しい顔でおれをじろじろと眺めた。額に手をあてたり、頬を引っ張ったり眼をのぞきこんだりしてから、「うーん、まともっぽいのにどうしたんだろ……」と困惑している。
「毎日行ってるのにどうしたっていうの」
「いいからっ」
「そうねえ…2時半ってとこじゃない?一保はまだ低学年だから、6時間授業も少ないし」
 2時半。いま現在、2月14日午前7時。もうあまり時間がない。
「母ちゃん、ウェットスーツはいいや!ロープと浮き輪と、カラビナだけでもなんとかなんねーかな?!」
 スポーツショップが開店するのは11時以降だ。そんな時間まで待っていては間に合わない。
「お父さんが駐車場改築する前に使ってたから、トラロープならあったような気がする。ちょっと倉庫みてくる」
「ああ~~トラロープか。できたら救助用のナイロン製、三つ打ちZ織りがいいんだけどな~~!まあいいや、言ってらんねえ。とりあえず広島まで行ってそっちでホームセンター探すから急いで。もう家でなきゃいけねーから、新幹線のチケットは駅で買おう」
 ひとしきり仕切った後で、口を閉ざす。奇妙な顔をした母をみて、またしても自分が7歳児だということを忘れていたのだと気付く。
「ねえ、誰か乗り移ってるみたいにみえるんだけど、霊でも呼んだの?ほら、あるじゃないコックリさんとかそういうの」
「いいから早くしろっつーの!」
「あはは、いまの言い方若いときのお父さんそっくり」
「やめろ、一緒にすんな」
 30分で支度して家を飛び出す。冷たい海風に、そういえば今は2月だったんだ、と思い出し、こんな日に川に落とされるなんて、改めてぞっとした。
 バス停まで、荷物を抱えた母親とふたりで走った。少し気分が優れないのか、ときどきふう、とため息をついては水を飲んでいる様子が気になったけれど、今はそんなこといっていられない。
ーー大丈夫だろうか。こんなに小さい手と、体で、千葉を助けることが出来るだろうか?
(カズくんなら大丈夫、だって、体は小さくても、知識はあるでしょう?)
 もちろんだ。おれは海難救助のスペシャリスト。必要な道具も、救助の方法も知っている。大丈夫、おれはやれる。
 駅に到着したバスの窓から、決意をこめて空をにらむ。
 まってろ、広島。いま助けてやるからな、千葉。

 

 

 

 東海道・山陽新幹線のぞみに乗って、広島駅に着いたのが12時すぎだった。幸い母は免許を持っているし、運転も普段からよくしているので、レンタカーを借りるのも運転するのも任せることができたのだが、てきぱきとレンタカーショップに入って手続きをしようとするおれをみて、いよいよ母親は帰宅したら病院に連れて行こう、という決意を新たにした模様だ。まあ、帰宅しないからいいんだけど。
 カーナビなんて便利なものはないので、駅についてすぐ、広島市内のロードマップを買ってもらった。地図を読むのが苦手な母のかわりに、目的地の太田川中流域のあたりや、ホームセンターにあたりをつける。
 ロープやカラビナを買ってもらってすぐに、浮き輪に空気をいれて「二周り二結び」という決着方法で、浮き輪にロープをくくりつけた。カラビナはデニムのベルトホールに何個か装着し、持ってきたバスタオルや毛布もすぐに使えるよう、背中のリュックサックに詰め込む。
 余ったロープや荷物は、まとめて後部座席に放り込んだ。さすがに2月ということもあって、風は冷たく空は曇っている。そんな中で駐車場で浮き輪やロープを手にしているおれや母はかなり目立つらしく、怪訝な表情であからさまにじろじろと見られている。
「うーんまるでみえてこない。カズくんなにがしたいのかなあ」
「だから、人命救助だって。母ちゃん余ったロープ一陣巻きにしといて、ってわかんねえか。いいや、貸して」
 手に取ったロープを膝と腕をつかってくるくると巻きながら、キンクしたりしていないか、厳密に確認した。ロープは救助の命綱だ。今日のようにウェットスーツもエアーもない状態で、直接泳いで助けるなんて
危険なことはなるべく避けたい。一緒にいる母親も半狂乱になるだろうし。
 太田川の中流域、それも水門のあたりに目星をつけて地図に印をつけてから車に乗り込み、コンビニで買い込んだ食べ物を胃の中に流し込んだ。あまりおいしくない、とおれがつぶやいていると、隣で母が吹き出している。
「そりゃそーよ、コンビニのごはんなんてまずいものよ」
 いやあ、それが最近のコンビニはそうでもないんだぜ、とおもいつつ、いまいちおいしくないおにぎりを咀嚼して飲み込み、「よし、じゃあ母ちゃん、作戦の確認をしようぜ」と呼びかける。作戦って、と笑いをこらえている顔がむかつくが、かまけている時間はない。
「ちゃんと聞いてくれよ。要救助者は、おれと同じ7歳の男児と段ボール箱に入れられた犬だ。川に突き落とされて流されるか、流されかけてるところを救助しなきゃいけない。まず姿を確認したら、無線で相互に連絡をとる。使い方はさっき教えたよな、頼むぜ。で、携帯持ってる母ちゃんがすぐに119番に連絡だ。いっさい躊躇せずすぐ電話してくれよ」
 母は敬礼のようなそうでないようなポーズでふざけながら言った。
「イエス・サー」
「ふざけんなっての、人命がかかってんだぞ!ったくそんな態度海保でしたら懲罰もんだぜ」
「申し訳ありません、隊長……ってこの救助ごっこにつきあわせるためにわたしを広島まで連れてきたなんて、あんた、いい根性してるわ」
 肩までのまっすぐな黒髪を揺らして、母がおれをにらみつける。どうみてもおれの顔はこの女から受け継いでいるに違いなく、道を歩いていてもホームセンターの中でもちらちらと男の視線を感じるほど器量良しなのだが、軽薄なところは似なくて心底良かった。
「おれは川下、母ちゃんは川上から探してくれ。んで、無線で定期連絡も忘れずにな。絶対飛び込んで助けようとしたりしないこと。おぼれている人間は後ろから救助、とかよく言うけどな、素人がそんなもんできるわけねえんだから、絶対手出し無用だ、おれが到着するまで待ってること」
 おれみたいなプロでも、装備がなきゃ道具使うんだからな、とうっかり言ってしまって爆笑された。くそ。見た目が小学生だとこんな扱いを受けるのか。いまなら、「見た目は子供、頭脳は大人」の名探偵の気持ちがよくわかる。
「千葉…子供は、おれが助ける。犬は、流されてる場所にもよるけど、川の真ん中あたり流れてたらおれたちじゃ無理だ。消防に任せよう」
「隊長、よろしいですか」
「なんだ」
「泳いで助けられないということは、あのロープをつなげた浮き輪を使うわけよね?本当にあんなので助けられるの?流れが早かったら、思った通りのところに投げられないかもしれないし、それこそ川の真ん中を流れていたら無理でしょう?」
 いい質問だ。そのときは命綱(コイル巻きもやい結び、という)にカラビナをつけて手近な木にくくりつけ、浮き輪をもって泳いで救助するつもりだ。ただし、現在の体格でどれぐらいのポテンシャルが発揮できるか全く未知数なので、なるべく川に入らずに救助したいと思っているが。
「それはやり方を考えてある。とにかく、成功の鍵は発生後のすみやかな救助活動だ。着水している距離が長いほど、救助しにくい場所に要救助者が流されてしまう。それに、この気温だ。水温も低いだろうから、要救の体力も考えると、消防が到着して救助活動をはじめるまでの5~10分も待ってらんねえんだ」
「了解、心配しないで。いくらなんでも救助ごっこのために川に飛び込んだりしないから。ちなみに……帰ったら3ヶ月お小遣い減額だからね」
 まったく、今度はなんのマンガを読んだんだか。レスキュー隊か何かかしら。
 呟いている母親の横顔は、内容はともかく、少し楽しげにみえる。
――すまん、この時代のおれ。
 しばらくの間小遣いが減りそうだが、人命にはかえらんねえからあきらめてくれ。
 心の中で手をあわせて許しを請いつつ、目的地に向かった。

 

 

 

 

 やや陰った太陽に時計をみると、3時前だった。
 河川敷近くに車をとめ、必要な物品をすべてリュックに詰め込んで、母を川の上流から、おれは水門のあたりから千葉を探しはじめた。川は、町中へと流れる川のわりには水がきれいで、これなら感染症の心配はなさそうだ。あとは、溺れる前に助ければいい。
 太田川の水門付近、河川敷の法面にリュックを置いて、ロープと浮き輪、それにカラビナをもって川上にむかって歩きはじめる。無線で連絡を取り合い、30分近く注意深く歩いて探したが、それらしき人影は見あたらなかった。
 もしかして、日付が変わってしまったのか。それとも、突き落とされること自体がなくなったのかもしれない。おれが過去にとんだせいで、予想もつかないゆがみが生じている可能性はある。もちろん、千葉がひどい目にあわないならそれに越したことはないけれど……
 眉を寄せ、目をこする。あと30分探して、見あたらなかったら一度車に戻ろう。母は、なんだか体調が悪そうにみえたし。
 そんなことを考えていたときだった。無線が、無機質な呼び出し音を鳴らした。
「はい、こちら一保。いまのところ、それらしき人影はなし。どうぞ」
 音が切り替わった途端、あわてた声が飛び込んできた。
「わたしよ!あなたのすてきなお母さん!ちょっと、どういうことなの?!とりあえず消防に電話したわよ、ねえ、そっちに流れていったの、子供が!!突き落とされて!!」
「落ち着いてくれ。それはどちら側の岸辺だ」
「あんたが歩いてる側よ。とにかく、はやく、はやく助けてあげて、犬はすぐ助けられたけど、こどもが……」
 声が途中で途切れ、遠く、嘔吐しているような物音がして顔をしかめた。本当に体調が悪かったらしい。
 巻き込んでしまった後悔と謝罪は、あとでめいっぱいするから。今は、このチャンスを生かすしかない。
「わかった、ありがとう。絶対助けるから、車に戻ってて」
 無線を切って、川上をにらみつける。水面が、不自然に乱れている場所が遠く、みえた。
 千葉だ。
 ロープを手近な木にくくりつけ、自分自身に命綱としてむすびつける。それから、ロープを結びつけた浮き輪を手に取り、川の浅瀬へ入って千葉がくる位置を予想した。
 あと25メートル。…15メートル。思っていたよりも川の流れが早い。もしかすると、ここ最近天気が悪かったのかもしれない。うかつだった。天気も調べておくべきだった。
「千葉っ」
 10メートル。いよいよ、姿がはっきりとみえてきた。
 短い黒髪と、もがいている手が見える。川面につかっている足が、感覚がなくなってくるほど冷たい。自然と荒くなる息は白く変わっていて、昼下がりでも2月の気温は、それだけで体力を奪う。
 5メートル付近まで近づいたところで、ロープを結びつけた浮き輪を、千葉が流されてくる方向に投げ入れた。
「捕まれ!!」
 千葉の手が、もがくように水面にはねる。浮き輪に気付いたのか、必死でつかもうとしている。けれど流れが早くて、あと少しのところでつかみそこね、岸辺から川の中心へと流されてしまう。
 覚悟を決めろ、村山一保。
 頭の中で、救助のシュミレーションを行う。むやみに飛び込むのではなく、確実に助けるのだ。そのためには――
 投げた浮き輪のロープを引っ張って回収しながら、川の中へと飛び込んだ。体が軽くて、川の流れに逆らうにはあまりにも力が足りない。さきほどまでしぶきをたてていた千葉の手は、すでに力をなくして見えなくなっていて、このままでは命が危ない。
 冷たい水温が容赦なく体温を奪っていく。自分の血液が流れる音がきこえた。それは妙に落ち着いていて、いままで感じたことのない強い使命感が、力をなくしそうになる両手を前へ前へと動かしていた。
 千葉、こんなところで死ぬな。
「こっちだ、つかまれ」
 追いついた千葉のシャツの襟をつかんで、無理矢理浮き輪の輪をくぐらせ、もたれかからせたときには、目の前に水門が迫っていた。自分に結びつけた命綱をひっぱり、必死で川岸へと泳ぐ。もう少し、あと少し。早く、早く。
「母ちゃん!!バスタオル、毛布!!」
 泣きわめいていた母親に大声で命令してから、千葉を抱き上げ、河川敷にそっとおろす。遠く、サイレンの音がきこえてきたが、まだ安心はできない。
「千葉、しっかりしろ、目を覚ませ」
 横たわっている千葉は呼吸をしていなかった。頬を軽くたたいても、声をかけても無反応で、注意深く胸を眺めても全く動いていない。
「救急車が到着するまで、おれがCPRする!母ちゃん、時間数えてて!」
 心臓マッサージ、胸骨圧迫なら仕事で何度もやっている。
「絶対に助ける。起きろ、こんなところで寝てんじゃねえ」
 青白い顔で横たわっている千葉にまたがる。胸骨のあたりを、合わせた両てのひらの腹で強く、繰り返し、数センチ沈み込むまで強く押す。5秒に8回。1分につき100回以上。
「起きろ、千葉。おまえこんなところで死んでどうすんだよ!おまえはな、おまえにしか出来ないことがあるんだ」
 唇がふるえて歯の根が合わないほどなのに、体の芯が燃えるように熱い。鼻の奥が痛くて、泣きそうな自分に気付いて頭を振った。
「おれなんかより、おまえのほうがずっと、人を助ける才能があるんだ。千葉…起きろ、目をあけろ!!」
 いよいよ間近に迫ったサイレンに、助けが来たことを知る。母が走り出して、救急隊を誘導してくる声がした。おれは胸骨圧迫をやめずに、千葉に呼びかけ続けた。
「……おれは、おまえに生きていてほしい。恋人じゃなくても、友人じゃなくてもいい。幸せになってほしい」
 泣くまいと思っていたはずなのに、体が揺れると同時に涙がおちてきて、千葉の顔に雨のように落ちていく。
「おまえが必要だよ。いらなくなんかない」 
 だから、あきらめないで信じてくれ。
 どんな生まれ育ちでも、自分の未来が輝かしいものだと信じてほしい。運命なんか変えてほしい。誰からも必要とされてないとか、好きなものはいつも奪われるなんて思うなよ。たくさんの人を救ったように、どうか自分自身も救ってあげてほしい。
「頼む………創佑ッ!!」

 

 

 

 

 千葉の体がふるえて、水を吐いた。
 せき込み、はげしくむせてから、うっすらと目をひらく。
「通してください、搬送します」
 救急隊員がふたりやってきて、意識を取り戻した千葉をストレッチャーにのせて運んでいく。千葉の体にかけた毛布がずり落ち、へたりこんだ母の足下におちた。車内では、あっという間に酸素マスクがつけられ保温されて、つれていく病院の選定がはじまっている。
「あなた……誰なの。一保じゃないでしょう、あの子をどこへやったの」
「一保だよ。未来から、こいつを助けるためにきたんだ」
 声を震わせながらおれを睨みつける母に、つい本音がこぼれ出た。頭がおかしくなったと思われるかもしれないが、嘘をつく元気は残っていなかった。
「怖いわ、なんなの、どういうこと」
 腹を守るようにして何度もさすっている様子をみていると、母の体調不良の原因が分かってしまった。そうか、言われてみれば計算が合う。大事な時期に、過酷な目にあわせてしまって本当に申し訳ない。
 でも、知ってるよ。その子は強い子だから、大丈夫だ。
「なあ、母ちゃんの腹の中の子、女の子だよ。生まれる日、すごく雪が降るんだ」
「妙なこと言うのね。由記市は、雪なんてめったに降らないわよ」
「ふるんだなあ、それが。だからその子の名前は……おっと、これ以上は秘密だ」
 にやっと笑って、母の腹をさする。まだ膨らんでもいないこの中に、命がひとつ宿っているなんて不思議だ。
 茫然としている母親を置いて、救急車の前に駆け寄る。
 救急車のバックドアをしめる直前、隊長らしき男がこちらを振り返り、おれの肩を強く叩いた。
「君は彼の命の恩人だな」
 かすれる声で、かろうじておれは言った。
「そうなれるでしょうか」
 男がにっこりと笑って、おれの濡れた頭をかき混ぜた。そして背筋を延ばし、真剣な顔をして言った。
「なれるとも。ここから先は私たちの仕事だ」

****

 次に目をさましたとき、見えたのは天井だった。

「どこだ、ここ」

「アホ、寝ぼけてんのか。寮に決まってるだろ」
「もしかしてもうホームシックなのかあ?一保ちゃんときたら」

 確認よりも先に、声がした方に拳を落とす。いてえ!とか乱暴者!とかしょうもない非難が聞こえてきたが無視だ。
 短くなった自分の髪を手のひらでさする。
 この天井は確か、海上保安大学校。寮の部屋――正確には部屋というよりも寝るための場所だから、寝室になるが――の狭いベッドで、周囲に何人も人がいるのが分かる。
 ポイントの時点にきているのだと分かったのは、暗闇に目が慣れてきて、そばで笑っている千葉が見えたからだった。まだ頬に傷のない、はつらつとした笑顔は、確かに記憶の中の顔と同じだった。
「なあ、千葉」
「なんだよ。いつも創佑って呼ぶくせに」
 くすぐったそうな声に、泣きそうになった。そうか、いまこの世界では、おれは千葉を「創佑」と呼べているのか。いつか来るかもしれない別れなんか、考えずに済んでいるのか。
 うれしくて、まだ一度しか呼んだことのない名前を、かみしめるように声に出した。
「……創佑」
「そうそう。で、なんだよ?」
 もうひとりいたはずの同期は、どうやら眠りに落ちたらしい。うるさいいびきがきこえてきて、千葉と目を合わせて苦笑した。
「おまえは、今、幸せか?」
 あまりに唐突な問いかけだと、後になってから気付いた。くそ、とひとりごちて質問を取り消そうとしたが、それよりも先に千葉が笑い声を上げて「ああ、最高に幸せだね」とこたえてきた。
「本当に?」
「だっておまえと会えたしな」
「どういうことだよ……」
 ベッドに腰掛け、千葉がおれをのぞきこんでくる。眉を寄せ、なにかたくらんでいるような顔をしている千葉を見上げて、おれは言葉を待った。
「笑うなよ。実は一保、おれの初恋の子に似てるんだ」
「なんだよ、初耳だぞ、そのエピソード」
 窓の外では、満月が海の上に浮かんでいる。聞こえてくるイビキや寝息に、千葉が声を潜めて続けた。
「いまからもう10年以上前かな。川でおぼれかけたことがあってさ」
 ぞくりとした。おれが変えた過去がどうなったのか、恐ろしくて耳をふさぎたくなったけれどこらえる。おれには、それを知る義務がある。
「飼ってた犬も流されてさ。もうだめだと思ったとき……すっげーかわいい女の子が飛び込んできて、たすけてくれたんだよ。ちなみにおれのファーストキスもその子な」
 あれはキスじゃなくて救助活動だよ、と言いかけて口をつぐむ。照れくさそうな千葉の顔を見ていると、言いだせなくなってしまった。
「一保は、その子に少し似てるんだ」
 千葉の声に、うれしいような、情けないような気持ちで、ため息をつく。
 そうか、本当に助けられたんだ。
 良かった。本当に良かった。
「おい一保、平気か?ぼーっとして」
「元気だよ。なあ、ところでそのときの犬は……」
「12歳まで生きたよ。……少し前に、老衰で」
「そっか。つらいこと聞いてごめん」
「いや。いまの家族と……あ、おれいろいろあって、実の親と縁切ってて別の夫婦に養子としてひきとられてんだけどさ。家族全員で、見送ることができたから。やれるだけのことはしてやれたし、悔いはないんだ」
「良かった」
 ニッと笑った顔には、なんのてらいもなく眩しい。
「それにしても、あの子、元気かなあ。いまごろすげえ美人になってんだろうなあ」

 

 すごくかわいい子だったよ。眼が猫みたいに切れ上がってて、黒髪のくせっけ。なんでだろ、名前を呼ばれた気がするんだ。名前を呼ばれて…お前は必要だと、言ってくれた。
 ま、初対面なんだし名前知ってるわけないから、夢かもしれないけどな。

 

 間の抜けた声に、内心(それはおれだよ、イケメンに成長して悪かったな)と悪態をつく。なにもしらない千葉は、眠そうに目を擦ってから「そろそろねるわ」と言って自分のベッドへと戻っていった。
「おやすみ、一保」
「おう、また明日な」
 ぶっきらぼうに返事をして、ふとんの中に潜り込み目を閉じる。
(航太郎、きこえるか)
 もう声が聞けないであろう、片割れに向かって呼びかけ続けた。
(おまえのおかげで、未来は変わった)
 力を貸してくれてありがとう。もう、おれはなんの能力もない、普通の男になってしまったけれど。
(おれの未来も、変えてみたいとおもうんだ)
 何度もあきらめた潜水士としての道を、極めてみたい。
 もしかしたらまた、肺気胸に苦しむことになるかもしれない。能力的に、不可能かもしれない。それでも、
(海上保安官として、頂点を極めてみたい)
 次に成一と会うときは、自分も最高の状態で会いたい。

 

 成一に会えるまで、あと何年かかるだろう。
 10年か、9年か――そのとき、おれはどうやって、あいつに話しかければいいだろう。
 成一が、おれを変えてくれた。立ち向かう勇気を与えてくれた。寄り添い、励まし、いやしてくれた。逃げ続けていた自分の人生と、また戦えるように、立ち向かえるようにしてくれた。
(成一が夢をかなえ、レスキュー隊に入るのなら、きっと――)
 ひらめいた再会の方法に、ひとりで笑った。
 みててくれ、航太郎。いつか、おまえの生まれかわりだって探し出してやるから。