21:あなたの名前を教えてください(完結)

 本科の卒業式を終え、専科にすすむことが決まっていた4月初旬、千葉に呼び出された。
 なんとなく想像はついていたが、案の定の内容だった。
「おれとつきあってほしいんだけど」
 桜の木の下で告白なんて、ロマンチックなことをしてくれるなあ、といううれしい気持ちと、こいつ、せっかく未来を変えたのにまたおれのこと好きになっちゃったのか、という呆れと、でもやっぱりうれしい気持ちがごちゃ混ぜになって、ついつい笑ってしまう。腹をかかえて笑っているおれを憮然とした顔でながめていた千葉が怒り出す前に、先に謝ってしまった。
「ごめん。違うんだ。ふざけてるわけじゃなくて、ただびっくりして」
「ああ、だろうな」
「怒るなよ」
「告白して爆笑されたのはおまえがはじめてだよ。全く、一保はいつもおれの想像を越えてくるな」
 とうとう、千葉も笑った。
 桜の花びらがおれの頬をすべりおちていく。風が強く吹いて、目をあけていられないぐらいの桜吹雪が、ふたりの間を通り抜けた。
「ありがとう、でもつき合えない。ごめん」
「……おれが男だから?」
 声は落ち着いていたが、目がすがるようにおれをみつめてくる。ああ、そうだった。かつては、この顔をされたらもうだめだった。なんだってしてやりたいと思っていたし、してしまっていた。自分を犠牲にすることも、傷つけることもいとわなかった。
「違う、男だからじゃない。おれ、ゲイだもん」
 さらりとカミングアウトしてやれば、千葉は目を見開いてぱちぱちとまばたきを繰り返した。まあ確かに言ってなかったな、この4回目の世界では。
「じゃあ、どうして」
「好きな人がいるんだ。だからおまえとはつき合えない」
「……おれの知ってる奴か」
「いいや。おまえは会ったことも見たこともないやつだよ。正直にいうと、おれだってまだ出会ってない」
「一保……おちょくってるのか?」
「違う。本当のことだ。おれ、そいつにもう一度会いたい。会って、好きだって伝えたいんだ。向こうはもう、おれのことなんか覚えてないとおもうけど」
 我ながらなにを言っているのかわからないが、嘘をつくのがイヤだったのでそのまま伝えた。千葉は手のひらを額にあてて、考え込むようなポーズをした。
「すぐにあきらめるのは無理だ。しばらく、がんばってみてもいいか」
「がんばるって、なにをだよ」
「おまえを振り向かせるためにがんばりたいんだよ。おれを好きになるように、がんばってみたい」
 何度となく千葉と出会ってきたけれど、こんなことを言われたのは初めてだった。こんなにもまっすぐで、一生懸命で、かっこわるい千葉創佑は知らなかった。
 これが、ほんとうの千葉なんだろう。誰にもゆがめられていない、ありのままの千葉はきっと、こういう男だった。
「やめとけって。なにをいわれても、おれの心は変わらないから」
「どうせ、名前も知らないような奴なんだろう。そんな奴に惚れて再会を望むなんて、正気の沙汰じゃないぜ」
「わかってるよ。でも奇跡ってのは、起こそうとしないと絶対起きないんだ。口をあけて空を眺めて、ただ幸運が降ってくるのを待っていたって、なにもおこりやしないんだ」
 腕を組み、面白いものをみたような顔をしている千葉が、側によってくる。指をのばし、おれの髪にくっついていた桜の花びらをつまみ、風の中へと放り出す。そのはなびらの行き先を眺めていたら、目の前が暗くなった。背をかがめた千葉が、キスしようとしてきたのだ。
 寸前のところでよけて、太ももを蹴ってやった。いってえ、と笑い混じりの声。まったく、手が早いのは何回目でも変わらないらしい。油断も隙もないやつだ。
「一保のそういうところ、好きだよ」
「どこだよ」
「いつも前を向いているところ。言葉だけじゃなく、行動を起こそうとするところ」
 で、どうやって再会するんだ?
 千葉の問いかけに、おれは高らかに宣言した。
「なってやるのさ。海上保安官のヒエラルキーの頂点ってやつに」
 おれの言葉に、千葉がひゅう、と口笛を吹いた。
「いいね。それで?」
「そっから先は、なってからのお楽しみだ」
 なら、おれもそこまでお供しよう、と千葉が言った。ずっと一緒にいれば、おれのことを好きにならずにはいられないぜ。などと、うぬぼれもいいところだが、そういうセリフが似合うところがこの男のいけ好かないかっこよさでもある。
 懲りない千葉が背中に手を回して抱き寄せようとしてきたので、今度はおれも手加減せずに、くるりと回って本気の回し蹴りをお見舞いしてやった。3メートルほど吹っ飛んでいったが、自業自得である。
「全部、それで許しといてやるよ!」
 そう、全部。殴られたことも、無理やりやられたことも。
 許すから、許してほしい。
 なにも分かっていなかったおれが、知らずにお前を傷つけていたことが、あったに違いないから。

***

 26でようやく特殊救難隊に配属され、今年で3年目になる。待ちに待った共同訓練の日がやってきた。
 装備、体調、すべて万全の状態だ。
「千葉、村山、里崎。準備はいいか」
 合田隊長の渋い声に勢いよく返事を返すと、ほかの隊員と声がそろってしまった。
「はい!」
 もういい加減慣れたヘリの振動と音の中で、後輩の里崎、それに同期の千葉。どの顔にも、適度な緊張はあるが、よけいな気負いやぴりぴりした空気はまるでない。過酷な訓練に耐え、任務をこなしてきた自負が、隊員の顔をこんなふうに変えていくのだ。
「いくぞ。いつもでかい顔してる消防の連中に、一泡ふかせてやれ。いつまでもあいつらの下で満足してるおれたちじゃないってな」
 天気は晴天。雲一つない。
 東京消防庁と神奈川県の消防局、それにおれたち。関東の陸と海で活躍しているその道のプロが集まり、年に1回の訓練回が行われることになったのは昨年のことだ。もともと特殊救難隊は東京消防庁の力を借りて発足したチームなので、東京消防庁との縁は深い。
 そこに神奈川県もねじ込んだのは、全国的にその名をとどろかせている我が隊長、合田瞬の強力なプッシュと、神奈川県のハイパーレスキューに通じる人脈があったからだ。
 着岸している大型客船での火災を想定した大規模な訓練で、おれたち合田隊はヘリからロープで降下して船内に入ることになっていた。いわゆる「リペリング降下訓練」からの、火災フェリーにおける行方不明者捜索訓練である。
 ホイストフックにスタティックロープを固定。降下にはM2スライダーを使用する。今回は訓練の難易度を上げるため、スライド式リペリング降下といって、進行するヘリコプターから停船している客船の、わずかな上甲板にピンポイント降下することになっている。
「ロープOK!」
 GOサインを出して、動くヘリから速度を調整しながら船に降下した。ダウンウォッシュがほとんど発生しないスライド式リペリング降下は、本来救命ボートなど、影響をうけやすい小舟から救助する際に用いるテクニックだ。
 おれが降下を成功させてすぐ、千葉、それに合田隊長が降下してきた。信じられない速度と安定した着地。やはり、まだまだこの人にはかないそうもないな、と気を引き締め、任務に集中した。
 防火服を着た状態で機関室上部から進入し、燃えさかる炎を消し止めつつ内部へと入っていく。
「奥がまだ消えてない、あわてずゆっくりやれ」
「了解、ロープ大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
 船内には要救助者がわりの人形が3体配置されている。場所は明かされておらず、訓練ではあるが、どこが一番救助できるか、組織の威信がかかっている。
 船尾側から進入した神奈川県のハイパーレスキュー隊が、さっそく1体救助したとの連絡が入った。「早いな。星野か」と後ろで隊長が呟く。その名字に動揺しそうになったが、おれたちも負けてはいられない。冷静に、迅速に。火を消し止めながら地階へとすすみ、薄暗い船の中から1体、要救助者を救出することができた。

 

 

 訓練終了後、3所属合同の飲み会があった。とはいえ、全員が参加すれば大変な事態となってしまう。(お世辞にも、酒癖がいい連中とはいえない)そのため、合田隊のメンバー、それに隊長と仲がいいという神奈川県のハイパーレスキュー隊2隊、東京消防庁のハイパーレスキュー隊1隊の計25名で、横浜の居酒屋を貸し切ることになった。
 後輩がひとり入ってきているとはいえ、この酒を水のように飲むメンバーでは手を貸さざるを得ない。ビールサーバーを置いてある「ご自由にどうぞ」形式のフロアで、おれは全員の顔や名前を確認する暇もなく、忙しくビールを入れて手渡して回っていた。東京のHRハイパーレスキューの新人の大野と後輩の里崎、それに千葉とおれがせわしなく動いていると、おくれてやってきた神奈川県のHRメンバーが5名、あわてて声をかけてきた。
「すみません、手伝います。そのジョッキお持ちしますね」
 おう、と返事をして振り返り、ーー固まった。
「あの…どこかでお会いしましたか?」
 そこにいたのは、成一だった。
―――思わず言いそうになる。おまえに会いたくて、そのために特殊救難隊に入ったんだよ。そうすればいつか、こういう機会があると思ったから。ただ会いに行くんじゃなくて、仕事で、対等な立場で会いたかった。尊敬しあえる同士として、おまえに会いたかったんだ。
 大体なあ、お会いしましたか、じゃねえよ。キスもしたしセックスもしたわ。ばかやろう、ここまでくるのにどんな思いで、くそ、のんきな顔しやがって。あーでも困ったな、抱きしめたい。できないけど、わかってるけど。
 おまえ、ちゃんと目標達成したんだな。ハイパーレスキューに入って、救急救命士として活躍するって言ってたもんな―――
 目の奥が熱くなった。いくらなんでもここで泣いたら不審者だ。なんとかこらえようと、息を深く吸い込んだ。
「あの……?」
「いや。ちょっと知っている人ににてたから」
「そうですか。あ」
 ジョッキを持って行こうとした成一が振り返って、おれの鼻に触れた。
「泡がついていましたよ」
 そういって、にっこり笑った。
「すごい量だな、星野、おれも手伝おう」
「六人部隊長、大丈夫です、こういうのは下っぱが持つものですから」
 やってきた六人部さんと笑顔で会話しているのをみて、なんだかおれはほっとした。よかったな、失恋、乗り越えたんだな。
 六人部さんは、かつて何度かカフェで見たころと変わらず、かっこよくて怜悧な色気がある人だった。
 同じチームの仲間として、尊敬しあっている様子が伝わってきて、おれは両手にジョッキを持ったまま、しばらくぼんやりと突っ立っていた。再会したら、こう言おうとかこうしようとか、勝手に頭の中で思い描いていたことはなにひとつできずに、ただぼんやりと大騒ぎする人々を眺めていた。

 大騒ぎの飲み会が終わって、店内の片づけを手伝っていたら、後ろから声をかけられた。
「よう。運命の人はどうだったよ?」
 千葉は、おれと成一が会話していたのを見ていたらしい。長年のつきあいで、おれの表情の変化や意味に機敏なので、成一がおれにとってどういう存在なのか分かったようだ。
「つれない返事だったよ。満足か」
「それはかわいそうに。あいつに会いたくてトッキューにまで入ったのにな」
「うるせえ、おれのためでもあるからいいんだよ」
 あらかたの片づけを終えて、お礼にと渡された店の割引券と数人の女の子の連絡先をそのまま千葉に押しつけて、夏の浜風のにおいをかいだ。おなじ神奈川県なのに、由記市とは海の色もにおいも、少し違うような気がする。
 店をでて、コスモワールドの方向へ向かって早足で歩く。色とりどりに光る観覧車や、洗練された街並みが、いまは少し辛い。
 分かっていたはずだ。知っていたはずだ。
 成一がおれのことを知らないのは当たり前のことで、それでも変えたくて、やり直してきたんじゃないか。全部成功してる、おれだって気胸にならずに特殊救難隊に入ることができたし、千葉とは親友になれた。尊敬する上司と働けている。現状の、なにが不満だっていうんだ?
 自問自答しながら歩く。後ろから、千葉が黙ってついてきた。
「どこいくんだよ、一保」
「べつに、どこでも」
「失恋の痛み、いやしてやろうか?」
「ありがとうお断りだ、ひとりでなんとかするからおまえは帰れ」
「自暴自棄にはなるなよ」
 中指を立てて舌を出してやると、千葉も同じリアクションを返してくる。ふたりで笑って、手を振って別れてから、おれは海辺の遊歩道を歩き、柵にもたれながらまばゆい街と海をながめた。つながっている海。それなのに、ぜんぶ少しずつ違う海。潮の匂いと細い月。詩でも書けるなら良かったのだが、あいにくおれにはそういう才能がない。
 会えただけでも良かったと、思えばいいのだろうか。
 どうして理由をつけて連絡先を聞かなかったのか、考えるまでもない。答えは分かっていた。怖かったのだ。もしかすると、彼女がいるのかもしれない。もしかすると、六人部隊長とうまくいっているのかもしれない。 おれが変えた未来の姿が、成一の現在が、怖かった。
「ヘタレはなかなか、治んねえなあ」
 タバコを探ろうとして、苦笑した。そういえば、特殊救難隊に入るのだと決めてから、タバコはやめていたんだった。
 駅へ向かおうと踵を返した瞬間、後ろから、腕が強く引かれた。

「あの、」
 ――驚きすぎて、心臓が止まるかとおもった。
「ちょっと、待ってください」
 走ってきたらしく、荒い息を整えながら成一が言った。
 おれは、腕を捕まれたまま微動だにできない。
「いきなりすみません」
「……」
「はじめて会ったはずなのに、ずっとあなたのことを、探していたような気がするんです」
 千葉を助けた22年前。とんで、10年前の保大入学時点。
 あれから10年。決して短くはない時間、きっと会えると信じて過ごしてきた。成一に再会したとき、自分も胸をはれるようにと、仕事に打ち込み続けてきた。
「あなたがヘリから降下してきたところを、おれは船の上から見ていました。いえ、目が離せなかったんです。あなたの名前もしらないのに、なぜか、涙が出てきて」
「なに、いって」
 成一の目は真剣だった。琥珀色の美しい目は、記憶の中よりもずっと明るい。
 ふう、と長いため息をついてから、成一がまっすぐにおれを見つめて、言った。
「たぶん、おれはあなたのことを知っていると思うんです。忘れてしまっているけれど、心の奥のほうが覚えていて、痛いんです。苦しいんです。このまま二度と会えないのは、いやだ」
 こんなこと、ありえない。それこそ、奇跡でも起こらない限りは。
 「気持ち悪いですよね、ごめんなさい。でも、このチャンスを逃したくない、だから」
 覚えていてほしいと言った。それは、無理だと分かっていたからだ。まさか、本当にこんなことが起こるなんて――

「あなたの名前と連絡先、教えてください」