19:お前を助けに行くんだよ

 共に洋上でみた星の海を、千葉は覚えているだろうか。
 暗闇の中で無数に光る、一等星から六等星までの、様々な光。息を飲む美しい星空の下で、何も言わずに、ただ空を見上げ続けた日のことを。
 あのころは、当たり前のように隣に千葉がいた。同じものを見て、同じものを目指していた。手を伸ばせばいつでも触れられる距離で、それなのに、いつか失う日が来ることをお互いにどこか予感しながら、今が少しでも長く続いて欲しいと願っていた。
 本当の分岐点。そんなものがあるのかどうかすらわからない。航太郎の言葉が真実だと裏付けるものは何もない。やり直すときに見た、白昼夢だったのかもしれない。
 けれど――
「寂しくないか」
 声をかけたい。
「おれに、できることはないか」
 力になりたい。恋愛感情じゃなくたって、お前のことが大切だ。
 辛いことは無数に有ったけれど、それでも、人を愛する喜びを教えてくれたのは、ほかならぬ千葉だった。

 

 

 

 

 

「大丈夫。おれはやれる、大丈夫……」
 深呼吸をしてから、ふとバックミラーを眺めて、仰天した。
 車のバックミラーに、見覚えのある人間が二人写り込んでいる。その顔に気づいた瞬間、アクセルを踏もうとしたが、タイミング悪く目の前の信号は赤に変わった。途端に勢いを得て、走ってくる二人組。思わず車の中で天を仰ぐおれ。
 助手席の扉が開いて、長身の男が転がり込んでくる。ピンチに現れ勝手に助手席に乗り込むなんて、ハリウッド映画のヒーローかこいつぐらいのものだ。そして後部座席には吟遊詩人。勇者さま御一行の誕生である。ミッションは「千葉に会いに広島へ行く」
「どうかしてるよ」
 肩をすくめてため息をつく。空気を読めない信号は、待ち構えたみたいに青に変わった。せめてもの抵抗に、少し乱暴にアクセルを踏んで発進した。
「だよね、おれもそう思う」
 助手席に乗り込んできた背の高いハンサムな男、星野成一が他人事のようにうなずく。後ろでは、優美な眉を寄せて困惑した顔を作っているなっちゃんが、「ひとりは危ないし、星野さんだけ連れて行くのも事件になりそうだから、第三者的視点が必要かと思って」と説明をした。彼らに強く文句を言ったり、車から引きずり降ろしたりしなかったのは、心強い気持ちも少しだけ…ほんの少しだけ、あったことも否めない。
「乗るからには運転代わってもらうからな、成一」
「いいけど、なんでおれだけ?夏樹さんだけ免除されてるの納得がいかないんだけど」
 おれはバックミラーごしにちらりとなっちゃんを眺めてため息をついた。
「なっちゃんはなあ……いかなる時も、法定速度でしか走らないから。ありとあらゆる道で大渋滞を起こすんだ」
 成一が吹き出す。笑い事じゃねえっつうの、と突っ込んだが、後ろですました顔をしているなっちゃんが面白かったらしく、成一は前のめりになって笑っていた。
「……はあ、おかしかった。それはまた、どうして」
「さあ。何か深い理由でもあるのかもしれないし、何の理由もないのかもしれないけど、聞いてもはぐらかされる」
「そういえばどこに行くの?」
「広島」
「ここから?日付が変わっちゃうよ!」
「…車で行くのは新横浜までだ、運転かわれってのは冗談だから安心しろ」
 後ろから伸びてきた指が、勝手に車のCDプレイヤーの中へCDを1枚突っ込んだ。すぐさま流れ始めたクラシックの音楽(ヴァイオリンが主体だったが、何の曲かはわからない)に、成一が小さい声で「チャイコンだ。夏樹さん、おれもこの曲好き」と言って後ろを振り返る。
「チャイコンて何だよ」
 カーナビに行き先を入力した。横浜…厳密には新横浜駅までだが、高速を使っても1時間はかかる。クラシックに造詣が深いなっちゃんの解説をききながら駅に向かうのも悪くはないだろう。
「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲さ。ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスと並んで4大ヴァイオリン協奏曲と言われているね。――星野さんは、バレエをやっていたからクラシックは詳しいんでしょう?」
 後部座席で優雅に座っているなっちゃんが、髪を耳にかけてから助手席の成一に問いかける。クラシック音楽には全く詳しくないおれだが、チャイコフスキーといえば白鳥の湖、ってことぐらいは知っている。
 車が高速にのった。昼下がりの平日ということもあり、渋滞もなく流れている。晴れた空。車中では、ヴァイオリンの華やかな独奏に、なっちゃんのおっとりとした解説の声。
「詳しいってほどじゃないよ、おれは踊っていただけだもん。でもチャイコフスキーは好きだなあ。ラフマニノフも……うん、ロシアの作曲家って、ロマンティックだよね」
 助手席で鼻歌を歌ってから、成一が言った。なっちゃんが嬉しそうに同意する。
「さすが、体で音楽や世界観を表現していた人は違うねえ。僕は長いことヴァイオリンをやっていてね、このチャイコンをいつかオケと弾くのが夢だった。けれど、素晴らしい演奏を幾つか聴いて――今流しているこの演奏者もそうだけれど、僕にはそんな才能はないんだって思い知ったね」
 成一がへえ、と微笑んでからコーヒーを配ってくれた。海辺の冷たい風で冷えていた体が、中から温まっていく。
「夏樹さんは、何歳からヴァイオリンを?」
「いただきます、ありがとう。…3歳からだよ、子供用のヴァイオリンを買い与えられてね」
 危うくブレーキを踏みそうになった。
 航太郎も、3歳からヴァイオリンを弾いていた。大人しくて可愛らしい彼が変質者に襲われたりしないよう、レッスンに毎週送り迎えをしていたのはこのおれだ。
ただの偶然。よくあることだと切り捨てるには、なっちゃんは航太郎と共通点が多すぎた。顔立ちや体は、全然違う。当然だ、違う人間だから。けれど、彼が微笑んだときの雰囲気や、話し方や、好きなもの、細かいところに航太郎の面影があった。それに、出会いも――今になって考えてみれば、おかしかった。おれだってそれなりに社会生活を送ってきた大人の男だ。それなのに、なっちゃんに「うちに住めばいいよ」と提案された時、何の疑いも持たなかった。
 どうしてだろう、彼が話す言葉や、ほほえみが、おれには心地よかった。何もかもなくしてーー言葉通り、仕事も家もなくしてしまって、手元に残ったのは希望のなさそうな恋愛だけで、そんな時になっちゃんが肩に力の入っていないほほえみで、おれに言った言葉。「うちに住めばいいよ」「家さえあれば、大概の事は何とかなるのさ」
 そうして、おれはカフェの店員になり、成一と知り合った。不思議なものだ。気胸や、ままならない恋愛に悩まされることがなければ、おれはあのまま海保にいただろうし、成一やなっちゃんとも知り合っていなかった。苦しみや悲しみは必ずしも悪い結果だけをもたらすものではなく、可能性や希望も提示してくれる。
「ねえ…気のせいじゃないよね、その左頬。何があったの?やっぱり、千葉さんが関係あるの」
 助手席から成一が言った。横目で様子を見ると、とても静かだけれど、怒りを堪えているような顔をしている。そっと伸ばされた指が、切れた唇の端に触れた。痛みに顔をしかめる。
 おれにだけ聞こえる声で、成一が言った。
「もしそうなら、おれは千葉さんを絶対に許さない。たとえあなたが許したとしても」
「千葉は広島にいるんだ。あいつがやったわけないだろ」
「それはわかってるけど」
「でも、ありがとう」
 言えない。事情を話すことはできない。成一に知られたらきっと止める。そして成一が止めたら、おれは自分の決めたことを覆したくなる。
「ありがとう」
 心配してくれてありがとう。そばにいてくれてありがとう。好きになってくれて、ありがとう。
 好きだと言えないのが残念でならない。世界で一番愛していると、伝えられないのが苦しい。愛されているとわかるのに、言葉で伝え合うことができなくて、つらい。
 けれど、伝えたところで、お前はおれを――
「……約束、覚えてるか。何があっても、おれを信じてほしいってやつ」
「うん、信じるよ。信じてるよ」
「それだけでいい」
 言い切ったおれの横顔を、成一がじっと見つめているのがわかる。後部座席ではなっちゃんが、足を組み、静謐とした目をしておれたちふたりを見守っていた。まるで、この話の結末を知っているかのように。そう、おれのことを何もかも、わかっているかのように、口を挟まずに、ただ見ていた。

 

 

 

 

 突然だったので、新幹線の席はひとつだけ飛んだ状態になってしまった。
 飛行機よりも新幹線の方が早いとはいえ、4時間半はかかる長い旅路だ。着いた頃には夕方だから、となっちゃんが携帯で抜かりなく宿泊先を予約してくれた。呉のビジネスホテル。潜水士になる訓練や試験などで、幾度となく訪れた懐かしい街は、あれから変わっていないだろうか?
 海は塩辛く、生臭く、無慈悲で、美しくて、残酷だ。地球では陸地よりも海の方が広くて、その大きな力の前では、人間の力なんてあまりにちっぽけで、すぐに飲み込まれてしまう。
 そこに立ち向かい続けたこと。常に前に見える千葉の背中を追いかけて、抗い続けたことは、おれの誇りだ。
「……ごめんね、強引に隣に座ってしまって。少し話したいことがあったから」
 なっちゃんが、車窓に肘をつき、微笑む。
「うん」
 通路から顔を出して、通路を挟んで離れた位置に座っている成一を確認した。背が高くて茶色い髪は、どこにいてもすぐわかる。毛並みといい、性質といい、ラブラドールレトリーバーみたいだな、と思って、おれは少し笑った。
「好きなんだねえ」
 なぜか照れたような口調で、なっちゃんがつぶやく。そんなにダダ漏れなのだろうか。少し恥ずかしかった。
「秘密だぞ」
「すでに漏れてるから意味ないよ」
「雨が降ってきたね」
 なっちゃんが歌うように言って、車窓の外へと視線を移す。座席は二人がけで、彼はほっそりしているから、余裕を持って座ることができて嬉しい。雨粒が次第にぶつかる頻度をあげながら、窓を洗っていく。次第にぼやけていく、神奈川の風景。
 静かな車内で目を閉じていると、眠気が降りてきて身を任せたくなる。
「僕は子どもの頃、とても体が弱くて」
 柔らかな声に、目を開けて隣を見た。背もたれに深く腰掛けたなっちゃんは、眼を閉じ、何か決意のようなものを顔に浮かべていた。おれは顔を前に向けて、もう一度目を閉じた。そして「うん、」と返事を返す。
「10歳まで生きられないだろうって言われていたんだ。発病したのは5歳の頃。自己免疫疾患でね、完治する薬もなくて。両親は何時も、僕のベッドのそばで泣いてた。顔を覆って…おそらく、僕を襲った不幸に、ではなく、健常なこどもを得られなかった自分たちに、同情してね」
 初めて聞く話だった。返す言葉もなく、おれは目を開いて、なっちゃんの言葉を注意深く聴いた。彼はあの美しいテノールで、薄桃色の唇から、相変わらず歌でも歌うように話し続ける。
「どうして、どうして私たちの子どもだけが。ただ普通の幸せが欲しかったのに…。これは、本当に病室で母親が言った言葉だよ。無理もないけれど。僕のそばにいるのは、とても辛かったと思う。治療法のない病気で、年中チアノーゼのような顔色をして苦しんでいるんだもの。だから特別、彼らを責める気持ちはないんだ。誰しも、ハズレくじを引きたくはない、それが真実だ。だから、薄れていく意識の中で……僕は、両親を憎みはしなかった。けれど、神を憎んだよ。神様なんてものが本当にいるのならば、どうして僕がこんなに理不尽な目に遭っているのに、助けてくれないのだろうと。結局神様なんてものはいないんだと、激しく憎んだ」
 いよいよ意識が遠のいてきた時、それは聞こえたんだ。
 なっちゃんは決意を感じさせる声でそういってから、窓の外をみた。豪雨に変わった雨粒が、依然、車両の外を不明瞭なものにしている。彼の横顔に移った窓からは雨粒がながれおち、まるで泣いているようにみえた。
「僕なら君の病気を治すことができる。そうすれば、君は君の人生を最後までやりとげることができる。僕と取引しないか、と彼は言った」
「彼って、誰だ……?」
 声がかすれた。まさか、そんなはずはない。けれど、もしかしたら。
 おれの心の中を読んだかのように、なっちゃんがにっこり笑って振り返った。そして、きっぱりと言った。
「一保さんの双子の弟、航太郎くんだ」
 ザーッ、と音をたててから、周囲の音や気配が遠のいていく。
 そんなばかげたことがあるわけない、と否定しようとしても、そもそもおれの使える能力だって、「あるはずのない」力なのだ。この世界に、絶対なんてものはない。ただ「もっている」か「もっていない」かだけの違いしかない。
「彼が持ち出した取引内容はこうだった。1.僕の病気を治すーー彼は引き受ける、という言い方をしたけれど――その代わりに、僕の魂、半分を彼に明け渡すこと。2.彼の会いたい人物を探し、その人物と親しい関係になること。3.航太郎くんのことを、親しくなった人物、つまりあなたに説明し、再会させ、その時は一時的に自我を航太郎くんと交代すること…」
 言い終わるまえに、おれはなっちゃんの肩を掴んでいた。きっとすごくせっぱ詰まった顔をしていたと思う。おれを見下ろすなっちゃんの顔は、とてもつらそうだった。
「航太郎、が、なっちゃんなのか」
「正確には、魂の半分だけ。彼はルールを破ったから、肉体ごと転生するのには倍の年月がかかるんだって言ってた」
 転生だのルールだの、頭が痛くなってくる。
 けれど、嘘じゃないことだけはわかる。なぜなら、航太郎が「ルールを破り、運命をねじまげて」まで守りたかったのは、このおれ自身だったからだ。忘れてはいない。忘れられるわけがない。一瞬だって、航太郎のことを忘れたことなんかない。
「なんで、航太郎は転生を焦ったんだ?10年待てば、新しい人間として生まれ変わることができたんだろ?」
 絞り出した声の悲痛さに、自分でも驚く。
 おれが掴んだ手をやさしくほどいてから、そうだね、となっちゃんが同意した。
「本来、子どもが死んだ場合の転生は、生きていた年月と全く同じなんだよ。つまり、5年だ。5年で別の人間として生まれ変わることができるはずだった。けれど、航太郎くんは力を使って運命をねじ曲げたから、5年では魂しか転生できなかった。だから僕に声をかけたんだ。魂だけの姿になって、肉体を貸してくれる人間をずっと探していたんだって」
「なんで、そこまでして」
 声がうわずった。なっちゃんの目を見るのが怖くて、肩を持ったまま座席の下をみつめた。視界が、涙でぼやけてきて、泣いちゃだめだと頭を振る。苦しいのはおれじゃなくて、航太郎だ。肉体までなくして、それでもおれに会いにきてくれた彼のことを思えば、とてもじゃないけど泣くことなんてできない。
「おれなんか…そこまでしてもらう価値、ないのに」
 途切れ途切れに言い放った言葉に、なっちゃんが頭をなでてくれた。
「そんなこと言わないで、カズくん」
 話し方が、明らかに変わった。なっちゃんじゃない。なっちゃんは、おれを「カズくん」だなんて呼ばない。
「お、まえ、は、」 
「…僕はね、記憶を亡くしたくなかった。新しい肉体になって転生すると、魂はケガレと一緒に記憶も洗い流され、まったく違う人間として生きることになる。……イヤだった。他の人には、忘れられたってかまわない。最初からいなかったことになったって、平気だ。でもカズくんと一緒に遊んだ記憶や、一緒に過ごした時間のことを、ひとつだって忘れたくなかった。僕をいつも守ってくれたカズくん、まっすぐで優しい心をもったカズくん」
 顔を上げる。
「僕は君のことが、好きだった。大好きだったんだよ」
 勇気を振り絞って眼を合わせると、そこに、航太郎がいた。顔立ちは確かになっちゃんなのに、そこにいるのは「航太郎」なのだと、はっきりわかる。彼独特の、包み込むみたいな柔らかいほほえみと話し方。
「おれも、会いたかった――航太郎」
 同じ卵から産まれた、たったひとりの兄弟。おれを守るために、世界から消えてしまった片割れ。
 こみあげてくる涙が我慢できなくて、頬を伝って落ちた。
「ごめん。おれのせいで、おまえを」
「ほら、絶対そういうと思ったから、いままで会いに来れなかったんだよ。――お願いだから、顔をあげて。きれいな顔で笑ってみせて」
 抱きしめられ、耳元でささやかれる。声はなっちゃんのものなのに、いま抱きしめているのは航太郎だ。魂を半分ずつ分けた、という言葉が真実だと、身を持って感じる。
「ばかやろう、なんで今まで言わなかったんだ!」
「うーん、実は僕、もうずいぶん弱っていてね。カズくんに会うまえに、ほとんど魂を消費してしまったんだ。だから、夏樹くんの体を借りるにはうんとがんばらないといけなくて……。なにしろ、この体は僕の魂向けじゃないからね。それに、会ってすぐに僕は航太郎だ、って言ったとしても、カズくんは信じなかったでしょう?」
「だからって、いまのいままで……!」
「ごめんごめん、お説教なら転生してから聞くよ。時間がないんだ、最後まで聞いて」
 おれの泣き顔がよほど堪えたのか、航太郎は眉を下げて申し訳なさそうな顔で背中を撫でた。それから、額と額をあてて「ごめんね」と謝った。
「実は僕、カズくんに言ってなかったことがあるんだ。僕の力のことなんだけど…確か、僕はこういったよね。未来をみることができると。だから家族のために、何度かその力を使ったのだと」
 あれは、嘘じゃないんだけれど、説明が足りていないんだ。
 航太郎はそうつぶやき、おれの髪を撫でた。そしてふわりと微笑んでから、こう言った。
「僕の力は未来をみること、そして……過去に戻ってやり直すことだった。回数に制限があるのは、未来をみることじゃなく、やり直すことだ。安全にやり直せるのは3回まで。4回目を使ったら――そこから先はカズくんが知っているよね」
「じゃあ、あの日、おれを突き飛ばしたのは」

 脳裏にあの日の光景が蘇る。居眠り運転のトラックが、こちらに向かって猛烈な速度で走ってきた、あの寒い冬の日のことが。

 

 

 

 

 雪のふりそうな、重い雲が重なりあっている空を、よく覚えている。きっと夜は雪がふるよ、と隣にやってきた航太郎が言い、甘えるようにもたれかかってきた、その重みも。
「練習、ちゃんとしたか?」
「うん。こないだも先生にほめられたんだよ、カズくんまたきいてくれる?」
「いいけど、それなら仮面ライダーの歌とかひいてくれよ」
「そんなのないよ、もう」
「コタ、なにか弾きたい曲があんだろ?えーと、なまえ忘れたけど」
「もーっ、何度も言ったのにどうして忘れちゃうの?僕の夢はね、いつかオーケストラと一緒に、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾くこと。いい加減おぼえてよ」
「ちゃ…こん…?だーっもうややこしいな、おぼえられっかよ、そんなもん」
 なあ、何か弾いて。そうだ、こないだから練習してるあの曲、すっげー好き。
 おれのおねだりに、航太郎が立ち上がってヴァイオリンを顎の下にあてた。弓を引きはじめると流れてくる、ゆったりとした、美しい旋律。目を閉じ、うっとりと聴き入る。
「この曲は覚えた。エルガーだろ」
「それは作曲家。曲名は、『愛の挨拶』だよ~」
 演奏が終わったので、立ち上がってめいいっぱい拍手をした。航太郎が優雅にお辞儀をする。
 笑いあって、畳の上を転がる。ホットカーペットの上には、ふたりして飽きてしまったパズルが散らかっていた。12歳程度、とかかれた難易度の高いパズルだったが、航太郎は興が乗れば2時間ぐらいで完成させてしまう。
 おれはいつも、その隣ですげえな~、と歓声を上げているだけだったけれど、両親はおれのことも、神童といわれた航太郎のことも、分けへだてなくかわいがり、愛してくれていた。運動神経がいいおれには武道や運動をさせ、頭がよくて芸術的感性に優れていた航太郎には、音楽や、絵画を習わせた。
 航太郎のヴァイオリンは才能があるらしく、両親が専門の先生をつけようか、と盛り上がっているほどだった。週に一度のレッスンは必ずおれが送っていき、そのままおれは近くにある合気道の道場で練習をして、終わったら航太郎を迎えにいって一緒に帰る。そういう決まりができたのは、当時「どうみても美少女」のような顔をしていたおれたちを守りつつも、自立させるために、両親が考えたことだった。両親が送り迎えをするのがふつうのような気もするが、母親いわく「いつまでも親が守ってくれるわけじゃないし、来年から小学校に入るでしょう?あなたたちは男の子なんだから。得意不得意を補い合って生きなさい」とのことで、おれは腕っ節をみがいて変質者やいじめっこからか弱い航太郎を守ることに、何の違和感も覚えなかった。
「カズくんは、騎士みたいだよねえ」
 その日も、お揃いのマフラーと手袋をした航太郎とふたり、手を繋いで歩いていた。由紀市は比較的治安のいい街だが、海沿いに住んでいたので冬は海風があって、それなりに寒い。
「なんだよ、きしって」
「も~、本を読まないから、そんなことも知らないんだよ」
「だって本なんかおもしろくねえもん。ねむくなるし」
「絵本なら好きなのにね」
「本なんかいくらよんだって、強くなれねえ」
「ふふ、カズくんらしい」
 騎士っていうのはね、馬にのって、主や王族を守るために働く戦士のことだよ。騎士道っていうのがあって、礼儀正しくてかっこいいんだ。
「へえ~!」
「鎧をきてるんだよ、すごいよね」
「かっこいいじゃん。よし、おれは航太郎をまもる騎士になってやる」
 航太郎がとなりでぎゅっと手を握り締めた。普段はおれよりもずっと大人びているのに、不意に不安そうに甘えてくることがあって、そんなときおれは自分が兄だということを自覚し、身が引き締まる思いがした。
 海沿いの道は交通量が多くて危ないから、いつもおれが歩道の、車道側を歩いていた。曇った空の下に広がる海は、波がしろく泡だっていて、いつもよりも少し暗い色をしていた。海猫が、空を浮かびながら遠ざかっていき、数羽が後につづいていく。そのうつくしい形に見とれながら歩いていると、航太郎が立ち止まって腕を引いた。
「カズくん」
 数歩先に進んでから振り返ると、航太郎は見たこともないほど真剣な顔でおれをみていた。決意と、それに今になってみれば、どこかあきらめのようなものが浮かんだ顔だった。どうした、と声をかけるまえに、航太郎が続けて言った。
「今夜、僕がいなくなってから、庭の木の根本を掘り返してみて。そこにノートをいれておいたから。いい?必ずだよ。おかあさんとおとうさんが、やめなさい、どうしていまそんなことをするのってしかるかもしれないけど、必ず掘って。そのノートがあれば、向こう10年間はみんな、元気でいられるはずだから」
「コタ、おまえ、なにいって…」
 駆け寄ろうとすると、航太郎は泣き出しそうな顔で笑った。
「約束だよ、カズくん。あとね、」
 肩に手を置かれる。どうした、またいじめられたのか、と問いつめる前に、航太郎が耳元で言った。
「だいすき」
 声を上げる暇もなく、強い力で突き飛ばされた。
 轟音と共に突っ込んできたトラックが、ガードレールを突き破ってきて崖に突っ込み、白煙を上げて止まった。
 足ががくがくした。尻餅をついていた姿勢から、なかなか立ち上がることができない。あまりの音に両耳は手でふさいだようにうまく聞こえなくなっていて、のどがカラカラに乾いていた。
 ぐしゃぐしゃに潰れたトラックの下から、何かが漏れ出てくる。声をだそうとしても、ひゅうひゅうとかすれた息しか出てこなくて、四つん這いのまま、さきほどまで航太郎がいた場所へと近づく。指先がその液体に触れた瞬間、大声で叫んだ。
 それは、車体の下敷きになった航太郎の血だった。

 

 

****

 

 

「どうしてもだめだったんだ」
 泣いているおれを慰めるためなのか、頭をなで、やさしく抱きしめながら、航太郎が言った。
「はじめに予知したのは、カズくんがあの場所で車にはねられる、ということだった。1回目は、道を変えた。僕のようすがおかしいと、カズくんすぐに気付くから。なるべく普段通りにすごそうとおもって、道をかえてバイオリンのレッスンに行った。そしたら、……工事現場の足場が崩れて、カズくんは落ちてきた鉄パイプが頭に当たって死んでしまった」
 僕の目の前で。
 航太郎の声がわずかにふるえていて、おれは体を離し、目の前にある顔をじっとみつめた。眼の縁に光るものが見えて、なにもいえずに眉を寄せた。航太郎は、眼をそらして座席にもたれ、思い出したくない、という風に頭を振った。
「2回目は家にこもってでないようにした。レッスンなんかさぼっちゃえばいいと思った。外にでなければ、なんの問題もない、そう思ったけど」
 お母さんが買い物に行ってる間に、家に強盗が入ったんだ。僕はトイレに行っていて、戻ってきたら、カズくんは包丁で刺し殺されていた。
「3回目なんて、すごいよ。その日は絶対神奈川からでようと思って、おもいきりわがままをいって、2日前からアメリカの叔母の家に行ってた。カズくんが住んでいたところだね。僕は一日中手をつないで、それこそトイレの時すら、絶対そばから離れなかった」
「…よく、いうこときいたなあ、おれ」
 声がかすれていた。目の前で3回も家族が死んだ航太郎の気持ちをおもうと、かける言葉なんて見つからない。どれほどつらかっただろう、苦しかっただろう。
「すごくいやがっていたけど、ぼくがあまりにも本気でいうから、途中から何か察してくれてたよ。ぼくらはいつもそうだったでしょう?全部を言葉にしなくたって、わかりあえた」
 そういえば、そうだったな。小さい声で返事をすると、航太郎はこちらをむいて、うれしそうに笑った。
「うん。…でも、だめだった。ずっと眠らないわけにはいかなかったから、僕らは叔母の家の客室で、手をつないで眠っていた。朝起きたら・・・窓が空いていて、カズくんの姿がどこにもなかった」
 性的いたずら目的の誘拐だった。三日後、近くの川で、カズくんの遺体が見つかった。
 淡々とした口調の中に、航太郎の後悔や哀しみがにじみでていて、おれは黙って手を握った。そして「ありがとうな、何度も助けようとしてくれて」と伝えてから、浮かんできた疑問を投げかけた。
「どうして、その未来だけはうまく読めなかったんだろう?」
 そう、それまでは何度も未来を読み、回避できたのに。どうしておれの死だけは、回避できなかったのだろう?
 おれの言葉に、航太郎が眉を下げ、悲しげな顔でゆっくりと首を振った。
「ぼくもそれが疑問だった。でも3回失敗して、わかったんだ。ーーカズくんは、多分、あの日死ぬ運命だった」
 だから、運命をねじまげて、未来をかえるにはあれしかなかったんだ。と航太郎が言った。
「ぼくが死ぬことで、不確定要素が産まれて、カズくんは助かる。ーーもう、それしかなかった。そうするしかなかった。ごめん、ごめんね。傷つけてしまって。背負わせてしまって」
 一緒に生きたかった。でもなにひとつ背負ってほしくなんか、なかったのに。
 涙が一筋、航太郎の頬を伝って落ちる。
「僕は幸せだったよ。カズくんと兄弟に生まれて、本当に毎日幸せだった。楽しかった」
 切なそうな笑顔は、昔と全く変わらなくて胸が苦しい。
 ふたりで毎日一緒にいたこと、海辺で遊んでいたこと、夜は手をつないで眠ったこと、すべて思い出になんかできなくて、いまそこにあるかのように目の前に迫ってくる。海のにおいや、毛布の感触と一緒に。
「おれだって、航太郎と一緒にいられて幸せだった」
「なら約束して。もう自分を責めたりしないと。僕は、自分がやりたいようにやっただけなんだ。カズくんに生きてほしかったから、幸せになってほしかったから。お願いだから、そのことだけは覚えていて」
 そういって、航太郎が小指を差し出してくる。昔よくやった、指切りの合図だった。
「僕はもういかなきゃ。でもその前に、残りの力をカズくんにあげるよ。そうすれば、うんと昔まで飛べるし、戻って来られる」
 小指をひっかけて指切りげんまんをしてから、航太郎はにっこりと笑った。
「どういう、ことだ」
「信じられないかもしれないけど、僕らの能力は本当はひとつのはずだったんだ。未来を読んで、過去に戻る。その力はね、全部一人の人間に与えられるはずだった。でも僕らは、偶然ふたつに分かれてしまった。それによって力が弱く、不完全なものになった」
 おれの顔によほど混乱があらわれていたのだろう、航太郎が苦笑した。
「いまはわからなくてもいいよ。でも大切なことだからよく聞いてね。僕の力をカズくんに渡すよ。そうすれば、一度だけ、うんと昔に戻ってから、ポイントまで未来に飛ぶことができる」
「ポイントって」
「保大入学の時点だよ」
「――なんで…?」
「千葉さんを救いたいんでしょう?」
 喉がひりつく。声が出せないでいるおれに、困ったような顔で航太郎が笑った。
「夏樹くんとは記憶を共有してるからね。いい?失敗したら、カズくんはもう過去から戻ってこられない。だから、千葉さんが人を信じられなくなった日に戻って、修正しなきゃいけないんだ。1日でも間違えたらアウトだよ、未来は変わらない。それに覚悟も必要だ。修正した世界では、カズくんが星野さんに出会えるとは限らない。誤差が生じるからね。変えた過去がどの程度未来に影響するか、それは誰にもわからないことだから。愛する人を失って、それでも、千葉さんを救えるとは限らない。天文学的な奇跡で全てうまくいったとして、星野さんに再会できても、彼はもう、カズくんのことを覚えていないんだよ」
 限りなく勝率の低い賭けをしようとしていることぐらい、自分でもわかっている。
 それでも、変えたい。
「……何もせずに終わるぐらいなら、命が尽きるまであがいてみせる。千葉を救って、未来を変えて、成一にもう一度会ってやる、運命なんかクソくらえだ。全部曲げて、限界だって超えてやる」
 体の奥から、自分でも思わぬほどの情熱が湧いてくる。負けてたまるか、屈してたまるか、戦いもせずに。魂に火がついたかのように、力がどんどん湧いてくる。
 そんなおれを見て、航太郎が嬉しそうに目を細めた。
「それでこそ、カズくんだ。強くて優しい、僕の誇り」
 くさいことを平然と言うものだから、照れくさくなったおれは拳を作って、軽く航太郎の胸を叩いた。すると航太郎も拳を作り、おれの拳に軽くぶつけてきた。バカみたいにマイブラザーとかマイスイートとか言って何度か同じことを繰り返し、目を合わせて笑った。
「ああ、もう行かなきゃ」
 肩をつかまれ、あ、と声をあげる。唇がかさなり、何かが流れ込んできたのを感じた。あたたかい、エネルギーの塊のようなものが唇を通じて体の中を通り抜け、温度を感じた瞬間に離れていく。
「だいすきだよ。またいつか生まれ変わって会える日を、楽しみにしているから」
 待ってくれ、まだ、話したいことが山ほどある、そう叫ぼうとして、伸びてきた腕に抱きしめられた。愛情のあふれた、力強い抱擁だった。その背中を抱き返し、涙をこらえて、小さい声で囁く。
「おれも、だいすきだよ。また会おうな」
 さよならなんか言わない。何年先になっても、きっとまた会える。
 背中を何度も撫でながら、これまで長い間抱えてきた苦い後悔と罪悪感のメーターが、がくんと目減りしているのを感じる。怒りや悲しみを忘れまいと、抱きしめて、刻みつけて生きてきた。でも、もういい。
 忘れないけれど、自分を責めることはもうしない。
 航太郎が命をかけて救ってくれたこの生を、とことん燃やし尽くしてやる。

 

 

 

 

 

広島駅に到着すると、すっかり日が暮れていた。雨は止んでいるが、アスファルトは濡れて光っている。
 疲れたのか、成一が両腕を空に向かって伸ばしている。隣で乗り換えを確認しているなっちゃんは、いつも通りゆったりとしていて特に疲れは見えない。
「一保さん、お腹空かない?」
 すぐに呉線に乗り換えなければいけないのだが、眉を下げてお腹をさすっている成一を見るとかわいそうになってしまった。
「わーったよ、お前はそこで待ってろ、なんか買ってくるから。なっちゃん、すぐ戻ってくるから成一とそこにいて」
 記憶をたどって、駅の構内を歩き、かつて好きだったお好み焼きの店を探す。大阪にいたころもお好み焼きは食べたけれど、正直言っておれは広島の方が好きだ。卵がたっぷり入っていてボリュームがあって、それでいて食べ飽きない。ビールとよく合う。
 テイクアウトが出来るお好み焼きを3枚と適当な飲み物を買って、電車が来るまでの間、ホームのベンチで食べた。うわ、美味しい、と喜んでいる無邪気な横顔を時折眺めては、これから先のことを考え、弱気になる。そんな自分を叱咤するため、口いっぱいにお好み焼きを頬張り、味わって食べた。保大を卒業してからも何度か呉を訪れる機会はあったが、少なくとも数年ぶりの味だ。相変わらず、とても美味しかった。
「どんな時でもご飯は食べなきゃ」
 成一ののんきな声に、今はとても癒されている。なっちゃんが笑って「そうだね」と同意した。
「それで、どこに行くの?」
「呉だよ。みりゃわかんだろ」
「それはわかってるけど、呉ってとても広いんだよ。呉のどこに千葉さんがいるのか、わかるの?」
「分かる。何年一緒にいたと思ってんだ」
 きっぱりと言い切ったおれを見て、成一は少し悔しそうな顔をした。それがなんとも言えず愛おしくて、抱きしめたくなったけれども、なっちゃんがいるので我慢した。
「ここから呉まで50分ほどかかるから、着いたらもう7時前だよ」
 ちょうど食べ終わったタイミングで電車がホームに滑り込む。ゴミを捨て、慌てて乗り込んだ。揺れる電車が呉駅に着くまでの間、今度は隣に座った成一にもたれて眠った。背が高いから、肩に頭を乗せるにはちょうどいい。指が、何度か髪を梳いているのを感じる。いつもの成一の匂い。同じ男とは思えないぐらいのいい匂いを、忘れないでいたい。
「着いたら起こすから、寝てていいよ」
「ありがと。……なあ、」
 好きだよ、といいそうになって、慌てて口をつぐむ。伝えるのは、今じゃない。
「なに、最後まで言ってよ」
「うん、また今度な」
 あるかどうか分からない、また今度が怖い。いや、だめだ。戦うと決めたんだ。
 目を強く閉じ、深く息を吸った。おやすみ、という声を聞き終わると同時に、おれは意識を手放した。

 

 

 呉に着いてすぐに、レンタカーを借りた。目的地には、ナビなんかなくてもたどり着ける自信があったから、自分で運転したかったけれど、成一が「疲れているだろうから、おれが運転するよ」と言って聞かなかったので、助手席に座って道案内をした。県道242号線まで進み、そのあとは国道487号線沿いに走る。暗い空には、呉の街明かりがぼんやりと浮かび上がっていた。
 国道487号線に入ってすぐ、橋の手前で車をとめ、なっちゃんに車を預けて道路に出た。
「一保さん、成功を祈ってるよ。頑張って。…また、会えるよね?」
 ドアを閉める寸前、なっちゃんが穏やかな声で言った。
「次に会ったら、うまいコーヒーおごってくれよな」
「もちろんだよ。気を付けていってらっしゃい」

 

 

 

 目の前に、海をまたいで倉橋島へとつながる音戸橋がみえる。
「一保さん、ちょっと待って、ここなの?」
 後ろから付いてくる成一に、携帯電話の懐中電灯をつけて尻ポケットに入れろ、と指示する。歩道のない、この暗い道路で歩行者が歩いているなんて、自殺行為に近い。
 素直に言われる通りにした成一が、後ろからおれを追いかけてくる。暗い橋の上へ目を凝らし、目的の人物を探していると、背の高い影が、赤い欄干に手をかけて乗り越えようとしているのが見えた。
「千葉ッ!!」
 大声で叫んで、走った。橋の下は潮流最大4ノットの海峡だ。この高さから落ちたら、まず助からない。
 全速で走って、今まさに橋を乗り越えようとしていた千葉に体ごとぶつかって道路に転がった。幸いなことに、車が通る気配はないが、突然走り出したおれに驚いた成一が、少し遅れて追いつき、「何してるの!!」と怒鳴った。
「お前、何するつもりだったんだ」
「別に、死のうとしたわけじゃない。懐かしいなと思って見てただけさ」
 肩で息をしているおれを押しのけて、千葉が立ち上がった。その様子は今無茶苦茶なことをしようとしていて人間には見えないほどに落ち着き払っている。
「一保さん」
「来るな、ナイフを持ってる。お前はそこにいろ!」
「そういうこと。邪魔者はそこで突っ立ってろ。…一保、よくここが分かったな」
 5メートルほど離れた位置で、成一が立ち止まる。今なんて言ったの、と返してきた声は、狼狽で震えていた。
 欄干に手を掛け、呉の町を見つめている千葉の隣に立った。無粋なナイフがこちらに向けられていたが、恐怖は全くなかった。こんなもの必要ねえのに、としか感じない。殴られることやのしかかられることが、あれほど怖かったはずなのに。
(大丈夫、僕がいるよ)
 そう、今は航太郎と一緒にいるから、なんだって平気だ。怖くない。
「よくふたりで来ただろ。呉の街が一望できるから、好きだった」
「ああ。あのころはよかったよな」
 どうして、こうなっちまったんだろう。
 千葉のつぶやきは、迷子になったこどものように頼りなく、哀しげだった。
「どこで間違ったんだろうな」
 おれは黙っていた。
「結婚したことか。浮気したことか。それとも、お前を好きになってしまったことか」
 苦しげな声に、唇を噛んだ。潮風が千葉の髪を揺らし、おれの頬を撫でて通り抜けていく。
 前を向いていた千葉がこちらを振り返り、じっとおれを見つめた。頬の傷、切れ長の目、笑うと細くなる目が、髪に触れる大きな手が、大好きだった。大好きだったのに。
「一保、前におれが、「お前が女だったらよかったのに」って言ったこと、覚えてるか」
「……ああ。めちゃくちゃ傷ついたからな、忘れられるかよ」
 投げやりなおれの言葉に、千葉が情けなく眉を下げて笑った。
「悪かった。取り消すよ。一保が男じゃなかったら、知り合えてなかった。同じ場所で、同じものに立ち向かうこともできなかった」
 成一が少しずつこちらに近づいてきている。心配が伝わってきて、心臓が痛くなった。嬉しい。それに、…寂しい。
「ずっと認めたくなかったんだ。男が好きなんじゃない、おれは一保が好きなんだと、自分に言い聞かせてた。自分のためだよ、自分を守るために。
 でも、そんなのは嘘だ。おれは今の、ありのままの一保が好きだ。その見た目で、その体で、その心を持って生まれてきた一保の事が好きだ。好きだったんだ」
 向かい合って、この距離で見つめ合うのはいつぶりだろう。右手に握られているナイフが場違いなほどに、優しい眼差しで千葉が言った。
「今まで、傷つけて悪かった」
 胸の奥から熱い塊がこみ上げてきてそのまま、眼からこぼれおちていく。
「一保、ここから一緒に、飛び降りてくれ」
 ナイフの切っ先をおれの心臓に向けて、千葉が言った。ふざけるな、という叫び声と一緒に、成一が走り寄ってくるのを、右手で制止する。
「わかった。飛び降りてやる。でもその前に、ひとつ教えろ」
「一保さん、何、言ってるの……?」
 怪訝な顔をした千葉が、「何だ」と問い返してくる。
「昔話してくれた、犬の事を教えてくれないか。川に流されて、自分も突き落とされたって言ってただろ。あれは、いつ、どこだ」
「どうしてそんなことを」
「いいから教えろ。それとも、もう覚えてないのか」
 近づいてきた成一が、後ろからおれの左腕を掴んだ。その温もりに、必死な視線に、泣きそうになりながら歯をくいしばって耐えた。
「覚えてるよ。命日なんだから。7歳の頃、2月14日。バレンタインデーだった。場所は……太田川の、中流域のあたり」
「間違いないな?」
「ああ」
 目を閉じる。千葉がおれの喉元にナイフを突きつけ「手を離さなきゃ首を掻き切るぞ。飛び降りる方がまだ生き残る可能性があるぜ?」と成一を脅した。成一が、殺意をはらんだ目で千葉を睨みつけ、「こんなのが愛だと思ってるのか。あんたは間違ってる」と低い声で唸った。
「成一」
 おれの声が落ち着いていることに驚いたのか、成一がハッとしたような顔でこちらを見た。
「言ったよな。何があっても、おれを信じてくれって」
 千葉を刺激しないように、遠回しな言い方しか出来ないことが悔しい。最後の最後ぐらい、「好きだ」って言いたかった。
 ――たとえ、忘れられてしまうとしても。
「信じてるよ」
「うん、ありがとう。どれだけ時間がかかっても、おれ、おまえに会いに行くから」 
 成一の手を振り払い、千葉と一緒に欄干の上に立つ。千葉の手から、ナイフが海へと落ちていく。
 風が強くて、今にも海の中へと落ちてしまいそうだ。海の中へ気を取られている千葉の一瞬のスキをついて、振り返って成一の襟首をつかんで引き寄せる。もう、我慢できない。言わないまま会えなくなるぐらいなら、忘れられてもいいから、言ってしまいたい。
 泣き出しそうな顔をしている唇に、キスをして、言った。
「成一、好きだ。お願いだからおれのこと、忘れないでくれ」
 手を離して、またすぐに立ち上がって海を見下ろす。後ろで成一が嫌だ、と叫んでおれを下ろそうとしたけれど、それよりも前に千葉が、おれの腕を強く引っ張って、橋の下に広がる海へ、連れて行こうとする。
 一緒に死んでくれるのか、と聞こえてきた声は、どこか酔っているような響きがあった。体が宙に浮いて、両足が、欄干から離れていくのがわかる。眼前に広がる呉の街明かりが、視界と一緒にくるりと回った。死ぬ前はスローモーションに見える、っていうのは本当なんだな。死ぬ気なんかないのに、この数秒の間にそんなことを考えている自分がおかしい。
 成一の悲鳴が聞こえる。それに風の音がうるさい。負けじと大声で、おれは言った。
「バーーーーカ!一緒に死ぬんじゃねえ、おれはな、」
 繋いだ手の先に視線を走らせると、千葉が目を見開いている。ものすごい速度で落下していく体と、あっという間に遠のきかける意識。
(さあ、僕の力を使う時だ)
 わかってるよ、航太郎。目を閉じ、強く念じる。
「千葉、お前を助けに行くんだよ!!」
 そして未来を変えて、成一に会いに行くんだ。
(過去を変えて、まだ開いてない未来の扉をこじ開けてやろう)
「「おれたちふたりなら、できる」」
 航太郎の声と、おれの声が重なる。目前に迫った海面が、白く光って歪んだ。

 22年前の、2月14日へ――
 おれを連れて行ってくれ、航太郎。