17:Shine

  成一に誘われたのは登山だった。
 人生において海は、もういやってほど堪能してきた。けれど山に登ったことはほぼ皆無といってもよくて、日本に暮らしているのにもったいないなあとは感じていた。山と海に囲まれた国なのに、海だけってのはどうにもバランスが悪い。
 なのでちょうどいいチャンスといえばそうかもしれない。
「でも登山道具とかひとつも持ってねえや」
「使ってないやつなら、あげられるけどねえ。靴はそうもいかないから、一緒に買いに行こうか」
「あれとかいるわけ?ピッケルとか…あの足の裏につけるギザギザのやつとか」
「冬山登山じゃないんだからいらないって!そもそも初心者連れていくのにそんな難易度の高い山いかないよ~」
 漫画で読んだことのあるうろ覚えの知識でなげた質問に、成一が顔の前で手を振った。
「山のほうが海よりはお金かかんないかも」
「ええっ、海って金かかるか?!海パンだけで泳げるじゃん」
「いやーダイビングやってる友達いるけど、大変そうだなって思うよ。装備もそうだけど、船借りなきゃいけないし」
「まあそうだな。本格的にやろうとおもったらなんでも金かかるよな。山だってそれこそ冬山登山とかテント泊とかならすげーいろいろいるんだろうし」
「そうだね。一保さん穂高とか連れてってあげたいけどな~。涸沢ヒュッテでテント泊したときの満天の星空とかほんとすごいから。夜になるとね、テントの中に明かりがともって色とりどりにひかってみえるんだ。それもまたきれいなんだよね」
 海はこれからのシーズンは泳げないもんね、と成一が笑う。登山道具をそろえるなら東京に出ようよ、と誘われて、休日にふたりで神田に出ることにした。なぜ神田?と思ったのが顔に出ていたのか、登山系のスポーツショップが神田には集中しているのだと成一が説明してくれた。
 朝早く起きてランニングをして風呂に入り、由記駅で待ち合わせした。東京駅で地下鉄に乗り換えて、半蔵門線で神保町。電車に乗っている時間は1時間ぐらいだが、なにしろ普段あまり電車に乗らないし東京に出ないので、田舎者のようにきょろきょろしてしまう。東京駅で「駅でっけ~」「ひとすげ~」とつぶやいたときは、隣で成一が「お上りさんみたいだね」とにやにや笑ってきた。いや、まあ東京基準で考えた場合、それ以外は全部地方ってことになるんだろうし、それならまあお上りさんで間違いないけども…とりあえず蹴った。スネは蹴らないで、ふくらはぎ側にして!と悲鳴を上げていたが無視する。
 神保町の駅を出て徒歩三分ほどの店で、300を超える膨大な数の登山靴の中からあれでもない、これでもないと選び抜き、これだー!って一足を買ったときにはもう昼ごはん時になっていた。平日だというのに人通りが多いのは、やはりサラリーマンたちの街だから、だろうか。でも、だからこそ…
「グフフ、これは美味い昼飯にありつけそーだな…」
「出た、食いしん坊発言。あのさ、ちょっと歩くし並ぶかもしれないけど、すっげー美味いカツカレー食べれる店があるんだよね、いく?」
「いくとも!おれ今日もランニングしてきたからめちゃくちゃ腹減ってんだよな。カレーとか三杯ぐらい食えそう」
「一保さんのランニングはマジでランだもんね…ジョグの要素ゼロだもんね、そりゃおなかすくよ、あの速さで走ってたら」
 スーツ姿の男たちの間をすり抜けながら、成一の後ろをついていく。
「軟弱なこといってんじゃねえよ。お前、レスキュー行きてえんだろ?ならもっと走れ。タンパク質をとれ。強度の高い運動をしろ」
「やめて~。休日は筋トレのこと忘れたい」
 情けない声に、おれも笑った。ふしぎなことに、筋肉というのはつきやすい人間とつきにくい人間がいる。食事や運動にどれだけ気を使っていても、なかなか身につかないやつもいるのだ。おれも潜水士だったころは、消費カロリーのほうがどうしても上回ってしまって、食べても食べても痩せていく現象に参ったことがある。
 太りやすい人間はその分落ちやすくもあるが、太りにくい人間は落としたりつけたりが難しい。体を使う仕事の人間は厳密なウェイト管理が求められるから、おれはそんじょそこらの女子よりも体重計に乗っては青くなったり悲鳴をあげたりしていた。
 ちょうどランチタイムということもあって、どの店も満員だ。小川町駅のほうにあるという店は、カツカレー以外にも揚げ物がとてもうまい店なのだという。
 ビルの1階にある店の前で少し並んで、カツカレーが出てくるころにはもう腹が減って死にそうになっていた。だが待った価値はあった。あまりに美味しいカレーだったので、食べている間、ふたりともひとことも口を利かずに食べきってしまった。
「ありがとうございましたー」
 満足感と満腹感でぼんやりしたまま店を出る。隣では成一もぼんやりした顔をしていた。なんというか、登山道具がまだそろっていないというのに今日はもうやり切った感みたいなものがある。
「すっ…げー美味かった…」
「だね…。あ、ごちそうさまでした」
「いんだよ、付き合ってもらってるし。でもあれだな、あと3回おかわりしたい、みたいな感じだよな、あの辛さ癖になるわ」
「結構ボリュームあったよ?まだ食べるの」
「まだまだイケんな。ラーメン食ったあともう一回シメにカツカレーおかわりできるぐらい腹減ってる」
 化け物をみるような目で成一がおれを見た。
「カツカレーの位置付けがよくわかんなくなってくるよ…主食のはずだよね?よくそれで太らないね」
「むしろ筋肉も付きづらいんだよ、おれは。…あ~~、カツのとこサックサクなのに肉ちゃんと火通っててやわらけーし奇跡かと思ったわ」
「家でとんかつって難しいもんね」
「そうなんだよ!から揚げもとんかつも二度揚げがコツなんだけどさ、なかなか店みてえにできねーの」
 ふたりでとんかつの作り方談義なんかをしながら、次はウェアをそろえる。正直着る服なんかなんでもいいので、全部成一に見繕ってもらった。
 広い店の中であっちこっちから服をひっぱってきては、若い女性の店員とふたり、とっかえひっかえおれに服を着替えさせている成一を見ていると不思議なきもちになる。何がそんなに楽しいんだ…お前は女子か。彼氏を自分好みに育て上げたい系年上女子か。
 更衣室の中でレギンスの上に履くハーフパンツを着替えながら、そういえば付き合ってるんだから彼氏っちゃ彼氏なのか…?フリといえど、と首を傾げる。
「ね、こっちのほうが絶対似合うと思うんだけど!どうかな?」
「…いや、おれはもうどれでも…」
 ちょっと、食べ物にそそぐ情熱を少しはこっちにも分けてよ!と説教されながら、言われるがままに着替えたり見せたりして、結局彼らが勝手に決めてレジに持って行った。あまりに任せきりの様子に店員の女性が、「世の中には少しでも自分をかっこよく見せようと、高い服を買ったり、美容院に通い詰めたりする男性もいるのに。不平等ですよね…」「ほんと、顔がよくて背が高いと、Tシャツとデニムだけでそこそこかっこよく見えちゃうんですもんね…」「世の中は不平等」などと成一とひそひそ言い合っていた。すまんね、カッコよくて。
 服を選び終わって、今度は成一の買い物に少し付き合った。新宿に出てロッカーに荷物を放り込み、ルミネとか行くのかな~と思って隣を歩いていると、成一がこちらを振り返って「一保さんは、服のサイズって困らない?」と唐突に訪ねてきた。
「うーん、そうだな、結構入らないやつとか多いかも。身長に合わせるとデカいし、身幅に合わせると丈たんねえ~って。海外のファストファッションのほうがサイズあるんだよな、GAPとかZARAとか」
「だよね。おれ185超えてるから、ほんとサイズがなくていつも悩む。最近すごい好きなデザイナーズブランドが結構大きめ取り扱ってて、そこばっか買ってるよ」
「成一はあれだよな、なんかいつもシンプルだけど上品な、似合う服着てるよな。そういうとこすげーって思う」
「えへへ、ありがとー」
「おれもう着られて、布ならなんでもいいや」
「布ならって…!求めるレベル低すぎてお腹いたい、おじいちゃんじゃないんだから」
「ほんとは服考えんのもめんどくさいから、世の中の人みんなが一保は葉っぱでいいよ、っていってくれたら葉っぱ一枚で過ごしたいぐらい興味がない」
「や、やめてー」
 …嬉しそうにニコニコしやがって。笑うと目じりがさがって、ますます犬っぽい顔になるからずるい。かわいいねー!って頭撫でまわしてやりたくなってしまう。やんないけど。
 内心そんなことを考えつつ、人の流れに逆らわないように、歩道をゆっくりと歩く。
 さすがに新宿は人が多い。都会のにおいがするな~とか考えながらぼんやり歩いていると、外国人観光客と目が合って、今だ!とばかりに話しかけられた。英語が通じたので、行きたいところを聞き出して案内すると、その様子をみていたほかの外国人がまた話しかけてきて、わらわらとひとだかりができてしまった。成一もスマホを使って案内をしてくれたものの、全部案内し終えるともう昼の三時を過ぎていた。
 その日は買い物と慣れない人混みですっかり疲れてしまって、そのまま帰宅の途についた。お互い疲れていたのでほとんど会話もなかったが、由記駅のバス停前で「今日はありがと。じゃあな」と手を振って別れようとしたら、成一が「今日泊まりに行っていい?」と質問なのに決定事項のようなそぶりで後をついてきた。
「なおちゃんひとりになるからダメだ。危ないだろ」
「野中さんは今日お友達の家に泊まりに行くって言ってたよ。ね、二人でアレしようよ~、FBIごっこ」
 最近3人で見ていた海外ドラマの影響で、「FBIだ!!」と叫んでドアを蹴破り、突入するシーンは「いつかやってみたいことランキング」には入っている。が、自分の家(借家だ)のドアを蹴破られてはかなわない。
「今度お前のマンショんでやってやるよ」
「おれの家は困るから一保さんちでいいじゃない」
「そんなことしたら母屋の老夫婦が腰抜かしちまうわ!」
 つい笑いながら応酬してしまう。こうなるともうおれの負けだ。
「歯ブラシあったっけ」
「こないだ泊まりに来た時のやつ置いてあんじゃねーかな。なかったらスーパー近いから買いに行け、それかタワシでよければ貸してやるけど。鉄鍋洗う用のデカイやつあるから」
「まず入んないよね、口の中に」
「安心しろ、渾身の力でねじ込んでやるよ。多少血が出るかもしんねーけどそれは許せ」
 本当にひどい、と憤慨しつつ笑っている成一が、一緒にバスに乗り込む。
 泊まることを許してしまうのは、恋人ごっこだからとかなんとかじゃなくて、こいつのことを信頼しているからだと思う。結局、はっきり拒絶する間も無く海辺近くの自宅に戻った。ただ当然というべきか、口数少なく二人で晩飯を用意して食べて各々風呂に入った後は、特に何もなく早々に眠ってしまった。もちろんFBIごっこもなし。されても困るけど。

 買い物から二週間後の休日、連れて行かれたのは丹沢山という神奈川の山だった。渋沢まで出てそこからバスに乗り、大倉からは徒歩で6時間ほどかけて、塔ノ岳を抜け、丹沢山に登頂した。当日は雲ひとつなく晴れていたので、頂上からの風景はとても美しかった。山のところどころで紅葉が始まっており、それらを成一と指差したり、野生のシカを見つけて写真を撮ったり。重そうな一眼レフを下げている成一は、やはり登山に慣れていて、裏庭を散歩するような軽い足取りで歩いていた。
「シカと写真撮ってあげようか」
「よし撮れ!…おい、シカしか写ってねえぞ」
 満面の笑みを浮かべてポーズをとってやったというのに、成一のカメラはどう見てもおれを捉えていなくて、画面を覗き込んだら案の定、おれなんて1mmも映っちゃいなかった。
「あ、ごめーんシカの方が可愛かったから」
「成一お前、こっから転げ落としてやろうか。下山の手間が省けるぞ」
 初めての登山ということもあってペース配分がわからず、おれは少し汗をかいていた。通称「バカ尾根」と呼ばれる長い大倉尾根をさっさとやりすごしたくて、かなり早いペースで登り切ったのが後から効いてきた。やっぱり、成一の忠告通り淡々と同じペースで登る、っていうのはとても大切らしい。
 頂上から見える幾つかの山を指差し、成一が「あれは蛙ヶ岳だよ」とか「富士山が見えるね」とか丁寧に説明をしてくれた。シートを広げ、野鳥に気をつけながら昼食をとる。水分補給きちんとね、というアドバイスを受けるまでもなく、喉がカラカラだった。
「秋は空が綺麗だよなー、なんか澄んでて」
「一保さんでもそういうこと言うんだ」
「食い物以外の話するたびにそれいうのやめろ」
 人が少ないのはやはり平日だからだ。関東圏の山は、土日になると登山をしに来たのか人を見に来たのかわからないぐらい混雑するらしく、平日の休みが多い成一と、平日2日、それも基本飛び休しか取れないおれの、数少ないメリットと言ってよかった。
 秋の乾いた風が、汗の滲んだ体を冷やしていく。脱いでいた上着をもう一度着込んで、持ってきた温かいお茶を飲む。
「もう10月が終わっちゃうね。早かったなー」
「今同じこと考えてたからびびった。失恋ステップ時代が懐かしい」
「ほんとだね。…あ、鳶だ」
 海の匂いがしない風を胸いっぱいに吸い込んで、空を見上げた。全身の疲労感も心地いい。
 やがて風向きが変わって、隣の成一が立ち上がる。さあ、下山して温泉入って帰ろ。そう言って差し出された手のひらを、何の疑問も持たずに掴んだ。
 下山を始めてしばらくすると、成一が鼻歌を歌い始めた。おれも好きな、土岐麻子の「ウィークエンドの手品」だ。おれたちにはあまり「週末」というものは意味がないけど、休みのたびに成一と会っているので、それが週末のような認識になりつつある。
「あのさ」
「うん?」
 温泉の帰り道、電車の中でうとうとしていたら、成一が小さな声で言った。
「山、楽しかった?」
「うん。新鮮だった。また登りてえな」
「本当に?よかった」
 通勤ラッシュ前に乗り込めたおかげで、二人とも座席に座ることができて、どちらも疲れと眠気で半分夢見ごこちだ。傾いてきた日差しが車窓から車内を照らし、うたたねしている老婆のメガネをピカピカと橙色に光らせていた。
「もう少し慣れたら、日本アルプス縦走とかしたいね、一緒に」
 よくわからなかったので、スマホで検索する。…どう見ても上級者向けだろ。
「大丈夫だよ、一保さんなら基礎体力があるから」
「そういう問題か?でも、いいな。やってみたい。やったことないこと色々してみたいなあ。冬山とかいってみたい」
 成一が声をあげて笑った。
「それはさすがに、おれの兄レベルじゃないときついかも」
「そうだ、おまえレスキューに兄貴いるんだよな。どんな人?」
 座席にもたれるようにして、成一が目を閉じる。
「教えない」
「なんでだよ」
 車内アナウンスが、目的の駅を告げる。そちらに気を取られている間に、成一が小さい声で言った。
「…昔から、兄の方がモテるから。あんまり一保さんに興味持って欲しくない」
 意味がよくわからなくて、返事をせずに立ち上がる。乗り換えを終えてしばらくした頃、成一の言葉の意味がわかって、ひとりで赤面した。それって、もしかして。
 静かな寝息を立てて、成一は眠りについている。電車が揺れるたび、肩にもたれかかる重みと温度に、心臓が今日で一番早い鼓動を刻んだ。

 

 

 

 

 由記駅に着くと、またも成一が「今日泊まって帰っていい?」と聞いてきた。明日は公休日らしい。
「いいけど、なんでだよ。大体なおちゃんは…」
 バスはこの時間、15分に1本しかこない。ベンチに座って待っていると、またして、眠気がやってきて困った。これでは、家に着いた瞬間熟睡だ。
 普段のお礼にと、なっちゃんに買ったお土産だけは忘れていかないようにしなければ。そう思って膝の上で大切に抱きしめていると、成一が言い出しにくそうに「女の子とふたりで家にいるのは、ちょっと気を使う」とつぶやく。そうか、ストレートの男はそういうものなのか。おれは女子が性欲の対象ではないので、裸でウロつかれようが、何ならベッドの上で足を開いていようが、「風邪ひくぞ」とか「こらこら閉じなさい」としか思わないけど。
「来週引っ越しなんだから、もう少しだろ」
 引っ越しは手伝う気満々だったのだが、3人の予定を合わせるのが困難で、結局なおちゃんは引っ越し業者にサクッと全部お願いしてしまったらしい。引っ越しシーズンの9月は終わっていたので、比較的安価で見積もってもらえたそうだ。まあ、一人暮らしで荷物も少ないだろうし。おれが住んでいるところからとても近いアパートなので、会いたいときはいつでも会える距離だ。
 まだ家に泊まることを許可していないのに、やってきたバスに成一も乗り込んだ。窓枠に肘をつき、何かを考えている様子の彼を放っておいて、おれは眠気に身を任せた。バスが発する騒音も振動も、あっという間に遠くなっていく。
 しばらくすると、鈍感、という悪態が聞こえてきて、反論する前に眠りに落ちた。次に目を覚ました時、すでに家から最寄りのバス停に降り立っていて、「ほら、起きて」と成一がおれを揺さぶっていた。よほど深く眠っていたらしい。
「家までは寝ないで歩いてよ?」
「わーってるって。あーー…意識失いそう。死ぬほど眠い」
「一保さんそれ口癖だよね、死ぬほどってやつ。死にすぎだよ。何回死んだら気が済むの」
「ほんっとおまえはうるせーな、口縫い付けるぞ」
 家に着くと、ザックをぽいっと居間に放り投げて部屋着に着替えてから、そのまま寝室に入って、布団の上に飛び込んだ。続いて上がりこんできた成一が、台所に行ってお茶を入れて持ってきたり、「歯を磨いてから寝なよ」とおれのTシャツの首をぐいぐい引っ張って起こしてくれる。ありがとう、成一お母ちゃん。
 そういえば干したまま忘れていた洗濯物も取り込まないといけないし、明日休みといえど、最低限の家事は終えてから眠りたい。
 気合いを全身から引っ張り出してきて体を起こし、台所へ向かう。時計を確認すると夕方の6時すぎだった。湯を沸かし、豆をグラインドしてペーパードリップでセッティングした。
「コーヒー飲むか?いまお湯わかしてるけど」
 畳に寝そべっていた成一に声をかけると、起き上がってにっこり笑った。
「わあ、ありがとう。洗濯ものは畳んでおいたー」
「助かる、サンキュー」
 テレビを見る気分じゃなかったので、ラジオをつけた。大橋トリオの「A BIRD」のメロディと声に、とろけた頭が目覚めていく。
 成一が嬉しそうに、「大橋トリオだ」と言って笑った。
「この歌すき。ラジオでさ、好きな歌が流れると、すごくラッキーって気がしてテンション上がるよね」
「気があうな。おれもすき。お前あれだな、ハガキ職人とかやってそう」
 成一の隣に座って、ラジオに耳をすませる。ギターとピアノの音。どうしてだろう、どんなに疲れていても、好きな歌を聴くと心が元気になる。それが音楽の力というやつなんだろうか。
「なんでわかっちゃったの。高校の頃、よく送ってたな~FMにハガキ。途中からネットの掲示板になったけどね」
 ごくたまに、リクエストした曲が流れるとね、嫌なこと全部忘れられたんだよね。そう言って目をほそめる成一の頭をそっと撫でてやる。
 成一は気持ちよさそうに目を細め、「もっと撫でて」と柔らかい、低い声で囁いた。
 目があう。視線の間に何か、決定的なものが交わされた確信があって、おれは慌てて立ち上がった。ドリップケトルの方へ逃げて、食器棚からマグを出そうとする。
慌てていたせいで指が滑って、マグは台所の板張りにぶつかり、盛大な音を立てて割れた。
「一保さん、大丈夫?」
 割れてしまった。千葉にもらった、高いセットのマグカップが。
 …いつか、捨てよう、誰かに譲ろうと思いながら、いままできてしまったマグが、目の前で。
 しゃがみこみ、拾い集めようとするおれの腕を、成一が控えめに握って押し返してきた。
「たぶん初めての登山で疲れてるから、おれがやるね。広告の紙と、ナイロン袋持ってきて」
「あ、ああ…」
 もしかしたら、顔に未練が出ていたのかもしれない。言われたものを持ってきたおれを眺めた成一が、かすれた声で言った。
「大切なものだった?」
 成一の隣にしゃがみ込み、うつむいていたおれは、はっとして顔を上げた。すぐそばの成一の目が、熱を持った強い光を込めて、おれを見つめている。
「…もらいものだったから」
 成一の指は、迷いなくかけらを集めて広告に包み、ナイロン袋の中へ捨てていく。掃除機で細かい破片を掃除して、別のカップにコーヒーをいれた。自分が淹れたのに、味は、よく分からなかった。
 コーヒーで目が覚めたので、簡単な夕食を作った。といってもほとんど成一がやってくれたので、おれは食器を用意したり、箸を並べたりしただけだ。調理を手伝おうとすると、「今日包丁握るのは危ないから」と言って断られてしまって、おれは今のテーブルの前でビールを傾け、ぼんやりと縁側の方を眺めていた。正確には、縁側に置いた、ナイロン袋を、だ。
 ラジオも、テレビも消された静かな居間は、外で鳴いている虫の声ぐらいしか聞こえない。食べ終えて「ごちそうさまでした」と手を合わせた成一の、長い指と、少し怒ったような顔。
 食器を下げようとした時に、成一が「あのさ、」と声をかけてきた。
「あの高そうなマグカップ、多分千葉さんにもらったやつだよね?」
 もう一度座って、成一に向き直る。今度は、ちゃんと目を見て言えた。
「そうだよ。捨てたほうがいいって思いつつ、未練がましく使ってたんだよ。…本当、かっこ悪いよな。だから、割れてよかった」
 笑顔を見せようとして、失敗した。口角は思ったほど上がらなくて、ヘニャリと情けない顔になってしまった。
 それを見た成一が、「捨てようと思ってた」と吐き捨てた。
「勝手に捨てちゃおうかと思ってた。…できなかったけど。そのマグを見るたびに、一保さんが悲しそうな顔するから。こんなもの捨ててやりたいって」
 なんで、と聞き返したおれに、成一の顔がさっと怒りに染まった。
「…なんで?今もしかしてなんでって言った?いい加減わかるでしょ、わかんないふりしてるならやめてよ」
「わかんねーよ。暗号かよ、解けねえから解読表もってこい」
 言葉を重ねれば重ねるほど、顔が熱くなっていく。成一が、珍しく大き声をあげた。
「もしかして本当にわかんないの?ばかじゃないの、鈍感!間抜け!」
 子供っぽい悪口に面食らいながら、年下に負けてなるものか、遣り返さねばと言い返す。
「うるせーな、お前だって、人の顔色ばっかうかがって、誰にでも優しい八方美人のくせに!」
 痛いところをつかれた、というように、成一が唇を噛んだ。それから、なら言わせてもらうけど!とおれを指差して声を上げた。
「一保さんなんか、全然自分を大事にできてない、自分を受け入れてるとか言いながら、本当は認めてない、自分が一番自分を認めてないんだ。だから、誰にも言えないんだ。おれをもっと大事にしてくれって!だからひどい扱いを受けても、やめてって言えない。長い間言えずにいたんでしょ」
 さらに言葉を返そうとして、でも何も出てこなくて、だまりこむ。悔しいけど、当たっている。成一が言う通りだった。
「ごめん、言いすぎた」
「いや…先に言いすぎたのおれだし。悪かった」
 頭を振る。しばらくにらみあってから、どちらともなく笑ってしまった。
「…千葉さんのこと、まだ好きなのかなって思うと、腹が立っちゃうんだ」
「どうせ、おれは未練がましいよ、もらったものもろくに捨てられやしない、引き摺り男だよ」
「そうじゃなくて…あーもう」
 立ち上がろうとしたおれを、成一の両腕が引っ張って、強引に抱き込んだ。そのまま勢い余って、居間に二人して転がってしまう。ステレオのリモコンに頭がぶつかって、その拍子にまたラジオがついた。今日は大橋トリオの特集なのか、タイミングを計ったみたいに「Shine」が流れ出す。スモーキーな声とピアノの音が、静かな部屋の中を満たしていく。
「…付き合ってるでしょ、おれたち」
「フリだけどな」
 間髪入れずに返したのは、自分が勘違いしたくなかったから。千葉に未練なんて、もうほとんどなかったけれど、まだ千葉のことを好きだと思ってくれている方が、自分の気持ちに気付かれずに済むと思ったから。
 背中越しに、成一がビクっと引きつったのがわかる。後ろむきに抱き込まれていたおれの肩を掴んで正面を向かせてから、心底呆れたような声で、「ばっかじゃないの!?一保さんて多分世界一鈍感でバカで救いようないね!!」と叫んだ。
 言葉を返す余地はなかった。成一が、そのままおれを抱き寄せ、キスをしてきたのだ。顔が、茹だったみたいに真っ赤に成っているのが自分でもわかる。頭をそらそうとしても、成一の抱擁は強くなる一方で、抱きしめているというよりも、捕まえられているといった方が近いような力だった。
「好きなんだよ、あなたのことが」
 息ができない。嘘だろ、という言葉を飲み込んで、すぐそこにある顔を見つめた。そこに正解を探すみたいに、成一の眼に映っている自分を眺めた。
「あなたなんか…あなたなんか、年上だと思えないぐらい、落ち着きないし、鈍感だし、本当自分でもどうかしてるっておもうけど、あなたを誰にも渡したくないんだよ。他の誰も見て欲しくないし、笑っててほしいし、一緒にいてほしいんだよ!!」
 琥珀色の目と、いつになく凛々しい顔立ちが、必死な様子で言い募る。嘘だろ、何言ってんの、なんでおれ、と途切れ途切れに口をついて出てくる声を、成一が唇で塞いで、その度に、硬く閉じた心が少しずつ溶けていくのが自分でもわかった。
「あなたのことを、誰が、どれだけ好きでも、あなたが他の誰かをまだ心に残していても、諦めたくない。譲りたくない。身を引くなんて、考えられない。…自分がこんなに嫌な、身勝手な奴だって知ってすごくショックだった。もっとあなたの幸せを、遠くで見ていられる、力を貸すことができるって自分の事かいかぶってた。でも、できないよ、したくない。だって、」
 あなたの視線の先に、一番近くにいたいと思ってしまった。あなたが楽しいとき、笑っているとき、そばにいたいってねがってしまった。他のひとにこの場所を渡したくない。ごめん、勝手で。おれーー
 続きは聞けなかった。おれが、成一の口を塞いだから。
 抱き合ったまま、以前とは違う、性的なキスをした。くちびるを甘く噛んだり、舌で上あごをなぞったりをやったりやられたりしているうちに、息が上がってきて体が反応し始めた。背中を撫でる成一の手のひらが、腰に回って抱き寄せてきて、お互いの硬くなった下肢を服越しに感じる。は、と苦しくて顎をそらすと、成一の視線がおれの答えをねだってきた。
「好きだ」
 聞こえているだろうか。ちゃんと、成一に届いているだろうか。
 もう二度と、傷つきたくないと思っていたはずなのに。額に落とされた優しいキスに、泣きそうな気持ちになってしまう。どうしようもなく恋だと自覚してしまう。
「成一のことが好きだ」
「もっと言って」
 夢中で貪り、貪られながら、成一の短い髪に触れた。柔らかい、茶色い髪が指に絡まる。同じように成一の指がおれの項を撫で、髪をまさぐる。くすぐったくて、泣きそうになる。
「…お前に触りたい。触って欲しい」
 耳元で囁く。瞬間、いつもの穏やかな表情が、飢えた雄の顔に変わった。履いていたハーフパンツを下にずらされ、興奮したおれのものに、直接触れられた。
「あ…」
 成一のものも引っ張り出して、指を滑らせる。向かいって寝そべったまま、視線は相手から外さずに、手のひらの感覚だけで触りあった。成一の性器は、穏やかな見た目から想像も付かないぐらい硬く大きくなっていて、触る指が濡れてくるほど張り詰めていた。
「…お前めちゃくちゃ興奮してる」
「一保さんに触ってもらったら、そりゃあね」
 う、と眉を寄せる顔が可愛い。夢中でしごきあげると、お返しとばかりに成一の手も早くなった。
 自慰とは違う、ひとの、それも好きな男の手の感触に、あっという間に体が昇り詰めてしまう。濡れたいやらしい音が音楽の合間に鳴り響いて、肉体的な興奮をますます追い詰める。
 体を少しだけ起こした成一が、おれの耳を甘く食んできた。「気持ち良い?」と問われたその声で、おれは堪えきれずに吐き出してしまう。目を閉じ、体を震わせて射精しながら、成一の目がじっと見届けているのを感じて、興奮で頭がおかしくなりそうだった。
 気だるい体を起こして、成一の足の間に入り込む。まだ固いままの成一のものを両手で握って、根元からゆっくり舐め上げた。
「えっいいよ、そんなことしなくて」
 急に慌て始めた成一をほったらかして、先を口に含んだ。張り出したカリを舐めながら唇で愛撫すれば、「うう、だめ…そんなことされたすぐいっちゃいそ」と可愛い声が聞こえる。
 喉奥まで飲み込んで、吸いながら頭を動かす。唾液で濡れた性器の根元を右手で擦りながら、鈴口に舌を滑り込ませるようにして舐めると、「っ、ごめん、いく」と成一が叫んでおれの肩を強く押した。

 

 

 

 抱き合ったまま、しばらくの間二人で横になっていた。恥ずかしくて、顔が見られない。
 両想いだったのか…まじか…と信じられずに反芻しているうちに、時間はすっかり遅くなっている。
 火照った体が収まらないのは、もっと深く、成一を知りたいと思ってしまったからだ。裸になって、全身を触りたい。みたい。そして奥までいれてほしい。
「…その…最後まで、しねえの」
 背中を向けていてよかった。顔が見られずに済む。
「したいけど、そういうのはやっぱりもうちょっとロマンチックに持って行きたいかなあ」
 髪に鼻を突っ込まないでほしいのに、幸せそうな声が聞こえてくるせいで言えない。シャツの中に入ってきた指は着実に性欲をはらんでいて、だからこそ、大事にされているのだとわかる。
「あれか、例えばオーシャンビューのホテルとか?」とおれが返すと、
「そう。ディナーでワインなんか飲んじゃったりしてね。でもすぐにはしないんだよ、ホテルの最上階でフルコース食べた後でバーに行って、お互いいい感じで酔って、シャワー浴びて横になるわけ。もちろんベッドはクイーンサイズとかのやつ」
「でもお前は手を出してこない?」
「うん。一保さんはもう心臓飛び出しそうなぐらいドキドキしてるのに、おれはなかなか触ってこないの。で、おやすみっておれがベッドサイドの灯りを消して、一保さんがっかりするわけだよ。「今日はもうないのかな…でもおれから言い出しにくいな…」って」
「いうけどなあ…。おい今日セックスしねえのか!っていうけど」
「ちょっと黙ってくれる?まだ途中なんだから」
「はいはい」
 一保さんって干した布団みたいな匂いがするよね、と言われて、褒められているのかけなされているのか、頭を悩ませそうになったところで、成一がくだらない妄想の続きを話し始めた。
「で、諦めて一保さんがウトウトし始めた頃、おれが耳元でこう言うんだ」
「ふむ?」
 振り返る。すでに笑いそうになっている顔に、つられそうになって必死でこらえた。
「ねえ、今日…あなたを、ひどく抱いてもいい?」
 同時に吹き出して、大笑いした。少女漫画か、いや今時少女漫画でもその展開はないわ。
「なんでひどくすんの!?優しくしろよ」
「そんなこと言いつつ超やさしくするんだって」
 色気もへったくれもない声でゲラゲラ笑っているというのに、「笑うとかわいい」とか寝ぼけたことを言いながらキスされて、「かわいいのはお前だろ」と言い返して抱きしめてやる。
 甘えるように首筋に鼻先をこすりつけると、「あーだめ、そういうのだめ、やりたくなっちゃうからだめ」と成一が弱音を吐いた。
「いいじゃん、やれば」
「うーん、でも準備がないし…想いが通じてすぐセックスって、誠意がない気がするんだよね」
「お前はマゾか」
「そうかもしれない。ああ~~抱きたい、すごく抱きたい~~って思いながら3ヶ月ぐらいオナニーしながら我慢したい。プラトニックな3ヶ月を経て感動的な初エッチをさ…」
「変態だな、成一はすごく立派な変態だ、おめでとう」
「なんか祝われた!違うよ、愛だよ」
「愛は関係ない、マゾだマゾ」
「マゾでもないって。頭の中では一保さんに結構な頻度でエッチなことしてるし」
「あ~その告白はいらなかった。引くわ~」
「嘘!嫌いにならないで!」
「うそうそ。だからしていいんだっつってんのに」
 しばらくの間そうしていたが、さすがに風呂に入りたいなということになり、順番に入ってから布団に入った。疲れていた上に出すもの出したせいで、すぐにでも眠れそうだ。
  そういえば今日は一度も携帯を覗いていないことを思いだし、充電するためにカバンから出して確認すると、なっちゃんから何度か着信があった。11時前という遅い時間が気にはなったが、なっちゃんは用もないのに電話をしてきたりしない。どうしたの、と布団の上から眠たげな声をかけてくる成一に、「なっちゃんに電話してから寝るから、先寝てていいぞ」と声をかける。
 8回ほどコール音がなっても出なくて、切ろうとしたところでなっちゃんが出た。
『もしもし、一保さん?』
「うん、ごめん連絡遅くなって。何かあったのか?」
『…実は、スイがいなくなってしまって』
 心配そうな顔で隣にやってきた成一に、「なっちゃんが飼ってる鳥が、いなくなっちゃったんだって」と簡単に説明した。
「逃げちゃったってこと?窓が開いてたとか…?」
 おれの質問に、なっちゃんが少し迷ったような間を空けてから、「ううん。戸締りはきちんとしてたし、帰ってきた時も全部閉まってた。…窓が一つ、こじ開けられてたけど」と答えた。
「ええ…!それ、空き巣じゃねえの!?他のもの大丈夫だった?!」
『うん。警察も来てもらったけど、他は何も取られてなかった』
 なっちゃんが無事でよかったけど、と伝えてからは、何も言葉が出てこない。スイはなっちゃんの相棒で、家族で、心の支えだ。何も取られず怪我もなくてよかったね、なんてとても言えない。
『明日から、張り紙したり聞き取りしたりして探そうと思ってるけど…外じゃ生きていけないと思うから、心配で。それに…なんか、嫌な予感がしたんだ。だから一保さんに電話した。身の回りで何も、おかしいことはなかった?』
「うん、ないと思うけど…でも今日ずっと出かけてたから、何かあったとしても気づいてないだけかも」
 不意に──どうしてかわからないけれど、今日まだポストを見ていないことを思いだした。そして同時に、おぞましいほどに嫌な予感がこみ上げてきて、隣の成一の服を掴んだ。
『…実は今、そっちに向かってて。本当、どうしてか分かんないけど、すごく嫌な…一保さんに、嫌なことが起こるような気がするんだ。もう直ぐ着くから、1日だけそこにいてもいい?』
 隣の成一にことのあらましを説明すると、真剣な顔で「もちろんだよ。…むしろおれ、夏樹さん迎えに行こうか?」と言ってくれた。優しさに泣きそうになりながら、「ポスト、見に行くのついてきて」と頼み込む。
『一保さん?もう直ぐ着くから、お願い。家から出ないで待ってて』
「うん、わかった。成一も一緒だから、安心して」
『よかったよ、心強い』
 じゃあ後でね。そう言って切れた電話を握り締めたまま、おれはフラフラと玄関へ歩いた。外に出るなと言われていたけれど、隣に成一がいたことで、気が大きくなっていたのかもしれない。
「一保さん、真っ青だよ。どうしたの」
「どうしよう…見たくない。ポスト、見たくないのに、見なきゃいけない気がする。どうしよう」
 すがり付いたおれの背中を、成一が優しく撫でる。
「一緒に行くから」
 その声とつないだ手を頼りに、暗い玄関先へと歩く。
 門扉の近くに置かれた赤いポストの蓋を、震える手で開いた。
「ああ…!!」
 スイはそこにいた。
 鉛筆を突き刺され、血まみれで息絶えた状態で、ポストの中に放り込まれていた。
 後ろで成一が息を飲んだのがわかる。目の前が、スイの血の色で赤く染まっていく。
「かわいそうに、なんで、なんでこんなことを」
 手のひらですくいあげると、亡骸の下から一枚、紙が出てきた。ノートの切れ端。そこには、黒いペンでこう書かれていた。
『お前のせいで死んだ』
 見覚えのある紙だった。
 それは、千葉が俺に手紙を書いてきた紙と、同じだった。
「スイ…!」
 門扉の前に、なっちゃんがいた。そのあまりに悲しげな表情を見て、おれは力を使うことを決めた。大丈夫、まだあと二回使えるから、一回使ってもおれは消えたりしない。
 目を閉じ、強く念じた。戻れ、戻れ、1日前の同じ時間に──

「ダメだ、その力を使っちゃダメだ!!一保さん……カズくん!!」

 力を発動する直前、航太郎の声が聞こえて、目の前が白く点滅して――
 ―――そして、何も聞こえなくなった。