(番外編)わたしだけの、ダンスール・ノーブル

(野中奈緒子視点の成一と一保の話。14話の前ぐらいを想定しています。成一の過去も少し)

 目の前に、王子様がいた。
 外国のバレエ団でしか見たことがない、高貴で、美しくて、指先までうつくしく気品にあふれた王子様が。
「だれ、あの人。素敵…」
 同じバレエスタジオに通う親友、美加が、耳元でささやく。言われるまでもなく、わたしは全身の血がたぎったように、彼のすべての動きに目が釘付けになった。
 素晴らしい男性のバレエダンサーなら、何人もみてきた。通っているスタジオにだって数人、素晴らしい先輩がいたし、一緒に踊ったこともある。
 けれど、彼はいままでに見た、どのダンサーとも違っていた。
 今、彼が踊っているのはコンクールにおいて非常にポピュラーな、だからこそむずかしい、白鳥の湖第三幕のジークフリート王子のヴァリエーションだ。テクニック的なものよりも、どちらかというと王子という存在が持つ気品を求められるから、ただ若々しいだけでもダメ、鋭いだけでもダメで、ダンサーの持っている雰囲気がそのまま出てしまう。
「いるんだ、あんなひと」
 正確無比な技術はもちろんのこと、身のこなしがとても優雅なのだ。指先まで神経が通っていて、それでいて肩に力の入っていない、自然な品がある。
「星野成一よ。彼の母親は英国でプリマをつとめたことがある天才で、自分の家がダンススタジオなの。夫は一流商社勤め、彼女の母親は三代続く華道の師範。由記市の一等地にすごい豪邸があるわ」
 絵に描いたようなバレエ一家よね。
 ひそやかな声で、それでいて物憂げに、峰岸先生が言う。
「わあ…サラブレッドですね。もうプリンシパル一直線って感じ」
 隣で、美加が惚れ惚れとしたような声で言った。わたしはわたしで、それであの雰囲気なのか、と納得した。なんとなく、彼の立ち居振る舞いはバレエを習い始めたことと無関係のように思えた。
「彼自身が、それを望んでいるのかどうかは疑問だけれど」
 ぽつりと落とされた先生の言葉の意味を知ったのは、あの日からずいぶん後――仕事をやめようかと考えはじめた、ここ数年のことだった。

 

 

 

「野中さん、今日なに食べたい?」
 すきなひとと一緒に住んでいる、と言えば、ほとんどの人がおそらく「恋人同士なのだ」と考えると思う。けれどもわたしと星野さんは違う。かつて、彼のためなら死んだっていいと思うぐらい好きだったひとは、いまわたしではない男性のことが好きだ。というよりも、彼がわたしを好きになったことは一度もない。
「ええと…なんでもいいです」
「なんでもいいはナシ。和食、洋食どっちにする?」
「じゃあ、オムライスが食べたいデス」
「りょうかい。あ、卵…」
「帰りに買ってきますね。他に何か足りないものはありますか」
 わたしの言葉に、星野さんは冷蔵庫をのぞきにキッチンへ歩いていく。Tシャツに、ジャージというラフな姿でも、しなやかでまっすぐな背中にはやっぱりどこか気品が漂っているから驚く。彼の仕事中の姿を知っているけれど、男性の象徴のような作業着を着ているときですら、指先まで品があるのだから、育ちというものは恐ろしいなあと思う。
「うん、他はだいじょうぶ。ありがとうね、いってらっしゃい」
 夜勤のある星野さんの業務シフトは、勤務と非番と公休日が交互になっているため、土日祝日という概念がない。だから平日が仕事のわたしとは生活リズムがまるで合わないのに、在宅している日は、いつもこうして玄関まで送ってくれる。いわく、「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」と「いただきます」は、もはや人生を後悔しないための大切な習慣なのだという。
「いってきます」
 茶色い柔らかそうな髪の下で、琥珀色をした眼がほほえむ。
 端整な顔立ち。それなのにとても謙虚で、きれいな言葉遣いをする。彼を女性が放っておかなかったことぐらい、わたしも知っている。同じバレエダンサーと何人か浮名を流しているのだと、きいてもいないのに美加が教えてくれた。その話をきいたとき、わたしは「いいなあ」と純粋に羨んでしまった。このひとに触ったり、愛されたりしたなんて、いいなあ。
「遅くなるなら駅まで迎えにいくから、連絡してね」
 駅から徒歩15分程度かかるから、星野さんはいつもこう言って心配してくれるけれど、頼んだことは一度もなかった。居候の身で、とてもそんなことはお願いできない、という遠慮もあったけれど、頼めばきっと来てくれる優しさが、最近はすこし辛かった。

 

 

 ***

 

「あなたのパには、魅力がないわ。どうしてだか分かるかしら」
 はじめて星野さんをみた日、コンクールが終わった帰り道だった。小さなミスのせいで、星野さんは2位という結果になっていたけれど、わたしは1位の派手な海賊よりも、ずっとずっと星野さんが踊るジークフリート王子の方が素晴らしかったと自分のことのように悔しい気持ちを噛みしめて歩いていた。
 まってー、なおー、という間延びした親友の声に、わたしは人差し指を口元にあてて振り返る。きいてはいけない話のような気がしたから、さっさとその場を立ち去りたかった。
「成一、こたえなさい」
 突然ヒステリックになった声に怯えてその場に立ち止まる。声は、ちょうどわたしたちが歩いている道を曲がったところから聞こえていた。
「なになに、けんか?こんなとこで」
 美加が好奇心を隠さない顔で、道の角からのぞこうとする。やめなよ、と声をかけたわたしも、聞こえてきた男性の声で固まってしまった。
「大事なところでいつもミスをしてしまうから、です」
「そうね、それもあるけれど、そういうことを言っているのではないの」
 星野成一だ。一目見て、心を奪われたジークフリート王子が、どうやらスタジオの先生らしき人に叱責されているらしい。
「…さっきの王子様じゃん、なんで怒られてんの?2位になったのに」
 わたしに向かって怪訝な顔をした美加に、黙って首を振る。これ以上きいてはいけない、と決意して、まだ聴きたそうな美加の腕をつかみ、その場を立ち去ろうとした。
「あなたには、炎のような情熱がない。バレエを愛する心がないのよ。いくら技術があっても、持っている雰囲気がノーブルでも、根っこがないから魅力がない。どうしてなの、どうしてあなたはもっとバレエを愛さないの、愛そうとしないの」
 身体中の血が沸騰したような感覚があった。なんてひどいことを言うんだろう!このひとは、まるで分かっていない。彼ほど、バレエを愛している人はいないじゃないか。
 思わず反論したくなって、取って返そうとして今度は美加に止められた。
「やめときなよ。人の家のことに、首突っ込んじゃだめ」
「でも、ひどい、あんなの先生がいうことじゃない」
「センセイっていっても、親なんでしょ?だから厳しいんじゃないの、よく分かんないけど」
 余計酷い、と思った。母親ならなおさら、どうして彼の事がわからないのだ、とより強い憤りを感じた。
 けれど、次に聞こえてきた星野さんの声で、その勢いはそがれてしまった。
「…ごめんなさい、星野先生。次は頑張ります」
「そうしてちょうだい。これ以上、恥をかかされるのはごめんだわ」
 振り返りもせずに、星野さんの母親らしき人が歩いていく。俯いたまましばらくその場に立ち尽くしていた星野さんは、優美な後ろ姿で歩いていく母親をしばらくみつめてから、黙って歩きだした。

 

 

「……さん、野中さん!」
 考え事に没頭していたせいで、反応が遅れた。仕事が終わって席を立とうとしたところで、同僚のひとりに声をかけられた。
「今日チームのみんなで飲みに行くんだけど、どう?」
「いえ…わたしは用事があって。どうぞ、みなさんで行ってきてください」
 目を逸らしながら断りをいれる。ひとつ年上の先輩は、わたしがこうして飲み会や懇親会に顔を出さないことを良く思っていない。わかっているけれど、何度か行って二度と行くまいと決めたのだ。酒に酔ったフリをして無神経に個人情報を探ってくる人や、頼んでもないのに自分語りに終始する人、介抱するフリをして女性の身体に触る人、仕事の話ばかりする人…正直全く楽しいと思えないし、時間の無駄だ。
 むっとした顔をしたのは一瞬で、すぐにどこか蔑むような顔で、先輩が言った。
「野中さん、消防士になりたいんでしょ?あんなの、まさに体育会系の最たる場所だよ。絶対向いてないと思うけどな」
「…お疲れさまでした」
 わたしが転職を考えていることを、何故知っているのだろう。気にはなったが、問いかけるのはやめた。否定しても肯定しても、彼にとってはいたぶる材料にしかならない。
 鞄をもって、会社を後にする。短く切っているせいで軽い頭を少しふって、思い切り空気を吸い込んだ。
 走ろう。
 走って帰って、あのひとに話をきこう。
「あ、…コーヒー飲みたいな」
 背中に背負っているリュックのヒモを短くして、靴ひもを結びなおす。コーヒーを想像すると、必ず浮かんでくる人が、ひとりいた。短い黒髪のくせっけ、日に焼けた健康的な肌と、いたずらっ子のような笑顔の、かっこいい男の人。
 自分の目の前で、すきなひとが、別のひとに惹かれていく様を毎日見ていた。すごく辛いことのはずなのに、わたしはどこか楽しく、うれしかった。だって、そのひとはとても魅力的だから。
 そのひとが――村山一保さんが笑うと、みんな嬉しくなる。怒ったり悲しんだりすれば、どうしたのか心配になって放っておけなくなった。自由で、伸び伸びしていて、誰にどう思われるかなんてまるで気にしていない、それでいて愛することに臆さない人。
 無性に一保さんに会いたくなって、わたしは駅まで走り、カフェの扉を勢いよく開いた。夏が終わり、秋になろうとしている今、仕事あがりのあたたかいコーヒーはこの上ないごちそうだ。
「いらっしゃいませ…お、なおちゃん」
「こんばんは。ホットコーヒーください」
「かしこまりました。はは、鼻先赤くなってる。走ってきたのか、元気だな~」
 陽気でハキハキした声に、口角が上がる。お兄ちゃん、と思わず呼びたくなるぐらい、一保さんは女性に優しくてほどよく距離が近い。多分、妹さんがいる影響なんだろう。甘えさせることがすごく上手だ。
「持ち帰るなら成一の分もいれるけど」
「今日は、自分だけ飲んで帰ります」
「そっか。じゃあ席まで持っていくから、好きなとこにかけて待ってな」
 きれいな眼。眼尻が切れ上がっていて、はっきりした二重の、少し気の強そうな。
 鼻が高くてぱっと見少し話しかけずらいのを中和しているのは、笑うと横に広がる、あの口元だ。彼は笑顔を出し惜しみしないから、少し話しているだけでその笑顔をみることが出来る。そして、みんな心がきゅんとしてしまうのだ。男も女も、みんな。
「一保さんは、ギャップがずるいですよね。男性ってギャップに弱いというし」
「え、なんの話」
「見た目かっこいいのに、笑うとカワイイとか、近寄りがたくみえて話してみると気さくで話しやすいとか、そういうのです。そういうのがずるいなあって」
「よくわかんねえけど、褒めてくれてるのは把握した。まあおれかっこいいからな」
「そうですね」
「すっげー冷たかったぞ今!深雪かと思ったわ!」
 声を上げて笑う。コーヒーを持ってきてくれたほんの一瞬でも、こうやって声をかけてくれる。…一保さんからしてみれば、わたしなんてきっと目障りだろうと思うのに。すきなひとが自分以外と暮らす、なんて、嫌に決まっている。
「なおちゃん、今度また泊まりに来いよ、成一とふたりで。うまいもの食わせてやるぞ~」
「いきたいです、いつならいいですか」
「ラインしといて、ライン。あいた時間に返事するから」
 これでもいいけど、と小指と親指を立てて耳の横で振る、アメリカ人のようなジェスチャーをする一保さんに、ついつい笑顔になってしまう。
「自分で連絡したらいいじゃないですか。付き合ってるんでしょう?」
「声が大きい。あいつの知り合いがいたらどうするんだよ」
 眉をひそめ、急に真剣な顔になった彼に、わたしは面食らった。
「え、悪いことしてるわけじゃないのに、どうしてそんなにこそこそするんですか」
「おれのことが知られたら、あいつのためにならない。…いくら付き合ってる『フリ』だって、本当にこれで良かったのか、迷うんだ。成一の可能性を奪うかもしれないのに」
 一保さんが切なげに眉を下げる。なんていったらいいのか分からなくて、わたしは黙ってしまった。
 店長、と呼ばれて去っていく後ろ姿は、星野さんのような優雅さはないけれど、まっすぐのびていて姿勢がいい。
 あたたかいコーヒーをひとくち、口に運んだ。
 やっぱり一保さんがいれるコーヒーは美味しかった。
「…六人部隊長と、一保さんって見た目の共通点多いなあ」
 武道をやっていた、というところも、考えてみれば似ている。顔立ちも、きれいというよりも凛としていてかっこいい、という感じだし、ふたりとも目元が涼やかで男らしい色気がある。もっとも、細かい点をみれば違う。肉体に重厚感のある六人部隊長と比べると、一保さんはすこし細身で、猫科の野生動物みたいにしなやかな体つきをしていて、目元も猫っぽくて艶がある。
 星野さんって、結構面食いなんだな。
 女性の容姿を揶揄したり、罵倒したりしているところをきいたことがないし、好みのタイプをきいたときも、内面的な話しか出てこなかった。そんなところもすごく素敵だと思ったけれど――今考えてみたら、彼が前に好きだったひとも、今惹かれているひとも、整った容姿をしている。性格的なタイプは似ても似つかないけど。
 過去の彼女のことは知らないが、女性とも付き合っていたみたいだし、ゲイではないらしい。だから、もしかすると頑張り続ければいつか振り向いてもらうことが出来たのかもしれない。もう、今そんな気持ちになれないのは、彼がいま(わたしの想像通りなら)生まれてはじめて心から伸び伸びと言いたいことを言い、遠慮なく思いをぶつけていけるひとに出会っているからだ。
 ふたりとも、すきだ。大好きだ。
 だから、割りこんだりできない。どちらにも幸せになってほしい。
 ガラス張りになっている壁面から、外を眺める。日が落ち、すっかり暗くなったロータリーに、街の明かりがうつりこんでいる。店の看板の明かり、タクシーのテールランプ、人々の後ろ姿が、せわしなく窓の前を通り過ぎていった。

 

 

 

 星野さんは黙っていればモデルのような雰囲気をもっている。すらりと背が高くてとてもオシャレなひとだから、一緒に歩いていると、ひとめを引くしとても目立つ。
 それなのによく「女性には必ずフラれる」とか「もてない」とか言っているのは、女性に対して欲望がなさすぎて、それが相手に伝わってしまって、身を引かれているに違いない。愛されていない、と感じたときの女性は、大概において諦めがいい。泣いて縋りつかれたりしないように、星野さんは無意識のうちに相手の女性と距離を置いてきたのだろう。
 そんな話を一保さんと2人でしていたら、後ろから土鍋を持った星野さんがやってきて苦笑した。
「あのね、おれだって男なんだから、欲望なんかありますよ、ありまくりですよ」
「なんで敬語なんだよキモいな」
 いつもどおり率直な一保さんがすぐに返答して、鍋を受け取る。ガスコンロの上に置かれた鍋の中身は、ゴマ油で焼いたお餅とたっぷりの大根おろし、ゆずの皮が入ったつみれ鍋で、一保さんの大好物だ。まだ秋なのに、星野さんがこのお鍋を作ってからすっかり気に入って、週に一回のペースでリクエストしては断られていた。
 一保さんの新しいお家は、古い平屋建ての木造家屋だ。太い梁や広々とした作りが素敵な、いま同じ家を建てればすごく高く付くであろう、純和風家屋。
 わたしと星野さんが遊びに行った時は、もっぱら畳の広い居間で3人で過ごす。一保さんと星野さんが代わる代わるご飯を作ってくれて、それがいつも、涙が出そうなぐらい美味しい。男性2人の生活力の高さに自分が恥ずかしくなるほど。
「ん、うまい。…そういやお前、あんまり過去の話とかしないよな。元カノとか」
「一保さんも話さないじゃない」
「おれのはなあ~~…楽しい話じゃねえからなあ」
「そうだね、男運最悪だから」
「うるせーぞ。ふられ男のくせに」
 一保さんは誰に対しても同じように、言いたいことを言うけれど、星野さんは違う。言い方は悪いけれど、彼はいつも相手の顔色を、反応を伺いながら話すようなところがある。自分の言動が相手を傷つけていないか、不快にさせていないか、常に気にしながら。わたしは、それが寂しかった。いいのに、と切なくなった。わたしなんかに、気を使わなくていいのに。リラックスして、言いたいことを言ってくれたいいのに、と。
 取り皿とは箸をテーブルに置いた星野さんが、隣に座っている一保さんの頬をぎゅ、と引っ張った。いてえ!と声を上げる一保さんの面白そうな顔と、星野さんの柔らかい、穏やかな笑顔に、わたしは胸の奥が引っ掻かれたみたいにぎゅっとなった。
「一保さんだって、ふられた挙句セフレにされかけたくせに、言われたくないよ」
「なおちゃんの前でセフレ言うな」
 こんどは一保さんが星野さんの頬をつまんでひっぱる。いひゃい、と声を上げながらも、彼はうれしそうに笑っていた。
 ほら、こんな調子。星野さんは、一保さんの前では、一保さんの前でだけは、思ったことをそのまま言える。これって、すごい信用だと思う。信用というか、信頼というか。家族ですら顔色を伺って毎日暮らしていた、と言っていた星野さんは、一保さんといるときだけ、こんな風に無防備に笑い、怒り、あけすけに物を言う。
 ふたりは日本酒を手酌で飲んでいて、酔いが深まってきた頃に星野さんが「そういえば、元カノが出家した話ってしましたっけ?」とほんのり赤い顔で首を傾げて言った。(かわいい)
「出家って…んんッ!?どういうことだよ」
「ええと…」
 コホン、と咳払いをひとつして、星野さんがわたしを見た。大丈夫ですよ、のサインとして、わたしは頷き返し、冷蔵庫に冷やしておいたビールを2本、彼らのために取ってきてちゃぶ台に置いた。ありがとう、サンキュー、と星野さんと一保さんがそれぞれ言って、わたしは正座して星野さんに向き直った。
「就職してしばらく、仕事があまりにもきつすぎてね。当時付き合っていた彼女と、やらしいことする気になれなくて、半年ぐらいしなかった時期があったんだよね」
「セックスを?」
 一保さんのはっきりきっぱりした問いかけに、思わずむせてしまう。こらっ、と星野さんが拳を振り上げて叱るフリをしてから、わたしに麦茶を入れて手渡してくれる。優しい…。心配そうな顔にときめかざるを得ない。
「まあそうなんだけど、はっきり云わなくていいよ。――半年経った時になんか彼女の様子がおかしいな、と思ってたら、寺での修行にはまってたらしくて。どうも、煩悩を振り払いたかったんだって。その…おれとしたいっていう気持ちを忘れるためだったらしいんだけど」
 一保さんが体を折って笑った。明るい笑い声に、こちらまで笑ってしまうような笑顔。ずるい、この顔がずるい。
「なんだそりゃ、かわいいなその子」
「原因が自分にあるから悪いなあって思いの方が強かったんだけど… で、最終的に出家して、振られた」
「まさかの結末ですね」
 わたしの返答に、星野さんがうなづいて言った。
「元カノは尼さんになった」
 一保さんの笑い声が止まらない。楽しげな声で、彼が続けた。
「成一は寂しそうに去っていった…」
「ドラクエみたいに言うのやめて」
 3人で笑う。ふたりはいつもこんな調子で息がぴったり合っている。ふざけるタイミングも、笑いのセンスやたとえ話も、打ち合わせでもしているのかと思うほどだ。
 彼らは喉が乾くタイミングまで同じだったのか、同じ瞬間にビールのプルリングを押し上げ、その音がぴったり重なったことに、また笑いあっている。真似すんなよ、そっちこそ真似しないでよ、というじゃれあいが可愛くて、微笑ましいあまり傷つくのも忘れた。
「元彼じゃねーんだけどさ」
 一保さんがビールをグイッと煽ってから鍋や食器を下げて、手作りのローストビーフを振舞ってくれた。洗い物をしようと腰を浮かしかけたところで、「後でいいよ」と止められる。
「きた、一保さんの過去話」
「いやそんな期待されても困る。付き合ってねえから。ーーおれが海保にいたころ、合田さんっていう特殊救難隊の生きる伝説みたいな人が居たんだけどさ」
 合田さん、という名前が出た瞬間、星野さんが「あっ」と叫んだ。
「その人知ってる、多分兄が仲良いよ」
「マジか。じゃあ今から言うこと秘密な。おれその人のこと…ちょっと好きだった時期ある」
 いや待てよ、好きというか、憧れというか…兄貴いたらこんな感じかなとか…おい、なんで黙るんだよ、と慌てた様子で言い募った一保さんの横で、星野さんは目を細めて沈黙した。
「……」
「あのさ、片思いだからな。しかもごく一時期…ってなんで言いわけしなきゃいけねえんだよ」
「片思いって本当に?だってあの人ゲイでしょう?」
 わたしは合田さんという人物を知らないので、何も言わずに2人の様子を見ていた。冷めた声で星野さんが話す様子が珍しくて、興味深かったということもある。
「何で」
「すっごいモテるのにいつも彼女いないって兄も言ってたし」
「そこはおれがお前に言うことじゃないから置いとくとして……友人というか、千葉を介して紹介された人でさ。年も階級も上だけど、その人には何でも話せたから千葉のこと相談したりしてたんだよな。常に紳士で、面白いし、いつも美味いメシおごってくれるし」
 思わず吹き出したわたしを、2人が同時に振り返る。「何、どうした?」
「食いしん坊な一保さんらしいなあって」
「笑い事じゃないよ、社会人のくせに餌付けされちゃってさ」
 星野さんがプリプリ怒るのが可愛らしく、頷きながら微笑みかけると、彼は恥ずかしそうに顔を伏せてしまう。あからさますぎたみたい、反省しなくては。
「千葉に浮気されまくってた時も、すごく優しくしてくれて、とことん話聞いてくれたしな。あんときは正直揺れたなあ、こういう人好きになれたらよかったって思った」
「ちょっと腹立ってきた」
「いや何もなかったから。あとで知ったけど、あの人全国に37人恋人いたからな。港港に女が…的な。うん、だから本当に一方的に憧れてただけなんだけどさ。何せ仕事もできるし、いい体してたし、強面だけど顔もカッコよかったし」 
 ゴン、という音を立てて、星野さんがビールの缶をちゃぶ台に置いた。苛立ちが眉のあたりに浮かんだ顔で、あのさあ、と声を上げる。
「おれ以外の男って、優しくするとき絶対、下心あるからね?おれは優しさの化身みたいなものだから、女の子にも男の人にも優しいけども」
「合田さんに限ってそれはない」
「本当に何もなかったの、言い寄られたりしなかった?」
 わたしの存在を忘れているかのように、星野さんが一保さんの肩に手を置き、至近距離で問い詰める。真剣な顔で問いかけられ、一保さんも少し考えてから、相変わらず素直に余計なことをいった。
「1回だけ、そんなに辛いなら俺と付き合うか?って冗談ぽく言われたけど、それだけ」
 …背筋がひやっとするような沈黙に、わたしはその場から逃げ出したくなった。星野さんが、あの淡白な、彼女が出家しちゃうような星野さんが、嫉妬している。それも一保さんの、付き合ったわけでもない過去の片思いに。
「どんっ……かん」
「はあ?なんでだよ」
「もーまじ勘弁して、それ告白だから!!冗談めかしてもし振られても友情だけはキープしておきたいっていう本当に好きな子に対して予防線張るやつだから!!!」
 自分に向けられる想いには鈍感な星野さんが、鋭い考察を叫ぶ。笑うシーンじゃないのに笑いがこらえられなくて、わたしは体を震わせながらこみ上げる可笑しさを我慢した。
「ないない、それはないって」
「なくないよ!のんきに餌付けされてる場合じゃないから!ハア~~~~~っもう本当しんじらんないね、よくまあそんなので千葉さんだけで済んだものだよ」
「そもそも男をすきになる男ってレアだからな。お前その前提忘れてねえ?」
 立ち上がった一保さんが、電話を手に「深雪だ」とつぶやいて部屋をでていく。なんだか変な雰囲気のまま取り残されたわたしと星野さんは、目を合わせて苦笑し合った。
「ごめんね、うるさくして。おれに何か相談したいことがあったんじゃない?」
 仕事のことを、聞かなければ。
 社交的でなくても、消防士としてやっていけるのかどうか、尋ねないと。
 確かにそう考えていたはずなのに、口をついて出たのは全く違う質問だった。
「もう…本当に、舞台には立たないんですか?」
 以前一度、同じ質問をして「バレエダンサーとしてはもう舞台に立たない」ときっぱり言われたはずなのに。久々に星野さんのジークフリート王子を思い出したからか、またしても未練がでている。バレエダンサーとしての星野さんにも…ひとりの男性としての星野さんにも。
 星野さんは、何も言わずにしばらくわたしを見つめてから、ふっと笑った。
「野中さん、明日あいてる?」
「は、はい。日曜なので、予定は何も」
「じゃあ、おれの最後のバレエ、付き合ってくれないかな」
 同じ家に帰るのに、どうしてここで言うんだろう、と一瞬悩んだら、後ろから一保さんが戻ってきて「どうした?」と声をかけてきた。
「一保さん、おれが踊るところ見たいって言ってたよね。観る?」
「え、マジで。いつ!」
「あした。駅前集合して実家のスタジオ行くの。どう?」
「明日とか仕事で100パー無理じゃん」
「夜だよ。スタジオも昼間は使ってるからね」
「じゃあ行く。成一が踊ってるところ、絶対みてみたい」
 嬉しそうに走ってきた一保さんが、わたしの隣に座る。星野さんが一保さんばかり見つめるんじゃないかと、つい彼の視線を探ってしまったけれど、彼は平等に、わたしにも微笑みかけてくれた。
「じゃあ決まり。明日、閉店前の一保さんのお店に集合ね」
 約束をしてから、一保さんの家で解散した。家の前まで出て見送ってくれる一保さんに何度も振り返りながら手をふって、バス停へと向かう。
 わたしは時折、隣を歩く星野さんを盗み見た。視線に気づいた星野さんが、「どうしたの?」と尋ねてにっこり笑ってくれる。
 彼はいつも機嫌が良さそうに振舞い、笑顔を絶やさない。きっと仕事でイライラしたり、落ち込んだりすることがあるはずなのに、決してそれを表に出したり、ひとに当たったりしなかった。そんなところを尊敬していた。――はずなのに。
「あの…、今更になってしまったのですが、本当にありがとうございました」
 家に泊めてくれた。避難する場所を与えてくれた。自分のスペースをよいしょ、って少しあけて、わたしの入る場所を作ってくれた。告白してふられているのに、こんなにやさしい人はたぶん、日本中探したって見つからないと思う。それなのに――
「いいんだよ、力になれたなら良かった。本当に引っ越し手伝わなくて大丈夫?」
「大丈夫です」
 いまは、寂しいと感じてしまう。もっと、剥きだしの星野さんを見たかった。愛想のいい、誰にでも優しい彼ではなくて、怒ったり、拗ねたり、嫉妬したりされてみたかった。
 女になんか生まれなければよかった。女に生まれたせいで、ひどい男の人には踏みつけられ、舐められる。やさしい男の人には、不必要に労わられてしまう。そんなものを望んでいるわけじゃないのに、好きな人にすら「女の子」という線をひかれてしまう。
 恋愛関係になれなくてもいい。本音を打ち明けあえるような友達になりたかった。
 一保さんのことが大好きなのに、うらやましくて少し憎いのは、そのせいだ。
 三人でいるのがつらい。彼等は惹かれあっていて、自分はいないほうがいいのだという卑屈なのか、真実なのかわからないことを延々と考えてしまう。わたしがほかのひとを好きになれたら、もしくは、星野さんがわたしに遠慮するようなことがなくなったら、一緒にいられるのだろうか。
 わたしはもうすぐ引っ越してしまう。彼の横顔をこうして間近でみることができるのは、これが最後になるかもしれない。そう思えば思うほど、自分が未練でグズグズに溶けていくのを、感じていた。

 夜の10時を少し過ぎた。
 店から一保さんが飛び出してくるのを星野さんと笑いながら眺めた。大慌てだ。薄手のマウンテンパーカーなんて、片腕だけしか着ていない。
「マンガのキャラみたいな急ぎ方だよね、あのひと。本当に年上なのかな~」
 そうですね、と頷いて、星野さんを見上げようとして――言葉が出てこなくなる。
 整った横顔に浮かんでいたのは、可愛い子犬をみているような表情だ。目を閉じてしまいたい、と思うのに、その横顔をずっとみていたいと同時に願ってしまった。
 おもえば、出会ったころからそうだ。わたしは、誰かを好きな星野さんのことが好きだった。
「ん、どうしたの?」
「…いえ」
 ひとって、こんなにも優しい顔ができるんだ。愛おしいひとをみつめるとき、誰でもそうなのだろうか。取り繕うように呆れた顔をつくってみせたって、わたしにはわかる。
「悪ィ、遅れた。いこっか」
 歩きながら両腕を上着に通して、一保さんがニッと笑う。日曜の駅前は、昨日よりも混んでいた。

 

 

 

 

 星野さんの実家は、想像していたよりもずっと大きくて広かった。由記市は高級住宅地だから、これほどの土地を持っているということは、何代にもわたって住んでいるということだ。
「成一…おまえ…ウワサではきいてたけど、坊ちゃんだったんだなあ」
「やめてよ。あ、こっちがスタジオなんだ」
 門扉を開けて、庭を抜ける。手入れの行き届いた庭には池があって、ついこないだまで睡蓮が見られたのだという。
「っていってもヒツジソウってやつで、花は小さいんだけどね」
 大きい建物の1階を、まるまるバレエスタジオに改築したのだ、と星野さんが言う。
「そういえば、星野さんのお母さんが先生なんですよね」
「うん、一応。他にも先生は何人かいるけど」
 靴を脱ぎ、廊下を抜けてスタジオの中に入る。広々としたスタジオにはくもりひとつない鏡とバー。うわあ、と声を上げてきょろきょろと見回している一保さんの前で、星野さんが上着をぬぐ。上は前がジップになっているタイトな青いバイクタード、黒のハーフパンツに黒のスパッツ、それにレッグウォーマーという姿で背筋を伸ばして1番ポジションで立つ。それだけで、彼の周りには高貴な雰囲気が漂ってうっとりしてしまう。
「さて。野中さん、ちゃんとポアント持ってきた?」
「…!どうして分かったんですか」
 そう、欲深いわたしは、星野さんと踊ってみたかったのだ。彼の踊りをみるだけじゃなくて、一緒に踊りたかった。
「おれも持ってるけどサイズ絶対合わないしね。まあ裏の部屋漁れば、合うやつも見つかるかもしれないけど」
 男性でも、ポアント(正確には、ポアントシューズもしくはトウシューズ)を履く役割はある。彼ほど本気でバレエに打ち込んでいたひとなら、トレーニング用にも1足はもっていてもおかしくない。
 スタジオの隅に座った一保さんが、背中を押すように笑った。
「わたしと踊って頂けませんか?」
 優雅に手のひらを差し出される。戸惑ったわたしの想いを悟った一保さんが、大きな拍手をしてくれた。
「…はい」
 立ち上がり、彼の手をとる。うつくしいオデットになる自信なんて、まるでなかった。けれど、今だけ。いまだけでいいから、私だけの王子様になってほしかった。

 チャイコフスキーの名曲が聴こえる。オデットとしてこの曲を聴くのははじめてのことで、足が震えた。
「緊張してる?大丈夫だよ、支えるからね」
 時々は踊っているけれど、星野さんの技術とは比べ物にならない。当然だ。
 不思議なのは、ふらつきながら星野さん――王子の腕に抱かれた瞬間、全ての不安や恥ずかしさが吹き飛び、今この時間を楽しまなきゃ勿体ない、だって王子様と踊れるのに!と強い衝動が湧いてきたことだ。
 星野さんが支えてくれると、頼りないジャンプも高く跳べた。腕が、足が、伸び伸びと動いた。
 白鳥の湖は悲恋の話だ。オデットよりもオディールのほうが好きだ、と一度星野さんに伝えたことがあるのに、いまわたしは、ずっと踊っていたいと思っている。このひとの腕に支えられ、抱かれて――生まれてはじめて、女性にうまれてよかったと、感じている。
 終わらないでほしい。ずっと、あなたと一緒にいたい。このまま、王子様とオデットで生きていきたい。でも、あっという間にグランアダージョは終わりに近づいていき、終わる頃には涙で目の前がよく見えなかった。
 涙を指で拭われる。泣くなんてずるい。わかっているのに止まらなかった。
 恋をしろ、恋をしろとせきたてられた思春期、誰も好きになれずに苦しんだ。わたしはどこかおかしいのだろうか、と悩み、無理に誰かをすきになろうとしても無理で、一生誰の事も好きにならず、愛されることもなく生きていくのだと思っていた。
 けれど、星野さんと出会い、話して、恋をして、失恋して――周囲を見渡したとき、その色合いが変わっていることに気付いた。生きるなんて、辛いことや嫌な事のほうが多いけれど、続けていきたくなった。自分の未来を知りたくなってしまった。
「ありがとうございました、夢が、かないました」
「大げさだなあ」
 そう言って笑っている彼には、きっと分からないだろう。それでもいい。
 愛されるためではない。ただ愛するために、生きたっていいはずだ。同じ理由で、すきなひとの背中を押した星野さんのように、わたしもなりたい。
「一保さんも、踊りたそうですよ」
「ええ!なんでおれ!」
「そんなこともあろうかと、おふたりのタップシューズもってきたんだ」
 一保さんにバレエは無理だしね、と遠慮なく言い切った星野さんに、一保さんがふざけ半分にラリアットをした。バレエなんか踊れるお前らがすごいだけで、おれは普通だ!と叫んでいる。どうやら置いてけぼりにされて、少しさびしかったらしい。
 諦められないなら、無理に諦めなくてもいいや。すきなだけ、このひとをすきでいよう。そのためにわたしにできることがあるなら、なんでもする。
「じゃあ、おれの大好きなジーンケリーのタップ、教えちゃおうかな!」
 音楽の終わったスタジオに、星野さんの鼻歌が響く。
 一保さんが「グッドモーニングだな、雨にうたえばの」とはしゃいでから一緒に歌いはじめた。わたしも、あのミュージカル映画は大好きだ。とくに、この歌が流れるシーンのタップダンスは、下手をすれば雨の中で踊るシーンよりも大好きだ。
「まず、タップの基本を教えるね。グッドモーニングのタップは、基本的にはシャッフルっていう技が主体だよ。あとはむずかしいやつだと、プルバックとかスライドも使ってるけど、まずシャッフルから!」
 そう言って、彼の丁寧な説明と実演が始まる。ひとたびダンスのことになると、星野さんはとても厳しくて妥協を許さないところがあったけれど、わたしと一保さんは夢中でマネをした。足がもつれて、何度も倒れて床に寝ころんでしまったけれど、楽しくて楽しくて、時間も忘れて3人で踊り続けた。一保さんはリズム感がなくて、わたしは体力がない!と星野さんが辛辣に批判しながらも鬼コーチさながら躍らせ続ける。
 汗をぬぐっては水をのみ、横になったり休憩したりしながら、少しずつ少しずつ近づいていく。かっこよくて若いジーン・ケリーと、リズム感の悪いドナルド・オコナ―、それに体力のないデビー・レイノルズの、へっぽこだけど楽しさだけは伝わってくるタップダンス。ばらばらだったタップ音が、次第にひとつにまとまって、きれいな音を鳴らしだす。
 かなしい気持ちはもうなかった。心の中に、わたしだけの「ダンスール・ノーブル」がいてくれるから。

 いつか他の人を好きになっても、今日のことは絶対に忘れない。

 日付が変わっても、わたしたちは音を鳴らし続けた。膝がいたくて、身体が重い。けれど、いきているという感じがする。身体を動かし、歌を歌って、よけいなことが全部頭の中からきえていくのが気持ちいい。
 一保さんの迷いや罪の意識が、消えますように。
 星野さんの一途な想いが、どうか伝わりますように。

 きれいごとではなく心から、わたしは祈った。