16:やがて忘れる愛しい日々

 そろそろ朝晩は上着が必要になるね、と成一が言った。
 ジムの帰り、パーカーのジップを上げながら、空を見上げる。隣ではなおちゃんが、どこかソワソワした様子でこちらをうかがっていた。
「なおちゃん、落ち着け」
「だって、大事な話がある、ってふたりして言うから。気になるじゃないですか」
 もしかして、と口元に手をあてて振り返りながら、なおちゃんが切り出す。
「星野さんが……泳げるようになった、ということでしょうか?」
「待って、ちょっと前から泳げてるからね?そんな驚愕の表情やめてくれる?」
 成一が逆隣りから突っ込む。必死な顔はいつになく幼くみえて、そういえば今日は前髪が全部おりていることに気付いた。
「成一、前髪おろしてるほうがなんか可愛いぞ」
「やめて。童顔気味だから上げてんの、大人っぽくなりたい年頃なんです」
 童顔というか、たれ目だから年齢より甘ったれてみえるんだと思う。言わないけど。
 10月に入っても、台風はひっきりなしにやってきてはそこらじゅうを無茶苦茶にして去っていく。そのたびに荒れる海を見ると心が騒いでしまう。呼び出しがあるような気がしてソワソワしたりして情けない。天気があれると海の事故が増えるから、という理由だが、もはや気にする必要がないのに、おれは気象情報が気になって仕方がなくて一日に何度も天気アプリを確認するので、成一やなおちゃんに「お天気お兄さん一保」とからかわれていた。
 晴れ空もどことなく秋めいて色が薄くみえる。真っ青な空にもくもくと流れる入道雲が夏のシンボルだとしたら、筆で刷いたような薄雲はまさに秋の到来を告げるシンボルだと思う。
 恋人になって、と言われてからも、特段成一との関係に変化はなかった。恋人といっても「フリ」なので、当たり前といえば当たり前なのだが。それよりも気になることは、あの日から、千葉からの連絡がぷっつりと途切れていることだ。一度成一に尋ねたら、彼は珍しく悪魔のような笑みを浮かべて「蛇の道は蛇、ってね。悪魔みたいに賢い人に、ちょっと相談したんだ」とだけ言って、あとは何も教えてくれなかった。
 今日はジム帰りにおれの家に寄って、そのまま泊まりに来ることになっている。一昨日急に決まったので、慌ててニトリに敷布団だの掛け布団だのを買いに行った。今の平屋建て一軒家には、生活に必要最低限のものしか持ち込まなかったのだ。
 まだ夕食には早い時間だったので、今の借家近くにあるスーパーに立ち寄って、酒やアテ、それになおちゃん用の洋菓子や紅茶を買い込んで自宅に向かう。最寄のバス停に降り立った瞬間、成一となおちゃんは同時に「海の匂いがする」と言って笑った。
「今日は何を作るんですか?」
「さーなんだろ。成一が作ってくれるらしいからなー!まあおれも手伝うけど」
「じゃあわたしも…」
「野中さんはやめとこうか。怪我するからね!」
 成一の控えめだがはっきりとしたお断りに、なおちゃんが目に見えて肩を落とす。おいおい、お前をすきな女の子にそんな言い方はないだろう…と言わないのは、本当になおちゃんの料理オンチっぷりは凄まじいものがあるからだった。スライサーで指の腹をすり落としたり(成一がいない日だったので、おれは半泣きになって慌てふためいた)、包丁の先で指先をそぎ落としたり(成一がいたから応急処置をしてくれたけどまな板が血まみれになってごはんどころじゃなくなった)、イカの天ぷらで水気をとりきれてなくて爆発させて首に火傷を負ったり(隣にいたおれが咄嗟に鍋のフタでかばったけどダメだった)…とにかく、彼女に料理をさせてはいけないことだけは確かだ。もし将来どこかの誰かと結婚するときがくるなら、絶対に、料理の出来る男でなければおれは許可しないぞ。
 木造平屋建ての家がよほど珍しいのか、引き戸を開けて「どうぞ」と促してもなおちゃんはしばらく家を眺めたまま入ろうとしない。成一は何度か来た事があったけど、来るたびに建物の外観を眺めて「いい家だねえ」としみじみ言ったりする。
 ふたりを置いてさっさと家に入り、庭に干していた洗濯物をとりこむ。庭がある!とか、うわー縁側だスイカ食べたい!とか、食べられるもの育ててるところがすごい一保さんっぽいよね、とか悪口かと疑いたくなるような感嘆の声を上げながら入ってきた彼等は、洗面所で手を洗い、畳の今に腰を下ろす。
「悪いな、ソファとかなくて。メシ…はまだ早いし、酒でも飲むか?」
 テレビをつけて、リモコンで録画していた番組を確認しながら言う。さっそくくつろいで座布団の上に座っていた成一が、食材を冷蔵庫にしまってから「散歩でもしようよ」と提案してきた。
「いいですね。ちょうど夕日がきれいだし」
 正座していたなおちゃんが同意して、縁側に立っているおれを見上げた。買い換えたGショックを確認する。たしかに、夕食の準備をするにもまだ早いし、こんな時間から酒を飲み始めるとグデングデンになってしまいそうだ。
「よし。じゃあ、ちょっと休憩したら散歩しにいくか」
「わたし、久しぶりに一保さんが淹れたコーヒーが飲みたいです」
 少し髪を伸ばして、マッシュルームボブに髪型を変えたなおちゃんはなんともいえず可愛らしい。美少年のような妹分にこう言われては、拒否できない。
「しっかたねーなー。ほんと、お前らは得だよ!イケメンバリスタ様にタダでコーヒー淹れてもらえて!」
「やったー」
 無邪気によろこぶなおちゃんにひざ掛けを渡して、台所へ急ぐ。深雪の影響なのか、年下の女の子には頭が上がらない。
 ドリップケトル(コーヒーをドリップするために、注ぎ口の先が細くなっているヤカンだ)に水を淹れて火にかけていると、成一がやってきて後ろから「手伝おうか?」と声をかけてくれた。吐息が耳にかかってドキッとしたことを押し隠して、「じゃあその棚の上にあるミル取って」と返事をする。背が高くて腕が長い成一は、高い場所に置いてあったミルを難なく取ってから、ふざけておれの頭の上に置いた。
「はい、どうぞ。…ってこれ大きいね~!」
「ばかやろ、据え置き型の業務用だから高えーんだぞ!そこの作業台に置けってんだよ」
 振り返ってさらに罵倒しようとして、距離の近さに驚く。ちょうどおれの立っていた位置の真上に電動ミルが置いてあったので、まるで成一がおれを抱きしめようとしているような近さだった。
 顔に血が上るのが分かって、咄嗟に顔を逸らしたので、成一がどんな顔をしていたのか分からなかった。コーヒー豆はどこにあるの?と更に問いかけられたので、そこの引き出し、とおざなりに指さしてから食器棚の前へ急いで逃げる。いやいや、何を意識してんだおれは。気になる子を家に上げた男子高校生か。落ち着けおれ、しっかりしろ。
 深呼吸をしながらカップを選んでいたら、火にかけたドリップケトルがぐらぐら音をたてはじめた。音の大きさに驚いて慌てて取っ手をつかんでしまい、その熱さに慌てて手を引っ込める。
「一保さん、火傷しなかった?大丈夫?」
 豆をミルにかけようとしていた成一が寄ってきて言った。大丈夫に決まってるだろ、というおれの答えに、成一は眉を寄せて腕をつかんだ。
「ゆびさき赤くなってるよ、冷やさないと」
 なおちゃんを心配させまいとしているんだろう、小さな声で成一が言う。そのまま腕を引かれて、指先に水をかけられた。引っ張られているせいで、成一の身体に密着するような体制になってしまって、落ち着くどころか頭の中がどんどん沸騰した。一体おれはどうなってしまったんだ、と頭を抱えたくなった。キスもセックスもとっくに経験済だっていうのに、これではまるで童貞だ。
 情けない気持ちでひえていく指を眺めていると、視線を感じて顔を上げた。
 心配そうな顔を想像していたけれど、目が合った成一は少し苦しそうな、熱っぽい顔をしていた。
「なんでそんな見るんだよ」
「なんでって。一保さん、子どもみたいに落ち着きないから」
 悪かったな、ガキで。もういいから、と伝えて軽く胸を押したが、掴んだ腕を離してくれなくて困惑する。
「せい…」
 ガスコンロの上では、火を止めたケトルがまだシュンシュンと音をたてている。後ろをそっと盗み見ると、なおちゃんは壁にもたれたまま居眠りしていた。運動をしたばかりで、疲れているらしい。
 腕を振り払う前に、成一が手を離してにこりと笑った。
「コーヒー淹れるんだよね。見てていい?」
「いいけど…」
 視線を感じながら、電動ミルにコーヒー豆を入れる。自分好みにブレンドしたものだが、ミルクを入れて飲む成一の為に、比較的苦みや酸味の少ないものを選んだ。
 職場ではもう少し大きい、高いミルを使用しているが、家で飲むぐらいならこのkalitaのやつで充分だ。ドリップも本当はネルドリップが一番好きだが、普段は洗うのが面倒くさいのでほとんどペーパーを使う。
「じゃあバリスタらしく、今日はネルでドリップしてやろうか?」
「ほんとに?おれ、ネルドリップのコーヒー飲んだことない」
「よーく見てろよ。まず、冷蔵庫の中から、水でひたしたネル袋を取出します。これはもちろん洗ってから浸してるからな。で、よーく絞ってからこのネルドリップ用のドリップポットにひっかけます。ここに、挽いたコーヒー粉をいれます」
 好奇心できらきらした眼差しを受けながら説明する。実はうちの店でも月に一回、『おいしいコーヒーの淹れ方教室』をやっているので、教えるのはまあまあ得意だ。アフロオーナーも講師をしているのだが、おれの会ばかりチケットが売れると嘆いていた(イケメンは罪だ)。
「コーヒー粉を挽くミルにも色々種類があるけど、おれはなるべく美味いコーヒーが飲みたいから業務用に近いミルを使ってる。あ、ミルってのは、コーヒー豆をカットしたりグラインドしたり…粉にするための機械のことだ。さっきお前に出してもらったやつ」
 いつの間に取り出したのか、携帯のボイスメモでちゃっかり録音している。金取るぞこのやろう。
「家で練習しようかなと思いまして。エヘヘ」
 軽く蹴ってやったが、悪びれずに録音をし続けている。
「………ここからが家でも実践できるコツな。ペーパーでもネルでも同じなんだけど、コーヒー淹れるときは必ず『蒸らし』って過程を経なきゃいけねーんだ。ドーム状に膨らむように、さっき沸かしておいた先の細いケトルで豆全体に行きわたるように、湯を入れる。蒸す時間はなあ…ふくらみ具合を見ながら、って感じなんだけど、まあ1分とかそんぐらいかな?新鮮なマメだとすごくガスが出て膨らむから、豆の鮮度は蒸らすときに分かるぞ。あとネル…ペーパードリップのときはペーパーだな、そこに湯をかけないようにすること」
 コーヒーの芳しい香りが台所に充満して、成一が目を細めた。
「いい匂い」
「な。ほっとするよな、この香り。……よし、充分膨らんだな。膨らんだら、こんどは「の」の字をかくように細く、これもコツな、ほそーく湯をいれていく。ネルにお湯をかけないように。…うん、これぐらいか」
 ポットに入ったコーヒーを、カップの中へ注いでいく。アイスコーヒーも美味いけれど、なんといってもおれはホットが好きだ。香りも味も、一番豆の個性が出る。
「このマグすっごいおしゃれだね。一保さんが選んだとは思えないよ」
「ひとこと多いんだよ」
「だって一保さん、オシャレというオシャレに一切興味ないじゃん。夏なんか毎日Tシャツとデニムだったし…秋冬はどうするつもりなのかなこの人、って思ったからね」
「秋はTシャツの上からパーカー着るんだよ。冬はコートを適当に羽織る」
「もったいない、もったいないよ、かっこいい顔してるのに……」
「うるせーな。まあ確かに、そのマグはおれが選んだんじゃねーけど」
 じゃあ誰が、ときかれるかと思ったけれど、おれの表情から何かを感じ取ったのか、成一はそれ以上何も言わなかった。
 波のようにウェーブしたソーサーに、取っ手のところがひねったような形になっているマグは、フラミンゴの絵や青い鳥の絵がそれぞれにあしらわれている。ドイツの食器でとても有名なブランドのものらしいが、器にはこだわりも興味もないので忘れてしまった。ただ、このマグをふたつセットでプレゼントされたときに言われた言葉はよく覚えている。確かバリスタレベル3ライセンスを取得した直後だった。ガラにもなく、「これ、おれが来た時専用な」と言って自分のセリフのクサさに頬を赤くしていた千葉。思い出すとまだ胸が痛んで、ため息が出た。
「よし、もってけ」
「はーい。あ、ミルク」
「とりあえずそのふたつはおれとなおちゃんの分。お前のやつは別で作るから」
 そっぽを向く。腕にのこった感触をわすれたくて、成一を邪険に追い払った。

 

 

 

 

 なおちゃんとパーカーのブランドがかぶっていたことを笑い合いながら、砂浜を歩く。後ろから成一がついてきて、風の強さに首をすくめている。
 うすく霞んだ夕日が地平線へと沈んでいく。足が濡れないギリギリの波打ち際を嬉しそうに歩いていくなおちゃんの後姿をみていると、本題が切り出し辛くて困った。
 やっぱり、おれと成一が付き合うなんて『フリ』でもいい気分はしないだろうけど、黙っているのはもっとフェアじゃない。
「なおちゃん」
 振り返った彼女が、静かに問い返す。「なんですか?」その声は、まるで何をいわれるのか知っているみたいに落ち着いていた。
「ちょっとそこ、座ろう」
 砂浜の中でも少し盛り上がって高くなっているところを指さす。三人で並んで座ってすぐに、成一が事の一部始終を説明し始めた。ところどころ補足したり、千葉との関係について述べるのはおれの役割で、(とはいえ、時間をさかのぼってやり直しました、なんて説明できやしないので割愛したけど)全て話し終えたときには、夕日は地平線の下へほとんど埋もれかけていた。
 黙って、成一の眼をみつめながら聴いていたなおちゃんが、急に立ち上がっておれの側にきた。驚いて声を上げる暇もなく、なおちゃんの両手がおれの右手を包む。
「つらかったですね」
 返事をするまえに、なおちゃんが両手をのばして、おれを抱きしめた。
「気付けなくて、ごめんなさい」
 どうしていいのか分からなくて、成一の方をみた。彼は「ほらね」とでも言いたげに微笑んで、首を傾げた。おそるおそる、彼女の背中に両手を回す。やわらかくて、細い身体は、たしかにあたたかかった。
「…ありがとう」
 そっと背中をなでる。短い黒髪が首にあたってくすぐったい。次第に空全体を包むようにひろがってきた夕闇が、星や月で、ところどころ白く光っていた。
「わたし、自分の事ばかり考えていました。…自分が一番つらいんだとおもっていました」
 身体を離したなおちゃんが、おれを見上げた。成一が立ち上がって、海の方へと歩いていく。
「なおちゃんは…どうして成一のところに?」
 気を利かせて立ち去ってくれたのだ、と気づいたのは、なおちゃんの告白を聴いてからだった。
「…逃げてきたんです。家にいられなくなって。母が再婚した相手が…わたしを…」
 唇がふるえる。言いたくないなら言わなくていいよ、と伝えるまえに、なおちゃんが眼を逸らしてまばたきをした。涙が白い頬を流れ落ちて砂浜に吸収されていく。
「はじめは、優しくて良い人だと思いました。わたしも成人していましたし、彼等の邪魔をするのは嫌なので、一人暮らしを考えていました。それを母につたえると、あのひとは…義父は、とても残念そうでした。親子三人で暮らしてみたかったのに、と」
「…年は……いくつぐらいのひと?」
「42歳です。母より6つ年下で」
 おれのパーカーの腕をつかんだまま、なおちゃんが涙で湿ったためいきをついた。心が高ぶるのを抑えようとしているのが分かって、おれはもう一度なおちゃんの背中を撫でる。きいてるよ、大丈夫。おれは味方だから。
「母もすごく引き留めてきたので、しばらくの間三人ですむことになりました。…異変が出てきたのは、それからでした」
 なおちゃんが大きく息を吸い込む。
「下着がなくなるようになりました。なくなることなんて普通ないので、いくつかなくなった時点で相談すれば良かったんですが…気味が悪くて、それに義父を疑うのも申し訳なくて、何もしませんでした。それからしばらくして、わたしが入浴する時間を見計らったように、義父が脱衣所に出入りするようになりました。抗議したら、母も義父も「家族なんだからそんなに気にしなくても」と鷹揚に笑うので…わたしだけがおかしいのかと思って我慢しました。でも…
 その日を境に、次第に義父の行動はエスカレートするようになりました。部屋に急に入ってきたり…それも夜中に…。気持ちが悪くて、でも母には相談できなくて。だって本当に幸せそうだったんです、わたしのせいで苦労をかけてきたのに、とてもじゃないけど言い出せませんでした。でも、あの日…星野さんの家に押しかけた前の日は…もう我慢できませんでした。身体をおさえつけられて、触られて…酒臭い息が首にかかって…。必死で抵抗して、そばにあった時計で義父の頭を殴って逃げてきたんです」
――何を言えばいいのかわからなくて、ただ黙って彼女の背中を撫でつづけた。彼女は顔を上げて、「元々、男の人はあまり好きじゃなかったんですが、これで致命的になりました」と言った。
「おれも男だけど大丈夫?」
「一保さんと星野さんは平気です。ふたりとも、誰かをみるとき性別や欲望を前提に見たりしないから」
 こどものようにぐいっと目元をぬぐってから、なおちゃんが微笑む。
「こうなる前、もっと髪が長かったんです。伸ばしてみたくて。そうしたら、会社でいままで話したこともなかった男性が、よく話しかけてくるようになりました。デートに誘われたり…。でもああいうことがあって、他人から女性として見られることが怖くなってしまって。思い切り短くしたら、みんなすごく残念そうでした。『長いほうが女の子らしくて良かったのに』とか、『可愛かったのに』とか言って…でも星野さんは、見た瞬間に褒めてくれました。「すごく似合うね」って。あのひとは、相手の性別とか、社会的地位に関係なく、そのひと、そのものを見てくれるんです。ひとりの人間として尊重してくれるんです。そういうところが…すごく、好きです。好きでした。救われました」
 たどたどしい言葉はそれでも、伝えようとする誠意にあふれていた。おれは彼女から目を逸らさずに、彼女がほんとうに伝えたいとおもっていることを読み取ろうとした。
「わたしはもう、充分助けてもらいました。ほかのひともきっと、たくさんのひとが、星野さんに救われてきたと思います。だから……一保さん」
 彼女の両手が、おれの腕をぎゅっとつかむ。熱い体温。きっと彼女のてのひらにも、おれの体温が届いているだろうと思った。届いていてほしいと思った。
「星野さんと、向き合って。逃げないでください。きっと一保さんと星野さんは、出会うべくして出会ったんだと思います。ただ星野さんに救われるだけじゃなくて、あなたが、星野さんを救うことができるとおもうんです」
「…おれが?」
 はい、と返事したなおちゃんが、みたこともないぐらい無垢な笑顔を浮かべて、言った。
「だって星野さん、あなたと一緒にいるときが一番幸せそうだから」
 この瞬間、なおちゃんがおれの気持ちに気付いていることを知った。
 同じ人を好きだからこそ、分かったのだ。分かった上で、背中を押してくれている。
「……そうならいいけど。少なくともおれは、あいつと一緒にいるの、楽しいから」
 楽しいなんて言葉じゃ片づけられない。なおちゃんの言葉の意味が、おれには誰よりもよく分かった。ひとを大切にする、という言葉は、言うのはたやすいが実践するのは難しい。誰でも、自分を優先したくなるし、そのために他人を傷つけることを厭わない者は、決して少なくないからだ。
 おれだってそうだ。千葉を拒みきれなかったことで、きっと、あいつの妻子を傷つけた。――それが彼等に知られていなかったとしても。
 成一はおれに何一つ強要したりしない。それなのに惜しみなく与えてくれる。
「話してくれて、ありがとう」
 淡く夜に変わった空を背景に、成一が「お話終わったー?おなかすいたよー」と声を上げている。なおちゃんに手を貸して立ち上がり、ふたりで成一の側へ走った。いきなりふたりに抱きつかれた成一は、驚きすぎて「なになに、どうしたの!?」と声が裏返っている。「秘密です」「お前には教えない」と交互に説明されて、それなのに、成一は楽しそうに笑っていた。

 

 

 

 夕飯の用意が終わる頃には、すっかり夜の帳が下りていた。
 居間の丸いテーブルを拭き終えたなおちゃんは、冷蔵庫からビールを取り出して並べたり、ときどき台所に顔を出してはつまみ食いをしたりしている。
「はーい座った座った!今日は、里芋のえびときのこのあんかけ、秋刀魚の塩焼き、なめこと豆腐のお味噌汁、ほうれんそうのお浸しとごはんです」
「秋刀魚を焼いたのはおれだから、残したらおしりペンペンだぞ!あと味噌汁もおれが作った」
 母屋にいた老夫婦がなんと七輪を貸してくれたので、庭で炭火焼にしたのだ。途中で何度か味見と称してビールと一緒にたべたので、半身になってしまっているが。
「はい、この半分になった秋刀魚は一保さんのやつね」
「チッ、ばれたか。じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 平屋建てなので二階がない分部屋数が少ないかわりに、一部屋一部屋はかなり大きい。畳の居間は、大きい丸いちゃぶ台とテレビボードを置いても、あと10人ぐらいは入れそうな広さだ。
 三人で手を合わせてからご飯を食べ、ビールを飲んだ。お酒に弱いなおちゃんも珍しく、「わたしも飲みます!」といってちびちびとレモンサワーを口にしている。酔うと寝てしまったり頭痛がするときいていたので、念のためつめたい水も手渡して、その日は三人で盛大に飲んだ。
「成一お前…やるな。えびの臭みが全然ねえし。うん、美味いほんとに」
「ほんと?やったー、一保さんに美味しいって言ってもらえると嬉しいよ」
「いやおれはしがないバリスタであって、料理人じゃねえから」
「でも一保さん、料理すごくお上手ですもんね」
「そうなんだよね…。正直いって、おれより家事ができる男性なんてなかなかいないと思ってたもん。一保さんはずるいよ、明るくて面白いし、掃除洗濯料理ができるし、バリスタだし…。そういうひとに美味しいって言ってもらえると、あーほんとなんだなーって思う」
「そこにあえて付け加えると、英語はしゃべれるし、イケメンだし、武道もできるし泳ぐのも得意だからな。いやあ…罪だぜ。罪深い」
 へへん、と上を向いて言い放ってやると、成一となおちゃんが憐みの眼を向けた。
「でも男運ないですもんね……」
 溜息混じりの声はなおちゃんだ。ひどい。本当のことだけど。
「ないね…全部帳消しにするぐらい男運がない」
 相槌を打ったのは成一だった。こいつら……。
「全部消すなよ!なんで男運ないだけで全部消えちまうんだよおれの長所が!!」
「あと靴下と下着の畳み方がへんだよ。絶対へん」
「あー…。あと掃除も結構雑ですよね、四角いところを丸く掃除するみたいな」
「いびきがうるさいし。ぐおーぐおーって怪獣みたいだし」
「寝相も悪いです。鼻かんだティッシュちゃんとゴミ箱に捨てないし」
「なんでおれの短所並べ立てる会になっちゃったんだ!!やめろ!!」
 なおちゃんがコロコロと笑う。成一は顎に手をあててまだ何かを考えている。これ以上悪口言ったらお前の飲んでるビールひったくって全部飲んでやるからな。
 あっという間に食べ終わった食器を、なおちゃんが下げて洗ってくれた。買ってきた酒の肴や定番の枝豆なんかをつまみながら、おれと成一はどんどんビールの空き缶を増やした。タワー作ろうぜ、とかなんとか言って、飲み終わった空き缶でピラミッドみたいに積み上げることができるぐらい飲んだ。夜は更けていき、はじめになおちゃんが眠気で頭を前後に揺らし始めたので、風呂に入るよう促してから先に寝かせた。さすがに男の部屋に寝かせるわけにはいかないので、ふすまをへだてた客間にふとんを敷いた。
 寝かしつける直前まで、なおちゃんはおれの手を握って離さなかった。ふとんをかけてやると、小さい声で「もう、あの家には住めないから…一保さんのおうちの近くで、家、さがしていいですか」と問いかけられた。「もちろんだ。いつでもご飯食べにおいで、送り迎えするから」と耳元で伝えてやると、安心したように笑って眠りについた。
 夜11時を過ぎても、成一は平気な顔をして「もうちょっと飲みたい」とか言いながら冷蔵庫をあけていた。おれは少し酔い始めていたけれど、まだ「ほろよい」ぐらいの感覚だった。ビールに飽きてきたので、老夫婦にもらったとっておきの日本酒を取り出して見せたら、成一が「今から日本酒って!!」と大げさにのけぞってみせた。
「無理は禁物だからな、水のみながらのもうぜ」
「うん、それがいいね。ねえ、縁側で飲まない?今日涼しいし、お庭すごくきれいだし」
 盆に氷をたっぷりしきつめたワインクーラーと日本酒、それにぐい飲みをのせて、ふたりで縁側に移動した。座布団を渡してやってから、蚊取り線香に火をつけた。緑が多いのは結構なことだが、そのせいか虫さされもしやすいのだ。この家にひっこしてきてから、蚊取り線香の威力に畏怖を感じている。こんなもの効くのか…?そもそも蚊なんて街中にいなくね?とおもっていた、過去の自分をなぐってやりたい。
「最近、たばこ吸ってないね」
「10月から禁煙してるからな。すげーだろ、褒めろ」
「うん、エライエライ…ってまだ一週間しかたってないよ!」
 どこで覚えて来たのか、ノリ突っ込みという高等技術を使って成一が笑った。おれも「それな」といって笑う。お互い手酌で日本酒を呷り、きれいな月を眺めた。昔は月なんかみても(月だな)としか思わなかったのに、二十代後半ぐらいからだろうか、美しいなとその姿を探すようになった。
「…うわ、このお酒辛口だな~。でも美味しい。北の方のお酒かなあ」
「良く分かったな。新潟の酒だよ。昔居酒屋で飲んだことあるけど、すっげー高かった」
「へえ。いいものなんだね」
 喉を通り過ぎていく酒の美味さに、しばらく言葉を忘れた。こんな風に安心して休みを過ごすなんて、いつぶりだろう。常に緊張を強いられるほど、千葉との関係に疲れていたのか。連絡が来ない事にほっとするなんて…あんなに好きだったはずなのに。
「なあ、成一」
「うん?」
「千葉に、何て言ったんだ、お前」
「…それ、聴きたい?」
「ききたいっつうか、気になる。だってほんとに、ピタっと連絡来なくなったからな、一体どうやって…」
 隣を振り返って、口を閉ざす。成一の眼が、じっとおれを見つめていた。その眼は昼間、コーヒーをいれていたときの眼と同じだった。
「連絡がこないと、さびしい?」
 平静な声だった。首を振る。
「いや。寂しくはない。ただ…」
「ただ?」
「お前が、なんか危ない目にあうようなことしてないかって、心配だっただけ」
 視線を逸らして、ふたたび夜空に戻す。むかし船の上から見た空は、もっと星がいっぱいだったことを思い出して切なくなった。
――もう、あの頃には戻れない。船にも乗れないし、誰も助けられない。
 ガタン、と物音がした。ふたりの間においていた、成一のグラスが倒れて中身がこぼれている。見とがめて声をあげようとしたとき、それを倒した張本人が、左手で盆ごと部屋へ押しやった。ふたりの間を隔てていた酒やグラスがなくなってすぐ、成一が両手でおれを抱き寄せる。有無をいわせない強さなのに、拒む気持ちはまったく湧いてこなかった。
「この期に及んでおれの心配って。一保さんって、バカがつくほどお人よしだよね」
 笑いを含んだ掠れた声が、耳元でささやく。言葉の意味は分かっても行動の意味がわからなくて、おれは目を白黒させながら「バカとはなんだ!」と抗議した。
「なんかちょっと無礼だし、言いたいことそのまんまいうし。このひとに気を遣うなんてばかばかしいって思うけど…裏表がなくて純粋で……それがあなたのすごいところなんだよなあ」
 ひとりごとのように言ってから、成一がおれの背中をするりと撫でた。
「おれの知っている人に、三嶋先生っていうすごくきれいな人がいるんだけどね」
「し、知ってる。お前の恋敵で医者の美形だろ」
 顔が赤くなっているのが自分でも分かる。それなのに、眼を逸らすことも突き放すことも、その場から逃げることもできない。…したくない。
「そうその人。月をみるとね、三嶋先生を思い出すんだよね。美しいけど寂しげで、ひとめを惹くのに孤高な感じがしてさ。六人部隊長も、そうだった。凛としていてかっこいいんだけど、影があって…」
 …思い出すような視線に、胸の奥がうずく。失恋に苦しんでいた姿を知っているからこそ、どれほど成一があの男を想っていたのか分かる。生半可な気持ちじゃない。相手の為に身を引くなんて、本当に相手のことを愛していなければできないことだ。
 両手で頬を包んで、額を押し当てられる。すぐそばにある琥珀色の眼が、いたずらっぽく弓なりになった。その表情をみると、キスしたいな、と切実に感じた。むねが切なくなるような、心がしっとりと濡れるような微笑みだった。
「一保さんは、太陽だね。それも真夏のギラギラとした光じゃなくて…春の。みんなが待ち望んでる、あかるくて、あたたかくて、まぶしい陽光」
――千葉さんは、その光を独り占めしたかったんだと思う。
 静かな声でそう言ってから、眼をとじる。てのひらのぬくもりが、頬から全身へとつたわっていく。ききたいことは、きかなければいけないことはまだあるはずなのに、どうでも良くなっていく。
「ねえ、一保さん。いままで長い間、誰かを照らすことに一生懸命になってきたでしょう。好きだとか、幸せになってほしいだとか、色々理由はあったのかもしれない。でも、もういいんだよ。何も我慢しなくていいし、自分を責めなくていい。毎日ごはんを食べて、仕事をして、一緒にいろんなところに行こうよ。あなたの行きたいところ、どこでも行くから。夜は今日みたいにお酒を飲んで、バカな話しようよ」
 つられるように、おれも目を閉じる。鼻先がふれて、海と酒の匂いがした。
 目を開くと、成一のひとみのなかに自分が映っているのが分かる。あまりにまっすぐできれいな眼は、反射的に目を逸らしたくなるほど澄んでいる。
 彼からみたおれは、どんな人間なんだろう。少し怖くなった。
「どうして、そんな悲しそうな顔するの」
 自分でも気付かなかったから、「え、」と声を上げてしまった。
「気付いてないでしょ。いつも、楽しい話のあとね、一保さん、悲しそうな顔するんだよ」
「……ほんとに?」
「うん。なんか、『この楽しい瞬間は、嘘だ。すぐ消えるんだ』って言わんばかりの顔する」
 眉が下がる。困ったように笑いながら、成一の指がおれの眉間をぐりぐり押した。
 成一の言葉で頭をよぎった千葉の横顔が、閉じた瞼の裏を遠ざかっていく。息をひそめるように、作り笑いで哀しみを覆い隠していた、あの日々。好きだった。確かに、大好きだった。だからこそ、辛かった。喜びの裏側にいつもあったかなしみの気配に気づきながら、知らないふりを繰り返していた。
 重くなりたくなかった。嫌われたくなかった。ずっと一緒にいてほしかった。だからしてほしいことも嫌だとおもうことも伝えなかった。良い面だけをみていてほしくて。
 黙り込んだおれの様子をどうとらえたのか、突然成一が「よし!」と声を上げて立ち上がった。おもわずおれも後に続くと、肩に手を置かれた。
「今度の休み、どっか遠出しよう!」
「は?なんだよ急に。だいたいおれ車もってねーよ」
 転勤が多い仕事柄、何度か欲しいと思った車は諦めた。当然運転はできるが、いまの年収で車を買うのは少し心もとない。
 おれの心配をよそに、成一がにかっと笑った。
「大丈夫、電車でいけるから。夏の思い出作りにいこう」
…いきいきとしているところ申し訳ないが、どうしても突っ込みたい。
「もう秋だよ!バーカ!」
 ただ、自分でもわかる。いますごく、幸せそうに笑ってるってことが。