(番外編)あるバタラーの懺悔

 人間を信用しない、というのはおれなりの処世術だった。
 心が傷つくのは何故か、考えた事があるだろうか。おれは考えた。何度も何度も考えた。その末、みつけた答えはこうだ。
『ひどいことをされて傷つくのではない。信用した相手に裏切られたことに傷つくのだ』
 気付いてからは、そもそも信じたり、愛したりしなければいいのだと考えた。そうすれば、生きるのが楽になる。求めて手に入らないことに絶望しなくても良くなる。
「千葉、もっとおれを信じろ。おれは、お前のバディなんだぞ」
 一保の視線はいつも真っ直ぐおれに突き刺さって、本性を暴こうとした。なにもかも自分でやろうとする、できてしまうのは優秀だからではなく、臆病だからなのだと、あいつは正面から切って捨ててきた。命がけの仕事だからこそ、バディを信じなければ危険は増すだけだと怒った。
「お前を危険にさらしたくないんだよ。だから…」
「だからいつもアブねえ橋はひとりで渡るって!?ふざけんな!いいか、」
 濡れたウェットスーツの胸を拳でドン、と叩きながら、一保が叫ぶ。
「おれとお前は、ふたりでひとつだ。死なないために、そして死にそうな誰かを助けるために、おれたちは命を分け合い、共有して、燃やしてんだ。分かるか、それがバディシステムなんだよ」
 確かに危険の多い任務だった。トッキュー隊に任せたほうがいいかもしれないような案件だ。けれど、彼等は別の任務に出動していて、我々が助けなければ、あの船員たちは全員死んでいた。おれの判断も対応も間違っていなかったはずだ。――たしかに、一番危険な役割を、勝手に引き受けたけれども。
「二度とこんなことはすんな。あと、おれを気遣う必要なんかねえ、そういうことするんならお前とのバディは解消してもらうように、隊長に進言するからな」
「それはダメだ」
 ダメだ、ともう一度言って、一保の腕をつかむ。シャワーもまだ浴びていないから、海水で全身がずぶ濡れだ。腕をつかまれ、驚いた一保がおれの顔を見た途端、大きく口を横に広げて笑った。おれの、大好きな笑顔だった。
「なに、迷子みたいな顔してんの。――おまえがちゃんと約束を守るなら、言わねえから」
「…分かった。べつに、お前をバカにしたり、下にみてるわけじゃないんだ。ただ、心配で…」
「だからな、仕事にそういうの持ち込むなっておれは言ってんの」
「悪かったよ。だから、バディは…」
「わかったって。そんな泣きそうな顔すんなよ」
 目を細めると、一保のきれいな眼がいっそう明るくかがやく。濡れていても毛先のはねた短い髪に触れたくて、いまが業務時間中であることに落胆した。
「今日、家に行ってもいいか…?」
 着替えを終えて退庁してから、隣の一保にうかがいを立てる。一緒に住む訳にはいかないので、庁舎から二駅ほどのワンルームマンションをお互いに借りていた。
 夜は好きだ。なんとなく、空気が冴えているような気がするし、体によくなじむ。海で浴びる日差しも嫌いではないが、ほっとするのはやはりこんな夜、一保と一緒にコンビニに寄って帰るような、何気ない業務外の時間だった。
「ダメだって言っても来るくせに」
 唇を片方だけ持ち上げて、いじわるに笑う。桜木町の駅は今日も他人でごったがえしていた。これだけたくさんひとがいるのに、一保がいる場所だけ色がついているように見える。
抗いようもないほど、おれは一保にやられていた。気の強い、はねっかえりの、それなのに情が深くて真っ直ぐな一保。どういう風に育てば、そんなにきれいな心を持ったまま大人になれるんだ、と不思議になるほど、おれにとっては一保の一挙手一投足がまぶしく、愛しかった。
 電車にのっていても、体格のいい長身の男がふたりもいれば目立ってしかたがない。仕事柄地味な服装、私服でも悪目立ちしないものを心掛けているが、「着れたらいい」という無頓着な一保が今着ているダウンベストは、おれがプレゼントしたものだ。ボーダーのカットソーにグレイのダウンベスト、チノパンにスニーカー。ありふれた服装だが、一保が着ていると華やかにみえる。
「あ、村山じゃん。千葉も。飲みに行くの?」
 別隊の男が声をかけてきた。電車の中で窓のそとを眺めていた一保が、ぱっと笑顔を浮かべて振り返る。釣り目なのにひとみの大きい、猫みたいな眼がぎゅっと細められる。
「おう!おれら明日休みだかんな」
「いいな~。おれも飲みにいきてー、千葉、混ぜてよ」
 名前も思い出せない男の提案に、おれは逡巡すらせず答えた。
「今日は一保とふたりで飲みたいんだよ」
「はー!?お前らバディだし一日中一緒にいるじゃん!!なんで時間外までつるんでんの」
「仕事のことで相談したいこともあるしな。悪いけど」
 邪魔されてたまるか、という感情が外に出ないようにつとめながら、目の前の某に断りを入れる。ええーなんで、とか、ふだんからお前村山独占しすぎー!とか非難のことばを浴びながら、困った顔で手を合わせる一保の腕を引いた。

 

 

 

「千葉、皆川のことキライなの?…ん、んう…」
 居酒屋にいったのはあくまで形式的なものに過ぎず、本当はさっさとこうしたくてたまらなかった。一保の部屋になだれ込んだおれは、玄関の戸を開けてすぐに肩をつかんで引き寄せた。やわらかいくちびるから、酒と甘い味がする。腰に手を回してぐっと抱き寄せ、「皆川って誰だっけ」と耳元でささやいた。跳ねた髪の下からみえる耳朶の裏に吸い付き、舐める。汗の味がして興奮した。
「さっき会ったろ!保大の同期じゃん、数少ない…あっ!」
 ベストを脱がせ、カットソーをめくり上げて乳首を指で引っ掻く。拳で口元をおさえながら、一保が恥ずかしそうに顔を背けた。赤くなった頬が可愛らしくて、唇を耳から頬へとうつす。
「しらねー、あんま興味ない。おれ自分以下のやつ、どうでもいいから」
「以下ってお前…」
 唇を離す。あわただしく靴を脱いでから、一保の腕を引いて一直線にベッドに向かった。放り投げるようにベッドに押し倒したら、ギイギイと耳障りな音が鳴った。
「いつもそうやって、自分より上とか下とか、優劣つけてんの」
「まあな。時間は限られてるし、メリットのある付き合いしかしたくねえな」
 戸惑ったように視線を揺らした一保の服を、半ば強引にはぎ取っていく。待て、待てって!と意味のない制止を無視して、口の中に指を突っ込む。ローションをとりに行く時間も惜しい。早く、いれたい。こいつの中に入りたい、入って、ゆさぶって、ぐちゃぐちゃにして、自分だけのモノだって実感したい。快感に溶けた顔を、もう忘れられなくなるぐらい網膜に焼き付けたかった。
「ん、んぐ、っぷは、…千葉、あ、あ…」
 唾液で濡れた指を、まだ固い入口に撫でつける。足を開かせて、右の膝裏をぐっとベッドに押し付ける姿勢に、一保が恥ずかしそうに「やだ、」と抗議した。そんな声、燃えるだけだっていうのに。
 指を一本、二本と増やしていく。中はあつくて狭くて、おれの指を食いしめてくる。引き締まったふくらはぎやふとももにキスを落とし、左手でぎゅっと乳首をつまみあげると、頬を真っ赤にした一保が「んああ…」と甘い声で鳴いた。おれほどではないにしろ長身で、どうみても、なにをさわっても硬い男の身体だというのに、おれは一保のすべてに興奮する。気の強そうな、潤んだ眼差しや、日焼けした無駄な肉ひとつないふとももや、いれたらものすごく気持ちいいことを知っている、一保の中まで、全てが、おれを誘惑するためにこいつ産まれて来たんじゃないか、って思うほどしっくりと馴染む。何度でも抱きたくなる。
「あ、あさってキツイ訓練あるから…あんま、はげしいのはやめて」
「余裕だな?あさっての心配か」
 自分の荒い息と、余裕のなさはカチカチになった性器からも分かった。多少強引に一保の中にもぐりこみ、いちばんふといところを押し込む。「っく、いた…!いたい、いたい千葉っ」と首を振っている一保に全く頓着せずに、両足の膝裏をつかんで開かせ、腰をすすめた。めちゃくちゃ狭くて、挿入しただけでいきそうなほど気持ちいい。眉をよせて顎をあげ、苦しげにしている一保の表情がますます興奮をあおって、音がなるほど激しく腰をぶつけた。ぎ、ぎ、とリズミカルに揺れるベッドと、一保のつまさき。痛いと呻いていたはずなのに、たちあがって先を濡らしている一保のもの。涎を流してとろけた顔で両手を広げ、「千葉、キスしろ」とこちらをみつめてくる。お望みどおり、腰をゆらしながら舌をからめ、奥深く口の中を犯した。仕事中は厳しい眼差しでどんどんおれに食ってかかる一保の、従順で淫らな、欲望にまみれた顔。たまらない。
「きもち、いい?」
「ん…いいっ、きもち、いい」
 腰を持ちあげ、あぐらをかいたおれの上に乗りあげさせる。一保の濡れた穴を、自分の怒張した性器が出入りするのをじっとみつめた。汗ですべる腰をつかんでめちゃくちゃに動かすと、もはや理性もなにもない声が一保のくちびるからこぼれていく。好き、ちば。だいすき、と舌ったらずなあまい声が叫び、先に達した。一保のイキ顔はどんなAV女優よりも威力があって、瞬時に全身の血が全部あつまって、身体がふるえた。つながった場所から、おれの出した精液がたらりと流れ落ちていく。脱力して一保の上に覆いかぶさり、強く抱きしめた。耳元で、「好きだ」と囁けば、涙で濡れた顔をこちらに向けた一保が、やさしくキスを返してくれた。

※※※

 保大ではじめて一保をみたとき、不思議な感覚があった。
「こいつ、どこかで会った事がある」
 短いくせっけに、猫のような目、高い鼻筋に気の強そうな口元。たしかに好みの顔ではあったが、「男」はまったく恋愛対象じゃない。正直、考えたこともなかった。それなのに、声をきくと、目が合うと、心がふるえた。そんなもの絶対信じたくなかったけど、運命ってものがあるなら確実にこれがそうだ、と思った。
「名前、なんて読むの」
「かずほ、だよ。むらやま かずほ」
 あのとき。ニッと笑った顔が華やかで、周囲にいた同期もみんな目を奪われてしまう。
 猫科の動物を思わせるしなやかな身体つきには、まだ高校生のような幼さが残っていた。

 

「村山って、美少年がそのまま大人になったみたいな不思議な色気があるよな。いわゆるしっとりした色気とは全然違うんだけど…なんかこう、健康的な、オリジナルな色気がさ」
「あ、わかるそれ。言動はめちゃくちゃ粗雑な男そのものなんだけどな」
「腰とかほっそりしててなんか妙にエロいよな~。あとあの笑顔ずるいわ」
 胸がすくような一保の笑顔を思い浮かべる。保大一年のころは、まだ自分の気持ちを自覚していなかった。彼女と一緒にいるよりも楽しいなんて、今思えばすでにおかしかったというのに。
「でも女にがっついてないから、コンパ連れて行くのには最高だよな。あの顔でいくらでも女の子釣れるし、あいつ義理堅いから絶対横取りしたり抜け駆けしたりしないし」
「そうだな。たしかに」
「目がホマキに似てる……あの目でじっとみられっとたまんねぇよな。西島ゆいにも似てねえ?まーとにかく顔がいいわ、羨ましいったらねえよ」
最終的に一保の顔の良さで盛り上がって話が終わった。
 呉の街を、同期連中とふらふら歩きながら相槌をうつ。コンパの結果はまあまあといったところだったが、そもそもおれは学生時代から付き合っている彼女がいたので、人数合わせのような気楽な立場だった。女の子たちの「筋肉見せて」にこたえるのはおれの役目ではなかったし、ひたすら愛想よく酒を飲んで、ときどき隣にいた一保にメシをよそってやるぐらいだ。あいつは、なぜか宴会の途中で先に帰ってしまったけれど。
「そういや今日、なんであいつ先に帰ったの」
「えっ、千葉しらねーの?おれ昼間たまたま見たんだけど先輩に呼ばれてたぜ、別件で」
「先輩って…風間さん?」
「そ。…寮の部屋で飲むっつってたけど…ちょっと心配だよな、あのひと酔うと無暗やたら触るじゃん、とくに村山にはひどいだろ。こないだなんか服の中に手ェ入れられてたし」
 冗談にしてもキモい、という同期の声をききながら走り出す。え、お前どこいくんだよ、と後ろから叫ばれたが、いまはそれどころじゃなかった。もうなにかを考えるより前に、おれの足は風間先輩の部屋へと向かっていた。そう、握りしめた拳と一緒に。
 寮の部屋をほかの先輩から教えてもらうとき、妙にニヤついた顔で「今日はやめといたほうがいいんじゃね?」と言われたことでますますおれは頭に血が上った。ふざけんな。絶対に許さねえ、と声に出しながら、風間先輩の部屋の扉を乱暴にたたく。誰も出てこない。とっさに扉に耳をあてると、中で人が暴れるような、どすんという大きい音が聴こえた。もう、こうしちゃいられない。扉をあけて(鍵がかかっていなかった)、土足のままずかずかと上り込む。
「一保!!大丈夫か、やられてねーか!!」
 叫んだあと、唖然とした。やられてはいたが、それは、先輩のほうだった。
「…?やられてるのは先輩だけど?」
 腕ひしぎ十字固めを決められた風間先輩が、ごめん!!悪かったもうしない!と叫んでいる。怒りで頬を赤くそめた一保が、「テメー、前からキモいと思ってたんだよっ!!今度へんなことしやがったら、落ちるまで締め上げんぞコラァ!!」と怒鳴りつけている。部屋に響く先輩の謝罪の言葉と、一保の舌打ち。ただ、立ち尽くすだけのおれ。
 事が済んで、部屋をあとにしたとき、一保が深い溜息をついた。右手で肩をおさえながら、「あいつ、力づくできやがった。先輩じゃなかったら半殺しにしてたぞ」と呟く。大丈夫か、と声をかけると、寮を出てしばらくしてはじめて、おれの存在に気が付いたみたいにこちらを見た。眼の中に星でもあるのかとおもうほど、きれいな眼だと思った。澄んでいて、白目のところが青みがかっていて、ひとみが大きくて。
「千葉…なんだ、心配してきてくれたのか?」
「同期と飲んでたんだけど、お前が風間先輩に呼ばれてたってきいたから」
「今日へんなことしてきたら、きっちり思い知らせてやろうと思ってよ。加減はしたけど、あれでだいぶ思い知っただろ。あー疲れた」
 いつもの笑顔で、一保がおれを見上げる。その表情が、いつもと違うことに気付いたのは、知らない間に彼女よりも誰よりも、あいつを見つめる時間が増えていたからだった。
「…大丈夫か?」
「あったりまえ!」
「無理すんな」
 おれの部屋のリビング。水を出してやってからそう呟くと、いつも強い視線がわずかに揺れた。
「…ほんとは、ちょっと怖かった」
「そりゃそうだよ」
 頭を撫でてやると、うるんだ目がこちらをみた。ああ…と心の中で頭をかかえた。こいつが、女だったら。いますぐ抱きしめて好きだって言って、了解が得られたら毎日抱いて、もう絶対離さないのに。誰かの目に触れるのが嫌だから、すぐ妊娠させて仕事なんかやめさせてやる。大事なものは隠さないと、いつ誰に奪われるか分からないから。
「きてくれてありがとう」
 うつむいた睫毛の先にみとれた。
 その頬にふれたくて我慢できなくなるまで、時間はほとんどかからなかった。

 

**

 

 

「そういう考え方は嫌いだ。優劣をつけて、線を引いて、なんになる。劣っていると決めつけた人も、必ずお前よりも優れたところがあるのに」
 思った事、感じた事をそのまま言葉にする一保は、人とぶつかりやすいところもあった。おれの考えや方法に少しでも違和感を覚えるとすぐ議論をふっかけてきたし、納得できるまで決して引き下がらなかった。こと仕事のことに関しては、絶対に譲らなかった。空気をよんで、なんとなく前例踏襲で、なんて役所のルールは、あいつの頭にはなっから無かったに違いない。上司であろうが先輩であろうが、違うとおもったことは真っ直ぐ指摘した。それなのに煙たがられたり嫌われたりしないのは、あいつの意見がいつも正しくて言われた人間が納得せざるを得なかったから、というのと、誰しも許してしまう愛嬌、天性の魅力があったからだろう。生意気だと捉えられてもおかしくないはずの言動も、自分を慕ってくる可愛い部下からのものなら、受け入れてしまう。他人と線を引いて距離を置いたり、表面的なことを言ってその場をやり過ごすことに慣れているおれたちからすると、一保はとてつもなく新鮮で、鬱陶しいのにかわいくて、目が離せなかった。
 もちろん、あいつがとても優秀な潜水士だった、というのも大きい。おれほどではないにしても、一保は努力を惜しまなかったし、誰よりも海に愛されていた。あいつが多少分を超えた発言をしても、「まあ村山ならしかたねーな、あいつアメリカ帰りだし」という意味のわからない冗談で許されてしまうのだ。なんか可愛いし、とか。あいつの顔は、どうみても可愛いじゃなくて「きれい」とか「かっこいい」の部類だと思うんだが、その感覚は理解できる。一保はまるで、耳のピンとたった、かしこくて大きい犬のようなところがある。顔立ちは猫系なのに、性質が犬っぽいのだ。人見知りせず、臆せず、堂々としていて誰に対しても自然体でやさしい。日本人らしくないといえば、そのとおりだけれど。
 一保とバディを組めたのは一年半程度で、おれが先に大阪(関空)に異動になった。あいつは半年後沖縄に異動し、おれが特殊救難隊に抜擢されて羽田に異動してきたら、今度はあいつが関空へ。保大卒はとくに転勤が多いから仕方がなかったが、それでもよく恋愛関係が続いたものだと思う。

 特殊救難隊では、心底尊敬できる上司にも出会うことが出来た。けれどあの人との出会いと別れが、思わぬ方向へと自分を追いたてたのだと、今になってみれば分かる。合田隊長。この上なく優秀で、『海保の宝』とまで言われた人。

「千葉、お前をドラフトで選んだのはおれだ。何故だか分かるか」
「いえ。何故ですか」
「身体能力もさることながら、お前の冷徹なまでの判断力の高さを買っている。うちの隊に足りないものだからな」
「恐縮です」
 直立しているおれを見て、合田隊長が笑った。
「楽にしろ。今からそんな調子では、一日もたないぞ」
 羽田にある特殊救難隊基地は、お世辞にもきれいだとは言えない。訓練はハードを極めていたし、人数が少ない分人間関係も濃かった。どちらかというと苦手な組織風土ではあったが、憧れの人物の下で働けることは全てに勝る。
 合田隊長は穏やかですこぶる頭がよく、仕事を離れると面倒見もいい、兄貴肌のひとだった。仕事の教え方は厳しくて、懇切丁寧に指導をしてくれるというわけではなかったし、怒ると無言で蹴られたりもしたが、この人よりもすごい潜水士はいないのだと分かっていたから、全く苦にはならなかった。

 

 

「そういえば、関空にいる村山一保は同期か?」
 あるときそう尋ねられて、一瞬答えに詰まったあとで「はい」と答えた。何かあったんだろうか、と心配になったが、顔には出さない。お互いに仕事が忙しいうえに常に遠距離で、月に1、2回しか会えていないから、最新の状況は正直いってわからない。
「そうか。最近の記録会で、いい成績を残したらしいな。ただ、トッキューに来たいわけではないと本人が言っていたらしいので、どんな奴か気になって」
 怒るだろうか、と思ったが、合田隊長は楽しそうに笑っていた。目つきが鋭いのに笑うとやさしい顔つきになるので、そのギャップで女性にも人気が高い。たしかに、いつも優しい男よりも刺激があっていいかもしれない。
「あいつ、生意気なこと言って…!すいません。仲がいいんです、寮では隣同士で。…そういえば、明日東京来るらしいんですが…もしよかったら、一緒に飲みませんか?」
 ふつうのヤツなら、絶対に誘ったりしない。せっかく一保とふたりきりで会えるのだ。
 けれど合田隊長は違った。この人に一保を紹介することは、おそらくこれから先の、あいつのためにもなるだろうと思ったのだ。『圧倒的な実力』がある人間の話を直接きく機会なんて、そうそうないのだから。
 どうやら、合田隊長も一保に興味があったらしく、「迷惑じゃないなら、行くよ」と笑った。迫力のある眼が細められて、おれもつられて笑う。
 待ち合わせはJRの新橋駅にした。先に来ていた一保が、おれたちに気付いて手を上げたとき――合田さんが、ひどく動揺したのが分かった。
「はじめまして。千葉とは同期で、村山一保といいます」
 人懐こく右手を差し出す。合田さんは息を飲み、一保を凝視してから、何事もなかったように「特殊救難隊の合田だ。ウワサはきいてるぞ」と一保の手を握り返した。
 きっかけはその飲み会だったけれど、一保はすっかり合田隊長のことをすきになったみたいだった。話題が豊富で、酒を飲むとユーモアもあって、確かに楽しい。…おれと違って、大人の落ち着きというか、ムードもある。
 知らない間に彼等は連絡先を交換して、ときどきふたりで飲みに行くようになった。おれは、尊敬する先輩をとられたことを面白くないと思えばいいのか、それとも恋人がほかの男と飲みに行くことにやきもきすればいいのか困惑しながらも、受け入れていた。嫉妬が心を焦がしそうになると、必ず夢をみたのだ。いつもの夢…一保を家に閉じ込めて、縛って、犯して、殴りつける夢。謝って許しを乞うまで暴力をふるい続ける、恐ろしい夢を。
 そうして半年が過ぎた頃だった。
 合田隊長の遊び相手だった男のうち、ひとりが、刃物を持って乗り込んできたのは。

 

 

 

「そんな、辞めるなんて…誰も止めなかったのか!?」
「随分慰留したらしいけど、あそこまでウワサになっちまったら無理だろうな。もう、出勤するのも難しいよ、あれは」
「おかしい、おかしいだろ。なんで、男と付き合ってるってだけで、仕事失わないといけないんだよ!?納得できない、絶対おかしい」
 憤りで顔を赤くしている一保を抱きしめながら、おれは、何を言えばいいのか分からなかった。「そうだよな」とか「くやしいよ」とか、そういうことを言っていた気がする。
 あの人に命を救われたひとは数えきれない。おそらくこの先も、合田隊長を超える人は現れないだろう、…それほどの人物だったのに。最終的に組織は、彼を切り捨てた。依願退職だったけれど、辞めさせられたのも同然だった。様々な憶測や悪口が行き交い、彼の功績は忘れ去られ、いなかったような扱いになるまで、一年もかからなかった。
 そして事態が落ち着いたころ、おれは改めて自分の置かれている状況を考え、戦慄した。
 あんなに貢献した人でも、こうなる。もしもおれが一保と付き合っていることがバレたら?おれは、どうなるんだろう。そして一保は?
 同じころ、組織内でのいざこざや度重なる肺気胸で、一保が退職すると言い出した。口には出さなかったが、合田隊長のこともあったと思う。
 長い付き合いの中で、会いたい日、声が聴きたい日に側にいないことが辛くて、浮気めいたことをしたことはあった。けれどそれはいつも遊びにすぎなくて、傷ついているのになんでもない風を装う一保を見ては、安心していた。おれはまだ愛されているんだ、と確認していた。酷い遣り方だと、みんなは言うだろうけれど。

 

 

「千葉。村山を、大切にしろよ。おれが言うことじゃないと思うかもしれないが…」
 郷里の小笠原諸島に帰るという合田隊長を見送りにきたのは、おれひとりだけだった。合田隊長がおれにしか明かさなかった、というのもある。
「はじめて会った日、驚いたよ。どこかで会ったような気がして、なぜか懐かしくて」
 遠い目で、合田隊長がささやく。東京港の天気は曇っていた。雨が降らなければいいのに、と思いながら、差し出された右手を握った。
「知っていたんですか」
「わかるよ。おれも同じだから」
 同じ、というのは、男が好きだから、という意味だろうか。顔を上げ、短い髪が海風に揺れるのをみつめた。
 合田隊長は、どこか満ち足りたような、ほっとしたような顔をしていた。
「…おれは、初めてあいつに会ったとき…クサいですけど…運命かなって思いました」
「村山は本当に、良いヤツだ。おまえにはもったいない」
「そうですね」
 にこっと笑ってから手を上げて、合田隊長が船に乗り込む。連絡してくださいね、と叫んだおれに返事はせずに、おどけた声で言った。
「村山泣かせたら、取りに行くぞ」
「わたしませんよ!」
 そう、誰にも。絶対に誰にも、あいつを渡したりしない。この関係を誰にも邪魔されずに続けるためなら、なんだってする。

――そうして選んだ手段が、結婚だった。こうすればもう、誰かに疑われることも、仕事に支障が出ることもないと考えた。それなのに。

「おまえなんか、きらいだ」
「一保…」
 あの綺麗な眼が、もうおれをみても、笑わない。
 でも諦めない。おれには、お前しかいないんだ。どうして分かってくれないんだ、どうして。
 かなしげに歪んだ目から、涙が落ちる。どんなにつらいときも涙を見せなかった強い一保が、おれに無理やり抱かれて、泣きながら拒絶する。犯しているのはおれなのに、心が痛い。こんなことをしたかったわけじゃないのに、と縋りつきたかった。違うんだ、おれは、ただ。
 肌がぶつかる音がする。それに押し殺した鳴き声も。意識は遠ざかっていくのに、下半身だけは痺れるように気持ちがいい。
「千葉…」
 はっとしたのは、一保のてのひらが伸びてきて、頬をなぞったせいだった。気づかないうちに、おれは泣いていた。こどもみたいに、ぼろぼろ涙を落として。一保の指が、震えながらもおれの頬につたう涙をぬぐう。
 彼は息も絶え絶えになりながら、こう言った。

「ゆるすから、泣くな」