15:リンドウの花言葉は、「悲しんでいるあなたを愛する」

 引っ越しました。
 海の写真にひとことだけ添えたハガキが、握りしめた拳のなかでくしゃくしゃになっている。
「すっげー揺れるな、この家…」
 千葉が耳もとで囁き、肩の上に抱え上げた太腿を舐めた。折りたたまれたじぶんの膝が頬に当たりそうで目を閉じる。何も考えたくない。
「でもなんか、畳の部屋に布団でセックスって…燃えるな」
 抜き差しを激しくしながら、千葉が歪んだ笑みを浮かべた。身体を反転させられて、後背位に体位を変えられる。縁側で風に揺れている風鈴の音と、まばゆい光。まだ正午も迎えていない日曜の午後、突然やってきた千葉は挨拶もそこそこにおれを押し倒して行為に及んだ。まだ畳んでいなかった布団に転がされ、大きく開いた窓を閉めようとするのも阻まれて、おれは声を殺して時間が過ぎるのを待った。
 先日助けた老夫婦は結構な資産家で、海辺にいくつかの土地と家を所有していた。おれが住まわせてもらうことになったのは、彼等の住んでいた家の離れで、木造平屋建ての古い家屋だ。家自体はとても古いけどよく整備がされているし、水回りは改築済なのでおもっていたよりも住みやすい。庭と縁側のある家は憧れだったから、本当はここに成一やなっちゃんやなおちゃんを呼んで、ホームパーティでもやりたいところだ。…今は取り込み中だから無理だけど。
「あ、…ッ、や、いやだ、…あ!」
 後ろから腕を引かれて、ガツガツと腰をぶつけられている。肌のぶつかる音ときくに堪えない水音が自分の身体からきこえる。嬌声というよりも悲鳴に近い声は、次から次へとこぼれおちた。腰を持ち上げられ、うつぶせに突きだしているこの姿は、さぞかし滑稽なことだろう。
 後ろから犯されると、吐き気はこみ上げてこなかった。代わりに、振り返ってみても、誰と何をしているのかよく分からなくなってくる。顔のあたりが黒くぼやけて、幽霊みたいに霞んで見えて、おれは今誰と何をしてるんだろう、と他人事のように感じた。
 ローションやいろいろなもので濡れた足は膝をつき、猫が伸びをしているようなポーズのまま、硬くて熱い千葉の性器を受け入れている。唇が落ちてきて背筋をたどり、うなじに吸い付いて痕を残す。痕を残すな、という主張すらもう面倒で、おれは何も言わずに自分の快楽を見つけるべく集中した。気持ちのいい場所を擦られ、突かれて、みだらな声が漏れるのをためらいもせずに。
「一保…っ」
 せっぱつまった声と一緒に、髪を掴まれて後ろに引かれた。突然うしろから引き抜かれた性器が顔の前ではじけて、額や、鼻筋や頬に勢いよくかけられる。精液が放つ青い匂いと髪をひっぱられる痛みに、うめき声を上げた。顔を逸らして千葉がキスをしようとするのを回避したら、眉をひそめて舌打ちされた。ざまあみろ。一矢報いたとはとても言えないが、少し胸のすく思いがした。
 深いためいきを何度かついてから、千葉がおれの身体から離れていく。何度言ってもコンドームをしないのは今にはじまったことではないが、既に心の離れた相手から顔射されるのは、筆舌に尽くしがたいものがある。つまり最悪の気分だが、息をつく間もないほど激しく抱かれたので、すぐに立ち上がって風呂にいく元気が残っていなかった。
 枕元においてあるティッシュを何枚か抜いて、顔と尻の間を拭った。会うたびにセックスばっかりしてくる彼氏持ちの女の子だって、きっとここまで酷い気持ちにはならないだろうな、と他人事のように分析する。今おれは、控えめに言ってダッチワイフ以下だ。いっそ心をうまく殺してしまえればいいのに。それが出来ないからいま死にたい気持ちになっているわけだけど。
「ビールもらったぞ。風呂沸かしといた」
 ありがとう、とでも言ってほしいのか、裸で頭にタオルをかぶった千葉がおれの側にやってきて、指で頬にさわろうとした。その手をバチンと音がなるほど強く跳ね除けてから、無言で風呂に飛び込む。…いや、とびこむという表現は間違っているかもしれない。よろめきながら風呂に行く、という表現のほうが正しい。シャワーヘッドから湯が出てくるのすら待てずに、つめたい水で頭から丁寧に洗った。今日は中に出されなくて良かった。殴られなかったのもホッとした。痕が残るといろいろな人間に心配をかけることになるし応答するのが面倒なのだ。…髪を掴まれた時はゾッとしたけど。
 全身をくまなく洗って湯船に浸かりながら、イけなかったことを思い出した。中を突かれると生理的に興奮して気持ちよくはなるけど、ここところ、ちゃんと絶頂できていない。考えてみれば好きでセックスしてるわけじゃないから当然か。……愛情とセックスの気持ちよさなんて無関係だと思っていたのに。
 自分に同情しそうになって、慌てて顔を洗った。
 風呂を出て頭を乾かしていると、9月の下旬だというのに高い気温のせいで、ふたたび全身に汗をかいてしまう。鏡の前で跳ねた短い髪を少しでもおさめようと悪戦苦闘してから諦めて、Tシャツとジーンズで居間に戻った。畳の居間には丸いちゃぶ台と座布団とテレビしかない。――縁側と、中庭の豊かな緑がなければ、我ながら殺風景すぎる部屋だと思った。
 飲み終わった空き缶を潰した状態でテーブルに置いた千葉が、気だるげにこちらを見た。その眼には、さきほどまでちらついていた欲情や残酷さといったものが一切なく、縋るような、推しはかるような感情が浮かんでいる。
 千葉をみていたくなくて、ふたたび視線を庭に投げる。物干し竿にぶら下がっているウェットスーツと、靴下。立派な木蓮の木は、初秋の風に吹かれてさわさわと葉を揺らしていた。嗅ぎ慣れた海のにおいに目を細め、千葉から離れた場所に座る。壁にもたれてビールを飲み、くしゃくしゃになった引っ越しを知らせるハガキを眺めた。

『いい家が見つかってよかったけど…おれはちょっとさびしいな』
『わたしも。…遊びにいって、いいですか』

 ふたりして、喜ぶよりも心細そうな、寂しそうな顔をして手伝ってくれた引っ越しの日を思い出すと、自然と頬がゆるんだ。つい先週のことだというのに、遠い昔のことみたいに思える。
 いつでも来いよ、とは言えなかった。彼等はおれを助けてくれたのに、おれは…。
「星野成一って、兄貴がいるんじゃないか?」
「お前の口から成一の名前をききたくない」
 顔を上げて睨み付ける。おおこわ、とおどけた千葉が立ち上がっておれの隣に座り、頬に落ちていた髪をそっと耳にかけた。――以前までなら、すごく胸がときめくようなしぐさだったけれど、今は違う。腕をつかんで押し返すおれの頑なさに、千葉の機嫌は急降下した。
「ふつうの話もできないのかよ」
「ああ、おそらく普通の関係じゃないからだろうな。覚えてるかどうかしらねえけど、お前はおれを脅迫してセックスを強要してるわけだし。どうして仲良く楽しくお話できると思う?」
 言葉と比例して凍りつくような顔をしていたに違いない。千葉は息を飲み、痛みをこらえるような顔をした。
「どうして、いままでみたいにできないのか分からないんだよ。結婚は形式的なものだって言っただろ。おれが好きなのは、お前なんだよ。それなのに…」
 手が伸びてきて肩をつかまれ、畳に押し倒される。
「ひ…やめろ、どけ」
 覆いかぶさられる恐怖から、小さく悲鳴のような声が漏れてしまって悔しい。
「……夢をみるんだ」
 数センチの距離で、千葉がささやく。低い声に、背けた視線を引っ張られた。
「おれが、お前を…殴ってる夢。どうして電話をしないんだ、とか、どうしてあいつと親しげに話すんだ、とか、くだらねえ理由でお前をなぐったり蹴ったりしてる夢。おれはそれを、こんなひどい事しちゃいけないって思うのに、心のどこかで、羨ましいっておもいながらみてるんだ。お前はいつも謝ってた。夢の中でおれは、ごめん、もうしないから、って言って…それで、お前を…強姦するみたいに抱くんだ。何回も何回も。目が覚めたら全身に汗をかいててさ、夢とは思えない手ごたえとリアリティが残ってるんだ」
 戦慄した。
 千葉の見ている夢は、2回目…つまり、1度やりなおしたあとの世界と同じだった。
「お前と親しくなってすぐの頃から、何度も何度もその夢を見た。恐ろしくて…おれは、絶対そんなふうにはならないって、お前を束縛したり暴力をふるったりしないって、決めてた。多分、お前だけにしたら同じことをする気がしたから、女作って…いつも、のめり込みすぎないようにって、おもってた。けど結局、おれはお前を殴った。傷つけて、怖がらせてる」
性懲りも無く、心が揺れた。
 千葉も、間違えていると分かっている。愛し方を、大切にする方法を、間違えているのだと知っている。それなのに突き放すことができないのは、それが千葉自身のせいだと思えないからだった。あるいは彼が得られなかった両親の愛情のせいだったし、あるいは何度もやりなおしたおれのエゴのせいだった。
「おれはもう、逃げない。逃げたりしないから、成一やなおちゃんを脅迫の材料にしないでくれ。それさえ約束してくれたら、…なるべく、前みたいにするから」
 おれの哀願に、千葉は目を瞠った。
「そんなに、あいつが好きなのか」
 唸るような声だった。どうして、と言う声が上手く出て来なくて、押し倒されたまま見上げることしかできない。
「違う…そんなんじゃ」
「嘘をついても無駄だぞ。どれだけ一緒にいたと思う?」
 皮肉っぽい物言いはわずかに震えていて、その意味が分からなくて戸惑う。
「やめておけよ。星野兄弟は特殊救難隊のときに何度かかかわったことがある。どっちも有能で、いいとこの子ってやつだ。ああいう奴らはだれにでも親切にしていい顔をするのがしみついてるんだよ。ちょっと優しくされてその気になったんだろ、お前が傷つくことになるだけだぞ」
 言っていることは身勝手で、『お前がいうな』そのものだが、千葉の顔は気遣わしげで真剣だった。反論がでてこない。自分を棚上げした発言でも、内容はただしい。
「おれが結婚してるとか、子どもがいるとか、そんなことどうでもいいだろ。おれが一番お前のことを分かってるし、お前だってそうだ。――元に戻ろう、一保。寂しい思いをさせないようにする、だから…な?」

 ひとりは、さびしいだろう。
 誰も自分を好きになってくれない、さわってくれない、それに比べたら…。

 弱い心が悪魔の顔をしてそう囁く。その顔は千葉じゃなくておれだった。もしかしたら一生ひとりで生きていかなければいけないかもしれない、という恐怖を、千葉で、千葉といることで誤魔化そうとしている自分の顔だった。
 互いに言葉を発さないまま、風の音だけが耳を叩いて消えていく。
 沈黙を打ち破ったのは、おれでも千葉でもなかった。
「勝手にひとの気持ち、決めないでもらえますか?」
 部屋の入口から、聴き慣れた声。柔らかくて、やさしい、安心を誘うあの声だ。
「とりあえず、そこをどいてください」
 拳を握りしめたままズカズカと部屋に上がり込んできた成一は、その勢いのまま、千葉を横から蹴り飛ばした。

 千葉を追いかえしてから30分ほど過ぎた今でも、成一は縁側に座ったまま庭を眺めている。
 正午を過ぎた時点で腹が鳴って、おまけにセックスのあとで喉も乾いていたので、水出しコーヒーとホットサンドを作って縁側に置き、少し離れた場所におれも座る。何か、なんでもいいから、言ってくれないかなと思った。あの言葉の意味とか、約束もしていないのにここに来た理由とか、今日はやけに天気がいいねとか、もうなんでもいいから。
 訊くのが怖くて、同じように庭を眺めていた。しばらくそうしていると、成一がアイスコーヒーにミルクを入れて静かに飲み始めた。
 おれはサンダルを履いて、庭の草木に水をやった。ジャスミンの木、木蓮の木は元から家主が植えていたものだ。自分で育てたのは、壁沿いの朝顔。もうほとんど花は閉じてしまっているが、おれは昔から朝顔が好きだった。
 あとは日差し避けの意味もこめて、網をはってゴーヤも育てている。緑のカーテンと呼ばれて官公庁などではよく窓際などで育てられていたやつだ。つるや葉が網を伝って伸びていくので、眼にも涼しいし食べることもできる。
「…暑いね。いつになったら涼しくなるんだろ」
 目を細め、ぐったりとした声で成一が言った。
「そうだな。冷やしそうめんとか冷やし中華のほうが良かったか?」
「いやそうじゃなくて……美味しいよ。ありがとう」
「どういたしまして」
 間の抜けたやり取りをしてから目を合わせ、ふっと笑い合う。情けないような、哀しいような笑みだった。多分、おれも同じような顔をしていたと思う。
「ひとに暴力をふるうのなんてはじめてだよ。でも我慢できなかった。ごめんね」
「おれに謝ってもらってもな」
「千葉さんには死んでも謝らないけど、一保さんの前であんなことしたくなかった」
 だからごめん、怖くなかった?そう言って成一が項垂れたので、頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
「バーカ。おれのために怒ってくれたんだろ。嬉しかったよ」
 言いながら気になった。千葉とのやりとりを、どこからきいていたのだろう。確認する勇気は残念ながら出てこなかったので、縁側に腰掛け、足をぶら下げたまま横になった。板張りの天井にはところどころシミがあって、もしかして雨がひどい日は雨漏りするのかな、と関係のないことを考える。
「あのさ、」
「ん?」
 腕に頭をのせたまま、隣にいる成一を見上げる。整った横顔だ。そばかすのある鼻筋はすっと通っていて、パーツのバランスがいい。
 上品に整っているが故に地味な顔立ち。それを華やかなものに変える琥珀色の眼は伏せられたまま、言いにくそうに唇を開いたり閉じたりしている。
「おれと付き合ってることにしたらどうかな?」
 意を決して、という顔だった。
 成一も横になって、数センチの距離で目が合う。眼の色よりも少し暗い前髪が、おれの額にあたっている。
 ……ん?今なんていった?
「ちょっと待て。どういう意味だ今の」
「だからさ、おれと付き合ってることにしたら、千葉さん諦めてくれるんじゃないの」
「誰が」
「一保さんが」
「誰と」
「今この場におれ以外いる?」
「……」
 ぽかんと口をあけて成一を眺めた。すると至って真面目な顔で、「真剣にきいてよ」と怒られる。
「たぶん、千葉さんは『なんだかんだいいながら、一保はおれのことが好きに違いない』って思ってるんだよ。強引な態度に出れば、一保さんがゆずるって思ってる。どうせアレでしょ、おれとか野中さんを脅迫の道具にされたんでしょ?職場にあることないこと言ってやる、とか酷いめに合わせてやるとか…なんかよくわかんないけど。おれそういう考え理解できないし」
 でも怒ってるからね、と成一が低い声で言った。
「相談もしないで、とりあえず言いなりになっておけばいいやって思ったんでしょ。それが既に相手に支配されてるって証拠だよ。思考の幅が狭くなって、相談しなくなる。典型的なDV被害者だよ。ちょっと考えたら、そんな脅しなんでもないって分かるのに」
 息を飲む。……成一の眼に、ほんの薄くだけれど、涙がたまっているように見えたのだ。
「おれを一保さんの恋人にして」
 そうしたら、側にいる口実ができるでしょ、と微笑みながら成一が言った。
 どうしてそこまで、という言葉が喉元まで出てきて、慌てて飲み込む。「DV被害者の」「友達を助けるため」に決まっている。
 それなのに、言葉に込められた真摯さと、熱っぽい眼差しに心臓がうるさくなった。
「おまえはバカか」
 キレのないお笑い芸人(出川)の物まねをみて、成一がふきだす。
「全然にてないし、やめたほうがいいって。きれいな顔が台無しだよ」
「うるせえ。ウソをついてまで守ってくんなくていい。自分の身は…」
「自分で守る……が実践できてたら、こんなこと言わないです」
 身体を起こそうとすると、成一の両手が伸びてきて肩に置かれた。鼻先が触れそうな距離に目を逸らすと、困ったような声で「こっち、見て」と囁かれる。無理だ。見られないし見られたくない。両手で顔を覆ったおれに、成一が「…嫌?」と問いかけてくる。
「嫌とか、良いとかじゃなくて。お前……ちゃんと考えてんの?」
 手で顔を覆っているせいで、声がくぐもってしまう。
「え、何を?」
「要はあれだろ、千葉と正面から向き合って、おれと付き合ってるからもう来るな、とか言うつもりなんだろ!少女マンガじゃあるまいし、上手くいくわけないだろ。そんなことしてお前の職場に言いふらされたらどうすんだ、ホモの友達がいるとか男と付き合ってるとか言われて陰口叩かれて苛められて出世できなくなったら。おれは何を言われようがなんなら毎日犯されようが別に平気だ、でもお前が、おれのせいで不利益を被るのだけは、絶対に嫌なんだよ!!」
 身体を起こして絶叫すると、成一が目を丸くしてから「くはっ」と笑った。
「おれ、そんなに弱くないよ。大丈夫、ちゃんと考えてるから」
「考えてるって…」
「シンプルさ。目には目を。脅迫には脅迫を、ってね」
 なんだか恐ろしい答えが返ってきそうで黙り込む。すると身体を起こした成一が、「返事は?」と問いかけてきた。
「一保さん、おれと付き合って下さい。…返事はイエスorノーでお願いします」
 どこに隠していたのか、鮮やかな青いリンドウの花を差し出す。ふざけているにしては声と眼が真剣で、心を打たれてしまった。
「……キスしてくれたら付き合う」
 こぼれ出てしまった本音を押し戻そうと、慌てて口をおさえたがもう遅い。気が動転して、アワアワと視線をさまよわせながらごまかし方を考えた。そうだ、逆切れしてやろう。「な、できねえだろ?そもそも、恋人って何すんのか分かってんのかよ、お前は!」と逆切れして有耶無耶にしてやろう…
 口を開いて正面を見ると、すぐそこに成一の顔があった。
 わずかに傾いた顔が近づいて、唇が重なる。
 顔が熱い。後頭部に添えられた手のひらが、髪の毛をかき混ぜるみたいに、ゆっくりと撫でてくる。触れて、離れてから、逆の腕でぐっと抱き寄せられた。とっさに閉じた眼を薄く開くと、成一が苦しそうな顔で、じっとおれを見つめているのが分かる。どうしてそんな眼で見るんだよ、と問い詰めたくなったけれど、キスが深くなるにつれて、何も考えられなくなった。背中を撫でる手のひらの熱さと優しさに、閉じた瞼の裏が濡れる。

 誰かに――こんな風にやさしく、大切に触られたのは初めてだった。
 ウソでもフリでも、なんでもいい。
 できることなら、ここ最近のつらくて、悲しかったキスを全部、これに塗り替えたい。

 風が吹いて、風鈴がちりんと音を鳴らした。手を伸ばし、成一の背中に腕を回す。彼の着ているシャツが、おれの手のひらの下でくしゃりと音をたてて皺になった。縋るようにシャツをつかむと、強く抱きしめられた。
 何かを振り切るように、両手が肩をつかんで身体を離された。成一の顔を見るのが怖くて、俯いたまま息が整うのを待った。情けないけど、腰がくだけてしまった。年下の男にキスされてこんなにフニャフニャになるなんて(それも恋人のフリであって恋人ではない男に)、村山一保29歳、一生の不覚だ。
「…キスしたよ。こっち、向いて」
 おそるおそる、視線を合わせる。頬を少し紅潮させた成一は、今まで見た事がない顔をしていた。怒ってるみたいな、でもちょっと楽しいみたいな、不思議な顔。
「わかった。…いいよ、付き合おう」
 リンドウの花を摘んでおれの耳の上に差し込んでから、成一が破顔した。少年みたいな顔で笑うから、おれもつられて「なんだよ」と悪態をつきながら微笑んでしまう。
「いま、すごく可愛い顔してた」
 前もきいたことのあるフレーズを吐く。くそ、と思ったが、花を髪に差されるなんてロマンチックなことされたことがなかったので、悔しいけど…本当に悔しいけど、……はちゃめちゃにときめいてしまった。
「カワイイわけあるか!おれはお前より年上だっつーの」
「そうやってムキになるところがまた可愛いんだから困る」
「ムカつく殴る」
「顔はやめて!」
「芸能人か」
 このバカげた恋人ごっこが、どこに向かうのかは分からない。…いや、結末は分かっている。千葉ときちんと別れることができたら、ありがとうサヨウナラ、だ。
 成一は基本的に異性愛者で、おれとは違う。近くなればなるほど、一緒にいればいるほど、のめり込んでしまうことは目に見えていたのに、どうして受け入れてしまったんだろう、と後悔の念が生まれた。
 例え「付き合っているフリ」であったとしても、成一はきっとおれを大切にしてくれるし、尊重してくれるだろう。――あくまで、ひとりの人間として。おれは、彼と将来を共に生きる伴侶になることはできない。
 でも、成一となら、自分自身が変われる気がする。何度も失敗して、行き詰っていた未来を、変えることができるかもしれない。
 遠くない未来にやってくる別れを考えないようにして、縁側に置いてあったリンドウの花をもう一つ摘んだ。成一の髪に差し込み返してやると、成一は、胸が痛くなるような大人びた笑みを浮かべて「一保さんは、花が似合うね」とつぶやいた。