(番外編)一保さんのタオルケット

 一保さんは、匂いのするものを身につけない。
 香水が一番いい例だけど、ハンドクリームだって無香料だし、洗剤も柔軟剤も香り無し。いまどき香りのついていないものを探すほうが難しい気がするけど、そのあたりは「ネットでまとめ買い」しているのだそうだ。
 理由をきいて、なるほどなと思った。彼はバリスタだ。コーヒーの香りを邪魔するものはなるべく排除しているのだという。そのプロ意識を伺ってすぐ、「きっと優秀な潜水士だったんだろうなあ」と過去の彼を想像して切なくなった。
 海を第二の家のように愛している彼が、船を降りた日。
 あのろくでなしの恋人は側にいてあげたんだろうか?

 

 

「なあ成一、たまにはブラックで飲んでみれば?」
 彼の店に頻繁に訪れるようになってから、ひとつきほど経った頃だった。
「本当の香りを楽しむには、ブラックが一番いいからさ」
 はじめて彼を見たとき心惹かれた、猫のような眼が笑った。彼が笑うと、周囲の温度が1、2度上がる気がする。それはたぶん、目鼻立ちがはっきりしているだけじゃなくて、表情に華やかさがあるから。
「これ飲んでみろよ。金取らないから」
 白いカップに半分ほど入ったブラックコーヒー。キッチンから伸びてきた腕には、時計の日焼け痕がみえる。つけているところに雑菌が繁殖するから、という理由で、一保さんは仕事中決して時計もアクセサリーも身につけない。だから、この痕は潜水士として救助活動をしていたころにできたもので、ダイバーズウォッチをつけていた部分だけ白いのだ。
「そうだよ星野くん。村山くんのコーヒーにミルクいれるなんて、もったいないよ」
 カウンターの一番端がいつの間にかおれの定位置になっていて、よく店にくる人は友達みたいになりつつある。
 いちばんよく顔を合わせる仁木さんは、最近会社を早期退職したひとで、彼いわく「バリスタ村山一保のファン」なのだそうだ。顎髭をきれいに整えた仁木さんは、いかにもダンディですてきなおじさまなので、若い女性のみならず男性までファンにするなんて一保さんもやるな、と感心する。
「だって苦いんだもん」
「まあ騙されたと思ってさ。あ、そういえば仁木さん、娘さんとは仲直りしたんですか?」
「あんなバカ娘の話はよしてくれ。ここでコーヒーを飲んでる間だけは、悩みなんか忘れたいんだ」
 話していても一保さんの手は止まる事がない。店全体を良く見ていて、身のこなしが俊敏でみていて飽きない。
 おもいきってカップを口元に運ぶ。……確かに、おもっていたほど苦くなかった。酸味も少なく、それなのに香りがよくてとても飲みやすい。
「これなら飲めるかも……」
「だろ。探したんだぜ~。でな、それカフェラテにしてもすっげー美味いから」
 目が合うと微笑まれる。ぎゅっと口角の上がる口元につられて、おれもわらった。
「いらっしゃいませ」
 ドアベルが鳴って、また誰かが入ってきた。一保さんはいつも、「おれの代わりなんかいくらでもいるから、一番にリストラしてくれって言ってるんだ」とか言うけど、この店の売り上げは半分以上一保さんの魅力でもってるんじゃないだろうか。
「なんだよ、じろじろ見て」
 眉を寄せて、一保さんがおれを睨んだ。本当に表情が豊かだ。さっきまで笑っていたと思ったら、五秒後には眉間に皺を寄せている。――もちろん、そんな顔をみせるのは「友達」のおれだからだけど。彼はお客様には徹底的に愛想がよく、礼儀正しい。
「いや、このお店って一保さんのかっこよさで持ってるよなあと思って」
「よく分かってるじゃねーか!もっとほめていいぞ」
 近くでアルバイトの新見さんが吹き出している。胸を張っている一保さんはバカだけど可愛い。これで年上だというのだから、驚いてしまう。どう考えても子どもっぽいだろ、この人。
 いまとなってみれば、一保さんの無邪気で子供っぽい言動はいわゆる「防御壁」だったのだと分かる。もちろん、明るくてはつらつとしているのは彼の素でもあるけれども。

 

 

 水泳を教えてくれているとき、ふたりでお酒を飲んでいるとき。ふとした瞬間、一保さんが遠くをみていることがあった。その視線の先は海の向こう、遠く地平線をとらえていて、すぐそこにいるのに、どこかに消えてしまうような気がして怖くなる。
「一保さん」
 名前を呼ぶと、すぐに振り返ってくれる。健康的で、その場がぱっと明るくなる笑顔を浮かべて、「どうした?」と問いかけてくれる。
「あのひとの、どこがそんなに好きだったの?」
 ききながら、バカな質問だと自嘲した。もし誰かに「六人部隊長のどこがすきだったの?」ってきかれたとして、おれはうまく説明する自信がない。尊敬して、近づきたいと願い、いつの間か恋に変わって、と経過なら説明できるけれど、どこが、といわれるとうまく言葉で表現できない。多分、それが愛とか恋とかいうやつなのだ。
 引っ越すことにしたから。世話になったな。
 そんな簡潔な言葉とともに手渡されたお礼の品は、コーヒーメーカーと彼が選んだコーヒー豆だった。うれしい、ありがとう、というお礼を言ってすぐに、胸の奥にわけのわからない哀しみと混乱が押し寄せてきた。泣きたいような、怒りたいような、変な感情だった。かつて好きになった人に対して、こんな想いを抱いたことはない。失恋してすぐなら、似たような感情に悩まされたけれど(直近で)。
 どうしていいのか分からなくなって沈黙していたら、一保さんが「また、遊びに来ていいか?」と遠慮がちに問いかけてきた。おれは立ち上がって、ソファに座っている一保さんのすぐ側にひざまずいて、「当たり前でしょ。というか……突然過ぎてさびしい。いつまでだっていてくれてもいいのに」と声をかけた。
 見下ろしてくる一保さんの眼が揺れて、逸らされる。ああ、きっとあのろくでなしクズ男のせいなんだな、とおれは直感した。こんなに急に引っ越すなんて、どう考えたっておかしい。「いつでも遊びにこいよ」って言ってくれないのも、変だ。なんとなくみえてきた事の顛末に、おれは、頭の中が沸騰するような怒りを感じた。でもそれは不当な怒りだった。おれは一保さんの友達ではあるけれど、恋人や家族じゃない。彼の恋愛や生活スタイルにズカズカと入り込めるほど、認められている立場ではないのだ。
 自分の心を宥めるために、深呼吸をしてから問いかけたのがさっきの質問だった。どこがすきなの、って。自分でも、なんだか笑えてくる。学生のコイバナじゃないんだから。案の定、一保さんも困ったような顔で黙ってしまった。こんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「どこが……そうだな、いろいろあるけど…」
 ネコ科の野生動物を思わせる、しなやかな身体を伸ばしてから、一保さんが笑った。
「あいつになら、哀しいことをされてもいいとおもえるぐらい、全部すきだった」
 飾らない言葉で、一保さんが囁く。そのことば、ひとつひとつが、胸に突き刺さったように痛みを呼んだ。どうしてだか分からない。分からないけれど、――泣きたくなった。
「バカだろー?笑っていいからな、殴るけど」
「あはは、どう考えてもダメ男ホイホイ…いたいっ、顔はやめて!」
 どうして、そんな風にやさしいことを言えるんだろう。殴られたり、意に沿わないセックスを強要されるなんて、恨んでも当然なぐらいひどいことなのに。
「ダメなところなんか、誰にでもあるだろ。おれにもあるし、あいつにもある。恋愛でも結婚でも、何かがダメになったとき、片方だけが100%悪いことなんてありえない。成一のおかげで、おれが悪かったんだ、おれのせいだ、とまでは思わなくなったけど、それは変わらないだろ?よかったことや、いい思い出まで全部ダメになっちまうわけじゃない」
 あなたはやさしすぎる、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。やめちゃえばいいのに。何を言われようが、どれほど追い縋られようが、蹴飛ばして、無視して、捨てちゃえばいいのに。あなたが誠意をもって接したところで、相手は変わらない、ただ搾取されるだけ。そんなの、許せない。
 一保さんは笑ってるほうが絶対いい。物憂げな顔をしていると、別人のようにきれいに見えるけれど、おれは、あなたが歯をみせて、身体を折って笑い声をあげているときのほうが好きだ。
 千葉という男が心底一保さんに惚れているのは間違いない。でもそこから先が理解に苦しむ。力付くで、あるいは精神的な脅迫で相手を思い通りにして、それの何が楽しいんだろう?好きな人を苦しめる理由が、おれには分からない。おれなら…そうだ、自分がもしも千葉さんの立場なら、どうするだろうと考える。まず、好きな人がいるのに別のひとと浮気したりしないし、結婚なんて考えられないし、あまつさえ不倫の状態で関係を続けようと暴力をふるうなんてひとことでいえばゲスの極みだと感じる。うん、やっぱり1%も理解できない。したくない。
 立ち上がって、寝室から包装された紙袋をもってくる。餞別に、と買ってきたのは、肌触りのいいタオルケットだ。めんどうくさがりで身の回りには無頓着な一保さんときたら、夏~秋にかけて重宝するタオルケットを一枚も持ってなくて、バスタオルを体にひっかけて眠っていた。おれの家に泊まっている間、これと同じものを貸していたらすごく気に入ってくれて、昼寝のときも包まって眠ったりした。
「…へんな質問してごめんね。これ、餞別にあげるよ。ちゃんと肩までかぶって寝るんだよ?」
「おわっ!これアレじゃん!!お前んちのやつ、高いんだよな!?うわ~~…ありがとう」
 大事にする。そういって胸の前で紙袋をぎゅっと抱きしめる一保さんは、ものすごく可愛い顔をしていた。いや、かっこいいんだけど、このひとは気を許した相手には、胸がはっとするような無垢な笑顔をみせてくれるのだ。
「喜んでくれてうれしい。おなかだしてねちゃダメだからね」
「だから!おまえはおれの母ちゃんか!」
 ふたり分の笑い声が、部屋の中に響いた。
――このひとを恋人にしていたのに、どうして大切にしなかったんだろう。
 千葉さんは、本当にバカだ。

 

 

 

 

 一保さんのあたらしい住まいは、古いが味のある平屋建ての木造家屋で、庭や縁側がある素敵なところだった。
 一週間前の引っ越しは、夏樹さんと共に手伝った。今日は仕事上がりに少し顔を出す約束をしていて、手ぶらではアレなので、ビールを何本か買って持ってきた。
 もう初秋だというのに、日差しの強い日だった。ドアベルを鳴らしても一保さんは出て来なくて、電話をかけても応答がなかったので、そのまま庭の方へ回った。夜中に雨が降っていたからだろう、内縁のガラス戸が閉じられていた。普段はすべて開けっ放しにして、一保さんの憩いの場になっているというから、ルックスだけじゃなくて行動まで猫みたいだなと内心笑って、音が鳴らないようそっとガラスの引き戸開き、(ガラス戸があって、今日のような雨の日は床板が濡れないように戸を閉めることができる縁側を、内縁というらしい。一保さんがドヤ顔で教えてくれた)、靴を脱いで勝手にあがりこんだ。あらかじめ、もしかしたら寝てるかもしれないから、応答がなければ入って来いと言われていたのだった。
 畳のひろい居間を抜けて、襖をひらく。瞬間、風が通り抜けて、居間の鴨居にひっかけられた風鈴が涼しげな音をならした。
 案の定、一保さんは眠っていた。おれのあげたタオルケットにくるまって、気持ちよさそうな寝息をたてていた。あのうるさくて口をふさいじゃおうかな、とおもうようなイビキが、全く聞こえなくて、規則正しい寝息と一緒に、裸の肩が上下する。何度注意しても、下の服だけ着て眠るクセがなおらないんだから、と呆れながら、背中までずり落ちたタオルケットを引き上げてやった。日焼けした、均整のとれた背中はなるべくみないようにしながら。
「日を改めようかな、起こすのかわいそうだし」
 幸せそうな寝顔を眺め、つぶやく。立ち上がってその場を後にしようとしたとき、後ろからごそごそと物音が聞こえた。
「……わり、寝てた。いらっしゃい」
――そのときの一保さんの表情が、おれは忘れられない。
 寝起きだったせいか、すごく無防備で、天真爛漫な微笑みを浮かべたのだ。…頭から、タオルケットをかぶったままで。
 気が付くと、スマートフォンのカメラを起動して写真を撮っていた。軽い機械音が鳴って、フォトアルバムの中に一保さんの画像がおさまる。寝起きでぼんやりしていた彼が、その音にびっくりして「なに、なんで撮ったんだよ」と顔を隠したりしながら慌てふためいているのが面白い。
「ごめん……なんかいま、すごく可愛い顔してたからつい」
「可愛くねーし握力86だし!!消せよ、おれいま頭ボサボサだったろーが!」
「いつも結構ボサボサだよ、大丈夫」
「へんな太鼓判押してんじゃねーよ!よーしおまえの髪の毛もむしってボサボサにしてやる」
「頭髪はむしらないで!むしるならすね毛とかにして!」
 携帯電話を奪おうとする一保さんと、死守しようとするおれ。マットレスの上を転がりながら、いつの間にかおなかがいたくなるぐらい笑っていた。
 そしておれは、笑いながら心に決めた。
 急な引っ越し。以前より疲れのにじむ顔。…なるべく見ないようにつとめているけど、ときどき項に残っている情事の痕。気づかないふりをしてほしいならそうしよう、と思っていたけれど、やっぱり無理だ。
 誰かに、知恵を貸してもらおう。…誰かじゃなくて、あの人に。
「おきたなら、一緒に朝ごはん食べようよ」
 大の字に寝そべりながらおれが言うと、一保さんが「そうだな」と楽しそうな声で返してくる。側に脱ぎ捨ててあったTシャツを着てから、台所のほうへと歩いていく。
 おれの知っている、一番賢い人に相談しよう。失恋の悔しさも、恥ずかしさも、この際どうでもいい。
 一保さんが笑ってくれるなら、くだらない見栄もプライドも、いくらだってティッシュにくるんで捨てられる。
「あとで手伝うから、電話かけてきてもいい?」
「なおちゃんか?あ、でも仕事か、今日平日だしな」
「ちがうよ。うーん、かつての恋敵かな」
「ふーん………んん!?」
 驚きで目を瞠っているであろう一保さんを置いて、おれは縁側に腰掛ける。液晶画面に表示された名前は、『三嶋顕』。かつて好きだった人が、おれじゃなくて、選んだ人。けれど恨むことも、嫌いになることもできなかった人。
 …むしろ、おれは三嶋先生のことがけっこう好きだった。恋愛的な意味ではなく、ひととして。正直、尊敬していた。
『……もしもし、成ちゃん?どうしたん、なにかあった?』
 心配そうな声に、申し訳なさがこみあげてくる。そっと台所を盗み見て、一保さんが料理に集中しているのを確認してから、おれは続けた。
「助けたい人がいるんです。探偵の雇い方と、脅迫の仕方、アドバイスしてください」
 我ながら他の言い方はなかったのか、と呆れた。久しぶりに電話しておいて、あまりに失礼だよなと反省もした。
 けれど、二の句が継げなくなったおれを置いて、三嶋先生は笑ってくれた。
『なんや、面白そうな話やねえ。今晩直接、会ってはなそか。何が食べたい?』
「なんでも、三嶋先生の食べたいもので。ごちそうします」
『それは楽しみ。実はな、こうみえて…探偵と脅迫には一家言あるんよ』
「助かります」
 もちろん冗談で言っているのだと分かっているが、三嶋先生がかつて探偵を雇って、自分の実の父親を陥れようとしていたことは事実だ。結局、実行には移さなかったようだけれど。
『じゃあ、あとでまた連絡するわ。おれ当直明けでな、ちょっとまだ眠たい』
「はい、突然連絡してすいませんでした。ご連絡お待ちしてます」
『かたい言い方やな~~!ほな、いったんおやすみ』
 つい先日みかけた、変わらないどころかますます美しさに磨きがかかった横顔を思い浮かべ苦笑する。変な意地を張って、六人部隊長が誘ってくれた飲み会を断ったことや、カフェで三嶋先生にあったときの頑なな自分の態度が思い出されて、恥ずかしくて耳まで熱くなった。ほんとうに、おれは小さいやつだ。
「電話終わったから手伝うー」
「おう、じゃあ冷蔵庫から鯖出して焼いて」
「はーい」
 自分よりもわずかに背が低い一保さんの、長い睫毛とかたちのいい唇。目が合うと、早くしろ、と顎で命令されて、それなのにたまらなく楽しい。
 おれの企みなんて知らない一保さんが、味噌汁の出汁をとって味見している。えのきと豆腐の味噌汁は彼の好物だ。
 朝ごはんの匂いに浮かれていたおれは、この時まだ、知らなかった。一保さんの秘密も、覚悟も、…今日撮った写真が二度と、見られなくなるということも。