14:あの人を傷つけないで

 大急ぎでシャワーを浴びて、無言で服を着た。その間、千葉はずっと何か話しかけてきたけど、頭の中に入ってこなかった。正直それどころじゃない。時計を見ると、スーパーの前でふたりと別れてから2時間も経っていた。
 返事をせずに身支度を整えていたら、千葉が怒った顔で肩を掴んで目を合わせてきた。壁際に追い詰められ、またしてもこみ上げてくる吐き気。覆いかぶさられることや、迫られることがダメなんて、もう一生まともなセックスはできないかもしれない。――もういいけど。当分、そんな気持ちにはなれそうもない。
「一保、一度しか言わないからよく訊けよ。電話に出ろ。都合はお前に合わせるし、おれがこっちに会いに来る。電話の時間は前と同じだ。夜の九時以降。――出なければ、またわざわざこうしてお前を捕まえにこなきゃいけないし、次は……ふたりが無事だとも限らないぞ」
 耳元でささやく声は憎悪に満ちていた。返事をするのも忌まわしくて、睨みつけてからその手を振りほどく。鋭い切れ長の眼が、逃がさないとばかりにおれを見据え、にやりと笑った。
「安心しろよ。暴力なんて足のつくことはしないさ。でも、彼…星野はおれらと同じ男社会の仕事だろう。ゲイのお前と暮らしてるなんて職場にバラされたら、どうなるだろうな。実験がてらやってみるか?」
 カッとなった。おれに攻撃するなら自由にすればいい。殴られても犯されても別にかまわない、もう今更だ。
「成一とおれは、ただの友人だって言ってるだろ!それに一緒に住んでるのは一時的なものだ、家が見つかったら出ていくんだよ!」
千葉が鼻で笑った。
「バカだな。事実なんてどうでもいいのさ。ひとは、自分が信じたいことしか信じない。面白いと思うことが真実みたいに広がるんだ、…お前もよく知ってるだろう?合田さんの件で」
 信じられない思いで、目の前にある千葉の顔をみつめた。千葉の指がおれの頬をなでて、そのまま顎の下を手の甲でくすぐる。猫にするみたいなその触り方が、たまらなく好きだった。いまは、悪寒しか感じないけれど。
「……お前の好きなんて、嘘だ。ほんとうは、おれを人として、認めてないんだ」
 涙が浮かんだ目の淵に、千葉が舌を這わせた。
「だからそんなひどいことができる。…おれの大事なものを、壊そうとしたり…そんなの、相手に敬意があったらできない」
 暗い色をした眼が、すぐ側で細められた。分かってねえな、とまた小さくつぶやく。
「認めてるさ。お前の顔や身体がうつくしいことも、情が深くて相手を切り捨てられないところも、強くあろうとする意志の強さも、尊敬してるよ」
 違う。千葉の根本には、男を好きになるおれに対して、軽蔑の心がある。そしてどこか軽んじていた相手を諦められずに追いかけていることに、プライドが傷つけられ、憤りを感じている。
 だから痛めつける。『お前はおれのモノ』なのだと、ことさらに思い知らせるために。自分の思い通りに動かなければ、ひどいことになると脅しつけて、いうことをきかせようとする。
 ただ、好きになる相手が同性だというだけなのに。愛した相手に軽蔑され、傷つけられ、ひどい扱いをしても当然だというふうに振舞われる。
悔しい。とっくに受け入れたと思っていた自分の性指向が、心の底から憎かった。おれだって選べるなら、女の人を好きになりたかった。普通に恋愛して、結婚して、こどもをつくったりしたかった。でもそんなの、どうやって選べる?おれはもうすでにこの世に産まれて30年近く生きてきた。苦しいことも悲しいことも山ほどあったけれど、同じぐらい、うれしいことや楽しいこともあった。
――その全てを自分ごと否定するには、あまりにもおれは幸福だった。
「電話かけたきゃ勝手にかけてくればいい。ヤリたきゃ好きにすればいい。…でもな、おれの周りの人を傷つけたら…そのときは、おれにも考えがある。お前の守ってるもの、大事にしてるものを、同じように傷つけてやる。ボロボロにして、二度と元に戻せないようにしてやる」
 睨み付け、胸倉をつかんだ。体がすくみそうな恐怖をなんとかおさえつけて、おれは叫んだ。
「分かったかこのゲス野郎!!」
 そのまま壁に叩きつけると、千葉がぐ、と唸っておれを見下ろしてきた。どこか嬉しそうな顔で、千葉は「そうこないとな」とささやく。
 突き飛ばして、ホテルのドアを蹴破るように出た。ドアが閉まる寸前、後ろから暢気な声で「電話にでろよ~」と千葉が言ったのがきこえて、早くその場から遠ざかりたい一心で、走って由記駅に向かう。
 強くなってきた雨の中、タイミングをはかったように携帯電話が鳴り始めた。

 知らない番号から何度も電話がかかってきた。それをずっと無視しつつ、駅のトイレに飛び込む。全身鏡で身なりにおかしなところがないか、変な痕や傷が残っていないか、細かくチェックした。ホテルでは、一刻も早くあの場所から抜け出すことしか考えていなかったから。
 白にシンプルな英字のTシャツ、色あせたリーバイス、赤のコンバース。年齢にしては少しラフすぎる服装に、乱れや汚れは見当たらない。首筋や顔にもけがはない。しいて言うなら、顔色が少し悪いが、走ってきたおかげでいい感じに上気してごまかせそうだ。
 腕時計を見ようとして、舌うちした。シャワーを浴びた時に外して、そのまま忘れてきたらしい。取りに戻るなんて選択肢はないので、泣く泣く諦めた。
 鏡にうつる自分の顔をじっくりながめた。真っ直ぐな眉、吊り上った、猫のようだと言われる眼と、跳ねた黒髪の短いくせっけ。なかなか形のいい鼻筋と、気の強そうな口元。
 いつも通りのおれだ。ジムを出たときの。何もおかしな点はない。
 大きく深呼吸をして、トイレを出る。一番嘘をつきたくない相手に、いまから嘘をつきとおさなければいけない。演技をして、ありもしないことを言い、なんでもない顔で飯を食って、いつもみたいに酒を飲みながら三人で借りてきたDVDを見る。
 すごく嫌だ。
 成一に嘘をつくと、自分の中の大切なものが、少しずつ消えてなくなっていくような感じがした。なぜかは分からないけど。…分からないままにしておきたいけど。
 ならば、今日起こったことを洗いざらい成一に話すのか、と考え、激しく頭を振った。
――あいつにだけは、知られたくない。
…嘘をつきたくない気持ちは、本当なのに。

 後で話題になったときに困るかもしれないので、念のため、店に寄ることにした。おれの代わりに入っているアフロは忙しそうにコーヒーをいれていて、レジの前に立ったおれに気付くと、手伝ってほしそうな顔で眉を下げた。こっちも鬼ではないし恩はあるので、ロッカールームに入って手を洗い、エプロンをつけて少しだけ手伝った。カウンターの前に並んでいるカップル二組と、学生3人組と、一人客3組。新見さんが注文をとり、おれとアフロでコーヒーをいれては持っていく。
 もくもくと作業をこなしていると、殺気立っていた心が少し落ち着いた。この匂いが好きで今の仕事を始めた訳だけど、コーヒーの匂いは人を落ち着かせる力がある。
 すっかり日が暮れて、外は暗くなっていた。客が扉を開けるたびに吹き込んでくる夜の風は、真夏のそれよりも湿気が少ない。
 海が恋しい。成一の家に世話になってから、あまり海には行けていない。7月や8月のように毎日は泳げなくてもいい、ただ見るだけで。
 客足が落ち着いたところで、いったん洗い物を片づける。物言いたげなアフロを無視し、適当なところでカウンターを抜けて、お礼替わりにコーヒー豆を貰って店を出た。
 緊張したのは電話をかける前、一瞬だけだった。電話口に出た成一が、「はーい」とのんきな声で応じたとき、身体からへなへなと力が抜けて行った。
「…ごめん、遅くなって。結局店手伝わされてた」
『あはは、そんなことじゃないかと思った。今日ね、天丼にしたよ。急に食べたくなってさ』
「うわー美味そう。海老入ってる?」
『山盛り!おいてあるよ、一保さんが返ってきたら熱々のやつ作るね』
「ありがとう。何か買ってきてほしいものある?」
 声はさらさらと出てきた。よどみなく、笑い声すら。
『なにもないよ。あ、』
 電話越しに、ガサガサと身動きしている音と窓を開ける音が聴こえた。
『空見上げてみて、10秒ぐらい』
「なんだよ」
『いいから』
 街灯のないところを探して、成一の指示どおり空を見上げる。今日は新月らしく、月のない夜空にはいつもより多く星が見えた。
「『落ちた!』」
 星がひとつ、またひとつと、垂直に空を流れていく。うわあ、と声を上げたのも、ふたり同時だった。離れた場所にいるはずなのに、すぐそばで一緒に空を見上げているような気がした。
『流星群なんだって、今日。ちょうどいまの時間がピークだって、テレビで言ってたから』
 どうしてだろう、その言葉をきいた瞬間、成一は全部気付いていて、知らないふりをしてくれているんじゃないかと思った。
「…一緒に観たかったな、となりで」
 声が詰まる。
『いるよ、前に』
 電話が切れた。目を凝らすと、自宅マンションの前で、成一が手を振っていた。目が合うとにこっと笑う、やわらかい色の眼と優しい顔立ち。彼は人差し指を空に向けて、上を向いた。
 立ち止まり、胸の奥に突き刺さった痛みをやり過ごす。泣き出しそうなのに満たされている、あたたかい気持ち。はじめての気持ちだった。
 走り寄りたい。それから、抱きしめて、ずっと側にいさせてほしいと言いたくなった。たとえ成一がほかの人を好きでも、おれのことを好きになる事が一生無くても、それでもいい。あの眼にうつることができたら。心のどこかにいられたら。あの笑顔を一番側でみることができたら、それ以外なにもいらない。
「ただいま、」
「うん、おかえりなさい、一保さん」
――当然そんなことができるわけがないから、ゆっくり歩いて隣に立った。マンションの前の道路はほとんど車が通らないから、わりと長い時間、電柱の側に立ち止まって上を見上げていることができた。
 ときどき光が流れ落ち、そのたびに成一が小さく声を上げた。おれは指さしたり、肩を叩いたりして、同じ星が流れるのをもう一度見れないかと奮闘した。けれども、結局同じ流れ星が見られたのは、最初の一回目だけだった。
「願いごと唱えた?おれ忘れてた」
「野中さんにも見せてやりたかったな」
 ウソだ。ほんとうは、ふたりで見ることが出来てすごく嬉しかった。
 成一は、目を細めて笑って、おれを振りかえった。
「少し前にさ、『秘密があるからきいてほしい』って言ってたでしょう?おれになら、話せる気がするからって。あれさ、いつでもきくから」

 一保さんのためなら、床屋が掘る穴になってあげるよ。
 言いたいときに、なんでも言えるように。でも無理にきいたりしないからね、穴だから。

 出た、壺野成一!とふざけようとしてやめた。…胸がいっぱいで、涙が出そうだった。
「一保さん、王様の耳はロバの耳ー!っていうのはね、壺に叫ぶんじゃないんだよ」
 突然はじまった説明に、えっそうなの、と声を上げてしまう。
「もともとはね、耳がロバの耳になっちゃった王様の、髪を切ってた床屋の話なんだよ。秘密にしてろっていわれて、でもほら、ひとって秘密にしてろっていわれたら言いたくなっちゃうでしょ?だから草原に穴を掘って叫んでたんだ。『王様の耳はロバの耳ー!』って。そうしたら、まあ諸説あるんだけど周辺の草原だとか葦だとかそういうのが成長して、『王様の耳はロバの耳ー!』って叫ぶようになっちゃって、町中の人にバレちゃうって話」
 真剣な顔で説明してくれる成一に、ついつい笑ってしまって怒られた。
「ありがとな」
 言えない。言えるわけない。別れたはずの男に電話一本でいつでもセックスできる、セフレにされちゃうかもしれない、とか死んでも言いたくない。知らないままでいてほしい。成一にだけは。
 でも、航太郎の話なら、できるかもしれない。時間をさかのぼる不思議な力のことも、信じてくれるとしたらこいつしかいない。
 千葉を好きな気持ちは哀しみに似ていた。海を想うように好きでいたつもりだったのに、心のどこかでは、見返りを求めていたのだろう。誠意を返してくれることを期待しながら、裏切られるたびに悲しんで、でも仕方がないと諦めていた。幸福だった瞬間も、愛されていると思った瞬間も、たしかにあったはずなのに、明日が来るのが怖かった。捨てられるかもしれない明日がくることに、常に怯えていた。
 思い出すのは、泣きたいのに笑っていた、痛みと隣合わせのわずかな幸福だけだ。
「帰ろうか」
 でも今感じている気持ちは全然違う。成一が笑うだけで、おれは幸せな気持ちになった。明日が来るのが楽しみになった。
「だな。あ、明日仕事終わったら、久々になっちゃんち行こうかと思うんだけど、いい?」
「夏樹さんが迎えに来てくれるならね。おれは明日夜勤だから、朝そっちに行くよ」
 風にのって、成一の髪からあの甘い、シャンプーの匂いがした。
「気を付けてよ?」
 真剣な顔で、成一が言った。もう気を付けても無駄だけど、と思いながら、おれは神妙な顔をつくって頷く。
「わかってるよ。つーか女の子じゃないんだから迎えとかいらねーしな」
「毎日ニュースでやってる、ストーカーに殺された人の仲間入りしたいならいいけどね、おれは嫌なんだよ、友達がそんな風になるのは」
 ともだち、という言葉に心がしんとした。友達。そうか。そうだよな。それ以外ないよなっていうかむしろ友達と思ってもらえてうれしいところだよな。
 うんうんとひとりで何度もうなづいて、突き刺さった棘について考えるのをやめた。分かっていたはずだ。覚悟していたはずだ。――好きになっては、いけないと。
「…なんかこどもみたいな顔してたけど、どうかした?」
 心配そうに眉を寄せて、成一が側に立つ。首を振って、へらりと笑った。
「お前のシャンプーさ、どう考えても女物の匂いするよな。最初、実は彼女とかいて一緒に住んでんのかと思ったもん」
 おれは身の回りのものにこだわりがない。シャンプーなんかドラッグストアで売ってる安いやつだし、服だって夏は毎日Tシャツとデニムだ。
 成一と暮らして驚いたのは、彼が生活に関わる部分をひとつひとつ、丁寧に選んでいることだった。おそらく、成一の育ちの良さがこういうところに出ているんだろう。おれも食べるものにはこだわりがある方だけど、身の回りにはとんと疎い。
「THANNっていって、ばあちゃんが好きだったメーカーのやつなんだよね」
 ふうん、と生返事をしてグーグルで検索する。…目玉が飛び出しそうなほど高い。なんでも、高級ホテルのアメニティなんかで使われているらしい。
「たッ…け!!お前は女子か!!」」
「ん~高いのかな?『男性のほうがよっぽど匂いや身の回りに気を遣わなくてはいけませんよ。もともと女性よりも野蛮な匂いがうまれつきあるのですから』って思春期の頃からずーーーっと言われててさ」
「野蛮って…面白いな、お前のばあちゃん」
「でしょ。あとはまあ、バレエやってたから、周りが女性ばっかりだったし必然的に気を付けるようになったよね。クサいとか言われたくないし」
 いまだって、肩にふれた成一のTシャツは、おどろくほど柔らかくて肌触りが良い。VネックのTシャツは、成一が好んで買っているブランドだ。シンプルで素材が良くて上質。…服を褒めると必ず買いものに連れ出されそうになるので言わないことにしているが。
 今現在収入が心もとないこともあるが、おれは昔からそういったところに無頓着だ。服なんか着れたらいいし髪の毛だって長くなければいいし家だって眠る場所があればいい。
――海さえ近くにあれば、それでいい。
 あの音と匂いと色合いがこの世に未練を生み出してくれる。今は、そこを職場にしていなくても。

 千葉から電話がかかってきた夜、成一は夜勤だった。その日に限ったことではない。おれが、成一のスケジュールを把握した上で、千葉に指定したのだ。
「…あと五分後にしてくれるか。コンビニに行くから」
『分かった。じゃまた後でな』
 ナオちゃん(野中さんのことだ。最近はこう呼ぶようになった)はとても賢い子なので、きっと気付いている。それでも二週間、心配そうにおれをじっと見つめる以外は、何も言わずにいてくれた。
 成一がいない日は、ふたりでジムに行ったり、DVDを観て過ごした。
「この中で、一保さんのタイプってどの人ですか」
「ん~~~…あれかな、ほら、主人公の親友のあいつ」
「…かっこいいですよね。わたしは、あのひとがいいです。探偵の」
「ああー、分かる分かる。あいつもいいよな」
 黙っているのが面倒になって、つい先日酒を飲んでいる時に「おれ実はゲイなんだよ。黙っててごめんな」とカミングアウトした。ナオちゃんはいつもの淡々とした顔を上げて、あのきれいな眼をわずかに細め、「そうですか」とだけ言ってふたたび視線をテレビに戻した。今見ているアメリカの連続ドラマのDVDの、たしかシーズン3を観ていたときだ。
 表情をあまり変えない子だが、一緒に暮らしていると考えている事が分かってくる。今少し落ち込んでいるな、とか、すごく嬉しいんだな、とか。特に彼女の場合は、成一に声を掛けられたり、何かをしてもらったときに分かりやすい。唇をぎゅっとむすんで、こみあげてくる気持ちを抑えるような表情をするのが健気で、心が痛んだ。
「ナオちゃんさ、」
「…はい」
 見終えたDVDを返しに行く、と告げて家を出ようとすると、ナオちゃんが「わたしも行きます」といってついてきた。千葉からのコールバックを受けるつもりだったので、正直すごく困ったのだが、彼女がそんな風に自分の意志を明確にするのは珍しいので、やりたいようにさせた。
「もしかして、何か気付いてる?」
「電話のことなら、はい。でも相手のことは、いいえ」
 緑の匂いが薄れ、涼しい風が彼女の短い前髪を揺らす。風の匂いがすでに初秋を知らせていた。ナオちゃんはグレイのパーカーに白いTシャツ、ハーフパンツにレギンス姿だ。ボーイズに近いその服装が、彼女にとって武装のひとつであることを、おれはなんとなく知っている。
 暗いアスファルトの道をふたり、徒歩5分のコンビニに向かって歩く。半月に照らされて、黒猫が1匹、道を横切っていく。闇に溶ける細くてしなやかなラインが。隣にいるナオちゃんと少し似ていた。
 ポケットの中で電話が震えている。今出ることはできないから、歩きながら人差し指で撫でて、そのまま無視した。振動音に気付いたナオちゃんがこちらをちらりと見上げてから、関心をなくしたように正面を向く。長い睫毛に、美少年のような横顔は、女性として見られることを拒むように、パーカーの中へ顔半分を埋めている。
「一保さん」
「うん?」
「海、みにいきませんか」
「…今から?」
「明日。家を見に行くんでしょう?日曜だし、わたしもついていきます」
「いいけど。めずらしいな」
 憔悴しきったあの顔。それに追い詰められたように、フラれた相手の家に押しかけてきた必死さ。礼儀正しい彼女がそこまでした理由を、おれはまだ知らない。
「あのおじいさんとおばあさんは、とてもいい人そうでしたね」
「そうだな。離れってどんだけ広いんだろ…家賃が気になるな」
 住宅街にぴかりと浮き上がったコンビニに入り、タバコと麦茶を買う。すぐ近くにあるポストに足を延ばして、DVDを投函した。最近の世の中は便利になったな、と思いながら、手のひらのなかでカサカサと音をたてるビニール袋をぎゅっと握りしめる。携帯が、また鳴っていた。今度はしつこく、なかなか切れない。
「…出なくていいんですか」
「つまんねえ電話なんだ。だからあんまり出たくない」
 おもっていたよりも暗い声が出て、おれは押し黙った。ナオちゃんが突然立ち止まり、下から覗き込んでくる。
「星野さんには言いません。でも」

 あのひとを傷つけるようなことはしないでください。
 これまでずっと、だれかの為に自分を後回しにしてきたひとなんです。

 小さい声だった。けれど、意志の宿った強い声だった。
「――傷つかないよ」
 おれが千葉とセフレになったからって、成一が傷ついたりはしない。友人として裏切られたと感じることはあるかもしれないし、軽蔑される可能性は高いけれども。
 目を細めてにらみつけられて、苦笑した。
「言い間違えた。傷つけたりしないから、大丈夫」
 ナオちゃんは苦しくないのかな、と思った。こんなにも好きで、いまでも想っている相手と一緒に暮らして、ふれることもできないなんて。おれならとても無理だ。
「苦しくないわけ、ないか」
 そのつらさと天秤にかけても、頼りたかった。それほどつらいことが、彼女の身に起きたということだ。
 彼女が何もきかずにいてくれるかわりに、おれも黙って夜空を眺めた。早足の彼女が次第に遠ざかっていくのを確認して、鳴ったり止んだりを繰り返していた電話を耳に当てる。もしもし。小さい声で応答すると、少し怒った声で千葉が『取り込み中だったなら悪かったな』と言った。うそつけ、悪いなんてこれっぽっちも思ってないくせして。
「なに」
『次はいつ会えるかなと思って』
「ひっこすまでは難しい。明日家をみにいくから、それからなら融通きく」
『そうか。…家には招待してもらえんのかな?』
「しなくても勝手に来るんだろ、お前は」
 くすくすと笑い声が聞こえる。それからタバコに火をつける音がして、おれはためいきをついてからそばにあった電柱を蹴飛ばした。
『そうイライラするなよ。生理前の女みたいでみっともないぜ』
「…きるぞ。じゃあな」
『一保』
 すきだよ、だから、
 千葉がなにか戯言をのたまって、聴き終わる前に電話を切る。それまでの軽い調子と打って変わったような、真剣な声色に息がつまって、そんな自分に心底嫌気が差した。
 きっとおれはすごく頭が悪いんだ。だから、今までされたひどいことを、すぐに忘れようとする。おれも悪かったから、って、自分に言い聞かせる。
―――どんなに自分をだまそうとしても、もう身体が千葉を受け入れることを拒んでいるというのに。
 暗い道の少し先で、ナオちゃんが立ち止まってこちらを見ている。深呼吸をして心を整えてから、携帯をポケットに突っこんだ。小走りで追いついたナオちゃんは、おれを目を合わせようとしなかった。俯いたまま、黙って、マンションへとふたり歩いた。