12:嫌いになれたら

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 彼女が「野中奈緒子」なのだと知ったのは、困惑した成一が「野中さん」と呼んで家へ入れたからだ。眼に涙をためて、失礼します、とつぶやいた野中さんは、リビングに入ってから小さな声で「お楽しみのところ、申し訳ありません」とおれに向かってまた頭を下げた。
 家に入ってからもほとんど話さずに俯いたまま、ひざを抱えて座っている。何故かはわからないが、疲労困憊しているように見えた。寝室に入って勝手に毛布をとってきてかぶせてやると、彼女はようやく安心したように少し微笑み、ありがとうございます、とまた小さい声で礼を言った。
「…星野さんの、お友達ですか」
「うん。諸般の事情があって、しばらくやっかいになってるんだ。おれは村山一保。一保でいいよ、よろしく」
 初対面の人に会うと、昔のクセでつい手のひらを差し出してしまう。毛布にくるまり、ソファに座っている野中さんが、目を丸くしてからおずおずと握り返してくれる。ぎゅっと握ってぶんぶん上下にふると、目を白黒させた。まるで小動物のようで可愛くて、妹をみているような気持ちになる。
「はは!かわいいなあ、よろしく」
「かわ…!?はあ…よろしくお願いします…」
 はにかむように笑うと、とても可愛い女の子だった。深雪とはタイプの違う、すこし冷たい感じのする顔立ちだけれど、何かを我慢することになれているような、切なさがあった。
「一保さんって本当に人見知りしないよね」
 めずらしく怒ったような口調で、成一が言った。
「人見知りなんて甘えたことしねえよ、大人なんだから」
 ただし、自分の内側に入れる人間は、厳重に選ばせて頂くけれど。
「おれもそんなに人見知りなほうじゃないけど。一保さんの誰にでもみせる自然体はもはや図々しいの域」
 妙にとげとげしい物言いに、やっぱりおれが邪魔なのかな、と心が沈みかける。実際会ってみると華奢で可愛い女の子だし、本当のところおれが邪魔なのかもしれない。
 目の前で、野中さんが驚いたように眼を開いて成一を眺めている。あ、やっぱりこんな態度珍しいんだな、ってことが、そのリアクションではっきり分かった。
「取り繕って好かれて何になるんだよ。どうせ嫌われるやつにはそのうち嫌われるんだから、最初からこのままいったほうがいいだろが。ちなみに仕事では丁寧に礼儀正しくふるまってるからな。爽やかなイケメンバリスタとして近所では大評判だ」
 もはや反論もせずに、成一が鼻から息を出した。あれれ?こいつこんなに感情を表に出すやつだったっけ?
 おれから野中さんに視線をうつしてから、成一が溜息混じりに言った。
「彼、ズケズケものを言うし、はじめはびっくりするかもしれないけど…根は良い人だから」
 すごく失礼なことを言われている気がするが、ひとまずにっこり笑ってみせる。彼女からは見えないように、拳で成一の背中をゴツゴツ叩きながら。
「どうもどうも、根は良い人でーす。年は29で血液型はO型、みずがめ座でーす」
 くすっと笑う声。さきほどのまでの張り詰めた様子から一転して、野中さんはリラックスした様子でわらっていた。
「星野さんが、そんな風にムキになって言い返すの、はじめてみました」
「そうなの?こいつおれには普通に言い返してくるぞ。成一、お前年上舐めてるだろ、こうしてくれるわ」
 隣にいた成一を柔道の横四方固めでキメてやると、ギブ!という声と一緒に床を叩く音が聴こえた。根性無しめ。
「犬のじゃれあいみたい」
 野中さんの言葉にどこか羨ましげな響きがあって、おれはしんとした。そういえば彼女は成一のことが好きなのだった。まあ相手がおれなら嫉妬にも値しないと思うけど、親しくされると気分がよくないのかもしれない。
「…何かあった?もしかして、お義父さん?」
 気遣わしげに成一が声を掛ける。きいていていいのか分からなかったので、おれは立ち上がってタバコ買ってくる、といって家を出た。ポケットに財布と携帯だけを突っ込んで、サンダルをひっかけて。

 

 

 久しぶりに誰か、知らない人間と話したくなった。…というのは言い訳で、女の子と親しげにしている成一を見ているのが、嫌だったのかもしれないし、違うかもしれない。
 どっちでもいい。いまは、そんなこと考えたくもない。好きだの、嫌いだの。勘弁してほしい。次に付き合うなら、絶対にゲイがいい。それもきちんと365日、貫き通すタイプの。基本女が好きだけど男も抱ける…とかそういうのは二度と御免こうむる。
 由記駅から徒歩5分ほどの、雑居ビル5階にあるバーに行くことにした。ビルの一階にある不動産屋でいくつかの情報誌を取ってポケットに入れ、エレベーターのボタンを押す。性的マイノリティに出会いの場を提供している店で、雰囲気がよくて清潔感がある。それもひとえにマスターの人柄だろう。
「藤堂さん、こんばんは」
「おひさしぶりですね。こちらにどうぞ」
 彼はおそらく40代前半ぐらいだろうか。頬から額にかけて目立つ傷があって、噂によると元ヤクザらしい。浅草の、有名なバーテンダーの元で長年勤めていたところ、一年ほど前に師匠が亡くなり、自分の店を持つことにしたのだという。
 一見するとおそろしい顔をしているが、客と話すときはやさしい表情をするので、そのギャップが良いらしく客にも人気が高い。
「ハープあるかな?アメリカで良く飲んでたから、夏になると飲みたくなるんだよな」
「ありますよ。なんなら、サム・アダムスも」
「とりあえずハープで!藤堂さんも飲もうぜ、奢るから」
 ハープはギネスビールのブランドのひとつで、日本でいうところの「アサヒスーパードライ」的な位置づけである。アメリカではきわめて一般的なビールで、薄味でアルコール度数が低くて飲みやすい。日本で飲める店は少なくて、それもこの店に通っている理由のひとつだ。
「今日は千葉さんと一緒じゃないんですね」
 いつくるか、と思っていた質問が初っ端にとんできた。まあ予測の範疇だ。パンチの来る方向が分かっていれば対処できる。
「あー、別れた。つーかあいつ結婚した」
 なるべく端的に、感情や余分な情報を込めずに。何気ない口調を装って投げるように言う。
 さすがに返す言葉がなかったのか、怖い顔をますます強張らせて、藤堂さんがフリーズした。磨き抜かれたカウンターの上に置かれたグラスをくるくる回して飲み干してから、「だからここに来てる。おかわり」といって再度グラスを差し出す。
「そういえば、この店にはもう来るなって言われたんでしたっけ」
「そう。出会いなんか求める必要はないだろ、っていうアレな」
「でも千葉さんは裏で女性と付き合っていて結婚した、と」
 藤堂さんの声は淡々としていて、それがかえって救いになった。
「笑える。合田さんとこの店に来たのがバレたときは、半殺しにされたのに」
 言ってから、しまった、と思った。あれは、確か『2回目』のことだ。今じゃない。
 幸い、3回目、いまの藤堂さんは合田さんを知らなかったし、上手く聞こえなかったらしい。
「ごめん、なんでもない」
 肩をすくめるお決まりのジェスチャーを返す。藤堂さんは何かを言おうとして――おそらく励ましの言葉かなにかを――けれども、カウンターに座っていたラブラブカップルに呼ばれてしまい、彼はカウンターの奥へと消えた。
 ハープをぐいぐい煽って、空のグラスをもうひとりのバーテンダーに見せる。おなじものを、と頼むと、彼は呆れたような顔をしたが断りはしなかった。ここに来る前も相当酒を飲んでいたが、おれは顔に出ない体質なので、おそらく軽く目がすわっている程度だろう。いいじゃないか、飲ませてくれたって。飲んだって人に絡んだり泣いたり吐いたりしない。単に一人でグダグダしてきちんと歩いて帰るんだから。
 成一の家でもかなり飲んでいたこともあって、気が付くと目の間がぐらぐら揺れていた。それでも体は意識的にしゃきっとさせていたので、はた目からは分からないはずだ。ときおり男がやってきておれに声をかけてきたが、「話し相手は欲しいけど、今夜の相手は別にいらない」と告げるとみんなさっさと去って行った。薄情な奴らだ、セックスだけが恋愛じゃなかろうに。
「飲み過ぎじゃない?…すいません、ペリエをください」
 おれの前に置かれたグラスを、ほっそりとした指が勝手にとりあげていく。代わりに置かれた炭酸水を睨みつけてから、隣に座った優美な顔立ちに悪態をついた。
「ときにはそんなときもあるだろ」
「そんなに酔ってるの、仕事辞めたあの日以来じゃない」
 やわらかくウェーブした髪を耳にかけて、なっちゃんが微笑んだ。
「あのときはご迷惑をおかけしました。でもおかげですむところも見つかったんだよな」
「まあ仕事もすむところもない、ってあんなに明るく言う人はじめてみたからね。ちょっといっちゃってる人かとおもったよ、あのときは」
 隙をみてグラスを交換しようとしたが、だーめ、と優しい声と一緒に遮られた。
「星野さんのおうちにお世話になってるんでしょう?連絡したの?」
「んーちょっとタバコ買ってくる、とは伝えたぞ」
 ポケットに入れたタバコを取出し、ライターで火をつける。煙をあさっての方向に吐き出してからなっちゃんに向き直ると、彼は眉をよせて怒ったような顔をした。
「この店、千葉さんも知ってるんだよ。しばらく来ないほうがいい」
「ええ!?なっちゃんちにも行けないし!なんだよおれは、馴染みの店全部出入り禁止みたいになってるじゃないか!いっとくけどすげー寂しいんだからな、なっちゃんに会えないのも、スイにさわれないのも」
 酔っているせいか甘えたような声が出てしまって、隣で彼がわずかに眉を上げている。
「……僕に会えなくて寂しいの?」
「すごく」
 変な沈黙が流れて、おれは長い溜息をついた。当たり前だろうが、と憤るような気持ちだった。なっちゃんはいつも親切で、聡明で、そして少しだけ壁があってミステリアスで、心の淵をひっかかれるような、知りたくなる魅力にあふれていた。それに何故か、ふたりでいると何も話さなくても通じ合えていた。例えば飲みたいものとか食べたいものとか。悲しい事があったとか。なんとなく、感じるのだ。
「なっちゃん酒飲めないだろ。それ返して」
「だめ。もう帰りなよ、きっと心配してるよ」
「してねえよ。なんか可愛い女の子が家に来てるもん」
 沈黙。おそらく、おれの言葉の意味を考えているのだろう。
「…星野さん、彼女がいるの?」
「違うみたい。告白されてフった相手だけど、訳ありで相談に乗ってるって感じ。優しいからな~あいつは」
「そうだね、星野さんの優しさは本物だよね」
「ひとを偽物みたいにいうな」
 千葉ときちんと別れるために引っ越す。そう伝えたとき、なっちゃんは神妙な顔で「えらいね」とほめてくれた。おれたちがどれだけ長い間一緒にいたか、彼は知っていた。だからこそ、その別れが簡単ではないことも理解してくれていたのだろう。
「あれから、2回、千葉さんがきたよ。2回目はおれの家に来て、一保さんのこといろいろきかれた。知らないって答えておいたけど…」
 なっちゃんの表情が曇った。嫌な予感がして、おれは問いかけた。
「あいつ、何か言ったのか?嫌な事されたりした?」
「ううん。驚くほど紳士で丁寧だったよ。――話してる内容は、嘘ばっかりだったけど」
 息するみたいにするする嘘をついていて、それが少し怖かった。
 なっちゃんは溜息混じりにそう言って、ハープを横にどけた。
「住所は僕も知らないから、そう答えたら帰って行った。彼も忙しい身だろうから、そんなに頻繁にこちらに来られないんだろうね」
 何と応えていいか分からず、おれは正面を向いて、タバコを灰皿に押し付けた。仄暗い照明に照らされた様々な酒のラベルと、耳に心地いいBGM。ピアノジャズの合間に聞こえるのは、魅力的な若い男の声だ。眼を閉じ、耳をすませていると、「最近、youtubeで人気に火が付いた、日本出身のジャズミュージシャンですよ。ご存じないですか、生野千早」と藤堂さんがめずらしく嬉しそうな顔で言った。
「知らない。でもいい声だな」
 ジャズはそんなに詳しくないけれど、確かに彼の声やピアノの音は、彼の今までの人生を感じさせる深みがあって聴き入ってしまう。
「秋ごろにアルバムを出すらしいですよ」
「なんかこの男…苦労してそうだよな。ジャズってそういうの出るじゃん、なんとなくだけど」
 藤堂さんが笑いをこらえるような、不思議な顔を伏せてから、不意に溜息をついて目を閉じた。その表情をみていると、この『生野千早』という男が、藤堂さんにとって特別な存在だったことが分かってしまった。
「もしかして…藤堂さんの男だった、とか?」
「いいえ。師匠の孫ですよ、手なんて出せるわけがありませんでした」
「でも愛してた?」
 こういう質問をするから『無神経』だと言われてしまうのかもしれない。でも、興味丸出しで色々憶測するよりはいいだろう。
 おれの率直な質問に、藤堂さんは少しの間考え込んだ。それから、ゆっくりと頷く。
「愛…愛かどうかはよくわかりません。そもそも日本人は、普段愛してるなんて言葉を使わないものです。あなたはやっぱり、海の向こうで暮らしていたんですね。感覚が、日本人とは少し違う」
 悪口ではなく、まさに感じたまま率直に、藤堂さんが言った。
「よく言われるよ。ズケズケものを言うとか、ジェスチャーがいらっとするとかリュックのヒモ短くし過ぎとか」
「最後のやつなんですか、リュックのヒモって」
 笑いながら問いかけられて、おれは得意気にこたえた。
「ほら、日本だと若者はみんな紐を長めにしてさ、背中じゃなくて腰のあたりで背負うだろ。向こうだとリュックって腰に背負うものじゃなかったんだよな。亀みてーにがっつり背中に背負うもんだったの。だから、日本かえってきたときクラスメイトに『リュックの背負い方がダサい!!』ってすげーディスられた。保大入ってからは、敬語の使い方がなってねえって教官に滅茶苦茶しかりつけられたしな~、日本語難しいんだよ、敬語と謙譲語なんか鬼レベルで難しいって」
「あはは」
 隣でなっちゃんが笑う。藤堂さんも微笑んだ。
 彼はグラスを手にとり、丁寧に磨きながら、ゆっくりと言った。
「彼の眼には、まばゆい才能の光と一緒に、底なしの餓えがあったんです。握りしめて産まれてきた才能と比例するみたいに、彼には不幸がたくさん降りかかっていました」
 気になっていましたが、私にはどうすることもできないことを知っていました。だから、ただ眺めていただけでした。せめて仕事では役に立つようつとめていましたが、嫌われていたかもしれません。口下手で、あまり話をすることもありませんでしたし。
 抑揚のない声でそう言うと、藤堂さんはふたたび誰かに呼ばれていってしまった。なっちゃんが、おれをうかがうように覗き込む。繊細そうな顔立ちは、笑うと眉が下がって、航太郎を思い出させた。

 

 

 店に入って一時間が経ったころ、時計をみつめながらなっちゃんが言った。
「千葉さん、どうして一保さんの店には行かないんだろうね?」
 その答えは分かっている。でも、口に出すのは嫌だった。頭を振って口笛を吹き誤魔化そうとしたが、なっちゃんの厳しい眼差しはゆるむことなくおれを見据えている。…説明すればいいんですね、ハイハイ。
「人目があるからじゃねえの?世間体を異常に気にするからな、おれとの関係は恥なんだろうよ。…あとアイツ、プライド高いから人前で拒絶されるの絶対ヤなの」
 カウンターの上に置かれたなっちゃんの手のひらが、ぎゅっと握りしめられる。怒ってくれているのだと分かって、ありがたくて心あたたまった。
「あの人のどこがそんなに好きだったのか、僕にはさっぱり分からない」
 好きなところ。つまり良いところなら多分、100個ぐらい言える。でも同じ数かそれ以上に、なぐられたような気がする。あるいは物理で、あるいはメンタルで。
「恋愛はロジックじゃないんだよ、なっちゃん」
「どこかできいたようなセリフだな~」
 呆れ声でそう言ってから、なっちゃんが立ち上がる。
「まあ、帰りづらいなら僕の家においでよ。散らかってるけど、ここにいるのは危険でしょう」
「なっちゃんちの方が危険だろ。あ、もしかして、もう一軒の家のほう?」
「うん。ちょっと狭いけど、あっちなら知ってる人いないから」
 由記駅にほぼ直結しているタワーマンションの一室を、なっちゃんは自宅とは別に所有している。上の階層にいたっては億はくだらないと言われている、高級分譲マンションだ。いくら人気のインダストリアルデザイナーだといっても、あのマンションを買えるほどとは思えない。
 何か事情があるんだろうが、わざわざ訊く必要もない。話したくなったら話すだろう。
 おれの顔にそういったアレコレが出ていたのか、眉を下げてなっちゃんが笑った。
「高いのは上の階だけで、下の方だし1LDKだから、期待しないでよ?」
「なんでわかったんだ…おれってもしかしてサトラレ…」
「分かりやすすぎるんだよ、一保さんは」
 会計を済ませて店を出る。駅のロータリーを歩きながら成一に電話をしようと携帯電話をポケットから取り出した。着信が2件入っている。
 ほら、心配してるでしょう?となっちゃんが後ろから責める。慌てて電話を掛けようとしたところで、後ろから誰かに肩を掴まれた。
「わっ…!!あ、なんだ…お前かあ」
「お前かあ…じゃないよ。遅いから探しに来ちゃったよー、頼むから心配させないで」
「大げさだなあ、成一は」
 息が上がり、汗をかいている様子をみると、本当に心配して探してくれたらしい。申し訳なくなって、ふざけるのをやめて頭を下げた。
「ごめん、そんな必死になってくれるとおもわなかった」
「一保さん、執着心っておそろしいものなんだよ。相手を甘くみちゃダメだ。見つかったら最後だと思うぐらいの気持ちで用心してくれないと」
「そうだよ。星野さんのいうとおりだ」
 ふたりがかりで往来で説教されて、恥ずかしくて顔が熱くなった。
「お父さんお母さんごめんなさい」
「「ふざけないで!!」」
 なっちゃんと成一の声がかぶって、三人が同時に呆ける。それから、腹を抱えて大声で笑った。

 どちらの家に泊めてもらうか問題を静かに議論している二人を置いて、おれは駅の出口から降りてくる、大量のひとびとを眺めた。ああでもない、こうでもないと真剣に話し合っている彼等は、ほんとうにおれのお兄ちゃんか何かか?よくまあ、他人のためにあんなに熱心になってくれるものだ。…いや…ほんとはちょっと…いや、かなり…嬉しいけども…。
 駅の出口から、手を繋いだ老夫婦がゆっくり歩いてくる。いいな、と思った。年をとっても、あんなふうに寄り添って暮らしていけたら。理想の夫婦だよな。
 ため息が出た。この後にすぐおれは「まあおれには無理だけど」と考えてしまう悪い癖がある。やめやめ、ネガティブ禁止。いいなあ、素敵だなあで終わればいいんだ。なんとなく彼等を眺め、見送っていたら、駅の高架下から猛然と男が走ってきた。人々の間をすり抜け、ものすごい勢いで走って――老女の持っていたカバンをひったくって、こっちに向かってきた。
「どろぼう!だれか、だれか!」
 老夫婦の叫び声にみんなこちらを向いたが、見るからに体格が大きくまともな人間じゃない男を目にして、ほぼ全員が固まっている。成一となっちゃんが立ち上がってこっちに向かってくるのと、男がおれに向かって突進してくるのは、ほぼ同時だった。
「どけえーーーー!!!」
 どいてたまるか。
 力を抜いて、むかってきた男の手首をやんわりと掴む。そして彼の走ってきた勢いをそのまま利用して身体をふところにもぐりこませ、しゃがみこむ。
 男は自分の勢いで宙に浮き、地面に叩きつけられた。大怪我をされてはかなわないので、いちおう植栽の中にぶん投げておいたが、恐怖と驚きで意識を失っていた。
 おおーっというどよめきと共に、拍手喝采がふってきた。いつのまにか大勢の人に円のように取り囲まれ、中には携帯で写真を撮ったり、SNSに書き込んでいる者もいる。
 駅の交番から若い警察官がひとり飛び出してきて、「ひったくりです」というおれの端的な説明と、意識を取り戻して這いながら逃げようとする男を交互に見たあと、あわてて手錠をかけた。採用されて一年も経っていなさそうな青年に、「よっ、お手柄!」と声をかけると、彼ははにかんだように笑った。
「…大丈夫!?い、いまのなに、柔道とかそういうの?」
「合気道だよ。いまのは相手の力を利用して放り投げただけ」
 走り寄ってきた成一に、得意気に笑って見せる。
「あの…ありがとうございました、助かりました」
 丸い背をますます丸くして、老女が頭を下げた。夫らしき老人も、「ほんとうになんとお礼を言えばいいか」と涙ぐんで礼をのべてくれる。
 インターロッキングに落ちていた老女のカバンを拾って、少し砂を払ってから差し出した。
「いえいえ、いいんですよ。怪我はありませんか?」
ひったくりはかばんごと道路に引き倒されて大怪我をすることがある。そういえばそれを確認してなかったな、と思い問いかけると、老女はニコニコ笑って首を振った。
「ぼんやりしてたから、強く握っていなかったの。あなたこそ、お怪我は?」
「おれは強いんで。こっちに来たから投げ飛ばしただけですから」
 手を振ってこたえていたら、後ろから若い女の子に声をかけられた。
「あの、これ落とされましたよ。…すごい、かっこよかったです!」
「え、あはは、ありがとう」
 さっきとった賃貸住宅の情報誌だった。受け取ってもう一度ポケットに突っこんでいると、老女がこちらをじっと見つめてきた。
「おうちを探していらっしゃるの?」
「そうなんですよ~、条件がむずかしいからなかなか見つからなくて。由記市南区の海の近くで、スーパーの近くがいいんですけど。そんなのねーよって一蹴されちゃうんですよね」
 老夫婦が目を合わせ、そしてこちらを振り返って笑った。
「古くてもいいなら、わたしたちの家の離れはいかがかしら。海から徒歩10分、おなじ街区にスーパーがあるのよ」
 降ってわいた幸運とはこのことだ。隣でなっちゃんが「出た、謎の強運…」と呟いている。
「連絡先をわたしておくわね。よかったら、一度みにきて頂戴」
 達筆な字でかかれた連絡先の紙を握りしめ、頭を下げる。こういうラッキーがあるから、人生は捨てたもんじゃない。
 後からやってきた年かさの警察官が、無線で何か連絡をとりながら若い警察官を褒めている。老夫婦は丁寧に頭を下げた後で、交番の方へと歩いて行った。
 人が散って行っていつもどおりになった由記駅まえのロータリーで、おれは思わず飛び跳ねた。彼等が見えなくなるまで手をふってから後ろを振り返ると、成一は少し複雑そうな顔で、なっちゃんはなぜか困ったような顔をして、おれをじっとみていた。
 街明かりの中、通り過ぎていく若い女の子をみていて、「あ」と声をあげる。
「そういや成一。お前家に野中さんひとりにしてんじゃねえの?だめだろ」
「鍵はしめてきたんだけど…」
「今日はなっちゃんちに泊めてもらうから、お前はもう帰れ」
 成一がムッとした顔で、おれの腕を掴んだ。
「いやだ。変な気を遣うのやめてよ、彼女とは本当に、何もないんだから」
 こんな風にあからさまに腹を立てたりするのは珍しい。そこまで否定しなくても…と野中さんのことが少し可哀想になってくる。
「野中さんの立場になって考えてみろよ。良く知らない男と同じ部屋で眠れないだろうが。若い女の子なんだぞ、怖がるに決まってる。もうちょっと相手の気持ちを考えてやれよ、彼女が頼ってきたのはお前なんだから」
 腕を振り払い、その場を離れようとする。自分でも、どうしてこんなに強い口調で話しているのか、よく分からない。心配して探しに来てくれたことは確かなのに。
 理不尽に腹を立てているという自覚はあった。でも止められない。
「最後まで面倒みられないなら、はじめから優しくするな」
 成一が目を見開く。――傷つけてしまった。
 本当にこの言葉を伝えたい相手は、こいつじゃないのに。
 近くで黙ってきいていたなっちゃんが、「一保さん、言い過ぎだよ」と割って入ってきた。自分でもわかっていたのに、口から出てきたのは「クソッ」という悪態だけ。
「とにかく、そういうわけだから」
 行こう、となっちゃんに声をかける。すると、彼は首をかしげて「うーん」とつぶやき、いつもののんびりとした口調で「星野さんは、一保さんが側にいないと不安なんでしょう?」と問いかけてきた。
「…どうして」
 分かったんですか。
小さな声だったが、確かにそう聞こえた。
 ロータリーを通り過ぎていくタクシーのヘッドライトが、目の前にいる成一の顔をときどき照らして流れていく。茶色い髪が夜風に揺れていた。
「一保さん、星野さんは救急隊のひとなんだよ。きっとぼくらよりもずっと、DVにあっている人や、その家族のことに詳しいはず。だから、心配なんだ。目の届くところにいてほしいんだよ」
 こどもに言い聞かせるように、なっちゃんがおれを諭す。
 DV。
 あれは、DVなのだろうか。おれは、DV被害者なのか?
 そんなんじゃない、と言おうとして、口を閉ざす。あの関係を他人から見れば、他に表現のしようがないだろう。事実、おれは男に覆いかぶさられるのが恐ろしい。ニ回目の、あの頃に戻ってしまった。情けないし、こんなこと認めたくはないけれど。
「おれのエゴだけど、みえるところにいてほしいんだ。一保さんは強いし、おれよりきちんとした大人だって分かってる。野中さんに気を遣ってくれてるってことも…。でも今は、側にいてほしい。新しい家が見つかるまでの間だけでいいから」
 置いてくれているのは成一の方なのに、どうしてこんなに優しいんだろう。
 自分の狭量さに泣きたくなる。
成一は千葉とは違う、そんなことは出会った瞬間から分かっていたのに。
「分かったよ。ひどいこといって、悪かった」
 優しくされればされるほど苦しい。でもそれは、成一が悪いんじゃない。過去の記憶が、体験が、「どれだけ楽しい時を過ごしても、いつか女性を選んで立ち去る」のだと、頭の中で囁くからだ。おれを好きだと言った、別れたくないと泣いた千葉が、妻の横で幸せそうに微笑んでいた姿。あれはきっと、嘘じゃない。彼女のことを愛しているのも、家族が欲しいと思っているのも本当なのだろう。家に帰ると「おかえり」といってくれる人がいる。そのことに、千葉は強い憧れを抱いていた。子どもと妻を守り、社会的に信頼を得る。あいつがずっと欲しかったもの自体は、何も間違っちゃいない。おれでは、それをあいつに与えることは出来ない、永遠に。
 成一に対しても同じ事だ。
 彼を好きになってはいけない、と意識すればするほど、ありふれた瞬間に心の奥が痛んだ。ごはんを美味しいといって食べてくれることや、穏やかでユーモアに満ちた話し方や、いつも微笑んでいること、そういうことが、全部眩しくてつらくなる。
「帰ろう」
 それなのに、まだ一緒にいる。相手の優しさに甘えて、自分の首を絞めている。
「うん」
 なっちゃんが見送ってくれる視線を背中に感じながら、半月の下を歩いた。ときどき成一が話しかけてきたが、上の空で歩いているおれを見て、諦めたみたいに前を向いた。

 

 

 

 仕事と家の往復。そのすきまに、成一に泳ぎを教え続ける日々が続いた。
盆を過ぎた頃からクラゲがたくさん出るようになり、危険を感じたので、成一が通っているというジムのプールを使うようになった。9月に入る頃には、ゆっくりとではあったけれどクロールで25メートル泳げるようになった――一応、溺れているようなスタイルではなく理想的なフォームで。
 元々運動神経がいいこともあって、成一はおれの教えをぐんぐん吸収して自分のものにしていった。こいつの美点は、妙なプライドがないところだ。アドバイスを素直に受け止め、次に生かせようとする。なかなか簡単にできることじゃない。(おれも割と意地っ張りな方なので、そういうところは心底尊敬する)
 それに、ちょっと異常なぐらい眼がいい。手本をみせると、正確にそれを模倣した。おれの体調がすぐれないときも、どんなに隠していてもすぐに気付いて「今日は泳ぐのは無しにしよう」と提案した。(おれがそう褒めると、成一は『好きだった上司にも眼がいい、観察力に優れてるって褒められた』とはにかんだように笑ったので、おれは胸の奥が少し痛んだ)

 

 

「そろそろ終わりにするか。野中さんはランかな?声かけて三人で帰ろうぜ」
「そうだね、呼んでくるよ」
 野中さんは、今年消防士の採用試験に二次で落ちてしまったらしい。彼女も忙しい仕事の合間、おれたちふたりと一緒にジムに通ったり、夜、公園を走ったりした。当初心配していた女の子のいる生活は、想像していたよりもスムーズだった。というのも、彼女は深雪にちょっと見習わせたいぐらい無口な子で、家にいる間はいつも本を読むかヘッドフォンで音楽を聴いていて、意識的に気配を消しているのかと疑うほどだった。
 家事は三人で分担した。成一は夜勤のある仕事だから、朝出勤して朝帰ってきて、明けの日とその翌日が非番というライフスタイル。野中さんは日勤のOL。おれはといえば朝の早くから夜の遅くまでという客商売。生活時間が合わないことも、三人で生活できた理由かもしれない。
「今日は何作るかな~。野中さん、なんか食いてえものある?」
「…一保さんのご飯ならなんでも」
 頭をポンポンと撫でてやると、丸い眼がうれしそうに見上げてきた。本当に、可愛い。女の子は欲望の対象じゃないけど、可愛いものは可愛い。
「嬉しいこと言ってくれるね。念のために家主にも訊くか。お前何食いたい?」
「ン~、今日は暑いから冷たいもの食べたいな、そうめんとか」
「ぶっかけそうめんでも作るか。成一が昨日つくった茄子の煮びたしも余ってるし」
 今年は残暑が厳しい。めずらしく三人の休日がかぶった夕方、まだむっとした空気の中、成一の家へ向かう。今通っているスポーツジムは駅前にあるから、途中スーパーで買い物をして帰ることにした。

 

 違和感に気付いたのは、スーパーを出てすぐのことだった。
――見られている。
いや、後をつけられている。
 駐車場を横切っている間に、おれは対策を考えた。時間はないし、成一に気付かれるとまずい。
 考えた末思いついたのが、これだった。
「あ。メール入ってる。…オーナーからだ。ちょっと電話してくるわ、先行ってて」
 ふたりが駐車場を抜け、心配そうに成一がこちらを振り返ったところで、電話から顔を離して走って追いついた。
「わり、店に出なくちゃいけなくなった。なんか話があるんだってよ」
「……一緒に行こうか?」
「大丈夫だって。前も言ったろ、店は安全圏なんだよ。ふたりで先にメシ食ってて。作ってやれなくて悪いけど…終わったら連絡するから」
 嘘をつくのは苦手だ。でも成一や野中さんに危害が及ばないために必要な嘘だから。そう自分に言い聞かせて、つとめてそっけなく言った。
 成一は少し心配そうな顔をしていたが、仕事のことということもあって、「分かった」と言ってくれた。スーパーの駐車場入り口でふたりに手を振り、みえなくなったことを確認してから後ろを振り返る。

「悪趣味なことしてくれるじゃねーか。ストーカーかよ」

 両足を踏ん張っていないと、震えてしまいそうだった。夕方のスーパーという、ひとの出入りが激しい時間帯であることが、唯一の救いだ。
 数メートル先に立っている男が、サングラスを外してにやっと笑った。半袖に、ハーフパンツ。サンダル。腕や足にはいくつもの傷あと。
 精悍な顔立ちは、知っていたそれよりも痩せて、そぎ落とされた鋭さがあった。眼だけが変わらず強く、おれを見据えている。あの頃と、全く変わらない様子で。
「こうでもしないと、話もできそうになかったからな」
 計画的につけられたのか、それともどこかでたまたま見かけたのか。もっと警戒しておけばよかった。
 いずれにせよ、もう後の祭りだ。
「ここじゃ人目があるぜ、残念ながら殴ったり犯したりは無理だな。万が一そうなれば大声を上げるぞ」
 精一杯の皮肉を込めて言ってやったが、千葉は片眉を持ち上げただけだった。
「聞いたぞ。ひったくり犯を投げ飛ばすような男が、男に追い回されてるなんて言えないだろうし、誰も信じやしないさ」
 なるほど、もう十分だ。
「ひとまず、黙ってついてこいよ。話をするだけだ、場所ならこっちで用意する」
「いやだと言ったら?」
 反抗的な態度だと分かってはいたが、そうせずにはいられなかった。虚勢でもはっていないと、逃げ出してしまいそうだった。
「お前の新しい男…それとも女の方がそうか?どっちかが痛い目に合うだろうな。もちろん痕跡は残さないぞ、おれの手際の良さとずるがしこさはお前がよく知ってるだろう?」
 さきほどまでの穏やかな表情から一転、細めた眼に残忍な色が浮かぶ。
 おれは覚悟を決めた。絶対に、成一や野中さんを巻き込んではいけない。
「わかったよ。行けばいいんだろ、行けば。でもひとつ訂正しておくと、あいつらはどっちも友人であって恋人じゃねえから」
 先に歩きだした千葉の後ろで、投げ捨てるように言った。「どうだか」と返してきた千葉の広い背中がどこか落胆しているように見えて苦しい。溜息をつき、地面へ視線を落とす。
 引き締まった足首、それに背の高い、均整のとれた身体。短い髪が、夕暮れに透けていた。Tシャツから伸びた腕の傷あとと、半袖を着るようになった千葉の変化に、胸が苦しくなる。少し会っていない間に、千葉も変わった。こうして少しずつ、相手の知らない部分が増えていく。それが別れってことなんだろう。
 由記駅を過ぎると、千葉はタクシーにおれを押し込み、一駅先の、ホテル街の前で車を止めた。腕を掴んで引っ張りこまれた先は、入り組んだ道の中にある、小さなビジネスホテルのツインルームだった。こんな時でも怪しまれないようにツインを指定するのだから、こいつの計算高さと自衛能力には頭が下がる。
「何か飲むか」
 入り口のところで突っ立っているおれに、千葉が声をかけてきた。冷蔵庫の中を覗いてから、「ビールしかないけど」と言って一本取出し、顔に押し当ててくる。冷たさに驚いて声を上げると、すぐそこに千葉の、苦しそうな、首を絞められてるみたいな顔があった。
「……座れよ。ベッドしかねーけど」
 そう言ってビールを飲みながら、勝手に千葉が腰掛ける。逡巡してから、向かいのベッドの端におれも腰を下ろした。手の中のビールを眺め、溜息をついてベッドサイドに置く。喉は乾いていたが、今はとてもじゃないが飲む気分にはなれなかった。
「話ってなんだよ」
 窓の外を見ると、小雨が降り始めていた。そう言えばジムを出てすぐ、成一が鼻をひくひくさせながら「雨が降りそうだな~」とのんきな声で言っていた。洗濯物を干したばかりだった野中さんが、「はやく帰らないと」と小さな声でつぶやいたのも面白かった。彼等といると、安心で楽しくてあたたかくて、時間が経つのも、自分が何者なのかも忘れることができた。ご飯を作り、お酒を飲んでぼんやりと音楽を聴きながら、ひとりではない夜を過ごすたのしさを教えてくれたのは、出会って間もない成一と野中さんだった。
 早く帰りたい。遅くなったら、きっとふたりとも心配して、雨の中を探し回るに違いない。
「そんな、早く帰りたいって顔するなよ」
 気弱な千葉の声をきくのは久しぶりで、思わず顔をみつめてしまう。まじまじと眺めたおれに向かって、肩を落とした千葉が情けなく笑った。
「あのときはごめん。どうかしてた」
 どうしてもお前を失いたくなくて。
 そう言って、千葉が俯く。膝にのせた手のひらは固く組まれていて、怒鳴る気力も許さないと責める気持ちも萎えてしまった。
「……」
 黙ったまま、ビールに手を伸ばす。飲むことにしたのは、今日なら話ができそうな気がしたからだ。けれども、シラフでは辛かったから。本当に、おれは弱くてみっともない。
「ひとつきいてもいいか」
 見られていることに気付きながら、おれはふたたび窓の外を見た。掠れた声で「どうぞ」と返ってきたので、ビールを呷ってから質問した。
「なんで、半袖着てんの。…身体、見られるの嫌だって言ってなかったっけ」
 きいてから、あれは一回目の話だっけ、と考え、確か3回目の今も似たような話をきいたな、と思い直す。
「ついこないだ嫁さんにきかれたんだ。なんでいつも長袖なの、って。そのときに全部打ち明けたら、あなたは何も悪くないんだから、隠したりせず、堂々と半袖を着ればいいって言われた」
 静かな声だった。でも確かに、愛情を感じさせる声。
 おれは目を閉じて、「いい奥さんだな」と言ってやった。口が裂けてもこんなこと言いたくはなかったけれど。
 千葉は、それには返事をしなかった。かわりに、おだやかな声で「隣に座ってもいいか?」ときいてきた。「ダメだ」と返したが、勝手なあいつはおれの隣にどっしり腰掛けてからおれをのぞきこみ、自嘲の笑みを浮かべた。
「お前を怖がらせてる。…おれのせいだな」
「べつに怖がってなんか」
「一保、気づいてたか?さっきからおれと、目を合わせようともしてないんだぜ。まあ、原因はオレ、なんだろうな。…分かってるけどキツイ。一保の眼が好きだから、ちゃんとおれのこと見てほしい」
 千葉の切なそうな顔。このためなら、何でもできると思った事が、おれにもあった。実際、そうしてきたつもりだ。
 でももう無理だった。
 ビールを一気に飲み干してから、空き缶を千葉に押し付けて立ち上がる。
「千葉。お前は今日、おれに謝るために後をつけたのか。謝って、許してほしかったのか、それだけか?違うだろう」
「一保…」
「お前はまだ戻れると思ってるんだ。あの頃と同じようにできるってな。お前の都合がいいときに会って、セックスして酒飲んで、気楽な話をする。お前は今までと変わらないもんな?女と寝たくなったら寝る、その相手が妻に変わっただけ。そんな風に思ってんだろ」
 見下ろしている千葉の眼が、徐々に見開かれていく。自分でもコントロールできない怒りのかたまりが、言葉になって、千葉にぶつかっていく。
「冗談じゃねえ。――へんなプライドが邪魔して言えなかったけどな、おれはずっと傷ついてたんだ。お前が女と寝るたびに。お前がおれを、都合よく扱って当然って顔をするたびに、心が痛くて苦しかった。なんでもないって顔をしてたのは、自尊心を守るためだよ。本当は、嫌で嫌で仕方なかった。そういうことを言わずにいた、おれも悪かったとは思うけど。もうお前とは一緒にいられない、いたくない」
 二度と、おれの前に現れないでくれ。もうお前のことは好きでもなんでもない。
 そう言って踵を返す。どんな顔をしているのか、見たくなかった。おれの顔も千葉も顔も、きっとろくでもない表情を浮かべているだろうと思った。
 ドアを開こうとした瞬間、腕を引かれて抱きしめられた。その抱擁は、いままで知っていたどれよりも子どもじみていて、必死で、滑稽だった。身体が痛くなるぐらい、強く抱きしめながら千葉が言った。
「一保がいないと、おれ、生きていけないんだ」
 じゃあ、おれだけで良かったじゃないか!そう言いそうになって、かろうじて堪える。力付くでダメなら追いすがる、これも千葉の戦略なのだ。計算高くて頭がよく、いつも人を自分の思い通り動かしてきた千葉。だからこそ優秀だったし、信頼のできるパートナーだった。でもそれは、仕事上でのことだ。
「たまに会ってくれるだけでいい。全部、お前の都合に合わせるから」
「会いたくないし、話すことなんか」
「一保!」
 力付くで腕を引かれて、ベッドに転がされる。またこれか、とおれは思った。結局、力付くか。
「またレイプか?お前、趣味変わったな。無理やりするなんて全然趣味じゃねえって、レイプもののAVなんか絶対見なかったのに。悪いけどそういうプレイがしたいなら家で、嫁としてくれないか?」
 涙と吐き気をこらえながら強がりを言うと、千葉が怒りに満ちた顔で覆いかぶさってきた。
「違う。こうしないとお前、帰っちゃうだろ」
 途端に、身体が震えていうことをきかなくなる。
『――言ってもダメなら、思い知らせるしかないだろう?』
 殴られる痛みと恐怖、体の自由がきかないおそろしさ。
 『2回目』の恐怖がこみあげてきて顔を背ける。怖い、気持ち悪い、逃げ出したい。
 無意識に突き出した腕が、千葉を突き飛ばそうとする。驚いた千葉は、腕を振り払ってムキになった様子で「話をきけよ」と言っておれを押さえつけた。
「おい、どうしたんだよ、大丈夫か」
「……大丈夫じゃない…どいてくれ」
 たぶん、泣きそうな顔をしていたはずだ。
 上から見下ろしていた千葉の眼に、一瞬、劣情のようなものがよぎった。先日よりも優しく手を握っている千葉の様子に、見間違いであってほしいと願ったけれどダメだった。両手をひとまとめにして押さえつけてから、千葉のくちびるが、ゆっくり首筋を辿りはじめる。今度は比喩ではなく、おれは本当に泣いた。泣きながらやめてくれと頼みこんだ。
「いや、だ…さわるな!どいて、っう…」
「…こんなつもりじゃなかったのに。ごめん、一保。お前にさわるの、久しぶりだから」
 シャツの下から入り込んできた手のひらが、円を描くように腹を、胸を撫でる。鎖骨を噛まれ、涙と一緒に声を飲みこんだ。好きなんだ、お前だけを愛してると囁きつづける千葉を見ないように顔を背け、おれは窓の外を眺めた。心は冷たく冷え切っているのに、さわられたところが熱くなっていく。
 抵抗をやめたことをどう受け止めたのか、手を押さえつけていた右手でデニムと一緒に下着を引き抜き、ベッドの横に放り投げた。体に力が入らないのは、恐怖だけではなく諦めもあった。裸になった太腿をひらいて、千葉が忙しなく服を脱ぐ。もう全部どうでもいいと思った。今までの努力が、こいつを忘れたくて家まで変えた努力が、台無しになっていく。
「やりたかったら、すきにしていいから」
 嗚咽混じりの声に、乳首を噛んでいた千葉が顔を上げた。
「成一と野中さんに…ひどいことしないでくれ」
 膝裏を舐められ、声が出た。興奮で形を変えた千葉の性器が、おれの会陰にぬる、ぬると擦りつけられている。その先走りを利用して、千葉が性急に指を入れて中を開こうとする。正面からキスをしようとしてきたが、おれが顔をそむけたので、軽く舌打ちをした。
 押し込まれる指が不快で、痛くて、涙がどんどん出てきて止まらない。あまり泣いたら目が腫れて成一たちに問い詰められる。目を閉じ、心を殺して、彼等のことを考えた。いまごろ、家で何をしているんだろう。ふたりでテレビをみながら、素麺をすすっているのだろうか。野中さんが趣味でつくった、不恰好な風鈴の音を思い出して、おれはそっと心を慰めた。
「きらいだ、」
 こどもみたいな口調だ、と自分でも思った。
「おまえなんか、きらいだ」
「一保」
 手が伸びてきて、強引に視線を合わせられる。顎を掴まれ口を開かされて、舌が口の中に入ってきた。苦しそうな表情は、こっちの息がとまりそうなぐらい必死だ。鼻先がぶつかり、「ふ、う」という情けない声が漏れる。
「おれは好きなんだ、一保」
「いやだ、やめて」
 心が拒否しているせいで、身体がまるで開かない。おれの性器は萎えたまま、足の間でくたりとしていた。強引に開かせた足の間に、千葉が硬くなった自身をねじこんでくる。痛くて、身体がのけ反った。足を持ち上げられ、奥の奥まで千葉が侵入して、ゆさ、ゆさと腰をゆすりはじめる。その動きと一緒に涙が落ちて、次第に身体の奥が熱くなっていく。
 身体の中心が熱くなってきて、自分も興奮しつつあることに絶望した。無理やりでも、意に沿わなくても、こうなってしまう自分が、とんでもなく淫らで堕落した人間のように思えた。眉をよせ、苦しそうに動く千葉の顔は、すこし痩せた以外、何も変わっていないのに。
 おれは汚れてしまった。物のように粗末に扱われ、犯されても、感じてしまうような淫乱に成り下がってしまったのだ。抵抗もせずに受け入れているのは、そうであると認めているようなものだった。泣く資格なんて、おれにはない。
 は、と息をはき、一段と最奥まで突き込まれて、おれのほうが先に達してしまった。腹の上を流れていく精液の上に、一呼吸おいてから千葉のものが引き抜かれ、うめき声と一緒にかけられる。
 もう涙は止まっていた。キスをしようと覆いかぶさってきた千葉を押しのけ、裸のままトイレに駆け込む。
 真冬でもないのに、体がガタガタ震えた。何度吐き出しても吐き気が止まらず、便器にもたれるように吐き続ける。
 遠慮がちなノックの音が聴こえた。一保、と名前を呼ばれて、返事の代わりにドアにもたれた。
 3回目も、ダメだった。このままでは、成一や野中さんを巻き込むことになる。
――やり直すしかないのだろうか。
 抱えた膝に顔を埋め、涙が出ないように、顔をそこに強く押し付ける。
 もう、どうすればいいのか、おれには分からなかった。