1:十年の恋

 海上保安官って、マイナーだよな。
 海保大から10年来の付き合いになる男、千葉創佑が笑いながら言った。
「まあそうかもな。消防とか警察に比べたら」
「仕事はマジきっついのに、認知されてなくて嫌になるわ」
 男らしい眉の下で、切れ長の目をさらに細めながら、千葉が大げさに溜息をつく。
「なんだそりゃ。コンパで女になんか言われたのか」
「仕事聞かれて海上保安官、ってこたえたら、何それー?だってさ。ガックリくるよな、命かけてんのに」
「海猿っていえば分かるんじゃねえの?」
 肩をすくめる。待ち合わせに使うのは、おれが働いているカフェだ。
 駅のロータリー前にあるのでそこそこ繁盛しているが、雇われ店長なので売り上げの上下はあまり給料に関係がないのが哀しいところである。
 今日は休みをもらっていたが、待ち合わせ場所をここにしてもらった。奥まった個室が一室だけあるのだ。
「ほんとかわんねーなー、まだコンパとか行ってんのか」
 おれが笑うと、千葉の奴は嬉しそうに目を細めた。
「ちょっとはやきもち妬けよ!つーかひさしぶりに3管区に帰ってきたってのにお前、冷たすぎるだろ。もうちょい喜べ」
 いつも全く気を遣うことなくコンパや飲み会の参加報告をしてくる恋人に、いちいち嫉妬なんかしていたら精神がもたない。もちろん初めから平気だったわけでは当然なくて、抗議をしたこともあるし、それで本格的な喧嘩になったこともある。けれど、千葉に言われたあの言葉のせいで、もう何かを言う気力を無くしてしまった。

『おれは一保が好きだけど、お前とは結婚できないんだから仕方ないだろ?』

 この言葉の威力は凄かった。罵倒も哀願も、すべての言葉は強引に口の中へ押し込められてしまう。そうだよな、確かにそうだよ。おれとお前は結婚できないし子どもも作れないし社会的承認を得ることもできない。おっしゃる通り。
 そのときは乾いた笑いしか出てこなかった。そしておれは、こいつが誰とどこで遊ぼうが、一切の追及を止めた。簡単なことだ、心を殺せばいい。相手を自分のものだと思うから腹が立つのであって、「付き合ってくれている」「いつか離れていく」と常に自分に言い聞かせていれば、やり過ごすことができた。

 

 

 海上保安官の中でも、おれと同じ海上保安大学校を出ている千葉は、全国津々浦々に転勤がある。
 保大は、官僚でいうところの「キャリア組」のようなもので、幹部候補生を育てるための学校だ。自衛隊でいうところの『防衛大学校』と同じようなもので、卒業すると出世が早い代わりに、異動も多い。
 高校を卒業後、大学の代わりに入る学校になるのだが、身分は国家公務員になるため(このあたりも防衛大学校と同じだ)、給料もボーナスも出る。不景気のこのご時世、海保大は国公立の大学並かそれ以上の競争率を誇っている。
 兄弟が多くて貧しい家庭に育ったという千葉と、海の側で生まれ育ち、泳ぐことを仕事にしたかったおれは、そこで知り合った。
 友人関係だった3年、付き合いだして7年。同じ職場の第三管区にいた数年間を除いて、ほとんどおれたちは遠距離恋愛だった。ある時は大阪、あるときは広島、あるときは沖縄。
 優秀を絵に描いたような千葉は、数年置きに異動しながら順調にキャリアを積んで、出世して戻ってきた。
「お前実家が広島なんだろ。あっちのが居心地良かったんじゃねえの」
「ばかやろ。一保に会いたいときに会えない場所なんて、全部最悪だよ」
 急に心に差し込んでくるので困る。おれは照れ隠しに憮然とした顔をしてみせた。
「バカはお前だよ!まあでも、昇進おめでとうな」
「ありがとう」
 ともすれば冷たく見える一重の眼が、ゆるく微笑む。千葉の笑顔は、いつみてもいい。

 

 

**

 

 

『昇任して、本庁に異動になった』
 電話がかかってきたのは三日前のことだった。
 あまりに急で、おもわず眉を寄せた。自分も数年前までは潜水士として海上保安庁で働いていたので、異動内示のタイミングぐらいは知っている。本当ならもっと前に分かっているはずだし、連絡がなかったから今回もこちらへの異動はなかったのかと一人肩を落としていたところだったのだ。
 それでも、内容としては浮足立つぐらい嬉しかった。電話を切ってから思わず「よっしゃー!」とガッツポーズを決めてしまったぐらいに。
 おれの職場、神奈川県由記市から、本庁のある東京霞が関はとても近い。少なくとも、沖縄や大阪や広島よりは。
 だから、気づかなかった。
 あいつの電話口の声が、いつもと違っていたことに。

 

 店を出ると、珍しいことに千葉がホテルに誘ってきた。普段はおれの家を宿代わりに使うことが多くて、出張のときや会いに来るときも、何の遠慮もなく奴は家のドアホンを鳴らしたのに。
「ちょっと大事な話があるから」と妙に真剣な顔で腕を引かれ、電車を乗り継いでついたところは東京都内のそこそこいいホテルだった。
「給料前で金ないんだよ、そのへんの居酒屋じゃダメなのか」
「おれが出す。とりあえずチェックインしよう」
 是も非もなく体をおされ、高層階のツインへと連れて行かれる。声を発する前に、突き飛ばされてベッドに転がった。ベルトを外すカチャカチャという音が聞こえて、あっという間に体が熱くなる。もう、一か月も千葉とセックスしていない。
 外はまだ明るかった。おれの視線に気づいたのか、チバが立ち上がって、カーテンを閉める。もう一秒だって我慢ならない、というように、荒々しくおれの着ている、体にぴったりの黒いニットをたくし上げ、唇で痕をつけながら吸い上げていく。
「…千葉、靴ぐらい脱がせろ」
「じっとして。おれがするから」
 かずほ、と耳元でささやかれて、震えた。低くてあまくて、この声で命令されたらどんな淫らなことだってしてしまう、そんな威力を秘めている。
「一保、すきだよ。これからもっと会えるようになるから」
 指が、胸の先をくにくにと弄って腹を撫でる。ああ、といやらしい声が自分から漏れていくのが分かる。千葉がいつもほめてくれる、「きれいな顔」とやらは、きっと今ものすごくいやらしくてダメな表情をしているに違いない。
「千葉ァ、ん、ん…して」
 服を全部脱がされて、おれは自分から足をひらいた。こいつになら、何をされたっていい。それは正真正銘の本音だ。恥じらいもなく誘うおれをみて、千葉がごくりと生唾を飲み込む。
「ほんとう、いつみてもきれいで、やらしい」
 普通、同じヤツと10年も一緒にいたら、セックスレスになるんじゃないだろうか。マンネリしたり、飽きたりして、別の刺激が欲しくなるだろうと友人は笑う。
 だがおれたちにはそういった心配は無用だ。付き合ってきた年数は長いけれども離れている時間が多いから、会うたびに飢えている。寂しいとか辛いとか浮気したんじゃないかとか、そういう言葉を言う時間も惜しんで、一緒にいる時間は隙間なく抱き合っていた。
「千葉、大丈夫、なのか」
 唇が体のラインをたどっていく。膝裏にキスをされて身もだえながら、足の間からみえるチバの顔を注意深く眺めた。
「船、降りるの。辛くないのか」
 ガリ、と内腿を噛まれて声が漏れた。平凡だが男らしい顔が苦笑している。
「一保には、バレちゃうか」
「同じ仕事だったんだ。陸に揚がるのは、つらいだろ。分かるよ、海が好きなお前なら、とくに……っ」
 ためらいなく、千葉の手がおれの性器を掴む。ローションで濡らされたそこを、ぬるぬると擦られて腰が揺れた。
「あっ、だめ」
「ダメなの?」
 出世して戻ってきた割には沈んだ様子を見ていれば、大体分かる。海上保安官は、海にいてナンボだと思っているのだろう。特殊救難隊という選りすぐりのエリート潜水士だけが行くことが出来る部隊でしのぎを削っていた千葉創佑は、美しいけれど時折無慈悲なまでに残酷になる海のことを、心から愛していた。
 硬くなっている千葉の局部が見える。そこに触ろうとすると、腕を掴んでベッドに押し付けられた。おれの好きにさせろ、ということらしい。身体の力を抜いてされるがままに身を任せる。
 大きい手ですでに濡れそぼっているおれのものを扱きながら、首にかみつき、思う存分痕を残していく。お互いに同じ仕事だったころは、ウェットスーツを着るために裸になることが多く、痕を残すことは禁忌だった。まるでそのころの欲求をぶつけるみたいに、千葉は今、セックスのたびにおれの身体中にキスを落とし、うっ血を作る。
「一保」
 耳朶を舐められ、頭のなかに吹き込むみたいに、名前を呼ばれる。たまらなくなって振り返ると、顎をすくいあげられ、深いキスがふってくる。口のなかに気持ちのいい場所があるなんて、千葉とこうなるまで全く知らなかった。
「千葉」
 甘えるような声で、苗字を呼び返す。不満げな顔で、「創佑って呼べって、何度も言ってるだろ」と言われながら、とろとろに溶かされた体の中へ、長くて節くれだった指が入ってくる。海で荒れてかさついた指が、知り尽くした気持ちいい場所を押してきて早くも極まりそうになった。
「だってもう、海保大ん時からクセついてるし。今更恥ずかしいんだよ、…あっ」
 前触れもなしに挿入されて、顎がのけ反る。肉食獣のように、千葉が首筋を噛み、汗を舐めて荒い息を吐く。肩の上でゆらゆら揺れる自分の足を眺めていると、腕を首の後ろに回すように持っていかれる。
 激しい動きに、声が抑えられない。酸素を求めて顔を逸らせば、千葉が揺さぶりながら覆いかぶさってきて、唇を蹂躙する。呼吸すら奪うような執拗な舌が、おれの舌に絡まって甘く噛む。
「ん、…お前だけだよ、なまえ」
 鼻にかかった声に、千葉が体を起こしておれを見下ろす。
「どういう意味?」
 険しい表情と隆起する筋肉の動きと、日焼けした滑らかな肌。海に焼けてこげ茶色になった髪と、その下の太い眉。いつも涼しげな一重の眼が欲に濡れていて、たまらなく興奮する。 今、この瞬間千葉はおれのものだし、おれは千葉のものだ。
「おれを一保って呼びすてにしていいのは、お前だけ……」
 これは本当だ。他の友人はみんな、「ムラカズ」とか「村山」とか「カズ」とか、名字で好き勝手呼んでいる。おれが、自分の名前を嫌いだ、と嘘をついているから。
「だから、それで我慢してろ」
「…一保はときどき、急に可愛いから参るよ」
 中で千葉のが大きくなったのが分かる。足を抱え上げて折りたたまれながら、千葉が腰を激しく動かす。指をからめて手をつなぐと、かずほ、かずほ、とうわごとのように名前を呼ばれた。
 硬いもので、体の中を暴き出され、揺らされ、快楽に押し流される。声をおさえるのもやめて、おれは快感の海を泳いだ。必死で息を吸いながら、吐きながら、千葉の肩口を噛む。海の匂いがした。いつもそうだ。舐めた味も匂いも、いつも海だった。
 たくましい腕が、おれをかき抱く。
「千葉、もうおれ、いく」
 下腹部が自分の精液で濡れた。久しぶりのセックスが気持ちが良すぎて、タイミングなんて全然コントロールできない。
 中が締まったのか、千葉が顔をしかめてセクシーなうめき声をあげる。
「く…」
 強く抱きしめられながら、千葉がおれの中で果てた。

 

 

 

「おまえって、いつも海の味がする」
 声が上手く出ない。日が暮れたら自宅に戻るつもりだったのに、結局あれから3回もしてしまったせいだ。果てても果てても、千葉はおれの腰を掴んだまま離さなかった。
 隣の、逆三角形を描く見事な肉体美に惚れ惚れしながら、おれは寝たばこを決め込む。吐き出した煙が天井にぶつかって消えていくのを、千葉もぼんやりとした目で追いながら、指はまだ思わせぶりに頬を撫でてきた。いやいや、もう無理だから。もう絶対出来ないから、若くないし。
「そんな顔しなくても、もうしないって。さすがに明日に響くし」
 目尻にキスをしながら、千葉が笑った。
「千葉のもうしない、は信用できねえんだよ。ちょ、触んな」
「久しぶりだったから、燃えちゃったな。一保、やらしーんだもん。涙目でじっと見つめてきてさあ…。そういう顔絶対よそですんなよ」
「気持ち悪いこと言うなバカ」
 フン、と鼻息も荒くそっぽを向く。そういう顔も可愛い、と千葉が頭のおかしいことを言って横抱きにしてくる。
「海の味ってどんなの?」
 舌が、耳の後ろから首筋へとおちていく。いやらしい声が出てしまって、慌てて両手で口をおさえた。本当にこれ以上は明日に差し障る。もう現場に出ない千葉からすれば、これからはセックスし放題だとでも思ってるのかもしれないが、やられる方は負担が大きいんだから勘弁してほしい。
「潮の匂いと、なまぐさい生き物の塩辛い味だよ」
「なまぐさいのかよ、おれは」
「生き物はみんな生臭いだろ」
 潜水士をしていたころは、肺活量への影響を考慮してたばこなんて絶対吸わなかった。海の警察と呼ばれる海上保安官の仕事は気力と体力が命だったから、自分の体を労わるのも業務のうちだった。だから千葉は今でも、たばこは絶対に口にしない。
――はずだったのに。
「一本くれよ」
 言われた言葉に目を剥いた。あの千葉が。普段はちゃらけていても、業務に対してはストイックを極めている千葉が。
「何いってんだ。ダメに決まってんだろ」
「もういいんだよ」
 苛立ったように言われて、はっとした。こいつは船を下りたんだってことを、すっかり忘れていた。
「話ってなんだよ。何か言いたいことがあるんだろ」
「とりあえず、一本くれよ」
 無言で口にタバコをくわえさせて、ライターで火をつけてやる。肘の上に頭をのせてこちらを見ている千葉は、やはりいつもと少し違って見えた。普段にないやさぐれたような、自暴自棄の雰囲気が見え隠れしていた。
「一保みたいな美人に毎日火をつけてもらえたら、おれはタバコ会社に魂だって売るね」
「くっだらねえ。おい、布団焦がすなよ」
「顔に似合わないその口の悪さ、なんとかならないものかね。まあおれはギャップ萌えだけどさ」
 灰皿に灰を落とす様子が妙に手馴れている。おかしい。とても今日が初めてという様子じゃない。
「……いつからタバコ吸ってんの」
「最近だよ、一か月前ぐらいから」
 ふう、と大きく息をついてタバコを灰皿に押し付ける。おれの鼻に、唇にキスをして、千葉が微笑む。
「どうした?」
 何か言いたそうな顔だとおもった。付き合いが長いから、そういうことは手に取るように分かってしまう。
「いや。もうすっかり夜だな。メシ食いにいこう。話はそれからにする」
 隠し事をしているときのヤツの行動は、長い付き合いだからイヤってほどみてきた。
 それでも追及しなかったのは、こわかったからだ。
 長い遠距離恋愛期間で、何度も怪しいと思うことはあった。でも見て見ぬふりを決め込んでいた。それぐらい、『おれとお前は結婚できないんだから~』はおれの心を抉った。まさに会心の一撃と言っていい。
 即死してもおかしくないほどの心のダメージを負って以来、相手に誠意を求めることをやめてしまった。嘘すらついてくれない、言い訳のひとつも考えないであろう千葉に、これ以上心や自尊心を傷つけられたくない。
「そういや腹減ったな。焼き鳥でも食うか」
 嫌なことはいつも通り酒を飲んで忘れることにしよう。
 デイユースのホテルをチェックアウトし、シャワーを浴びて着替える。
 ふたりで浴びるほど酒を飲んで店を出た頃には、もう日付が変わる寸前だった。

 

 

 

 おれが住む街は神奈川県由記市の南区で、アパートを出たら徒歩5分で海に出れる場所だ。勤務先の駅前店舗までは、バスで20分。
 潮の匂いをかぐと、家に帰ってきたんだなあと思ってほっとする。
「終電間に合ってよかったー」
「バスはもう無かったけどなあ。一保、鍵はどっちのポケット?」
 タクシーで駅から家まで送ってくれたのも、へべれけになったおれを背負ってドアの前まで運んでくれたのも千葉だ。さすが元特救隊員、おれ一人運ぶぐらいなんてことないらしい。
「右か左」
「それをきいてんだよ」
 笑いながら、手で鍵を探り出してドアを開けてくれる。開いた勢いで首にからませた腕をひっぱり、廊下に千葉を押し倒す。ドアが音をたてて閉まって、千葉が驚きと興奮を足して二で割ったみたいな顔でおれを見上げた。
 唇を舐める。手のひらがおれの腰から尻をゆっくり撫でまわしていく。この男はおれから官能を引っ張り出すのが本当に上手い。
「泊まってくだろ?…もう一回、しよ」
 何故か困った顔をして、千葉が体を起こす。誘って断られたことは今まで一度もなかったので、背筋が寒くなった。
「今日は泊まれないんだ。帰るよ」
「もう終電もねえのに。じゃあなんで家にきたんだよ」
「一保、歩けそうになかったし。一人で帰すの心配だったから」
 スーツ姿の千葉が立ち上がり、ドアの前に立つ。不安と嫌な予感で、変な汗がでてきた。
「……じゃあ、大通りまで送る」
「バカ、それじゃ送った意味ないだろ。…でも、そうしてもらっていい?もうちょっと一保と一緒にいたいから」
 いよいよ本格的におかしい。千葉は、こんな甘い言葉をいう奴じゃない。愛情表現は惜しみないタイプだけど、まるで何かを取り繕ってるみたいだった。
 それでもおれは何も聞けない。
 脱いだばかりのスニーカーを履いて、手を繋いで歩く。とうとうこの時が来たか、というきもちと、そうであってほしくない、という祈りが交互にやってきて心のなかをぐちゃぐちゃにする。天気の話ぐらいどうでもいいことを千葉が喋って、上の空で「おー」とか「ふーん」とか相槌を打つ。
 いつの間にか、お互いに沈黙していた。月が妙に明るく、潮騒が耳に心地良い。こんなときでも海を感じてしまうのは、やっぱりおれが未だに、海に未練があるせいなのかもしれない。
「…あのさ。さっきホテルで言えなかったんだけど」
 大通りに着いて、3台ほど通りかかったタクシーを見送った後で、ようやく千葉が重い口を開く。
「なんだよ。彼女でも出来たのか」
 覚悟はしていた。いつそうなってもおかしくなかった。それでも声が上擦ってしまい、情けなくて涙が出そうだった。
「誓って言えるけど、おれが本当に好きなのは一保だけだ。それは男とか女とか関係なく、一生一緒にいたいと思ってる、でも」
 目の前に立っている男は、真っ直ぐおれの眼をみて信じられないことを口にした。

「結婚したんだ。子どもができた」

 

 した。結婚するんだ、じゃなくて、した。
―――既にしてるのかよ!!おまけに相手は新しい命まで宿してんのかよ!

 目の前が真っ白になった。一度だけ経験したことがある。貧血だ。
 今倒れるなんて卑怯だし、弱くてダサくて絶対に嫌なので、おれは両足を踏ん張って耐えた。これまで何回も何十回も、こういうときがきたらこうしよう、と決めていたシュミレーション通り、無理に笑みを作り、10センチほど上にある千葉の眼をひたりと見据える。
「そうか……おめでとう」
 よく言った。本当に、今ばかりは自分を自分で褒めたい。本来なら大声で泣きわめきながら地団太を踏んで嫌だ嫌だと叫びたい。でもそんなことしたっておれは子供を作れないし、千葉は幸せな家庭を築けないし、女の人にも子供にもなんの罪もない。子どもはみんな幸せになるために生まれてくるのだから、それだけは邪魔することなんて出来ない。
「ありがとう…」
 なんとも言えない複雑な表情で、千葉が言った。さすがに満面の笑みで「とうとうおれも父親だ!」とか言って笑っちゃうほど、無神経でもなければ薄情でもなかったらしい。
 泣ければいいんだろうな、と頭の奥で考えた。涙をぽろぽろ落として、まるで猫のような目と形容される眼を哀しげに歪めて、泣いてしまえば千葉はきっと困るに違いない。ひょっとしたらもう一回ぐらい抱いてもいいかな、と思うかもしれない。
 でもおれはそういう人間にはなれない。泣いて解決することなんてこの世に何もない。なら泣くだけ無駄ってもんだ。傷は傷として乾いて治癒していくのを待つしかない。
「…もう父親なんだから、タバコなんかやめろよ。あとコンパも」
「うん」
「元気でな。いや、やっぱちょっと腹立つから死なない程度の病気にかかっちまえ」
 踵を返す。さすがにもう、笑う余裕はどこにもない。
 かっこよく立ち去ってやろうと思って、ハードボイルド気取って歩きはじめようとすると、腕を掴んで引き寄せられた。耳元で、千葉の低い声が再び驚愕の言葉を紡ぐ。
「そんな、最後みたいなこと言うなよ。別れるみたいじゃん」
「……ん?」
 驚きのあまり出てきそうになった涙も引っ込んだ。振り返ると溜息まじりに胸のなかに抱きこまれる。
「いや、だって別れるってことだろ。おまえ結婚するんだし、こどもも」
「そうだな、それは事実として、ウン」
 車のヘッドライトが何度も行き過ぎる。ぴかぴかした明かりに照らされた千葉の顔は――いつもどおり、微笑んでいた。
「でも何も変わんないよ。おれが一番すきなのは一保だって言ったろ?」
 まるで言葉が通じない外国の人間と話しているような気持ちになった。何を言ってるんだ、こいつは?
「だから何だよ。別れるしか選択肢ねえだろ、この場合」
 こんどは鼻から息を出して、千葉が笑った。
「なんで、別れることになんの?お互い好きなのに」

 周囲を見渡しただけ、まだマシだと思ってほしい。歩道沿いの芝生を確認して、低い声で問いかけた。
「…お前、受け身はとれるよな?」
「え」
 返事を待たずに千葉の胸倉をつかみ、腕をとったおれは――雄叫びを上げながら、一本背負いで芝生の上に投げ飛ばした。