Right Action

【番外編】嘘つきな犬

 はじめは少し怖い人だと思った。やけに眼がきれいで、視線がまっすぐ過ぎたから。

「千歳、酒弱いのか?」
 取引先の関係で飲み会に参加したときのことだ。僕よりも背が高い成田先輩が、心配そうな顔でのぞきこんできた。
「それ貸せ。おれが飲むから」
「ふえ、すいません……」
 弱いのかどうか、という問いに対して答える前に、成田先輩が僕のビールジョッキを取り上げ、空になった自分のものと交換した。
「一次会で帰っていいぞ」
 僕にしか聞こえない小さな声で、成田先輩は言った。それから、僕のほうは振り返らずにオーナーや関係者と何気ないやり取りを交わしていた。
「あの、」
「いいよ。まだ慣れてなくて疲れるだろ?でも週明けは契約取ってこいよ、あそこまで押せばとれるだろ」
 パーティ会場は、取引先の海鮮炉端焼きの店だった。クラフトビールと料理のマリアージュ、をテーマにしたその日のパーティに、僕たち鳳凰ビールも参加していたのだ。
 入口まで送りに来てくれた成田先輩は、時計を気にしながらも手を振ってくれた。
 相変わらず、はじめて会ったときから変わらない、まっすぐな眼だった。

 彼自身がそれを知ってほしくなさそうだったので伝えていないけど、僕は、成田先輩のことを知っていた。成田悠生。神奈川の、ボーイズリーグで野球をしていた人間ならだれでも知っていたと思う。僕も、彼のプレイを目の当たりにして、衝撃を受けた者のうちのひとりだった。コントロールが抜群で、速球も投げられる、足の速いピッチャー。当時野球をはじめたばかりだった僕にとって、成田先輩は遠い憧れの人だった。(当然ながら、彼は三つ下の小学生のことなんて、覚えていない)
 そんな成田先輩が、何の未練もなく野球をやめてしまったのは、間違いなく彼の義弟の影響だろう。成田周平、中学のころから百五十キロ近いストレートを投げ、強い肩とそれよりもさらに強靭な精神力を持ったピッチャーだ。彼の弟は、生まれながらのスターだった。
 成田先輩はとても不運な人だった。弟が、成田周平が同じチームに在籍していなければ。彼はずっとレギュラーとして投げていたし、高校に入ってからも野球を続けて、甲子園にだって行けただろう。けれど彼はとても潔く賢い人間だった。中学少年野球チーム日本一を決めるジャイアンツカップ決勝戦の七回裏、彼はマウンドを弟に譲った。そして二度と投げることはなかった。

「……説明は以上だ。何かわかりにくいところがあったか?」
 一重の、ともすれば強すぎる視線が僕をパチンと射抜いて、思わず背筋が伸びた。
「いえ、ありまひぇん」
 とっさのことだったので噛んでしまった……。恥ずかしくて赤面した僕の前で、成田先輩はあの切れ上がった一重の目をぱちぱちさせた。
「本当に?一年目なんだから、遠慮せずになんでも聞いて来いよ。おれは気が利かないところがあるから、千歳が困っていても気づけないかもしれないし」
 低い声と尖った喉の骨。日焼けした肌に高くて男らしい鼻筋。どこからどうみても、彼はかっこいい男性だった。おまけに顔が良いだけじゃなく、鋭い目つきや淡々とした話し方、それに大きな手足にがっしりとした胸板という、成人男性ならだれもが羨む体格の持ち主だった。
「大丈夫です。成田先輩の説明、分かりやすくてすごく助かります!いつもありがとうございます」
 椅子から立ち上がって頭を下げると、彼は少し頭をのけ反らせていった。
「大げさだな。いいんだよ、お前を指導するのもおれの仕事だから」
 滅多に笑わない彼の唇に、わずかな笑みが乗って嬉しくなった。ああ、興奮する。笑うとなんだか少年みたいですごく可愛い。
――ゲイにモテそうなノンケだよなあ。美味しそうな男、って感じ。
 僕は欲望を隠して彼をそんな風に評した。
 あのシャツを脱がせて、ネクタイで腕を縛って、悔しそうに泣くところが見たいな。おそらく何不自由なく女の人を抱いてきた彼のアイデンティティが、ボロボロになって崩れ落ちる瞬間を想像しただけで、背筋が震えるほど興奮する。
 そんなことはおくびにも出さずに、僕は成田先輩の袖を引いて上目遣いに微笑みかける。人懐っこい子犬、チワワみたいだと言われる顔と甘えた声を駆使して、彼の警戒を少しずつ解く。

 僕は生まれつきゲイだ。それについて何の感慨も劣等感も抱いていない。例えるなら、花には青いのと赤いのがあって、赤いのがとてもめずらしい、みたいなことでしかなく、家族も全員知っているし、カミングアウトしたときの反応も極めて薄いものだった。確か「ふうん」の一言だったと記憶している。ふうん。世界中の人がみんな、そんな風に思ってくれればいいのにな。だって異性愛者は「異性愛者です!」って宣言して歩いたりしないし、そのことに対して誰かが文句をつけたり悪口を言ったり拒絶したりしないじゃないか。なぜ同性を好きになるというだけで、カミングアウトだのアウティングだの、拒絶だの受け入れだの、大げさな話にされないといけないんだろう。道に咲いている花が珍しいものだからといって、いちいち摘み取ったりしないのと同じで、そっとしておいてくれればいいのに。
「ありがとうございました、失礼します!」
「またね~!あ、こないだアドバイスくれたメニュー、めちゃくちゃウケよかったわ。ありがとうさん、千歳くん。やっぱあれやな、レストランで働いてただけあるわ」
「それは良かったです。またごはん食べにきますね」
「いつでも来てな。成田さんとふたりでおいで」
 ドアの手前で深々と礼をしてから、営業車に乗り込む。ようやく慣れてきた仕事にやりがいを感じはじめて、僕は意気揚々とエアコンのスイッチを強にした。
 加太から和歌山市内に向かって車で走るとき、それはもう美しい海岸沿いを通るのだけれど、首都圏や東海地方の内陸部に住んでいた僕にとって、その風景は運転するのに危険なほどの誘因力があった。晴れていれば、どこまでが空でどこからが海なのか分からないほど、青く光る海が道路脇に続いているのだ。それはもう、地球は青いんだよなあ、と納得させられるほどの迫力だ。
 窓を開け、ラジオをつけて、僕は大声でTHE CLASHの「I Fought the Law」を歌った。成田先輩が好きな歌のひとつだから、すぐに覚えられた。

 事務所についてすぐ、卓上カレンダーを一枚めくって気合を入れた。七月だ。いよいよ夏本番というやつである。ビールがよく売れる時期だし、イベントごとも増える。今日も終業後、成田先輩と羽田さんと影浦さん、四人でイベント会場のビール売りを手伝う。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
 事務所の中にいたのは成田先輩と羽田さん、影浦さんだけだった。課長や事務の社員はみんな帰宅してしまっている。時計をみると夜の七時過ぎだった。そういえば、今日は水曜日でノー残業デーだ。ノー残業デーは残業禁止なので、飲み会やイベントのある社員以外はみんな定時で家に帰される。
「どうだった?」
「成田先輩のおかげで取れそうですっ!」
 自分のデスクにすら寄らずに、僕はまっすぐ成田先輩のところへ駆け寄った。彼は椅子からはみ出した長い脚の上に手のひらを置いて、目を眇めて立っている僕を見上げた。
「そうか。取れたらお祝いに飲みにいこうな、……って仕事で飲みすぎていらないか」
 できることなら飲みじゃなくて植物園や美術館に行きたいし、そのあとあわよくば酔わせてホテルに連れ込みたいところだけど、今はまだその時じゃない。大体、もうふたりで飲めるなんて計画よりもずっと早いじゃないか。してやったり。大した契約でもないのに、見かけによらず優しい成田先輩は思っていたよりも喜んで祝福してくれた。
 正直小躍りしたいぐらいの気持ちだったけれど、全部押し隠して、僕は犬のように彼の周りをぐるぐるまわりながら喜んだ。頭の隅には、例の噂が浮かんでいた。成田先輩が高校生のころに流れた、彼にまつわる信じられない噂だ。こうして本人と接していると、全く信じられなかった。噂のような、誠意のかけらもないことをする人物だとは、どうしても思えない。
「行きます行きます、絶対行きたいですっ」
「そんな高いところには連れてってやれないけど」
「どこでもいいんです、成田先輩といけるなら」
 おっと、言いすぎてしまったかもしれない。
目を瞠った成田先輩は、しばらくするとぎこちなく視線をずらしてから立ち上がってロッカーの方へ消えてしまった。
「僕、変なこといいました?」
 いつもの甘えるような声と不安気な小型犬のような表情で隣の羽田さんに問いかけると、彼は呆れたような笑みを浮かべて首を振った。
「照れてんだよ、あれは。不愛想だけど照れ屋なんだあの人。か~わいいだろ?」
 チッ、と顔を反らしてバレないように小さく舌打ちする。
 羽田さんの「知ったかぶり」には相変わらず苛々させられるけど、貴重な情報を流してくれたりもするので、邪険にもできない。
 この人、あまりにも成田先輩にベタベタするので、一度「もしかして成田先輩のこと恋愛感情として好きなんですか?」とストレートを打ち込んだことがある。そうしたら羽田さんは、一瞬真剣な顔で黙った後で、のけ反って大笑いした。いや、そりゃ先輩としては大好きだし尊敬してるけど、あの人男じゃん、あるわけないでしょ、という言葉をきいて一旦は敵枠から外したのだけれど……。まだ敵予想は「△」ってところで、「×」にはなっていない。
 成田先輩がロッカーから戻ってきた。汗をかいたシャツを着替えて、ネクタイも締めなおしている。短い黒髪もさっと撫でつけられ、男前が三倍増しになった。ポイントはあくまでラフなところ。この人はこんなにかっこいいのに、自分の魅力なんて全くわかっていないのだ。そういうところも最高だ。あー、抱きたい。ガツガツにヤりたい。
「じゃあ出るか」
 先に成田先輩が、次に羽田さんが事務所を出る。カードキーを持って後に続こうとした僕の顔に影がさして、嫌々顔をそちらに向けた。
「相変わらずだな、偽チワワ」
――出た。敵予想「◎」の影浦仁。耳元でぼそりと囁かれたソレに、僕はにっこり笑って「なんのことでしょうか?」と問いかける。
「あんなのがいいなんて、お前の目と趣味は最悪だな」
「じゃあ近づかないでくださいよー。成田先輩にちょっかいかけたくて仕方ないくせに、いやらしいなあ」
 影浦さんはひょいと眉を上げ――ものすごく美しい、悪魔が実在したらこんな顔だろうという笑みを浮かべて――言った。
「事情があるんだよ。別におれはあいつのことなんかなんとも思っちゃいないさ」
「うわ。よく言いますね、しょっちゅう成田先輩のこと見てるでしょ、僕知ってますよ」
 くつくつと笑った影浦さんは、ふわりと前髪をかき上げて(またこれが、とんでもなく魅力的な仕草で苛立ちはピークに達した)、僕の額を人差し指でつついた。
「可哀そうな新千歳。ひとりでキャンキャン吠えてろよ」
 この余裕を牽制だと思っていた。
 そう、今日までは。

 七月の第二週、よく晴れた朝にその事件は起こった。

「成田先輩、それやばくないっすか」
 朝礼が終わって席につくと、羽田さんが眉をひそめて小声で言った。 この人はいつも表現が大げさで、「やばい」ものは大体やばくもなんともないし、「まずい!」って叫んでも大したことがない。だから僕は、あまりその話を聞いていなかった。
「……千歳、ラヴィエールさん今日行っとけよ。多分あと一押しだから」
 PCを取り出して立ち上げていたら、成田先輩が低い落ち着いた声で僕に話しかけてくれた。嬉しくて、それを伝えると、成田先輩も「懐かれてまんざらじゃない」みたいな、単純な可愛い顔をした。僕が夜な夜な、あなたのことを考えながら何をしているかも知らないで……。
 変だなと思ったのは、羽田さんが携帯端末で成田先輩の後頭部を撮ったからだ。一体なんだろう、勝手に写真を撮るなんて厚かましい奴だな。そんな風に思いながら、気軽に画面をのぞいて仰天した。
 硬そうな、けれど艶のある黒髪の、短いえりあし。なんだか噛みつきたくなるような、健康的で色気のある項に、残っていたのは――誰がどうみても、キスマークだった。
よほど執拗に吸われたのか、赤紫色のうっ血がいくつも重なり合い、その真ん中にはご丁寧に、噛み痕まで残っている。
 体中の血が沸騰しそうだった。いや、していた。あの野郎、とつぶやきそうになって、なんとか堪えた。
 ふざけんな、あの野郎、殺してやりたい。
 頭の中を罵倒が駆け巡って、必死で抑え込んだけれど顔はおそらく真っ赤になっていただろう。何か言わなきゃ、と思うのに、うまいことばが出てこなくて、なんとか絞り出したのがいつものいい子ぶりっこらしい「ふけつです……」という哀願するような声だった。

 影浦さんご自慢のBMW―X5の前で待ち伏せしていると、まるで予想済だったみたいに、本人がゆっくり歩いてきた。表情を探ったけれど、日が暮れているせいでよくわからなかった。
「成田先輩と寝たのかテメエ、あァ?」
 こんな声を出すのはいつぶりだろうか。大人しいチワワを演じているほうが楽だったのに。
 質問にもなっていないような、叩きつけるような声に、影浦さんは肩をすくめた。
「気にすんなよ。対価の支払いであって、恋愛感情に端を発するものじゃねえし」
 薄い色をした瞳が、僕をいたぶるように細められる。もう我慢ならなかった。
「――ざけんな、このスケコマシが。女だけたらしこんでりゃ見過ごしてやったものを、調子に乗ってんじゃねえぞ、金持ちのボンボンが!!」
 唐突な大声にも、影浦さんは声を発しなかった。もしかして、怖がってる?だとしたら面白いけど、僕のこれまで観察してきた彼という人間は、こんなことぐらいで動揺したりしない。
 自分より背の高いこの男の胸倉を掴んで持ち上げると、「おお、力持ちだな」とばかにしたような声が返ってきてカッとなった。思いきり左頬をぶん殴ると、彼は首を反らし、切れていた唇からまた血を流してからニヤリと笑った。
「さっすがガラが悪い。かつて暴走族で頭張ってただけのことはあるなあ?新人の千歳くん」
 どうやら僕の素性はすべてお見通しらしい。けどそれが何だ。こっちは冗談抜きで「盗んだバイクで」走り出し、学校の窓ガラスは全部割り、暴力と罵倒にまみれて生きてきたのだ。くぐってきた修羅場の数がまるで違う。大学から東海地方に引っ越して、親が離婚して姓も変わって、何もかも隠して生きてきたけれど、あの頃の自分はまだちゃんと存在している。昔から欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばない性質だ。
「あの人はノンケだろうが。クスリでも使ったのか、白状しやがれ」
「熱くなるのはやめとけって。そんな価値ないぞ、あの男に」
 まるで地の果てに吹く風みたいに冷たい声で、影浦さんが言った。
「成田はおれやお前のことを好きになったりしない。もちろん、おれだって成田のことが好きなわけじゃない。そんなわけあるかよ、勘違いすんな」
 僕の手のひらを振り払ってから、影浦さんが「そうだ、」と思いついたような顔をした。
「礼を忘れてた」
 目の前がちかちかした。
 ケンカなれしている僕も一瞬気を失いそうになるほど、強烈な右ストレートを食らって、ぶざまにBMWのタイヤのそばに転がる。マジかよ、と声が漏れた。温室育ちのボンボンじゃなかったのかよ。
「知らなかったのか?人を殴っていいのは、殴られる覚悟があるやつだけだ。じゃあな、新千歳。成田のキスマークでもネタにして、家でコイてろ」
 ずるずると駐車場の隅に僕を引きずり、運転席に乗り込む。
 半分ほど下げたウィンドウから、影浦さんの手が見えた。手の甲をこちらにみせ、中指だけが空を指している。
「先こされた、クソ!」
 営業先を奪われたときの一万倍悔しかったが、大声で叫んでもむなしい。完敗だ。――いまのところは。
BMWは、切れ味鋭いエンジン音を鳴らしながら、国道へと消えて行った。