Right Action

7.

 母は何かに依存がちな人だった。
 結婚する前は酒に依存していて、断酒会を主催していたカウンセラーの実父と知り合ったらしい。いまだに酒は一滴も飲まないし、揚げ物もほとんど口にしない。酒につながるものを一切断っているのは完治したからではなく、永遠に治らない病気と闘い続けているからだ。
 父親が死んでからは、仕事に依存した。もともと頭はいい人だった。弁理士の資格を取得し、知り合いの事務所で働きはじめ、やがて仕事で再会した大学時代の知り合いと結婚した。男には連れ子がいて、それが周平だった。

 どうして家で口をきかないの、と周平は問いかけてきた。毎日だ。
 理由ははっきりしていたけれど言いたくなかった。おれは首を振って周平をやりすごした。
 小学生のころに母親が再婚をしたのだが、懇談やイベントが別々の学校だと面倒だという理由で、おれはそれまで通っていた学校から私立の小学校(大学までエスカレート式の幼稚舎だ)に転校させられた。両親はバカ高い学費を払って生粋の金持ちたちの中に放り込み、母親はときどき「学費が高い」と文句を言った。おれは頼んでもいないのに知らない人間ばかりのところへ行かされる怒りと、居心地の悪さに閉口し、小学校を卒業するまで家では口をきかなくなった。
 やたらと立派な施設が整っている私立小学校の中で、ひとつ下の学年に在籍していた弟は、毎日放課後や休み時間に遊びにきた。
「お兄ちゃんって呼んでいい?」「やだ」「じゃあなんて呼べばいいの」「悠生でいい」「呼びづらい。悠くんて呼ぶ」「好きにすれば」
 ある梅雨の日は、友達がいなかったおれがひとりで下足場の中で立って雨が止むのをまっていると、友達に囲まれて歩いてきた周平が傘を差しだしてくれた。同情されたようで腹が立って、おれはその手を振り払って走って駅に向かった。夏休みに入っても、「虫取りにいこうよ」「川に遊びにいこう、カニがいるよ」「クワガタとれる木をみつけたよ」と周平はおれを勧誘し続けた。正直、子ども心にクワガタには心が揺れた。けれどおれは歯を食いしばり、「いかない」「遊ばない」とそっぽを向き続けた。
 あるとき、義父に「ちょっといいかな?」と声をかけられてふたりで話をした。おれが怒っていたのはあくまで母親に対してだったので、父親の呼びかけには応答していた。ただ、家族という受け止め方はなかなかできなかった。周平も父も、あるとき突然やってきて「家族になるよ」といってその事態を受け入れて当たり前のようにすごしていたが、おれにとってそれはとても異常なことのように思えた。赤の他人が、結婚をしたから、という理由だけで家族になって一緒に暮らすなんておかしい。おれが結婚したわけじゃない。母親の都合じゃないか。
「悠生くんが怒るのも、もっともだと思う。じつは僕は、同居はもう少し先にしよう、とお母さんに言ったんだ。転校にしたって、突然環境を変えるのはかわいそうだと思った。もし僕が君の立場なら、もっと怒ったり泣いたりしたと思う。けれど、彼女はとても疲れていて……きみに家のことをさせていることもつらかったみたいでね。ほら、僕は在宅の仕事をしているから、家事なら少し力になれるし」
 おれは何も言わずに、父親の奥、窓から見える庭の木を眺めていた。梛の木だ。おれが生まれたときに父が植えた木で、一緒に育っていくのを楽しみにしている、と言っていた(らしい)。なにしろ物心つく前に亡くなってしまったので、思い出らしいものといえばあの木ぐらいだった。
 おれに誘いを断られた周平が、拗ねた顔で木の根元にもたれて眠っている。庭には父の趣味でたくさんの植物が植えられていて、荒れ放題だったものを、義父が少しずつ手をいれて美しい庭によみがえらせたのだった。
「周平、あの木が好きでね。よくああやってもたれて眠ったりしているよ」
 笑い交じりの声でそう言われて、視線をそらして俯いた。決してほめられたものではないおれの態度にも、義父は全く動じず、ゆっくりとした声で話しかけてくる。
「君のお母さんはね、まだ君の、亡くなったお父さんのことが好きなんだ」
――驚いて顔を上げると、「やっとこっちを向いてくれた」と義父が笑った。
「お母さんが僕と一緒にいてくれるのは、ひとりじゃ寂しいから。でも、僕はそれでもいいと思ってる。一番も二番もおんなじだよ。好きな人と一緒にいられたら、それでいい」
「よく、わかりません。おれはいやです。知らない人と暮らすのも……自分のことを好きじゃないひとと、結婚するのも」
 うん、と穏やかにうなづいてから、義父が言った。
「悠生くんもいつか、好きな人ができたらわかるよ。それに……」
 義父は立ち上がり、ココアを入れておれの前に置いた。言ったことはないのに、どうしておれの好物を知っているんだろう?驚いてじっと目をみると、いたずらっぽく、へたくそなウィンクを返された。
「これから先も、二番目だとは限らない。君のお母さんのハートを得るべく、僕は毎日努力する。努力とは言わないかもしれないな、やりたくてやっているから。君の愛だっていつか勝ち得るかもしれない。お父さん、って呼んでくれる日が来るかもでしょ?君の好きなものを覚えて、君の力になっているうちに、たとえお父さんの代わりにはなれなくても、君にとって必要な「家族」にはなれる、と、いいなあって……」
 ココアは甘くて、甘すぎて、全然おれの好みじゃなかった。けれど、自分のこどもでもないおれのために好きなものを知ろうとしたり、理解しようとしたりしてくれることが嬉しかった。母親でさえ、こんな風に歩み寄ってくれたことはなかった。
「…お母さんより、よっぽどお母さんみたいです」
「あはは。まあねえ、お母さんは頭はいいんだけど、人の心を察したり、思いやったりするのが苦手なんだよ。そのくせ寂しがり。だから悠生くんにとっては、少し付き合いづらいかもしれないね」
「なにそれ。母親失格じゃないですか」
 義父が驚いたように眉を上げて、それから困ったように、目尻を下げた。
「母親にも、父親にも資格なんかないんだよ。こどもができたらみんな親だ。けれど向き不向き、得意不得意がある。誰にだってあるでしょう、悠生くんが甘いものが苦手みたいに」
 ごめんね、と言って義父がココアを下げようとしたので、おれは急いで全部飲み干した。
「僕もね、いまでこそ父親みたいなこといってるけど、昔は全然だったよ。仕事ばかりしていて、奥さんにも逃げられたしね。けれど、今は周平や君や、君のお母さん……凪さんと一緒にいる時間を大切にしたいんだ」
 まだ幼かったけれど、この人の仕事が言葉を武器にしたものだと分かっていたおれは、内心「口がうまいのも、言葉を使う仕事だからだろうか」とぼんやり考えた。どこまでもひねくれている子どもだった。そのくせ自分の意思を声に出して主張するのが苦手だったので、ただ黙っているだけの弱虫だった。
「いま、うさんくさいなあこいつ、って顔してた」
「えっ」
 多分動揺が顔に浮かんだのだろう、義父は声を上げて笑った。
「うそだよ。かわいいなあ、もう」
 義父がリビングを抜けて窓を開けると、周平が目を覚ましてこちらを見た。普段どれほど近寄ってきても付きまとわれても冷たくあしらっているのに、おれが見ていることに気づいた周平は、まるで飼い主を見つけた子犬のように嬉しそうな顔をして、窓からこちらに走ってきた。
「悠くん、はっぱ取れた」
 周平がにこにこと笑いながら、梛の葉を手渡してくる。おれはそれを受け取り、蛍光灯のあかりに照らして、透かして眺めた。縦に細い葉脈が張り巡っていて、引っ張っても破れそうにないほど強い葉だった。
「こら、周平。もぎ取ってきたんだろ、ダメだよ、木が痛がるよ」
「ちがうもん。おちてきたんだもん」
 周平がこちらをじっとみつめている。一瞬、こんな葉っぱ、ずたずたに裂いてやったらもう話しかけてこないかな、と考えたけれど、結局できなかった。葉は強く、周平の眼は学校ではみかけたことがないぐらい、まっすぐできれいだった。
「ありがとう、しおりか何かにする」
 おれの言葉に、周平が目を見開いてから破顔した。となりで義父も相好を崩している。
「悠生くん、梛はお父さんが植えたってきいている?」
「はい」
「梛はね、熊野のご神木でね。金剛童子の化身と考えられているんだ。葉は強くてなかなか破れないだろう?主脈がないんだよ。それに裏をみてごらん。きれいだろう」
 言われるがままに葉を裏返すと、確かに表とほとんど変わらないぐらい、美しい色つやをしていた。
「凪とも通じる音から、昔は漁師や船乗りのお守りだったんだよ。木自体の立ち姿もとても美しい。あれはね、祈りなんだ」
 不思議そうに首を傾げた周平が、義父に訪ねる。「なんの祈り?」
「凪のように、穏やかな人生を歩みますように。裏表のない、正直な子に育ちますように。梛の葉のように、うつくしい子に育ちますように。君の幸福を祈る木だ。あれは、お父さんだけじゃない。お母さんとふたりで植えたんだよ」
 はっとして、義父を見上げた。彼の手はおれの頭と周平の頭を交互に、平等に撫でた。やさしくてあたたかい仕草だと思った。
「お母さんは不器用な人だけれど、君だけは分かってあげてほしい。今はわからなくても、いつか」
 意味がわかっていない周平が、梛の葉を頭にのせて「変化」などといって遊んでいる。それをみているといつの間にか、おれも笑っていた。

*******

 影浦のセックスは容赦がない。声を上げて許しを請うても、絶対に途中でやめないから次第におれも何も言わなくなった。運動だと思うことにした。セックスも広義でいえば運動のひとつである。生殖を目的にするか、快楽を目的にするかだけの違いで、体を動かしてカロリーを消費する、という意味では同じだ。
 認めたくはなかったが、影浦は体を使うのが上手かった。どれほど抵抗しようとしても、体は影浦の言う通りになってしまう。だから、気持ちのいい運動としてやりすごすことにした。
 それに、最中に決して唇にキスをしようとしたり、終わった後にべたべたしたりしなかった。徹底した体の付き合いだけだったから、何かの感情が入り込む余地は全くなかったし、それはおれにとっても都合がよかった。
「考え事か?余裕があるな」
「うっ、……はあ、そんな、もう無理だ……」
 正常位の体位で両腕を引かれ、影浦の首へ回すよう促される。すべすべとした、特別丁寧に作られた美しい肌が、汗でしっとりと光っている。
 激しく中を擦られてのけぞる。いっそう強く腰を押し付けながら、影浦が低い声で言った。
「そんなに絞んなよ。もたねえだろ」
「ゴムつけろ。つけないなら外に……中に出すのはやめろ、」
 笑った気配があって視線を上げる。影浦は嘲るような笑みを浮かべて、「どうせ、妊娠しないんだからどこに出したっていいじゃねえか。中でも外でも」と言い放った。
 ベッドルームの薄暗い間接照明に照らされて、影浦の薄い色をした目は獰猛な色を浮かべた。腹が立って、興奮で気も立っていたので、目の前の影浦の頬を平手で殴ると、思っていたよりも大きい音がして、一瞬動きがとまった。
「バカ力で顔叩きやがって」
 影浦が呻いて口元の血を拭い、ニヤッとわらっておれを見下ろす。同時に、腰に指のあとがつくほど強く両手で引き寄せられ、最奥まで抉られた。肌がぶつかるあさましい音は次第に大きくなって、覆いかぶさってきた影浦が、おれの首筋にキスをした。舌で舐められ、甘く長く吸われた。
 リビングから、セロニアス・モンクが弾く「Caravan」の艶めいた音がきこえる。やっている最中もずっと、ジョン・コルトレーンだの、チャーリー・パーカーだのの美しい音が流れていたけれど、それどころじゃなかった。音楽を楽しむ余裕なんてまるでない。影浦とのセックスはまるで殺し合いだった。快感が得られれば得られるほど地獄を味わう。
「まるで生演奏聴いてるみたいだ」
 こんなにも音に温度や湿度を感じたのは生まれて初めてのことで、影浦が使っているスピーカーはきっと想像もつかないほど高いんだろう。
 服を着ようと立ち上がると、足の間を影浦の出した精液が滑り降りていく。不快だった。殴りたくなる程度には。
「ソナス・ファベールだよ」
 何も言わずに振り返ると、寝そべったまま影浦が肩をわずかにすくめて言った。
「スピーカー。気に入ったならやろうか?」
「いらない。帰る」
 シャワーも浴びずに着替えて家を出た。来る前はまだ夕方だったのに、すでに日が明けようとしていた。

***

「成田先輩、それやばくないっすか」
 朝礼が終わって席につくと、羽田が眉をひそめて小声で言った。
「なんだよ。……千歳、ラヴィエールさん今日行っとけよ。多分あと一押しだから」
 となりで千歳が嬉しそうに頬を紅潮させて「はいっ、成田先輩のおかげですっ」と声を弾ませた。こうも素直に懐かれると悪い気はしない。
ニコリともしない、とよく揶揄されるのでおれも少しだけ笑って(たぶん)、自分のPCをロッカーから出して開いた。昨今は個人情報がどうとかで、終業したら鍵のかかるロッカーに仕舞わなければならない。面倒で仕方ない。
「いや……気づいてないならいいっすけど」
「言えよ、気持ち悪いな」
 頭をかいてから白けた様子で羽田が携帯端末を手に取る。おれは自分の手帳を確認して今日の予定をもう一度頭の中に叩きこんだ。
 グーグルを立ち上げて『ソナス・ファベール』を検索する。スピーカーの値段の結果が表示されてすぐ、溜息をついて椅子に深く沈みこんだ。やっぱりあいつは違う世界の住人だ。
 携帯端末で写真を撮るときの「カシャリ」という偽物っぽい音がして、おれは思わず課長の方をチェックしてしまったのだが、上司たちは皆何かの会議とやらで席を外しており、ついでに影浦もそこに呼ばれていて不在だった。
「おい、羽田なにしてんだ」
「これ。おれがやばいっていったのこれすけど。だいぶ激しいっすね」
「………」
 椅子から滑り落ちそうになって、千歳が慌てておれの腕を掴んだ。
 羽田が見せてきた画像はおれの後頭部で、短いえりあしの下に映っていたのは影浦が散々噛みついて強く吸った痕だった。赤紫色になっているが、歯型が残っているから誰がみても情事のそれだと分かる。
「でも女ってこんなに痕残します?大丈夫ですか、なんか怖いんですけど」
 とっさに手のひらで首の後ろを隠したが、もう遅い。隣の千歳は顔を真っ赤にしてからおれから目をそらし、「ふけつです……」とつぶやき、羽田は指で歯型をなぞった。
「やめろ……」
 ぞわりとした感覚が背筋を這う。欲情に似ていて怖くなった。
「成田先輩、今の顔相当のエロでしたよ。エロテロリスト成田ですよそれ」
「いい加減仕事に戻らないと、蹴るぞ」
 唸り声をあげて立ち上がる。いってえ、もう蹴ってる!と叫んだ羽田の尻をもう一度蹴飛ばし、グーグルクロームを閉じる。ペアで三百万を超えるという、もはや劇場なんかで使うのでは?というスピーカーは一瞬で視界から消えた。
 会議室の扉が開いて、影浦と課長と支店長がぞろぞろと出てきて席につく。影浦はこちらを見た途端に顔を曇らせ、顎を上げて「空港三バカ、こっちへこい」と偉そうな口調でおれに向かってあごをしゃくってきた。
「空港三バカって誰のことだ」
 あえてわからないフリをしていると、羽田が椅子の背もたれに深くもたれて頭の後ろで腕を組んだまま「なるほど、そういわれればおれら全員空港だ」とつぶやく。
「成田先輩、羽田先輩……あっ、僕!?」
 千歳がおどろいた犬のようにきょろきょろしておれと羽田を交互にみてくる。溜息をついて立ち上がると、こちらを見ている影浦が企み顔でニヤリと笑った。

 冷房もつけずに会議をしていたのかと疑うほど会議室の中が蒸し暑くて、冷房の温度を二十五度に設定する。こんなに暑い空間で、影浦は汗ひとつかかずに長袖シャツにネクタイを締めている。クールビズ期間になっても、こいつは服装に対して全く手を緩めない。仕事柄分からないでもないけれども。
「影浦先輩、なんか口の端切れてません?」
 会議室に呼び出されて真っ先に口を開いたのは羽田だった。首を傾げ、のぞき込むようにして質問をした声は、影浦の「女にやられた」という言葉ひとつでさらりと流されてしまった。誰が女だ。
「お前らを呼んだのはほかでもない。そのバカげた偶然の一致を利用して、ビールを売りまくってやろうって魂胆だ」
 やわらかい低音が楽し気に言って、何かの資料をばさりと長机の上に投げた。表紙に飛行機の画像が使われていて疑問に思ったのもつかの間、資料に荒く目を通してすぐ大声を上げてしまった。
「なんだこの企画は!」
 隣で千歳がびくんと跳ねたので、深呼吸して興奮をおさえる。羽田は呆れたような面白がっているような声で、のんびりと言った。
「よく通りましたねこんなの」
 その企画書にはふざけた文字が楽し気に踊っていた。
『空港×イケメン営業マン×ビアフェスタイベント!あなたの投票がNO1ビールを決める!』
 簡略化されたフロー図にははっきりこう書かれていた。空港の名前を持つ三人の営業マン、彼らのプロフィールと写真をもとに、鳳凰ビール株式会社内及びSAL(スターエアライン)内で人気投票を行う。期間は一週間。投票はインターネット集計を使う。それぞれの社内で集計しそこで選出された営業マンを『ミスター鳳凰』として、この和歌山でのイベント、『SAL協賛 ビアフェスタ和歌山』の広告塔に任命する――。
 なんだこれは……。ふざけるにもほどがある。よりにもよって、スターエアラインだなんて冗談じゃない。
「SALには人脈があるからな。お前らに拒否権はない、と言いたいところだが、同意なくしてこの企画はできない。できれば対案を出してから拒否してほしいものだが、どうだ?」
「対案もなにも……」
 何も思いつかなくて黙りこくったおれたちを一瞥してから、影浦が言った。
「いいか、この最下位店舗を一位に持っていくには、ふつうの方法じゃ無理だ。ちなみにうちの会社だけじゃ盛り上がらねえからな。ほかの大手ビールメーカーも参戦する。なんと、ウルトラドライ率いるユウヒビールがイケメンそろえて受けて立つってよ」
 驚きと怒りと戸惑いで言葉が出てこない。羽田は伸びをしてから立ち上がり、「でもちょっと、面白そうっすね」と人の悪そうな笑みを浮かべた。
「和歌山空港と県内の観光地とビアフェスのコラボ、これだけでも結構すごいことだけど、そこにビールの人気投票大会まで入れちゃうとは。さすが仕掛け人、影浦仁」
 スターエアラインは国内線に力を入れている航空会社だ。近年LCLに押されがちだが、業界では国内シェア、知名度ともにナンバーワンの企業である。
 この企業自体には何の恨みもない。が……
『あなたは私を愛したことなんか、一瞬だってなかったんでしょ?』
 あのときの奈乃香の声を思い出して、おれは奥歯をかみしめた。だが肝心の、滅茶苦茶男影浦は、おれの様子になどまるで気づかず楽し気にまくしたてる。
「その企画書にも書いてあるが、今和歌山は関西で一番伸びしろを持ってんだよ。京都・大阪みたいに混んでねえ、海がきれいで山も世界遺産もある、奈良よりも宿泊施設が多い、鉄道網と空港が整備されてる。外国人観光客に限らず、国内観光のやつらも引き込めるポテンシャルを秘めてんだ。国体で道路も整備されたしな。
――ちなみに、年に数回開催されるほかのビアフェスタと違うのは、開催場所が和歌山だということ、航空会社とのコラボイベントなので空の便を利用して和歌山入りする観光客限定のサービスがあること、それにメーカーの営業マンを広告塔にすることだ。これまでは芸能人使って宣伝してきたが、どこの会社も経費削減、広告費用をおさえつつ新しい試みを行うってわけだ。テレビCMみてえにたっけえ予算があるわけじゃねえし。お前らならどれだけ使ってもタダ!SNSを使って徹底的にやるぞ」
 スターエアライン云々以前に、自分たちを客寄せパンダのように使われることに嫌悪感を覚えたが、それも一瞬だった。おれは座って企画書に素早く目を走らせ、軽薄な発想とは思えないほど緻密に練り込まれたその内容や、新しさに驚いて怒りを忘れた。むしろ、すべて読んだ今、明確に思っていた。「面白そうだ、やってみたい」と。
このイベントには県内に支店を持つほかの大手ビールメーカー、それに今はやりのクラフトビールメーカーも参加する。イベント合わせで作ってきた限定クラフトビールも売り出す。
 影浦は意気揚々とそう宣言し、立ち上がっておれを見据えた。
「成田、何か言いたいことがあんのか?」
「このイベント、フェスタ会場以外とも連動させたらどうだ?和歌山県内の各料飲店……たとえばスタンプラリーだとか、街バルだとか、そういう形式で連動させれば料飲店から契約をとるきっかけにもなるだろ」
 眉を上げた影浦が、すぐに不敵な笑みを浮かべて言った。
「ご名答。おれもそれは考えた。一回限りのイベントのアガリなんてあぶく銭だ。要はそれをきっかけにどれだけ契約引っ張れるか、そこが支店売上増に一番大切なところだからな」
 よくわかっていない様子の千歳と、状況を把握して悪乗りするような顔の羽田。それにおれの三人が目を合わせる。
「ミスター鳳凰だなんてばかばかしいけど……」
 羽田が腕まくりして立ち上がった。頭をかきながら、緩慢な所作だったが、その眼にはすでに闘志がやどっている。
「ユウヒビールにだけは、負けたくないですね……」
 先日ほぼ契約成立、というところでユウヒビールに持っていかれた千歳も、見たことがないほど強気な表情で立ち上がる。後輩ふたりが燃えていて、影浦は挑むようにこちらを見ている。この状況で、おれに言えることはひとつだけだ。
「やるからには、勝つ」
 よし、空港三バカと交渉成立。そう影浦がつぶやき、右手をおれに差し出してくる。
「炭酸がきついだけの軽薄なユウヒビールなんか、おれらのラガーでボコボコにしてやろうぜ?」
 影浦と握手なんか、とは思わなかった。突拍子もなく、無茶苦茶で、一体どんな手をつかってこんな企画を通したのか想像もつかない。けれど――尊敬した。アイデアも、実行力も根回しのテクニックも、正直に言って、そりゃあこいつには勝てないよなと思った。
 差し出された手をぎゅっと握り返す。つめたい手だった。
「決まり。SALとの交渉はおれに任せろ。総務とのつなぎもおれと課長がやる。支店長は本部に予算取りと説明だ。詳細はこれから説明する」
 イベントの詳細を聞いて驚いた。開催日は十月末の土曜日で、今は七月だから話の進捗がやけに早いことを指摘すると(フェスのような大掛かりなイベントは、半年~一年ほどかけて行うことが多い)、影浦は得意気にこう言ったのだ。
「もともと実行委員会が実施予定だったイベントに乗っかることになったんだよ。SALの協賛くっつけてやったら喜んでのってきたぜ」
 つまり、一から企画するよりも手間暇も宣伝広告費も削ることができるというわけだ。その分ブースの取り扱いは他社と平等に、となるのがセオリーだが、今回SALの協賛を取り付けてきたことで、ほかのブースよりも一・五倍ほど大きい面積を得られることになったらしい。
「実行委員会って、自治体とかですか?」
 千歳が首を傾げて問いかけると、影浦が首を振った。
「いや、観光協会だな。その中に実行委員会があって……ああ、だから自治体とは無関係じゃないかもな、天下ってるやつはいるかもしれんが」
 ふと浮かんだ疑問があったので、影浦にぶつけてみた。
「すでに広告打ってるんじゃないのか。どうやって参入するんだ」
 影浦は肩をすくめて言った。
「会場はおさえられていて、イベントの主旨は決まってる。そんなもんだ。後からいくらでも追加参入できるさ。サマソニでもフジロックでもヘッドライナーは一番最後に発表だろ?」
 なぜ突然音楽イベントに例えたのか、と思ったが、おそらく「フェス」という言葉にかけているらしい。少し笑いそうになったが顔をひきしめて無表情のまま考え込むフリをした。
「でも和歌山開催が今回のポイントって言ってたじゃないすか。てことは、もともと和歌山で開催予定じゃなかったとか、そういうことじゃないんですか?」
「違うな。元からここで開催予定だったイベントがあった。だが明らかにだれが見てもコケそうなやつで、まあ一言でいって、クソイベントってやつになりかねない状態だった。開催が四か月後に迫ってるってのに、ブースの募集にも協賛企業の募集にもほとんど料飲店も企業も現れない。万事休すってところにおれが参上、SALの協賛と大手ビールメーカー他社引き連れてそのイベントに殴り込みをかけた、ってわけだ」
 そこまで言い終わると、影浦は溜息をついて髪をかき上げた。普段影浦のことをあまりよく思っていない羽田ですら目を奪われるほど、そのしぐさは洗練されていて色気があり、ここに影浦ファンの女性でもいようものなら、倒れてしまったかもしれない。残念ながらここには一人も存在していないわけだが。
「話し過ぎて疲れた。とりあえず、おれらはふつうの業務と平行してビアフェスタの準備をしなきゃいけねえんだ。印刷所の〆切があるから、料飲店の参加ブース申し込み期限は来月末まで。その間、平常業務と平行してイベント用の料飲店勧誘、あと投票イベント用の写真撮影だな」
「ちょっといいか。お前が出ればいいのになぜおれたち三人なんだ」
 影浦はひょいと片眉をあげて笑った。
「おれの名字は影浦で、お前らみたいに空港じゃねえから。あとおれが出たら投票なんかするまでもなくおれが一位になっちまうだろ。それじゃ面白くない」
 口調はいかにも俺様であり、天上天下唯我独尊男の影浦仁、そのものなのだが、影浦の感心すべき点は荒っぽい言葉遣いをしていても偉そうに笑っていても、この上なく上品な声と美しい顔で全て見事に中和してしまうところだ。おそらく、どんなに粗野にふるまおうが乱暴な言葉を使おうが、内面からにじみ出る育ちの良さや上品さは隠せないのだろう。性格は悪いのだがこういうところは尊敬する。偉そうにしているのに、その偉そうさは説得力になりこそすれ人に嫌われる要素にならない。
「さて。休み明けはさっそくお前らの写真撮影だ。一張羅のスーツ着て来いよ」
 会議が終わって自席につくと、おれたち三人はなんとなく目を合わせて、力なく笑い合った。この中では多分羽田が一番女性に受けるのではないかと思うので、投票すれば羽田がミスター鳳凰になるのだと思うが(それにしても名前が空港というだけで全国の支店で投票されるのだから、ミスター鳳凰はあまりにも重い冠である)、その引き立て役になるおれと千歳はたまったものじゃない。まあ、これもイベントを盛り上げるため、だと思えば我慢できるが。
 イベント開催がどうであれ通常の業務もある。暑い日差しの中をいつものごとく営業車で走り回りながら、おれたちはその日の仕事を終えた。今日は金曜だ。家についたら風呂上りにビールを飲むぐらいの贅沢は許されるだろう。
 仕事に夢中になっていると、嫌なことを忘れることができる。そうやって、二十代はずっとやり過ごしてきた。時折金の無心にくる周平に渡せる範囲で金を持たせ、働きだしてから再会した奈乃香と付き合い始め――けれど、心の中はいつも欠けていたし、飢えていた。影浦の言ったとおりだった。本当に欲しいものには手を伸ばせずに、ずっと他人や仕事で代替してきたのだ。その罰が、奈乃香につけた傷と涙だった。
 彼女は見るだろうか?このバカげた企画を。誰に投票するかなんてわからないし、どうでもいいけれど……おれの写真を見たらきっと、不快に思うだろうことは想像できた。
 それなのに断らなかったのは、仕事として面白いと思ったからだ。いつもそうだった。人として大切な、他人を思いやる気持ちが決定的に欠けている。
 多分、おれは一生ひとりで生きていくだろう。
 それでいい。いや、その方がいい。そんな風に考え、納得してひとり頷いていたとき、気付いた。
「……おかしいな」
 後ろから車がついてきている。寮まであと五分ほどで着くのだが、午後七時を過ぎていてあたりは暗く、人通りもほとんどない。頭をよぎったのは弟が借金していた、あまりガラが良いとは言えない連中のことで、ひょっとして借金はまだあったのかとか、多重債務者になっていたんじゃないかとか、嫌なことばかりだった。
 走って逃げようか、と思い爪先に力をいれた瞬間、その車は速度を上げておれの前に出て止まった。BMWのX5。今年モデルチェンジしたばかりの、三リットル直列六気筒、ガソリンターボエンジンの化け物。言うまでもなく、性能は化け物だが、値段も化け物である。
 真っ黒な車の扉を開けて出てきたのは、さっきおれたちに滅茶苦茶な企画をごり押しして了承させた張本人、影浦仁だった。
「服買いに今から神戸行くぞ。写真撮影にスーパーのスーツで来られちゃたまんねえからな。乗れ」
 ドアでおれの逃げ道を塞ぎ、そこにもたれて顎を上げながら、影浦は言った。
 表情は、サングラスをしているせいでよくわからなかった。