Right Action

8.

 高い車はドアを閉めるときの音が違う、と聞いたことがあるが、本当だった。聴いたことがないような重い音を立ててドアは閉まり、その後外の音はほとんど聞こえなくなった。
 シートベルトを着用して足元に鞄を置く。おれが大人しく言うことを聞いたことに驚いたのか、影浦はサングラスを外して眉を上げたが、それも一瞬だった。
「好きなもの飲めよ」
 顔を正面に向けたままドリンクホルダーを指さす。後部座席にコンビニの袋が置いてあった。
「影浦もコンビニなんか行くんだな」
「当たり前だろ。おれをなんだと思ってるんだ」
 車は国道から高速に入った。手持無沙汰だったので、車内で流れているビル・エヴァンスに耳をすませた。このオーディオもいいものなんだろう、同じCDを持っているのに、家できいているときとは全く別の曲のような深みと存在感のある演奏だった。
「お前、普段メシはどうしてるんだ?まさか作らないだろう」
 決めつけたおれの物言いに腹を立てるわけでもなく、影浦は言った。
「週に二度ハウスキーパーが来る。でも食の好みは追及すると何も食えねえからな。仕事中はコンビニで済ませることもある。はつがきいたら泣いて怒りそうだ」
 すごくめずらしいことに、影浦は楽しそうな笑みを浮かべながら言った。まるで仲のいい友人のことを思い出すような表情だった。
「はつ?前も名前が出ていたけど」
「乳母だ。母親のようなものだな。主に家のことや子どもの養育を担うんだが、執事とも家庭教師とも違う」
 違いがよくわからなくてスマートフォンで検索した。どうやら、衣食住を担うのはメイドやシェフになるようで、そういったスタッフをとりまとめたり、資産を維持管理したり、主人や家族の送迎を含めた日常サポートを行うのが執事らしい。乳母の仕事は主に子どもたちの養育に関することになるようだ。
「うちはシェフがいなかった。食事ははつの仕事で、実家に暮らしていた頃は冷凍食品もコンビニ飯も食ったことがなかった。身体に悪いと信じ切っていたらしい。無農薬野菜や産地のはっきりした肉魚だけを使って、出来立てのものを食わせるってこだわってたな。一度、どうしてもコンビニで売ってるカップラーメンが食ってみたくて、連れの家でこっそり食ったことがある。想像してたほど美味くなくてがっかりした。コンビニ飯もよくこんなの食ってんなって思った。でもそれも慣れる。人間は大概のものに慣れることができる生き物だよ。まあ、今更になってはつのメシがどれほど美味かったのか実感してるさ。当時は当たり前だと思ってたけどな」
 カップラーメンを食べてがっかりしている影浦少年を想像すると、少し笑えた。品はあるが浮世離れしたところはないので、一般の感覚も持ち合わせているようだ。
「……現代社会に、乳母がいることに驚く」
「おれの周りじゃそう珍しいことじゃなかった。父も母も会社を経営してたり取締役だったりで、子どもにかかわってる時間なんかなかったんだろ」
 めずらしく自分のことを話す影浦の言葉に耳を傾けた。神戸まで二時間はかかる。ずっと黙っているには長すぎる。
「兄弟はいるのか?」
 シャツのボタンをひとつ開けてネクタイを緩めてから、影浦は左手でコーヒーを掴んでひとくち飲んだ。手を見ると育ちが分かるというが、影浦の手は指が長くて手入れが行き届いており、およそ水仕事とは無縁の、うつくしいかたちをしていた。
「兄ふたりに姉がひとり。名前が上から信義(のぶよし)、智(ち)晴(はる)、礼子(れいこ)。おれは末弟だ」
 顔をそらしたが、笑ったことがバレたらしい。怪訝な顔で影浦が「なんだよ?」と問いかけてくる。
「お前はジン、だったよな。仁義の仁だろ?」
「ああ。お前は確か、成田……悠生だったか」
 名前をおれの呼ぶ瞬間、影浦がわずかに緊張したのが分かったけれど、その理由は見当もつかなかった。
「兄弟の名前、孔子の教えからとってるよな。まさか偶然じゃないだろうし」
 車の外では雨がぱらついていた。にわか雨だろう。影浦は窓の外を見て表情を曇らせたが、サングラスを外してから視線をこちらに投げて寄越した。
「もちろんわざとだ。名付けをしたのはじいさまだが」
「ならずいぶん愛されてるな。仁は五常の中でもっとも尊いものとされてる」
 おれの言葉に、影浦は少しの間沈黙した。その間、音楽を自分の好みのものに変えたいと思い、無線でオーディオに接続できないか画策した。
 おれの願望をくみ取ったらしい影浦は、高速の長い直線道でカーオーディオに何か操作して、おれの携帯と接続できるように設定した。
「成田は音楽に詳しいな。趣味か?」
 オーディオにも興味を示していただろう、と影浦が言った。
「父が音楽専門のライターなんだ」
 迷ったものの、ありのまま伝えると、影浦はバカにするでもなくフロントガラスの向こうをみつめたまま言った。
「へえ。そういう仕事もあるんだな」
「夏場は国内外、あちこちのフェスに飛び回ってるよ。おれがいろんな音楽を聴くのは……大学から一人暮らしをしていて、父が読み終わった本や部屋に収まらなくなったCDを定期的に送ってくるんだ。ジャンルを問わず。だから必然的に詳しくなった」
 表向きの理由はそうだが、要は縋るものが欲しかったのだ。周平や周囲にいたすべての人々との関係が悪化し、家から逃げ出して、自分が足元から崩れてしまいそうだったとき、おれには文学と、音楽が必要だった。継父にはそれが分かっていたのだろう。罪滅ぼしの側面もあったかもしれない。
「苦悩のない人間には、文学も音楽も必要ない」
 少なくとも、お前には必要な理由があったんだな。と、暗い声で影浦は言った。
おれは黙っていた。今口を開けば、余計なことを言ってしまう気がした。継父の罪悪感の理由や、周平と仲たがいしたきっかけ。地元に寄り付けない理由。そういったものすべてを、衝動的に吐き出してしまうかもしれない。
 口元に力を入れたまま、窓の外へ視線を向けると、車のテールランプや街あかりがぼんやりと道路を照らしていた。
 Mitsukiの『Two Slow Dancers』を選んで、ドアに肘をついて目を閉じた。雨にぴったりな声が車の中にひたひたと満ちて気持ちがいい。
 どれぐらいの間そうしていただろうか。視線を感じて影浦を振り返ると、憂鬱そうな顔でこちらを見ていた。
「もし、また弟が金を借りにきたり、助けを求めてきたらどうするんだ」
 いつものような自信に満ちた声ではなく、こどものような、心細げな声だった。その表情をもっと探ろうとのぞき込んだが、視線はすぐに前方に戻されてしまった。
「……もう、長いこと周平とキャッチボールしてないな」
 はぐらかすつもりで言ったわけではなく、周平のことを思い出すと必ずキャッチボールのことが頭の中に浮かんでくる。中学から高校にかけて、毎朝欠かさず一緒にランニングした。そのあと実家のそばにある、緑地公園の広場で投げ合った。あのころは、球を受けるだけで相手の体調や気分が分かった。けれど今は――
「おい、成田」
「わかってる。多分突き放さなきゃいけないんだろう、これ以上はあいつのためにならない。でもダメなんだ。周平が目の前にいたら、おれはなんでもしてしまう。影浦は知っているんだろう、おれの気持ち悪い……本心を。」
 ドアガラスの外を眺めたままつぶやく。影浦は溜息をついてから、「お前は世界一のアホだな」と前を向いたまま、低い声で言った。けれどその声は、内容とは裏腹に、少しだけやさしさを含んでいた。気のせいかもしれないけれど。

 兵庫県に来たのは、高校野球の聖地である甲子園以来のことだ。といってもおれは中学で野球をやめてしまったので、弟の応援で来ただけだ。
 影浦は慣れた様子で居留地にある有名なホテルの地下に車をとめ、そのままエレベーターで一階に上がった。エントランスの向こうに見える街はすっかり暗くなっていたので、今から買い物に行くのか、という質問は飲み込んだ。こんな時間、飲食店以外は閉まっている。
 見るからに高級感あふれるロビーだ。床は何かしら高そうな材質でぴかぴかに磨かれている。それに行きかう人々、みんなが金持ちに見えた。
「お前はそこで待ってろ」
 影浦がロビーにあるソファを指さす。ひどく空腹で、偉そうな態度に怒る元気もない。言われるがままにソファに座り、携帯端末を確認すると、千歳から何件か着信が入っていた。
「行くぞ」
 さきほどとは打って変わって、ビジネスライクな声のトーンに顔を上げると、営業中と同じ表情の影浦が立っていた。隣には背の高い影浦と同じぐらい上背のある、豊かな黒髪の壮年の男性があわい微笑みを浮かべたままおれに頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。お連れ様、よろしければ荷物をお持ちいたします」
 彼のとなりにいたベルマンがおれの荷物を受け取る。しわひとつない制服はおれの吊るしのスーツよりもずっと高級感があって、あんな無名のビジネスバッグを持たせることが申し訳なく思えた。
「影浦様、のちほどお部屋にいつものものをお持ちいたしましょうか?」
 ネームプレートに書いてある肩書に目を瞠った。彼はGM(ジェネラルマネージャー)、つまり総支配人だったのだ。
「ああ……そうだな。時間は二時間後で頼めるか」
「承知いたしました」
 内容の理解できないやり取りを終えると、GMは完全無欠な感じのいい笑みを浮かべてもう一度丁寧に頭を下げ、名残惜しそうに消えて行った。
 ベルマンが荷物を置いた瞬間、影浦はおれのネクタイを引っぱってベッドに押し倒した。突然のことだったので、抵抗して振り払おうとすると、しつけの悪い犬を相手にしている飼い主のような、面倒そうな顔で難なく押さえつけられた。
ひどい空腹だったはずなのに、影浦の指がシャツを乱暴に破り、脱がせていくうちに、別の欲望に火がついてしまった。耳障りな布が裂ける音やボタンがシーツに転がる音に抗議するよりも早く、影浦の手はおれを裸にした。言い訳できなかったのは、すでにおれのものがこれから先への期待に先を濡らしてそそり立っていたからだ。どうしようもない人間に成り下がってしまった。
「服、どうしてくれるんだ、クソ」
 苦し紛れの悪態に、左の乳首を痛いほど擦ってつまんで引っ張っていた影浦が顔を上げた。情欲に濡れた顔。それなのに、いままでみたどんな顔よりも美しい。
「着られる状態だとまた着ようとするだろ。これから会うたびに全部ぼろ布にみてえにしてやるよ。その代わりもっといいもので弁償してやるから感謝しろ」
 あたたかくて濡れた別の生き物みたいな舌が、首筋を通ってから胸の先にたどり着き、執拗に舐めたり吸ったりした。はじめのころはおれの腕を押さえつけるために使われていた影浦の両手は、片方は後ろの穴と性器の間を焦らすようにいったりきたりしていたし、もう片方はおれの右膝裏を掴んで大きく足を開かせていた。右足だけが、頬につくぐらいはしたなく。
 自由ははずのおれの両手は、というと、影浦をとめたり突き飛ばしたりすることにはまったく使われていなかった。慣れは恐ろしい。身体はすでに影浦の与える乱暴な快楽に飼いならされつつあった。
 こちらが抵抗すると、影浦は強い力で押さえつけたり、乱暴に性器を擦ったり先端に噛みついたりして痛みを与えてきたが、大人しく身をゆだねていると、どこまでもやさしく与え続けてきた。はじめて寝た頃、もっぱら口淫するのはおれの役目だったのに、近ごろでは影浦からしてくる。何が楽しいのか分からないが、性器だけじゃなくその周辺まで、尖った熱い舌は容赦なく這いまわった。
「……、あ、…」
 竿を握られ、擦られ、舌先が何度もそこを往復し、いたずらに先端に滲んだ雫を舐めとってからまた離れる。性器の先端を舌先で執拗に舐めまわされ、どれほど自分で拳を噛んでも声をおさえることができない。性器のせりだした部分に唇が移ったとき、影浦は顔を上げた。あざ笑うような笑みを浮かべたまま、言った。
「気持ちいいのか」
 いちいち聞かなくてもいいことを、分かっていて聴いているのだ。それが影浦という人間だ。
 苛立ち、けれど体は影浦の指や手や唇に反応してしまうから、唇を噛んで黙った。
「チンポならなんでもいいんだろ?気持ち良ければだれでもいいもんな、お前はゲイで、ずっとそのことについて知らないフリを決め込んできた。飢えてんだよな。だから簡単に足を開くんだろ」
 冷酷な声色なのに、眼だけは欲情で光ってみえて、おれはのどを鳴らした。
「そういうことでいいから。……早くしろ」
 眉をひそめた影浦は、指を一本ずつおれの中に入れて、中にある恐ろしいほど感じる場所を無遠慮に刺激した。途端に、打ち上げられた魚のように体が跳ねる。自分のものじゃないみたいに、コントロールを失って声が出た。掠れた、低い声だったが、嬌声以外のなにものでもない。
「ちゃんと言え」
 どこから取り出したのか、影浦の手のひらには高級そうな、ジャスミンの香りがするオイルが握られていた。仰向けになって足を開いているおれの上から、膝立ちになった影浦が無遠慮にオイルを垂らしてくる。顔、首筋、胸、それに……性器とその周辺。むせ返るような花の香りの中で、おれは熱い溜息を吐いた。
「なにを、どう早くしてほしいんだ?」
 指が伸びてきて、乳首を弾かれた。まるで産毛を撫でるような、触るか触らないかぐらいの強さで、胸のまわりや腹部を撫で、また胸の先へと戻る。感覚の鋭くなったその場所に圧し掛かり、ふっと息をかけてから、唇と舌でしつこく、涙がにじむほど愛撫された。
「ああっ、もう……はやく」
「だから、何を」
 顎を掴んだ指が口の中へと侵入してくる。長い指に舌を絡ませ、音を立てて吸った。
「成田……、悠生、言えよ」
 胸全体を両手で揉みしだくようにしてから、乳首を強く摘ままれた。痛みで身をよじると、影浦はおれの足をもう一度大きく開かせ、性器の後ろ、セックスするために使う場所へと指を伸ばした。
「どうしてほしいのか、はっきり言え」
 言わずに首を振り、体をよじろうとすると、うつ伏せにされ尻を強く叩かれた。肌を叩く高い音が響き、それなのにおれは興奮で目がちかちかした。そのまま何度か尻を叩かれたが、言わずにいると、腰を引っ張りあげられ、後ろから一気に貫かれた。
「ひ、――ああ、あっ、いやだ、うご、かないでくれ」
 いれるや否や、激しく動きはじめる。カチャカチャという金属音がして驚いて振り返ると、上半身こそ裸だが、下半身はスラックスの前をくつろげただけの影浦が、ベルトを両手に持ってこちらに近づけてきた。
「なにを、」
 抵抗する間もなく、両手で端を持ったベルトが首にかけられ、引っ張りながら犯された。首が締まる苦しさと容赦のなく中を抉られる痛いほどの快楽に、唇の端から唾液が漏れてしまう。肌のぶつかる音とベルトの革が食い込む乾いた音。馬の手綱のように、首にかけられたベルトを引きながら、影浦は好きなようにおれを犯し、屈服させようとした。
 強く前を握られ、射精できない。いきたくていきたくて死にそうだった。もはや理性も何もない。首を振り、「いきたい、おねがいだから…いかせてくれ」と叫ぶと、覆いかぶさってきた影浦は低い声でささやいた。
「おれの名前を呼べよ」
 耳たぶを噛まれて背筋がふるえた。軟骨に舌をはわせ、耳介を何度も何度も噛まれる。
「呼んで、懇願しろ」
 仕事中、たまに見える影浦の、うつくしく並んだ白い歯を想像した。こいつに抱かれるまでは、同じ人間のオスだとは信じられないほどの完璧な造形に驚いたものだが、今おれを貫き、苛み、地獄のような快楽を与えている影浦の性器だけは、赤黒く硬い、グロテスクなかたちをした性器だけは唯一、影浦の人間味を感じさせる部分だった。
 おそらく数多の女を喜ばせ、執着させ、とりこにしてきたであろう影浦のオスの部分が、いまおれの中に埋め込まれ、果てようとしている。そう考えると、得も言われぬ興奮が頭の中を沸騰させていく。
「い、やだ……」
 本当は限界だった。今すぐいきたい。恥も外聞もかなぐり捨て、好きなだけ射精してもっともっと影浦のものを味わいたい。けれどそんなこと、言えるわけがない。
 首を振って拒否したおれの後ろで、影浦が舌打ちした。と同時にベルトが首から外され、ほっとしたのもつかの間、そのベルトは勢いよくおれの尻や背中に打ち付けられた。
「うっ」
「痛いか?じゃあなんで垂らしてるんだよ、変態」
 ものすごく痛い。それなのに、おれの性器はよろこびの雫を先からにじませ、糸をひいてシーツの上にしみを作っていく。
 何度か容赦なく打ち据えられ、痛くて痛くて涙をにじませながら、おれはいってしまった。はじめは射精していないからいっていないものだと思っていたが、長く尾を引く快感に息も絶え絶えになっていると、影浦は感心したような声で言った。
「メスイキしてたな。もうお前、男じゃなくてメスだよ。盛りの付いたメス」
「違う、違う……あっ、……仁、」
 いったばかりで熱くほてって敏感になっているからだの中を、影浦のものが何度も往復する。気が遠くなるほど前立腺の部分を突かれる。息ができない。気持ち良すぎて、声も出ない。
 ベッドの上で膝をついて座っている影浦に背を向けて、膝に乗るような体位で、自ら腰を振った。打たれたところがじんじんと熱をもっていたが、後ろから抱きしめるようにして揺さぶられ、首筋を舐められると痛みも忘れた。
「そうだ。もっと呼べ」
「仁……、っは、またいく」
 頭を振った。口から勝手に言葉が落ちる。後ろで影浦が笑ったような気配がしたが、腹を立てる余裕もない。
「いいぞ。好きなだけいけよ。男にケツを犯されて、殴られて、……メスイキする変態野郎」
 最後だけ低い、怖い声で、影浦が囁いた。それから腰を掴んでベッドに押し倒し、うつぶせにして滅茶苦茶に犯した。水音と肌のぶつかる音と、けだものみたいな自分の吐息がきこえる。もうだめだった。気持ちがいい。奥に欲しい。あふれ出すほど全部、中に出してほしい。
「あー、いく。中に出すから締めてろ」
 後ろから影浦が覆いかぶさってきた。隣に聞こえるのではないかと思うほど、大きな音をたててベッドが軋んで揺れる。
 ひときわ大きく腰を打ち付けられてから、影浦の腰がびくびくと震えた。同時におれも達してしまって、喉をのけぞらせて唇を噛んだ。
 死にそうなほど、よかった。死にたくなるほど最高だった。
 それから続けて二回した。その間、目を閉じることも逸らすこともしなかった。いつも「にらみつけている」と言われるような視線で、影浦を凝視した。柔らかそうな髪の根元から汗がにじむところや、その汗が、長い睫毛と二等辺三角形のような鼻筋をとおり、薄い唇にさしかかったとき、赤い舌がなめとるところまでじっくりと見てしまった。

 ルームサービスがじきに来るから、シャワー浴びて来い。
 そう言って浴室に引きずられ、言われるままに体を洗う。疲れてはいたが、動けないほどではない。こういうとき、学生時代から体をきたえていてよかったな、と思う。
 影浦はおれの中に入る前に、かなり念入りに準備をする。挿入も、いきなり激しくしたりしないし、ベルトで殴ったり首を絞めたりするのも、音や衝撃の割に痛みや傷跡は残らない。
――あいつ、どういう人生を送ってきたんだろう。
 おれは影浦のことを何も知らない。異常とも思えるほど性技に長けているが、世間知らずのおぼっちゃまというわけでもない。そりゃあおれが想像もできないほど、女は寄ってきたんだろうが、影浦には陰やトラウマといったものが全く見受けられない。
『本気で誰かを好きになったら、その恋愛が終わったとき、必ず心に傷が残るものよ。大なり小なりね』
 そう言っていたのはかつての恋人だ。その言葉は、当たっていると思う。
 影浦には、だれかの影も傷も見当たらない。おそらく、誰の事も好きになったことがないんだろう。人一倍性欲は旺盛なようだが、誰のことも特別にしたことがないし、また誰かに嫌われたとしても、そんなことは影浦にとってどうでもいいことなのだ。
不遜で、傍若無人で、自信過剰な男。一生働かなくてもいい程金があるのにビール会社の営業なんてやっている、不思議な男。
 おれは少し影浦が羨ましくなった。みっともない思いも、みじめな思いも、死にたくなるような気持ちになったこともないだろう。だからこそあんなふうにまっすぐ立っていられるのだ。鋼のような強さのままで。
「……恋愛すれば、偉いってもんでもないよな。好きにならないほうがマシってこともある」
 シャワーの音の中に、ひとりごとが溶けていく。時間をかけて頭や体を念入りに洗い、髪を乾かしてから客室に戻った。
「遅かったな。腹減ってるだろ、食ってから寝ようぜ」
 テーブルの上にはレストランのフルコースを思わせるようなメニューとシャンパンのボトルが用意され、影浦はバスローブ姿のままソファの上で足を組み、グラスを傾けていた。
一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる。ここは、レストランか?違うよな?
 やけくそになってグラスにシャンパンを注ごうとすると、すいとボトルを奪われた。年季の入ったソムリエのような洗練された仕草で注がれた、うすいゴールドの液体を凝視する。
「ワインやシャンパンは男が注ぐものだ」
「おれも男だ。自分でやる」
「そうか?もうお前はメスなんじゃねえの、……少なくともおれの前では」
 肩をすくめた影浦は、キャビアやチーズ、それにフォアグラをのせた高級そうなクラッカーを口元に運ぶ。
「うまい。ここのフォアグラは最高だ。お前も食えよ」
 すすめられるままに口に入れたが、複雑な味で、簡単に「うまい」といえるようなものでもなかった。味覚は慣れだというから、たぶん慣れていない味だったんだろう。
 近くに置いてあった生ハムや、フィレ肉のグリルをうすく切ったものはおれでも分かった。めちゃくちゃ美味い。というか大概のものは全部美味い。食いなれていないものだけは舌がびっくりしてしまうが。
 シャンパンを飲み干してから、おれは言った。
「今回はハードだった。借りてる金がいくら減ったのか教えろ」
 影浦は「こいつ、三十万のシャンパンもったいねえな」とつぶやいてから、溜息をついた。
「やれやれ、すっきりしたらすぐ金の話か。ムードもへったくれもねえな」
 酒の味はそれなりに分かる。泡のキメが細かくて味に厚みがあり、いいシャンパンだった。影浦のおごりならなおさら美味い。
 空になった影浦のグラスにもシャンパンを注ぎ返してやると、眉を上げ、「意外とうまいじゃないか」と皮肉っぽく褒められた。
「ビールしか入れられない営業なんて、料飲店で役に立たないだろ。ひととおり習いにいったよ」とこたえると、影浦は真剣な顔で黙ってしまった。
 服という服をダメにされてしまったので、浴室に置いてあったバスローブを羽織っている。しばらくのあいだ、口をきかずにひたすらテーブルの上を片付けた。おれも影浦も酒はいくらでも飲めてしまうが、シャンパンは悪酔いするからほどほどにした。ボトル二本をふたりであけて食事を終えてから、歯を磨いて別々に眠った。

 キングサイズのベッドが並んだ寝室は、食事をした部屋とは別にもうけられている。
 最上階の角部屋、九十㎡のスイートは、おそらくおれのような庶民は一生泊ることがないであろう高級感だった。そりゃあこういうところに連れてこられれば、どんな人間もひとたまりもないだろうなと思った。あいにくおれは、高級な宿や食事にさほど興味がないのだが。(シャンパンは最高だった)
 窓から差し込む朝の光に目を眇めて、何度か寝がえりを打つ。隣のベッドで眠っていたはずの影浦の姿は見当たらない。重い体をのろのろと起こせば、遠くからわずかに足音がきこえた。
「やっと起きたか。シャワー浴びて来い。それからこれを着ろ」
 ハンガー付きのバッグを放り投げられ、慌ててキャッチする。
「採寸は店に行ってからやる。それまでとりあえずそれを着てろ。下着も入ってる。髪は洗ったらよく乾かして、何も塗るな。ヒゲは剃れ。スキンケア用品は置いてあるものをすべて使いきれ。ハンドクリームもだ。シャツは本来下着だから、ダッセーインナーなんか用意してねえ、素肌の上に着ろ。おれはソファで電話をしてるから終わったらそこに来い。以上、行け」
 犬におやつを投げる飼い主のような仕草でおれを追い払う影浦。おれの主君か、それとも上司か何かなのか、お前は。
 そう突っ込みたくなったが、黙って堪えた。出資者の言うことは絶対、である。それに昨日はとんでもなくうまいシャンパンまでごちそうになったし、言うことをきいてやってもいいかという気分だった。
 黙って言う通りにしてから脱衣所で服を広げ、驚いた。服に興味のないおれでもこれが良いものだと分かるのは、手触りからして既製品とは違っていたからだ。
 おそらく一着七十万はくだらないであろうそれを横に避け、下着を履く。いつも影浦がみにつけている、とんでもなく柔らかく、はりのある生地のボクサーパンツの新品だ。
 シャツは完璧な形をしていて、しかもサイズがぴったりだった。おれは野球をやっていたから、肩回りや胸周りに厚みがあり、そこに合わせると既製品のシャツはだぼだぼになってしまうことが多いのだが、まるでオーダーシャツのようにぴったりと体になじむそれは、まさに肌着そのものだ。身体のラインに沿いすとんと落ちるシャツのボタンを全てしめ、覚悟を決めてスラックスを手に取る。用意されたダークカラーのスラックスは、すそが短めにカットされていた。おそらくカシミアか何かを使っているのだろう、軽くて、風通しが良くて、すばらしい着心地だった。繊維が極限まで細い糸を使っているに違いない。ジャケットのドレープまで完璧だった。
 くるぶしより下の靴下を履き、おそるおそる影浦の元へ歩いていくと、影浦はニッと笑った。
「馬子にも衣装だな。来いよ、ネクタイはおれがしめてやる」
 正面に歩いてきた影浦は、スーツ姿ではなく、Tシャツに光沢のあるグレーのパンツというラフな姿をしていた。何故おれだけが休日だというのにスーツを着せられているのか尋ねたいと思ったが、面倒だったのでやめた。
「うん、目分量だったけどサイズ合ってんな。お前腕周りと胸周りがっしりしてるし、腰回りも筋肉ついてるからイタリアスーツはいまいちかと思ったけど、まあまあイケてんじゃねえか。さすがおれの目利きだ。感謝しろ」
 礼を言う気にはなれなかったので、おれは黙って正面の影浦をみつめた。返事は求めていなかったのか、手に持ったハイブランドのネクタイを巻き付け終えると(いつも思うが、こいつは本当にディンプルを作るのがうまい)、玄関の方へと歩いて行った。
「靴はノーブルが一番だ」
 さすがのおれでも、エドワード・グリーンの靴は知っている。イギリス産。玄関に置いてあるだけでその場所が気品あふれる上流階級の住まいになるような靴だ。
 おそるおそる足を突っ込むと、影浦が先に部屋を出た。
 靴のサイズまでぴったりで戦慄しながら、おれは影浦のあとを追った。

***

「仁さま、お待ちしておりました」
 物静かな女性の声に顔を上げる。デパートに来たはずなのに、個室のような場所に通されてぼんやりしていると、初老の、ほほえみをつねにたたえた女性が部屋の中に入ってきて、影浦の前で深々と頭を下げた。
「はつ、遠いところまで悪いな。このクソダサ野郎を弄るのは、おれだけじゃ骨が折れるんだ。手伝ってくれないか」
 この人が影浦の乳母である「はつ」さんらしい。立ち上がって頭を下げ、「こんにちは」とあいさつをすると、はつさんは手のひらで口元をおさえ、「まあ」と上品な声を上げた。
「拝見していたお写真よりもずっと、ハンサムでいらっしゃいますのね。それに……とても背が高くていらっしゃる。失礼ですが、身長と体重をお伺いできますか?参考にさせていただきたいのです」
 白髪交じりの髪を丁寧に結い上げたはつさんは、まぶしそうにおれを見上げながら言った。丁寧なのに、どこか逆らえない雰囲気があるのは、やはり長年影浦家のような鼻持ちならない金持ちの家につとめたせいだろうか。
「一八七センチ、七六キロです」
「それじゃあ既製品はお辛いでしょう。だいじょうぶ、何の心配もいりませんわ。仁さま、スタイリストの方とテーラーの方がまもなく参りますので、今しばらくこちらでお待ちください」
 紅茶かコーヒーを飲まれますか?と尋ねられ、唖然とした。服を買いに来たのに服売り場に行かないなんて、意味が分からない。
 顔に出ていたのか、はつさんがころころと笑いながら説明してくれた。
「ああ、驚かれるのも無理はございませんが、大富豪の方というのはわざわざ売り場に出向くことが少ないのです。基本的にはデパートや各ブランドから、外商が自宅まで来られます。仁さまは外商がお嫌いですから、こうして足を運ばれるのですが、安全配慮上、売り場には行かないようにとお願いしているのです。ですからこうして、お得意様サロンに担当者を呼ぶのですよ」
 おっとりとした時間はそこまでだった。まもなくやってきたテーラー、スタイリスト、それにカラーコーディネーターにサロンディレクターが、おれの全身を好き勝手にし始めたのだ。
 彼らはおれが着ていたスーツや靴を一通り褒め終えると(ほめるときに見ていたのはおれではなく影浦の方だったし、影浦もそれが当然だとばかりの顔をしていた)、服を脱ぐように指示し、下着姿になったおれの頭の先から足の爪の先まで、いたるところのサイズをはかりはじめた。腕周り、足回り、首回り、胴回り、股下……。その間も立ったり座ったりさせられながら、カラーコーディネーターは布を顔に当てたり金や銀の紙の上におれの手のひらをのせたり、眼をのぞき込んで虹彩の色を確かめたり忙しい。デパートの中にあるらしいブランドの担当者が入れ替わり立ち替わり生地を持ち込んで、影浦が首を振ったり顎をしゃくったりする。たまに黙って頷くことがあって、それはどうやら「OK」のサインらしく、影浦の審査を通過した生地だけが個室のテーブルに並べられ、はつさんがそれらを吟味した。
「たのしゅうございますね、仁さま。まるでマイ・フェア・レディのようで」
 雑談をしていても、彼女の手と指示は止まることがない。乳母というよりも有能な秘書のようだ。
「のどが渇いたな。悪いがヒギンズ教授、コーヒーをとってくれ」
「誰がヒギンズだ!!」
 おれの悪ふざけに、影浦が目を吊り上げて怒った。冗談の通じないやつめ。
 計測が終わると、不愛想な若い男が部屋の中に入ってきた。彼は影浦にまったく物怖じすることなく自分の意見を述べ(専門用語が多くてうまく理解できなかった)、やがてあきらめたように首を振ってからおれの前に立った。そのころおれはケープを巻き付けられ髪を切られて整えられていたので、まったく身動きできずにただ男を見上げた。彼は涼しい目元をした、なかなかの美青年だった。
「日本人には珍しい体型ですね。アスリートかなにかですか?筋肉の形状や場所を考えると……野球か何かやっていますか」
「ええ……あたりです。現在は草野球のレベルですが」
 髪を整え終わったらしいサロンディレクターが、影浦に声をかけ、頭を下げてから部屋を出ていく。アシスタントらしき数名は部屋の中をきれいに掃除していた。
「投手でしょう?」
 驚いているおれを後目に、これは、紙で図面ひいたほうがいいな、と男は独り言を言った。
「影浦様。完成まで二週間前後お時間をいただけますか」
「一週間だ。料金は倍はらう」
「いりませんよ。十日。短くするとクオリティが下がります、これ以上は譲れません」
 男がそういうと、はつさんがとりなした。
「仁さま、三池さまは引退されていたところを無理にお連れしたんです。なにとぞ…」
 男の名前は三池というらしい。ミイケ……どこかで聞いたことがある気がしたが、思いだせない。
「仕方ないな。その分完璧なものを頼むぞ」
「引き受けたからにはお任せください」
 ぽかんとしていたおれの耳元で、はつさんがささやいた。
「あの方はミイケというブランドでパタンナーをつとめていらっしゃいました。デザイナーから受け取ったデザインを元に、採寸した数字からパターンを作って、縫製までされます」
 なるほど、と頷いたおれを、三池がきっとにらんだ。
「もうブランド名は変わりましたし、おれの会社じゃありませんよ。あと、パタンナーではなくパターンメイカーと呼んでください」
 思いだした。奈乃香が勤めている航空会社の制服をデザインしたブランドが、ミイケだった。
 男は生地をうけとり、影浦やはつさんと言葉を交わした後で、おれをじっと見て言った。
「ほかならぬ影浦家の申し出なので引き受けましたが……今回のことはご内密に願います。おれは引退したことになっているし、今後も表舞台に戻るつもりはありません。今は祖父のテーラーを手伝って静かに暮らしているんです、お願いですからSNSに書き込んだりしないでくださいね」
「……SNSはやっていませんので、安心してください」
 おれの言葉に、男はわずかに眉を上げて、それから笑った。
「たしかに、あなたの無骨な指でインスタグラムやフェイスブックをやっているところは想像できませんね」
 笑うと色気のある男だとおもった。つられておれも少し笑い返す。
「公開して喜んでもらえるような私生活もないし」
「へえ?おれは興味ありますけどね。口数の少ない、やたらと体格がいいご友人。影浦さまと共通点が何も見つけられませんし興味深いですよ」
 しばらくの間があって、机がガンと鳴った。影浦が蹴り上げたのだ。
「へらへらしてんじゃねえ。時間がねえんだ。てめえも終わったらとっとと帰れ、腰抜けパタンナー」
 三池はムッとするでもなく肩をすくめ、「パターンメイカー」と訂正してからおれにウィンクをした。
「思わぬところで影浦様の弱点を見つけて満足だ。なんかあんたを気に入ったよ、暇なとき連絡してくれ、飲みにでもいこう」
 名刺のようなものをシャツの胸ポケットに突っ込んでから、男は部屋を出て言った。影浦は舌打ちをしてからこちらに寄ってきて、胸ポケットを探って名刺をくしゃくしゃにまるめてごみ箱に捨ててしまった。何をいきり立っているんだ、こいつは。
 はつさんが「まあ」と声をあげて、なぜだか嬉しそうな顔でおれと影浦を交互にみている。この「まあ」は口癖なのか?どうでもいいけど。

 
「採寸したスーツは仕上がりが十日後だとよ。家に送ってやるよ」
 ここに来たばかりのころは上機嫌だった影浦は、機嫌の悪さをむき出しにした声で投げやりに言った。
「金額は……」
「おれが破ったんだ。もらっとけ。時計はオマケだ」
 車を運転しているはつさんは、はらはらしたような表情で時折バックミラーをみている。後部座席で足を組み、窓の外を眺めている影浦は、高慢な態度をとっていると確かに常人離れした美しさと高貴さを漂わせていた。
 疲れたのか、やがて静かな寝息が後ろからきこえてきた。腕を組んだまま眠り込んだ影浦を確認してから、おれははつさんに声をかけた。
「運転していただいてすみません。ここから和歌山まで、遠いのに」
「いいえ、楽しい一日でございました。久しぶりに仁さまにお会いできて……あっという間でした。それに、あんなに楽しそうな仁さまは久しくみておりませんでしたので」
 高速道路は空いていた。この分だと和歌山市内に二時間ほどで到着できそうだ。はつさんの放つおだやかな雰囲気が壊れるのがもったいなくて、音楽を流さずに黙って前を向いていた。ほとんど知らない人なのに沈黙が苦にならないのは、拒絶や否定を全く感じさせない彼女の性格によるものだろう。
「……今回仕立てたスーツは、何にお使いになるのですか?」
 説明に苦しみながらも、会社の企画の話をした。航空会社とのタイアップや、人気投票のこと。そのための写真撮影にきていく服を、影浦が用意すると言ってこうなったこと。はつさんは絶妙な相槌をうちながら、聞き終えると感心したようなため息をついた。
「成田さまは不思議な方ですね。無欲というか……仁さまとは対極に位置される方です」
 少し答えを考えてから、おれは言った。
「おれは影浦と違って貧乏ですから」
「そういうことではなく。はじめてでした、今回のように、仁さまがプレゼントをしてもあまり嬉しそうにされていない方を見たのは」
 それはそうだ。おれは影浦に金を借りていて、返済の代わりにセックスをしている。物をもらって喜んでいられるような立場じゃない。けれどそんなことをこの人に説明できない。
「仁さまの周りにはいつも、同じようなお家柄に生まれ育ったご子息やご令嬢、もしくは、いかにも遊びなれている、容姿の優れたお方ばかり集まっておりました。お家柄で言えば、昔ならお目通りすらかなわなかったような方ですら、仁さまのご容姿や財力にひかれて、虫のようにたかってまいりました」
 そういえば、旧華族・財閥系の家柄なのだときいたことがある。あまり興味がなかったので、今の今まで忘れていた。
「とはいえ仁さまも聡明な方ですし、家同士の取り決めによる許嫁もいらっしゃいましたから、弁えた遊び方をされていたのですけれど。あのように不機嫌を隠さず表に出されているのも、またそれに対してご機嫌を取ろうとしないあなた様も、大変めずらしくって」
 影浦の機嫌なんかとっていられない。自分の機嫌は自分で取れ、とは継父の言葉だ。名言だと思う。不愛想に見えるかもしれないが、実はおれは気分の波がきわめて少ない。愛想がないのは生まれつきだ。
「無視してればそのうち機嫌なおるだろ、って思ってたんですけど、今日は長かったですね」
「まあ、そのような」
 はつさんはこらえきれないというように上品に笑った。
「……仁さまは、本来影浦家を継ぐ器をお持ちの方です。――実際、当主であった仁さまのおじい様は、とくに仁さまを可愛がっておいででした。事情があってかないませんでしたが、――成田さま」
 前を見据えたまま、はつさんは硬い声で言った。
「仁さまとお友達でいてくださって、感謝しております。けれどどうか……仁さまを傷つけないでくださいませ」
 意味が分からない。影浦を傷つけることなんて、誰にもできないのに。
けれど彼女の「親心」ともいえるような言葉にわざわざ反論したくなくて、「わかりました」とだけ返事をした。
 眠くなってきた目をこする。丸一日、知らない人間が入れ替わり立ち替わりやってきて、気疲れしたらしい。
 はつさんが「到着したらお声がけさせていただきますので、どうぞお休みくださいませ」と優しい声で言った。いえ、と返事をしたものの、いつのまにかやってきた眠気のせいで、次第に周囲の音がきこえなくなってきた。
「どちらも無自覚でいらっしゃるのね。仕方のないことですけれど」
 ため息まじりの声に返事をするよりも早く、おれは意識を手放した。