Right Action

9.

 久しぶりに聴いた奈乃香の声は、少し怒っているみたいだった。
『なんなの、あのふざけた企画は』
 開口一番、挨拶も近況もぬきにして、奈乃香は言った。
『缶ビール擬人化で人気投票って……誰が考えたの、悠生?』
 違う、というのもおかしいので(どんな個人的感情を持っていたとしても、やると決まれば社員総意として全力で推し進めるのが仕事だ)、「まあ、営業の中にとんでもない発想をするヤツがいるんだ」とだけ答えた。
 寮の個室は狭いが、その分冷房効率はいい。よく冷えた部屋の中で自社のビールを傾けながらテレビを消した。電話の向こうでは、奈乃香が怒りとも呆れともつかない空気を放ったまま沈黙している。無理もない。一般的な感覚だ。
「評判、よくないか?」
 自分の順位など心底どうでもいいが、航空会社との協賛イベントが成功しないとビアフェスタの成功が危うくなる。投票結果の発表はビアフェスタのメインイベントのひとつなのだ。
 社内での評判をそれとなく探ろうとしたおれに、奈乃香はあっけらかんと言った。
『それがそうでもないの。みんな面白がってる。ミスター鳳凰を決める!って女性投票だけなら俗っぽくて目も当てられないんだけど、ビールを擬人化しているってところがミソよね。男性社員も投票できるから、結構好きなビールに投票したりして楽しんでるみたい。整備士やパイロットにも好評よ、だから余計腹が立つわ』
 ――単なる容姿の人気投票じゃあいろいろ問題になるだろ、このご時世。
 そう言ったのは影浦で、次に持ち出してきた修正済の企画書におれと羽田はのけぞり、千歳は目を輝かせた。
 提出したおれ、羽田、千歳の写真――影浦の古い知り合いだという写真家が特別に知り合い価格で撮ってくれた――の横に書かれているプロフィールに度肝を抜かれたのだ。
『あなたの写真の横に『成田鳳凰ラガー、二七歳独身、身長一八七センチ 好きなタイプは一緒にいて楽しい人!』なんて書いてある画像をみたときのわたしの気持ち、わかる?』
「……すまない、見たくなかっただろう」
 うんざりしたようなため息がきこえて、首を垂れる。
『あのねえ。自意識過剰もいい加減にして。別に悠生の顔みたってなんとも思わないよ、もう』
 それはそうだ。彼女の現恋人は、同じ会社のパイロットでおれなんかとは比べるべくもない。ふたりで白金に住んでいるのだと人づてに聞いたとき、世界の違いにため息も出なかった。彼女には誰よりも幸せになってほしい。人任せなのがなんとも情けないところだけれども。
『でも、考えた人賢い。ビールの投票にすり替えたことで男性票も集められるし、容姿を比べているわけじゃないのも好感がもてる。鳳凰ラガーがあなたで……ええと、羽田くんが鳳凰初絞りで、……もうひとり、あのかわいらしい男の子だけビールじゃないんだね』
 羽田のことは付き合っているときに何度か話していたので奈乃香も知っている。もうひとりの説明を簡単に済ませた。
「千歳のことだな。おれが指導してる後輩なんだ」
 あの後輩は、ビールの地位を脅かしつつあるサワー、『生果実レモン』の擬人化に使われている。このサワー、ウォッカと果汁と炭酸水しか使われていないシンプルなものだが、現在のレモンサワーブームに乗っかり、ものすごい売れ行きなのだ。
『実は生果実レモン、好物なの。彼に投票しようかな』
「それは奈乃香の自由だ」
『嘘だよ。本当はだれに入れるか気になる?』
 返事をする前に、『ま、気になるわけないよね。それなら別れてない』と自己完結してから急に低い声で言った。
『……周くんから連絡、なかった?』
 息を呑む。いつのことを言っているのか問おうとして、それじゃまるで連絡があったことを認めているようなものだと思い、黙った。
「奈乃香にはあったのか」
『うん。……ひどく酔ってて…、お金貸してくれって言われた。断ったらしばらく匿ってくれないかって』
 めまいがした。声を荒げたくなるのを我慢して、つとめて冷静な声で訊いた。
「いつ頃の話だ?」
『ひと月ぐらい前かな。……それからずっと、悠生に電話しようと思ってたけどできなかったの。ねえ、大丈夫?付き合ってるときから、周くんに何度もお金貸してたでしょう?』
 ひと月前。周平が風俗店から金を持ち逃げした後の話だ。
 頭の中で奈乃香の言葉がぐるぐる回った。
ヒトツキマエ。カネヲカリニキタ。カクマッテホシイ……。
 付き合ってるときから全部知ってたよ、と奈乃香が溜息のような声で言った。
『もう隠せないよ。誤解したままなんでしょう、だからまだ周くんは悠生のこと憎んでるんだよね。周くんに本当のこと言おうよ。わたしたちも別れたし、もうあの街に戻ることはないんだから。悠生が言わないなら、わたしから言うよ』
「待ってくれ。おれから、周平に本当のことを言うから。だから、今は……」
 電話は唐突に切れた。手のひらから奪われた携帯は、いつの間にか部屋の中に入ってきた影浦の右手の中にあり、通話を切った後はベッドに放り投げられた。
「鍵はかけろって何度もいったろ?」
 わずかに首をかしげて見下ろしてくる影浦。この角度から見ても比類なき美しい顔に歯ぎしりしたくなった。
 この距離でこいつを見るのは久しぶりだ。ビアフェスタに向けての準備期間中、多忙ということもあり、全く呼び出しがかからなかった。
 腰に手をあて、上半身だけを屈めて、影浦がささやく。
「本当のこと、ってのは一体なんだ?興味あるな」
 伸びてきた指が、ネクタイの結び目に押し込まれてあっという間にほどかれる。何かの魔法かと思うほど、影浦は服を脱がせるのが早い。よほど遊んできたのだろう。きっとブラジャーのホックを外すのだってものの一秒とかからないはずだ。
「お前には関係ない」
「そんなわけあるかよ。お前、銀行から金借りるときに決算書渡さずに借りられる会社があると思うか?ないだろ。ありったけの情報と体を寄越せ。それがあのクズを切れないお前に、無利子で金を貸してやった条件だろ」
 襟首を掴まれ、そのままベッド押し倒された。中途半端に脱がされたシャツで両腕を縛られ、身動きできない。
「情報云々は後付けだな。オナホ代わりにするだけじゃ満足できないのか、自慰する暇もないほど女がいるらしいけど」
 自分で言っていて悲しくなる。けれど本気を出せば振り払えるのに、そうしない自分もどうかしていると思った。
 影浦は少しだけ目を見開き、じっとおれをみつめた。睨み続けると、ふっと目をそらされる。
「女は声がうるさいし話が長い。お前は静かでいい」
 どういう表情で影浦がそう言ったのか分からなかった。さきほど外されたネクタイで目隠しをされたせいだ。
「もう痕は消えたな」
 指で喉仏のあたりを何度か撫でられて、顎を上げた。何も見えない。暗闇の中で、裸にされていく衣擦れの音だけがやけに大きくきこえる。影浦はいつも電気を消さないので、今もこうこうとした明かりの中で手を縛られ、目隠しをされている半裸の自分を想像すると、羞恥で消えたくなった。
「また首しめてやろうか?よさそうだったよな、成田」
「……いいわけあるか。痕を隠すのにどれだけ苦労したか…二度とごめんだ」
 拒絶しているのは表面だけで、声は上擦ってしまう。気持ち良かったのは事実だった。そしてそれを聞き逃す影浦ではないのだ。
 笑い交じりの声が、一転、氷のようなつめたいものに変わった。
「何を隠してる?」
 縛られた腕はベッドに固定されている。仰向けで足を開いたまま顔をそむけると、濡れた冷たい感触が首筋を通ってすべりおりていく。
「言わぬなら、言わせて見せようバカ成田、ってな」
 あまりにくだらなくて少し笑ってしまった。鼻からもれるような笑いではあったが。
「いいぞ、笑ってろよ」
 ひゅ、と息を吸い込む。指の腹で胸の尖りを丸くなぞるように揉まれた。
「……っ」
 膝を折り、暴れた。睨みつけようにも視界は遮られているので、足で影浦の横腹を何度か蹴ったが、無駄だった。舌先で尖りを舐められ、歯を立てられて、喉奥から声が漏れる。絶対に声なんか出したくないのに、口を押える手がなくて、おれは顎をそらして必死で我慢した。
 外気にふれている局部に、ひやりとするものが垂らされた。いい匂いのするオイル――影浦が行為のときいつも使うものだ。下腹から性器へ、とろとろと落とされるその感覚に震えた。影浦を攻撃していたはずの足は、いつの間にか爪先立ちになってベッドのシーツを蹴っている。
 舌や指と一緒に下がっていく影浦の頭から、いつもつけているオーデパルファンの香りがした。柔らかい、オリエンタルな雰囲気の、くせになる香りだ。最近受け持った料飲店のオーナーで香水マニアの人がいてかなり勉強した。種類もずいぶん覚えたが、影浦のつけているものは、まず市販のものではありえない。持続時間が長く、嗅いだことのない香り。おそらくオリジナルだ。自分の体臭やイメージに合わせて作らせることができるのだと、オーナーの男が言っていた。あの、好きにはなれない政治家の息子だ。イタリアンレストランのオーナーの。彼自身はとてもやさしく温厚な男だけれど。
「よそ事考える余裕があんのか」
 違う。声を出したくないからわざとだ、というわけにもいかず、おれは唇を噛んで鼻から息を出した。影浦の唇は下腹部から内腿へと移り、その間も二本の指は、性器よりも奥にある場所を何度も撫でては、焦らすように遠ざかっていく。
 指一本も触れられていない場所が熱い。熱くて、はちきれそうなぐらい興奮している。影浦は面白がるように、オイルで濡らした指で何度も後ろの穴を撫で、少しだけ中に指を入れて、すぐに抜いた。ねだりそうになる自分が嫌で、ますます強く唇を噛むと、血の味がした。
「噛むならこれにしろ」
 下唇をなでられたかとおもうと、その指が口の中に侵入してくる。人差し指と中指で顎の裏を直接撫でられて、歯を立てるよりも先に舌でなめてしまった。長い指は歯の裏をたどり、敏感な咥内の粘膜を撫で、舌の裏を探った。
 腔内から出て行った指が、焦らされていた穴の中へ、一気に突っ込まれた。中の狭い場所の上側、腹側のほうを、トントンと指の腹で叩かれて腰が浮いた。
「ン、ンンーーーーッ」
 いく、と思った瞬間、性器に何かが巻きつけられて、せきとめられた。驚いて暴れると、影浦が小さい声で言った。
「革のコックリングだ。何を隠しているのか白状するまで、お前はイケないからな。さっさと言ったほうが身のためだぞ。あまり長く血流をとめているとやばいことになる」
 本能的な恐ろしさで背筋が冷たくなった。外せ、と叫んだおれの声は、影浦の「言えばすぐに外してやるよ」という声で無慈悲に無視された。
「そんなもの、どこで……うあっ」
 抵抗しようと足を持ち上げた瞬間、影浦のものが奥まで入ってきて串刺しにされた。
「昔、こういうものを売るバイトをしてたんだよ。営業にハマったきっかけだな。大人のおもちゃの訪問販売。成績良かったんだぜ?……親父にバレて半殺しにされたけど」
 硬く大きくなったものが、容赦なくおれの中を擦り上げ、つま先が浮く。ゆっくりとしたストロークから次第に激しく早い動きに変えて、影浦は正面からおれを犯した。太ももがぶつかるパンパンという音や、ベッドの軋む音が普段より大きく感じて、耳を塞ぎたいのに塞げなくて、「もうやめろ」と制止する声は欲に濡れていて全く説得力がない。
 太ももを掴まれ、執拗に弱いところを突かれた。足はいつのまにか影浦の腰に巻き付き、もっと欲しいとねだるような有様だ。身体はもう、自分の意思なんて放棄していた。気持ち良くて、苦しくて、射精したくて射精したくて死にそうだった。出したい。それ以外何も考えられない。このまま破裂してしまうのではないか、という恐怖と、中だけで終わりのない絶頂を何度も味わう地獄が、影浦への屈服を促す。
「出したいだろ?……なら、言え。何を隠してる」
「……言わない、言いたく、ない」
「まあそうだろうな。だからお前は面白い」
「影浦……おまえなんか、死ね」
「おれは九十まで生きる。その価値がある人間だ、成田、お前と違ってな」
 負け惜しみで吐いた言葉に、思いのほか元気のない声が返ってきた。表情は分からない。調子が狂う。こんなにひとの体を好き勝手しておいて、どういうことなんだ。
 反論はしなかった。確かに、自分でも生きる価値のある人間だ、とは言い難い。弟に恋愛感情を抱き、それを隠して生きてきたこと、嘘をつき、たくさんの人を欺いてきたこと、その嘘によって弟に憎まれ、嫌われたくなくて金を払っていたこと、すべての行動がクズだと言ってよかった。
「言え。言って楽になれ。な?」
 体を裏返しにされ、寝そべったまま後ろから犯された。締め付けられたままの性器がシーツに擦れ、痛くて気持ち良くて頭が変になりそうだった。覆いかぶさった影浦のものが、ぐちゅぐちゅと何度も中を往復しては時折引き抜かれる。口から出そうになるのは、「もっとしてくれ」「何でもいうから外してくれ」という情けない言葉で、それを必死で堪えて枕を噛んだ。身体が影浦に従ったとしても、精神だけは、絶対にいいなりにならない。
「……クソ、この強情っぱりが」
 余裕のない声が聞こえた。それから間もなく、うめき声と一緒に深く突き入れられ、中にじわりと生ぬるい感覚が広がった。
 体温が離れたと同時に、栓を失った場所からどろりと、出されたものが流れ落ちていく。目隠しが外され、手かせになっていたシャツを中途半端に外される。視界がクリアになったころには、影浦は服装を整え終わっていた。
「おい。なんで完全に外さないんだ、外せよ」
「今外したらお前、殴りかかってくるだろ?殴られると痛いし、会社の女が心配してうっとうしいことになるからな。自分でなんとかしろよ」
「この野郎」
 低い声で恫喝しても、影浦は涼しい顔をしていた。それどころか、眉間に少し憂いのようなものを浮かべていた。それはこっちがすべき表情であって、お前じゃないだろ。
「言わぬなら、……勝手に調べる、バカ成田。じゃあな」
「おい!」
 風のように去っていった影浦の後ろ姿を、ベッドで寝そべったまま見送る。なんとか拘束をほどくまで、それから一時間以上かかってしまった。

******

 和歌山開催のビアフェスタまで、残り一か月を切った。
 九月に入った途端、涼しい風が吹き始めたのはどうやら関西だけではないらしい。ニュースで気候情報をみていると、地元、関東はもはや秋の気温だ。あれほど暑かったのが嘘みたいに、夏はあっという間に店じまいしようとしていた。
「千歳、魚の穴さん、最終返事まだか」
 業務日誌をまとめて書きながら、経費をざっと検算する。領収書の類は最終的に経理担当に渡すことになるのだが、分かりやすいように内容を点検して日にち順に並べ、内容について質問されたら答えられるように、分かりにくいものには手帳をみながら付箋を貼った。
 返事がないことに業を煮やして顔を上げると、涙でうるんだ目に震える声で千歳が言った。
「それが……僕、失敗しちゃったみたいで」
 電卓をたたく手が止まった。提出書類の請求書には月まとめ分の金額を記載するところがあって、エクセルを使って集計しているが、なんとなく電卓も叩いてしまう。入力ミスがないとは言えないので、検算が習慣になっているのだ。CSVデータの集計なら検算も必要ないが、領収書は手計算なのでどうしても手作業がなくならない。
「どうした?」
「昨日の朝、魚の穴のオーナーさんが突然『販促用のアレもってきて!』って電話してきたんです。ただその日、ほかの料飲店さんとの約束があったので今日の朝イチで持っていったら、『遅いわ!もう二度とくんな!!』って怒鳴られちゃって……何がなんだかわからないです。本当にそれだけなのに、足を運んでも取り付く島もなくって」
 『魚の穴』はここのところ勢いを増してきた、魚介居酒屋のチェーン店だ。和歌山の中でも紀南を中心に六店舗展開していて、ずっと鳳凰ビールの顧客だったのだが、数年前の鳳凰ラガー味変更でユウヒビールに乗り換えられてしまった。何度か千歳と足を運んだところ悪い感触ではなかったので、新規顧客をとりにいく合間に営業をかけろと指示していたのだ。
 目を潤ませ、追いつめられた顔をしている千歳をみていると、自分もずいぶん場数をこなしてきたんだなあと感慨深くなった。この程度の失敗、失敗にも入らない、そんな風に思えるのは、自分が散々失敗を繰り返しながら強くなってきたと自覚しているからだった。
「なんだ、そんなことが。大体『アレ』持ってこいのアレってなんだよって思うよな。ハハ」
 手を伸ばして千歳の頭をわしゃわしゃと撫でる。今日残業しているのはおれと千歳のふたりだけだ。羽田は営業先からの直帰で、影浦は課長と一緒に航空会社と打ち合わせに出ている。
「うわ、成田先輩のレアな笑顔、こんなことで観たくなかったあ」
 泣き笑いの顔で、千歳が言ったので、おれは椅子にもたれて腕を組んだ。
「そんなもん失敗のうちにも入らないけど、次回に向けたポイントがある。『来いと言われたらすぐ行く』これだけだ」
 顔をひきしめて千歳を見据える。ふだんはふわふわしている千歳だが、真剣な話になるとぐっと目つきが変わる。意外とこいつ、上下関係の厳しいところにいたのかもしれない。
「すぐ、ですか」
「そう、すぐだ。ただし永遠にそうしろって言ってんじゃないぞ。相手の性格、時間感覚が分かったらそれに合わせればいいんだ。千歳はまだ営業経験が浅いから、オーナーの性格だとか要求の優先順位が分かんないだろ?だとしたら、すぐ持っていけ。今回の件は、顧客とお前の時間感覚の不一致が原因だ」
 経理に手渡す書類の整理が終わった。読みにくい字はないか、誤字はないか、ざっと確認してからクリアファイルの中にいれる。
 淡々とした話し方が「怖い」とか「威圧的だ」と言われることがあるので、しばらく千歳の表情を見守った。分からなければ顔に出すだろう。
 彼は目を伏せて数秒考えこんだあと、「じゃあ、いつ頃のお届けを希望されますか」って聞けばよかったわけじゃないんですね?」と確認してきた。
「そうだな。ふつうなら、『何を、どこに、いつまでに』の確認が重要なんだけど、この仕事って色々な人を相手にするだろ。実は要望してきた相手に「それはいつまでのご用意を希望されますか?」っていうのは、危険な一言なんだよな。要望に優先順位をつけようとしてるのがバレるから。基本は、すぐだ。信頼関係が出来上がったら、そこに交渉の余地が生まれる。それに、要望にすぐ応えるっていうのは割と相手に対してもプレッシャーだからな。ここまでしてもらっておいて、何もせずに追い返すのもなあ…って思わせたら勝ちだ」
 パソコンの電源を落として立ち上がる。ロッカーの中に仕舞ってから、千歳の後ろに立った。
「な、成田先輩、帰らないんですか?」
「帰るぞ。お前と一緒に、『魚の穴』さんによってからな。運転よろしく」
 千歳が慌てて立ち上がって頭を下げる。時計を見れば、夜の八時過ぎだ。今から店に向かえば夜の八時半。ピークは過ぎているだろうから、手土産を持っていけば追い返されることもないだろう。
「一緒に挨拶だけして帰ろう。そのあとは悪いけど、車一旦置きに来てからおれの営業先で一緒に飯食ってくれ」
 営業先で食事をするのはひとつの「恩着せ」である。こちらも契約がかかっているので、私費持ち出しであっても、ビールが自社契約の店に行く。つまり、鳳凰ビールの契約先以外はお断り、というわけだ。一人で飲みに行くときは研究を兼ねてほかのメーカー契約店舗にも足を運ぶが、同僚といくときは暗黙の了解になっている。

 やっぱり営業さんはみんな押しの強さがありますよねえ、と件の香水に詳しいオーナー、馬渡議員の息子が笑った。
「それは影浦先輩を見てても羽田先輩を見てても感じてたんですが、成田先輩はちょっと、意外でした。この人こういうこと言うんだって」
 千歳がにこにこ笑いながら嬉しそうにおれの話をしている。さっき一緒に謝りに行っただけで、たいしたことは何もしていないのに不思議だ。
「……酒、飲めないんじゃなかったのか」
 生ハムとフルーツトマトの何やら、はとても美味しいのだが、高尚な味なのでおれには「おいしい」ということしかわからない。飾り付けも素晴らしいし、さすがミシュランで星をとるような店で働いていたシェフは違う。
「あの、僕飲めないわけじゃないですよ。そう思われているほうが何かと都合がいいので黙ってました…すみません。ビールがあまり得意じゃないだけで、ワインやサワーはいくらでも飲めます」
 嬉しかったので、たぶん顔に出ていたと思う。「そうなのか」と隣を見たおれの顔を、オーナーが指さして「成田さん、そんな顔するんですねえ」と可笑しそうにした。
 羽田もよく一緒に飲み歩いたが、酔うと風俗に行きたがるのが面倒で、気軽に飲みに行けてさらっと帰れる後輩を欲していたのだ。
「成田さんっていかにもスポーツマン!って感じですし、目つきが鋭いし、ちょっと近寄りがたい人かと思ってました」
 馬渡オーナーがワインのボトルを持ってきて、ワインクーラーの中に差し込んだ。続きが聴きたかったが、そのあとカウンターの別の客から注文が入って、料理の方に集中してしまった。
「そうなのか?まあ、あんまり笑わないっていうのはよく言われるな」
「成田先輩はここぞって時しか笑わないですね。それがずるいんだよなあ。かっこいい顔で急にニコッて笑うんだもん。そんなのみんな契約しちゃいますよ。僕だって店に成田先輩みたいな営業マンが来たら、ありったけ注文しちゃうなって思いますもん」
 今日だってそうですよ、と千歳がつづけた。
「本当にありがとうございました。面倒をかけてごめんなさい。……僕みたいなぺーぺーの営業先についてきたって、成田先輩にはなんのメリットもないのに、どうしてですか?」
 首を傾げ、うるんだ目で真剣に問われて、困ってしまう。千歳は本当にチワワみたいだなあと思った。人懐っこくて、愛嬌があって、謝罪とお礼がきちんとできる。失敗してもこんな後輩ならいくらでもかばってやろうと思えてしまう。これは一種の才能だ。おれにはないタイプの。
「ここ!僕がごちそうしますので、好きなだけ飲んでくださいっ」
「バカ、後輩に奢ってもらうなんてそんなみっともないことできるか」
 ここまで純粋に慕われると、罪悪感が湧いてしまう。そのせいか、それとも酔っていたのか、二時間ほど飲んでからぽろりと影浦との競争の話を漏らしてしまった。
「――千歳を助けたのは仕事だから、ってのと、モデルケースにしたかっただけなんだ」
「モデルケース?」
 手元がふわふわする。心地よい酩酊状態の中で、はじめて会社ぐるみで影浦との競争を促されている顛末を他人に話した。おれが営業成績一位を取らないと影浦は会社を去り、自分は営業から外される、というにわかには信じがたいような話。それなのに千歳は、疑うどころか確信を深めたような顔をしていた。
「影浦を抜くには、新規開拓だけじゃ厳しい。すでにユウヒビールに奪われてしまったシェアを取り返さないといけない。だからそのモデルケースになりそうな千歳の営業先に、ちょっと手を貸しただけなんだ。おれはそんなにいい奴じゃない」
「充分いい先輩ですよ。あ……てことはあの噂、本当なんですね。影浦先輩が弊社の社長の親戚だって話」
「本当も何も、あいつ三友系影浦財閥の直系らしいぞ」
「旧華族じゃないですか!けど、それ聞いていろんなことが腑に落ちました」
 顎に手を当てて、千歳が考え込む。周囲を見渡すと、ちょうど客がはけたところでおれたち以外に人がいない。馬渡オーナーが「お水にしますか?」と微笑みかけてくれて、頭を下げた。
「すみません、長居してしまって。もう出ますので」
「いいんですよ、お気になさらず。ゆっくりしていってください」
 来た時間が遅かったので、あと三十分ほどでラストオーダーだ。申し訳なく思い先に会計を申し出たが、オーナーは柔和な表情で「いいんですってば」と笑って取り合ってくれない。
「変だとおもってたんです。今回の航空会社が協賛してくれたビアフェスタだってそうですよ、ふつうそんなツテないだろって。支店長も課長も、影浦先輩の言うことは聞きますしね
 影浦が社長の親族だと知っているのは、上層部のごく一部とおれのみだ。だから千歳の発言は誤解だった。
「仕事にそういうことを使ったりはしていないと思う」
 かばうような発言になってしまったせいか、千歳が頬をふくらませてこちらを睨んだ。
「僕もともと飲食店で働いていたからわかるんですけど、影浦先輩はずるいんですよ。有名なレストランのオーナーに知り合いが多くて、なんでだろうと思ってたんです」
 スツールに座りなおした千歳は、落ち着きなくおれのグラスをちらちらと眺めた。グラスの中は注がれたワインで満たされていて、さっきからあまり減っていない。グラスに口をつけようとしたところで、水が出された。
 千歳が立ち上がってトイレの方へと歩いていく。そのときを見計らっていたかのように、オーナーがカウンターの前から身を乗り出してきて、小声で言った。
「影浦さんは確かにお知り合いが多いですが、ご自身の出自をちらつかせたり、笠に着たりしているところを見たことはありませんよ。休日も私費であちこちへ食べに行かれていますし、パーティに参加されることも多いみたいですし、飲食店のオーナーが何かとお手伝いをお願いしたりしているようです。わたしも街バルの際に何もお伝えしていないのにお手伝いを申し出てくださったことがありますよ。お仕事には誠実な方だと思いますが」
「……あれは、こちらが無理に参加をお願いした側面もありましたので」
 数週間前、和歌山市内で開催された街バルのイベントだ。弊社も協賛してビアフェスタのチラシを配らせてもらった。
「ふふ。確かにあのときは営業さんの押しの強さを実感しましたけれど、結果的には参加させていただいてよかったです。開店してから、ランチはともかくディナーにお客様の入りが悪くて悩んでおりましたが、あのイベントをきっかけにたくさんの方が来て下さるようになりましたから」
 あの品のない政治家の息子だとは思えないほど、オーナーは物腰の柔らかい、丁寧な話し方をする。影浦もこんな風に話そうと思えば話せるのに、どうしていつも俗っぽい話し方をするのだろう。
 考え込んで黙っていると、オーナーが周囲を確認してからおれのワイングラスを下げ、耳元で囁いた。
「……千歳さんには気を付けたほうがいいと思います」
「え、それはどういう」
 店の奥からドアが開く音がして、口をつぐむ。かえりましょっか、と上機嫌で声をかけてきた千歳の目を見られず、急いで清算して店を出た。
「タクシーを呼びましょうか?」
 遠くからオーナーの声が聞こえたが、千歳が「大丈夫ですよ~送って帰るんで」と返事をしている。
 足元がふらつく。どれだけ飲んでもこんな風になったことはない。おかしいとすぐに気づいた。
「もしかして体調わるかったですか?成田先輩」
「いや…おかしいな。普段こんなことないんだ」
 呂律も回らない。焦る気持ちと、なぜ、という疑問で頭の中が真っ白になる。ワインなんてボトルを二本飲んでも大丈夫だ。今日はおかしい。
 おれよりも背が低い千歳が、肩を抱くようにして路地の中へ入っていく。そっちにいってもタクシーは通らない、と言おうとしたが、上手く声にならなかった。どんどん暗いところに入っていく。
 あたりが暗くてどこにいるのかよくわからない。ベンチのようなものに座らされたので、公園か何かかなと考える。
 足から力が抜けた。道路に倒れ込みそうになったおれを、千歳が慌てて支える。「うわ、重いな」とつぶやいた声はどこか嬉しそうで、頭の中がぼんやりした。眠いのと、高揚しているのと、半分ずつの不思議な感覚。雲の上を歩いているみたいだ。
「……成田先輩、正直に答えてくださいね。影浦先輩と、付き合ってる?」
 ベンチに座っているらしいおれをのぞき込むように、正面にしゃがみこんでいる千歳が問いかけてくる。声が頭の中で響いて、なぜだか面白く感じて、おれは笑いながら返事をした。
「付き合ってない」
 あ、この薬本当にきくんだ、というつぶやきが聞こえたが、意味がうまく理解できなかった。おれは笑ったまま目を閉じて、体を前後に揺らした。今すぐにでも眠ってしまいたい。
「でも体の関係はある?」
「ある。借金を返すために影浦と寝ている」
 考える余裕なんてなく、口から真実がぽろぽろ落ちていく。合間に笑い声。誰のものかと思うほど遠く感じる自分の声だった。
「借金ってどういうことですか?なんの借金?」
 低い声で千歳が言った。おれは首を傾げ、とろとろと溶ける風景の中にみえる千歳の顔をみつめながら言った。
「弟がつとめていた風俗店から持ち逃げした金を、影浦が肩代わりしてくれた」
 沈黙。そのあいだにベンチに横になろうとしたおれの頭を、千歳が手のひらでつかまえて起こし上げた。
「もうちょっとだけ。一体いくらの借金ですか」
「五百万…五百五十万。うん……たぶんそうだった。弟のことをいろいろ知られてしまって、断れなかった」
 っだよ、それ!と千歳が叫んで立ち上がり、ベンチのそばにある何かを蹴った。
「どうせ明日になったら全部忘れちゃうからいいや。おれ、あんたのことが好きなんです、成田先輩。おれじゃダメですか。五百万、なんとかしますから、おれと付き合ってよ」
 肩を掴まれた。見上げると千歳が、苦しそうに眉を寄せている。アンタノコトガスキナンデス、という言葉の意味がうまく理解できなくて、立ったまま見下ろしてくる千歳をみつめた。
「なんだよその顔……かわいいな、くそ」
 舌打ちしたかとおもうと、千歳の顔が近づいてきて、鼻先がぶつかり唇が重なった。やわらかくて熱い舌は乱暴に唇のあいだをこじ開け、中に入ってこようとする。キス……千歳とキスしている。なぜ?

 いやだ。
 勝手におれにさわるな。

 本能的に、手を前に押し出す。
「やめろ」
 うまく力の加減ができなくて、おれの全力で突き飛ばされた千歳は、後ろにたおれて尻もちをついた。口元を拭う。シャツのボタンが二つ外され、スラックスからすそが出ていた。
「影浦先輩とは寝てるのに、なんでおれはダメなんだよ。付き合ってないんだろ!?」
 じゃあいいじゃん、と千歳が腕を掴んでベンチに押し倒してきた。眠くてだるくて、いまにも気を失いそうだったのだが、さっきのキスで少し意識が覚醒した。
「いやなもんはいやだ、……どけ!」
 腹を思いきり殴った。千歳がもんどりうって倒れ、腹をおさえて地面に突っ伏している間に、その場から逃げ出す。
 方向が分からない。ここがどこなのかも。あたりは森のようにうっそうとしていて、人の気配どころか街灯もない。おまけに頭のなかはぼんやりしていて足はふらつくし、逃げるときにシャツのボタンがとんで肩から落ちていて、夜の外気で少し肌寒い。
 暗い中で何かにつまづいてしまい、丘のようなところから転がり落ちた。起き上がろうとしたが足をひねったらしく、痛みでうまく立ち上がれない。
 ポケットから飛び出した携帯端末が、うつぶせに倒れているおれの真横に落ちていた。ふと浮かんだ顔に、「無理だ」とつぶやく。
――眠い。意識がもうろうとする。
 青い草の匂いがした。ひんやりとしていて気持ちがよく、このままここで眠ってしまおう、と考えたとき、電話が震えた。画面をタップすると、いつもどおり、不遜な声が命令する。
『成田、今から来い』
「……それはむりだな、今はちょっと取り込んでる」
『知るか。一時間以内だぞ』
「悪い、もう……目を開けていられない。寝る」
『一体いまどこにいるんだ?成田、まて、切るなよ。そこへ行くから――』
 焦った声に、少し笑ってしまった。こいつも焦ることがあるんだな、と思った。
「どこかの公園、だと思う」
『すぐ行く。動くなよ』
 電話が切れてすぐに、意識を失ってしまった。スイッチが切れたみたいな、唐突な意識の消失だった。

***

『――だから、代わりになってやってくれないか』
 継父の声がする。
 涙まじりの、震える声だった。
 実家のテーブルに座っているのは、継父と、おれと、奈乃香の三人だ。奈乃香は青いを通り越して白い紙のような顔色をしてうつむいている。
『このままじゃ、周平はプロ野球選手になれない。……一生のお願いだ、悠生』
 母の姿はなかった。だから彼女はこのことを知らない。いまだにおれのことを性的に堕落した、最低の人間だと思い込んでいるだろう。
『周平の代わりに……――についていってやってくれ』
 奈乃香がわっと泣き声をあげた。そうだよな、と思う。あんまりだよな。こんなのはあんまりだ。奈乃香に対して、これほど誠意のないことがあるだろうか?
 けれどおれは頷くのだ。何度この夢をみても同じだった。おれの選択は常に「YES」だった。周平が野球選手にならないなんて、想像できなかった。何を犠牲にしても、周平の夢は叶えなければならない。
――本当に?
 奈乃香の声。手術室から出てきた奈乃香が意識を取り戻したとき、泣きながらおれに言った言葉だ。
――本当に、これが周くんのためなの?
 分からない。違う、分かっている。周平のためなんかじゃなかった。ふたりが一緒に歩いている姿を、仲睦まじい姿を見続けることが、どれほど自分にとって辛いことだったか。
――周くんはわたしを、わたしたちを、きっと許してくれないね。
 奈乃香の手を握った。冷たくて細くて、どれほど強く握りしめてもおれの体温が移ることはなかった。
「ごめん、……奈乃香。許してくれなんて言わない。なんでもする。おれのことを憎んでくれ」

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 何かあたたかいものがまぶたに触れた気がして目を開くと、心配そうなはつさんがおれをのぞきこみ、その隣で影浦が、無表情に立っていた。
「ひどくうなされていらっしゃいました。大丈夫ですか?」
 起き上がろうとすると、手のひらでそっと肩をおさえられた。
「まだ横になられている方がよろしいかと。点滴が終わっておりませんので」
「……点滴…」
 この天井は知っている。影浦の家だ。どうしてここにいるんだろう。
 何も思い出せない。ただ体がだるくて、喉がかわいていた。
「お医者様に来ていただいたら、あなた様は何か薬物を飲まされたようだ、とのことで、早く排出するために生理食塩水の輸液をおこないました。勝手に申し訳ございません」
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
 力のない声が出る。本当に何も思い出せない。千歳と……どこか飲食店に行ったような気がするが、そこから先は覚えていない。
「クスリの成分は詳しく調べないと分からんが、おそらくフルニトラゼパムと何か、自白剤的な成分を混合したもの、だそうだ」
 腕を組んでいる影浦が、淡々とした声で言った。
「自白剤だって?なぜ……誰が」
「さあな。何かお前にききたいことでもあったんだろ」
 影浦が目配せすると、はつさんが心得たように頷き、ベッドルームから出て言った。そのドアをしばらく眺めていた影浦は、完全に彼女の気配が遠ざかってから、低い声で言った。
「何をされた」
 点滴が終わった。針を引き抜き、体を起こす。
「お前、服がボロボロだったんだぞ。まさか千歳とクラブではっちゃけてヤクをキメたってわけでもないだろ。かばい立てしたらろくなことにならないぞ。何をされたんだ、言え!」
 襟首をつかんで揺さぶられ、おれは怒りや驚きよりも、不思議な気持ちが湧いてきた。
「本当に何も覚えてないんだ。……影浦はどうして怒っているんだ?」
 ひゅっと息を呑んだ音がして、それから、はつさんが飛んでくるような大声で、影浦が怒鳴った。
「怒ってねえよ、ふざけんな!おれだぞ?なんでこのおれが、お前なんかのために怒らなきゃいけねえんだ、死ね!!」
 きょとんとしていると、影浦が手を離し、きまずそうに立ち上がった。後ろではつさんがくすくすと笑っていたのだ。
「嫌ですよ、仁さま。あんなに懸命に、不慣れな看病をされていたじゃありませんか」
「余計なことを言うな!」
 はつさんがこちらに歩いてきて、ベッドの足のところで腰に手を当てて眉を寄せた。
「それに、仁さまといえども「死ね」だなんて言葉、使ってはなりません。いますぐ成田さまに謝罪なさってください」
 影浦がへん、と鼻で笑った。一体何歳なんだお前は、と笑いそうになったが、うつむいてごまかす。
「先に成田が言ったんだぜ、おれに、死ねってな。びっくりするだろはつ。そんな口をきくやつがこの世に存在するなんてな。自分の命の価値とこのおれとを、同じだと思ってんやがんだよ。勘違い甚だしいぜ」
 顎をあげて目を伏せ、おれを見下す影浦。ああ、この憎たらしさと天上天下唯我独尊さ加減、まさに影浦仁である。
 ふっと笑うと、影浦が眉を上げて一時停止した。
「まあ、成田さま。売り言葉に買い言葉を使う仁さまも仁さまですが、いけませんよ。おふたりともごめんなさいをしましょう。さあ」
 はつさんが両手を前に出し、ベッドの上で座っているおれと、腕を組んで立ったままおれを見下ろしている影浦を促してくる。

「誰が謝るか」「絶対嫌です」

 声が重なってしまった。とうとう、おれは声を上げて笑った。影浦も溜息をつき、首を傾げて唇の端を持ち上げた。
「まあ、お前が覚えてないならいい。勝手に調べる」
「またか」
「成田は秘密主義だからな。そしておれは知りたがりなんだ。誰かの秘密を暴くのに生きがいを感じる」
 影浦の言葉に、はつさんが頷く。
「そうですねえ、仁さまがこんなに生き生きとされているのは、乗馬をはじめられたころと、口に出すのも憚られるようなわいせつな品物を売るアルバイトをされていた頃以来でございますね。ああ、成田さま。よろしければそのときのお話をいたしましょうか?あのとき驚きましたのは、ご当主様は面白がられて仁さまの才能をたいそうお褒めになっておられたのに、お父様が……」
「もう出てけ!」
 影浦がはつさんの背中をぐいぐい押して、ベッドルームから追い出す。
 息を荒げてドアにくっついて立っている影浦に、おれは笑いながら言った。
「続きが気になるな。…よかったら教えてくれないか、お前の口から」
 影浦の指が伸びてきて、短い前髪の下、額のあたりをそろりと撫でた。
「ここに傷ができてる。痛まないのか?」
「お前にベルトで打たれるほうが痛かった。少し痕になったし」
「おれはいいんだよ」
 気持ち良かったか否かときかれるとよかったので責める気持ちは全くなかったのだが、影浦の開き直った言葉には呆れた。
「お前はどうなんだ。気持ち良かったのか、おれの首を絞めて犯して」
 意趣返しのつもりだったのに、影浦の声は沈んでいた。
「ああ。成田よりもずっといい女と山ほど寝てきたのに、どうしてだろうな。お前の苦しそうな顔を見ながら突っ込んでるのが一番イイ」
 ベッドに腰かけた影浦が顔をそむける。言葉にはいつものような覇気がなかった。うつむくと、色素の薄い髪がひと房、額に落ちた。何度かさわったから感触も覚えている。手入れの行き届いた、柔らかくていい匂いのする髪と、形のいい額からのラインが完璧な、高い鼻梁と、誰しも魅了されてしまう、目尻のやさしい平行二重のうつくしい眼。黙っていれば貴族のような、日本人離れした雰囲気を持つ美男子だというのに、どうしてこいつはこんなにも残念なんだろう。
 ベッドに手をつく。顔を近づけたおれに気づいて、影浦がこちらを向いた。驚いたような顔をしたのは一瞬だった。目を開いたまま、影浦はおれがキスをするのを受け入れた。いや、固まっていた、といったほうが正しいかもしれない。
「そういえば、したことなかったからしてみた」
 触れるだけのキスだった。
影浦は唖然とした顔をしていた。殴られるかもしれないな、と無表情のまま覚悟を決めたが、眼を見開いたまま固まっていた影浦はそのあと、可哀そうになるぐらい、耳まで真っ赤になってしまった。