Right Action

5.

 友人や知人が誰かを可愛いとか、好きだとか言うたびに焦った。
 生きていたらいつか誰かを好きになるのだろう、と考えていたけれど、自分には、一向に訪れる気配がなかったのだ。
 恋。いや、恋という名の性欲。どちらでもいい。とにかく、そういったものが全くないまま幼稚園を出て小学生になり、弟と共に野球をしながら中学生を終え、高校生になった。けれど、どう頑張っても自分には「そういう」衝動が生まれなかった。周囲の同級生たちが、制服の下からわずかに透けている女子の下着のラインや、いい匂いにざわついている頃、おれはひたすらボールを追いかけ、腕を上げて決まった場所めがけて投げ続けていた。泥にまみれ、汗をかいて、真っ黒に日焼けをして。
――多分、懸命に目をそらし、逃げ続けていた。
 見なければ、気づかなければなかったことになると信じたかった。

***

「悠生、悪いけど周平を起こしてきてくれるか」
「わかった」
 おれの家はいわゆる『ステップファミリー』というやつで、小学生のとき親が再婚して、血のつながっていない弟と父ができた。おれが生まれてすぐ交通事故で父は他界していたので、母の再婚には少しほっとした。一家の大黒柱として働く母を支えるために、ほとんどの家事を自分一人で担っていたし、それに対して不満や苛立ちを覚えていたのだ。父親ができれば、家事業務からは解放されるだろうと思った。
 かわいげのない子どもだったかもしれない。周囲の同級生と比べると、あきらかに母親への執着が薄い性質だった。
 母は弁理士という仕事をしていて、毎日帰りが遅かった。再婚相手は母の大学の後輩で、雑誌に記事を売るライターの仕事をしていた。だから、家事のほとんどは自宅で仕事をする父が引き受けていた。
 朝、母が仕事にでかけた後で父がおれたちを起こし、朝ご飯を食べさせ、弁当を詰め、同じ高校へ通うおれたちにふたりで登校するよう促す。いつものように弁当を作りながら周平を起こすよう頼まれ、おれはもう一度二階に戻って、周平を揺さぶって起こした。
「周平、起きろ。朝だよ」
「ん~~、あと、五分だけ」
「さっきもそういったろ。もうだめ」
「じゃあ、あと十秒だけ」
「………はい、終わり」
「うそだあ短すぎるよ!!」
 やっと起きた周平が、明るい、まぶしい笑顔でおれに抱き着いて「おはよう」と言った。
「ごはんできてる。今日はシュウの好きなフレンチトーストだよ」
「やったー!じゃあ四十秒で支度する」
 可愛気がないおれとは違って、弟の周平は無邪気で明るくて、だれにでも愛された。友達がたくさんいて、父親にも母親にも大切にされていて、常に女の子に囲まれていた。
「肩冷やすなよ。ちゃんと上着着て来い」
「あ、そうだね。ありがと」
 ふにゃりとした笑みは、家族になった小学生のころから変わらない。
 運動神経がよくて、おれよりも後から始めた野球では、めきめきと上達して中学一年でクラブチームのピッチャーとして登板しはじめた。高校に入ってからは、進学校の弱小野球部を一年目から甲子園に連れて行くという、獅子奮迅の働きを見せた。高校生では当時最速だった、一五二キロのストレートは、今思い出しても震えがくる。
「悠くん、秘密守れる?」
 ベッドから降りてきた周平が、ドアの手前で囁いてきた。振り返り、首を傾げると、あいつは確か、こういった。
「おれさ、彼女できた。誰にも言わないでくれよな、悠くんにだけいうんだから」
 ファンが泣いちゃうな~、などと笑って体を伸ばしてから、周平は階段を駆け下りていく。
 あのとき、おれは一体、どんな顔をしていたんだろう。
 鏡があれば良かった。そうすれば、どれほど自分が愚かであるか、見て取ることができたかもしれないのに。

***

 自分の地域外まで回るという影浦の行動の意味に気づいたのは、六月に入ったある休日出勤日のことだった。
 和歌山市内の公園で野外フェスのイベントがあって、おれたちは休日返上でイベント販売員として駆り出されていた。普段支店長は「ただのビール売りはもういらない。いま会社に必要なのは、店舗経営まで食い込めるコミュニケーション能力と、企画戦略能力のある営業だ!!ビール売りなら甲子園でバイト代もらってやってろ!」と叫んでいるのに、今はこうしてシンプルにビール売りをやらされている。矛盾を感じるが矛盾に黙って従いながらも意味を見出したり効率的にやる方法を考えるのが社会人の宿命だ。
「いらっしゃいませ。新商品です、よろしければお試しくださいませ」
 頑張って笑顔を浮かべながら、試供品用の小さな紙コップに注いだビールを手渡す。フェスというだけあって客層は若く、みな一様に汗をかいて目を輝かせていた。
「よろしければご感想などお聞かせください」
 隣で微笑みを浮かべているのはまたしても影浦である。おれと同様に、シャツにネクタイ、その上に紺色の法被を着せられている。法被がここまで似合わない男もいないだろう。少し滑稽でざまあみろと思う。
 どうしてなんでもかんでもおれと影浦をセットにするのか一度課長に聞いたことがあるのだが、『ルックスで選んでる』と言われて黙るしかなかった。引き立て役か。学生生活の七不思議のひとつに、かわいい子の隣にちょっと冴えない子がいる法則があった気がするけど、そういうことか。 眉間に皺が寄りそうになって、慌てて首を振った。これは仕事だ。金目当てだ。
「あっちーな。課長、クールビズってことでネクタイ外していいですか」
 いつでも皺ひとつないシャツにネクタイでキメている影浦にしては珍しい言葉だが、無理もない。今日の夜から雨が降るらしく、湿気が高くてめちゃくちゃ暑いのだ。おれはとっくにネクタイなんか抜いてしまって、シャツも腕まくりしている状態だった。
「一緒に写真いいですか?」
若い女性の声が聞こえて隣をみる。影浦がにこやかに「構いませんよ」と応じていた。インスタグラムですか、フェイスブック?と尋ねながら、新製品を手に持ち、弊社ののぼり(連れもてのもら!と和歌山弁で書かれたもの)が映る場所をさりげなく選ぶところはさすがだ。こういうところは見習わねば。
「じゃあ私が撮りますね」とおれが言う。
「いえ、お兄さんも入って下さい!」
 そういって、女子大生ぐらいの女の子に腕を引かれた。愛想がないのと目つきが鋭いので女性にはいつも敬遠されるから、これには本当に驚いた。
 結局課長が撮影者を引き受けた。女子大生フェスグループと、自社製品を持ってにっこり笑って写真を撮り、お礼もそこそこにすぐにまた試飲商品を配る業務に戻る。
 配りはじめてしばらくすると、また影浦は女性数人に声をかけられていた。あいつは心にもない、眉のあたりに少しだけ困った感じを出したような笑顔で対応して、またしても一緒に写真を撮っている。
「影浦の人気はすごいですね……」
「まあ、あいつは特別だよな。財閥一族の直系なんだろ、三歳のころから決まった許嫁がいるって話だし」
 本当か嘘か分からないが、少し愕然としながらおれは言った。
「いつの時代ですか」
「あはは。だよな。でもあれよ、成田もかっこいいし事務の子に人気あるよ。東京にいたころもモテただろ?」
「いえ……平日も休日も飲み会ばかりで、女性とは長続きしないんです」
 前の彼女は長かった方だけれど、それは特別な事情があった。
「この仕事はどうしてもなあ~。おれも肝臓悪いし、嫁なんか帰ったらもう寝てるし、子供の世話も全然できなかったしな。熟年離婚されそうだわ。しかし、ビール会社の営業なんか酒がのめてナンボだしな。たまにはオーナーさんの店以外にも行きたくなったりしないか?」
 霧雨が降ってきた。空には晴れ間もみえているから、イベントの進捗には影響なさそうだ。微細な粒が長テーブルをしっとりと濡らし、緑の匂いが濃くなった。
「課長でもあるんですか。おれはときどきユウヒビールのウルトラドライが飲みたくなりますね……仕事あがりとか」
「おい、頼むからそれはやめてくれよ」
「嘘です、失礼しました」
 試飲の列が落ち着いたことを見計らって、我々は目を合わせて笑い合った。隣の影浦は、胡散臭いものをみるような目で、時折視線を投げてくる。
 隣の課長に、「休憩に行ってきてください、人が落ち着いてきたし、あとはやっておきます」と声をかける。そうか?といいながらもうれしそうにタバコを持って公園の奥へと消えて言った背中を見送り、ぼんやりと耳をすませた。本当に湿度が高い。髪も、まつげすらも重い気がする。せめてスカッとするような、気持ちのいい音楽があればいいのに。
 ライブ会場から最近流行っている日本のロックバンドの音がきこえる。そういえばここのところ、好きなバンドでさえろくに新譜を追えていない。元々音楽を聴くようになったのも弟の影響だった。寂しがりで、甘えたで、世間知らずな弟は、いつも何か聴いていた。義父が雑誌で紹介した洋楽や邦楽を、片っ端から――。
「すみません、いただいていいですか?」
 お客様に声をかけられて、慌ててプラスチックのカップを手渡す。目の前にいたのは、黒髪の猫目をした、魅力的な若い男性だった。
「ありがとう。休日に大変ですね、蒸し暑いし」
 すらりと背の高い連れの男がそういい、柔和な笑みを浮かべる。発音から、現地の人ではなくおれの出身地に近いところの人間だと分かって、「どちらからお越しですか?」と声をかけてみた。
「神奈川県の由記市から。この人が、本マグロを食べてダイビングしたいとか無茶いうから……まさか本当にできるところがあるなんて」
「ちゃんと日本に見つかったろ?」
 傍目にみていてもすごく仲が良くて感じのいいふたりだった。おもわずこちらも微笑んでしまう。
「どうせだから、市内も観光しようってことでやってきたら、フェスやってたから立ち寄っちゃいました」
「そうですか。良い一日をお過ごしください」
 手を振って去っていく彼らを見送っていると、隣で影浦が言った。
「あれ付き合ってんな、たぶん」
「男同士じゃないか」
 おれの言葉に、影浦は目を細め、鼻で笑った。
「世界は広いんだ。そういうやつもいるだろ。――あいつら、お互い足首に違う石のついたアンクレットつけてた。プラチナとゴールドでチェーンの色変えてたけど間違いない。そこそこ悪くないブランドのやつだった」
 そういう選択肢もあるのか。男同士で、付き合う……。考えたこともなかった。
 心の奥が暗くざわつく。自分は、違う。誰に聞かれたわけでもないのに、頭の中で何度も何度も唱えた。おれは違う。
 俯いているおれをみてどう思ったのか、影浦はすぐに前を向き、おれに話しかけるのをあきらめた。それから長い時間、湿った空気の中に流れるギターやドラムの音を聞くともなしに聞いていた。
「成田、顔を上げてみろ」
 不意に声をかけられ、言われたとおり空を見た。いつのまにか霧雨は止んでいて、雲と雲の間には円のようなかたちをした虹が見えた。演奏中のボーカリストが、マイク越しに「虹だ!」と叫ぶ。人々の歓声が波のように押し寄せ引いていく。
「知ってたか?『下をみていると、虹をみつけることはできない』んだ」
 初めて聞く声のような気がして、おれは隣の影浦の、何を考えているのかわからない静かな横顔をみつめた。影浦はこちらをみなかったし、表情に変化はなかったので、その心情を推しはかることはできなかった。
「チャップリンの言葉だ。お前は視野が狭すぎる」
 ……もしここに十人の女性がいたら、十人全員が恋に落ちるかもしれない、そんな声で影浦が囁いた。元からこいつの声は、甘くて深くて聴かせる声をしていて、声まで選ばれし者という感じで、だからおれはこの言葉については、何も反論も反発もせずに受け入れることができた。ただ恋には落ちなかったが。
「そうかもしれないな」
「なんだその腑抜けた答えは。いつもみたいに口答えしてこいよ」
 こいつはおれに何を求めているんだ。猫の兄弟みたいに甘噛みしながらじゃれ合いたいのか?そんなのはごめんだ、家で本当の兄弟とやってくれ。
 面倒だったので黙って無視をすると、しばらくの間悪態をついていた影浦も、やがて静かになった。

 イベント業務が終わって家路についたのは、日付が変わる直前だった。試飲の提供が終わった後は鳳凰ビールの店舗を手伝い、透明なプラスチックカップにひたすら生ビールを注ぐ作業をした。おれも影浦も『樽生マイスター』という社内資格を持っていて、一番美味しい状態でビールを提供することができる。
「やっぱり、ビールの先行きは暗いな」
 影浦の声はいつものとおり淡々としたものだったが、おれの気持ちは沈んだ。ビール人気の低下は、言われるまでもなく肌で感じていた。料飲店での売り上げ数字のみならず、今日のようなイベントにおいても、若者たちはビールという選択肢を選ばなくなってきている。
「熱中症に対する警戒心もあるんだろう。スポーツ飲料と水ばかり売れてた」
 ワイン、サワー、それに日本酒人気の台頭と、ハイボールによるウィスキーの猛烈な追い上げ。そしてなによりも、飲酒人口の減少。趣味の多様化により、以前ほど酒類を必要としなくなっているのだ。
「二年後からビールは減税になるから、追い風になるだろうと思ってたが……これじゃ厳しそうだな」
 つまらなさそうに影浦が言う。
 おれは溜息をつき、黙って歩いた。市内とはいえ、もはや終電はないので、ふたりでタクシーに乗り合わせて帰宅することにした。
 道路は空いていた。東京にいたころは夜中でも幹線道路は混んでいたから、この静かな夜の道に影浦とふたりでいることが不思議だった。タクシーは静かに道へと滑り出し、運転手は黙って目的地へと運んでくれる。疲れていたから、長い間おれも影浦も話さなかった。
「車が少ないな」
 おれのつぶやきに、足を組み、ドアに肘をついていた影浦がちらりとこちらを見た。
「ここは東京じゃないからな」
 その言葉が妙に引っかかって、考え込んだ。そうだ。ここは東京じゃない。
「他人の営業地域まで回るなんてこと、新宿でもしていたのか」
「まさか。おれはお前と違って忙しいんだ。必要のないことは一切しない」
――つまり、影浦は『必要だから』していたのだ。
 和歌山県がどういうところなのか。地理的に、または文化的に、歴史的に、どういうものが好まれるのか。住んでいる人々の性質はどうなのか。部分的に知るのではなく、全体を知る必要があるとこいつは思ったのだろう。
「人口が少なくて繁華街だけじゃ知れてるだろう。それにもともと、このあたりはユウヒビールの縄張りだ」
「全体を……知ること。自分の地域だけじゃなく、県全体のニーズ、雰囲気、地域性を知ること。それがお前の目的だったのか」
「ようやく気付いたか。遅すぎるが、まあ許してやるよ。おれがお前らから数字を奪うためにやってるなんて思われちゃかなわないからな」
 こちらを見てニヤリと笑った表情に、なぜかおれも少し笑いたくなった。多分、嬉しかったのだ。
 おれの知っている影浦は、抜群に仕事ができるけれど、卑怯な人間ではなかった。直接話したことはこうして同じ支店になるまでほとんどなかったし、たまに接点があっても、口は悪いし独善的だし、高慢そのものの男だが、真っ向勝負で常に頂点に立ってきた人間だった。(客と寝た云々はともかくとして)
 だからこそ、万年二位でも悔しくなかったのだ。こいつはすごい、と素直に尊敬していたから。
「鳳凰ビールは五年前の味変更で見限られ、契約先が一気に減った。業界シェア一位だったころの殿様商売が後を引いて、新規参入したユウヒビールのウルトラドライにこてんぱんにノされてる。それがこの支店の敗因だ。ならどうする?」
「味を元に戻す?」
「それはおれが上層部に働きかけてるけど、実現は難しそうだ。そもそも、味が悪くなったわけじゃねえからな。生まれた家の関係で、おれは世界中のありとあらゆる酒類を飲んできたが――鳳凰ラガービールの生は、そうだな、悪くない。要は売り方の問題なんだ」
 影浦流の誉め言葉に、おれは目を丸くした。
「個人の趣味や好みが多様化しているこの時代、クラフトビールみたいに味に個性があるビールこそ好まれるかもしれない。でもな、おれが認めて、『売る』と決めたものは、絶対に、どんな場所でもどんな条件でも必ず売る。それはもう、あらかじめ決まっていることだ。この会社に入った時からな」
 どうして、と思った。どうしてそんなに、ビールの営業に執着するのか?
 お前ほどの人間ならきっと、『不労所得』のみで生きていくことも、『取締役』や『代表』のように経営者側に回ることもできただろうに。
「なぜ、この仕事に就いたんだ」
 おれの問いかけに、影浦は目を細めて腕を組み、背もたれに深くもたれた。
「お前、きっと笑うよ」
 憮然とした声だった。首を振り、おれは言った。
「人の決意や理由を、おれの一方的な感覚で笑ったりしない」
 タクシーが目的地に到着して、運転手がこちらを振り返った。影浦が支払い、領収書を受け取る。
「影浦はもっと遠いんじゃないのか。寮じゃないだろ」
「話の途中だったからな。歩いて帰るさ、三十分ぐらいで着く」
 月明りの下、ふたり分の影が伸びた。横顔が白く縁どられた影浦は、黙っていると絵画に出てくる美青年のように静謐で神秘的な美をたたえていた。
 どこか遠くから、聞きなれない鳥の鳴き声がした。湿った六月の空気はぬるりとしていて、シャツの中が不快に湿っていく。歩き出すでもなく、目の前で黙ったままこちらを睨んでいる影浦の言葉を、おれはじっと、しつけの行き届いた犬のように待った。
「ビールは美しいだろう?」
 おもむろに口を開いた影浦は、見たこともないほど真剣な顔をしていた。
「あんなに美しいのに、誰にでも手に入る。それが気に入った。だから売ることにした」
 もっと高価で、きらびやかなものに囲まれて育っていたはずの影浦が、そんな風に言うことが意外で、また少し嬉しくて、おれはぼんやりと口を開いた。
「ピルスナーの黄金色に、ふつふつと湧いてくるガスの粒も、グラスを覆う白い雲のような泡も、ひとくち飲んだときに広がる幸福感も、ほかには代えがたいよな」
 おれの言葉に、影浦が歯をみせて笑った。
「わかってるじゃねえか成田。おれはな、高価で美しいものはいくらでも見てきたし、触れてきた。けどな、そんなもんつまんねえだろう。あらかじめ決められた奴らの手にだけ渡る、高慢チキな美なんて興味はねえ。親から与えられる役職や、ただ金や土地を転がすだけの空虚な仕事も、おれにとってはクソ以下だ。本当の美は、誰にでも手に入れられるものであるべきだ、そうだろう?」
 例えば、ミスをして叱責されてへとへとに疲れた仕事上がり。暑い、つらい過酷な作業の後。何か少しいいことがあったけれど、だれかに言うほどではないとき。そんなときに、細長いグラスに注がれたビールに口をつける。もちろん、鳳凰ラガーだ。コクとうまみ、それに苦みが後を引く、この上なく美味いビールを、少し高い、美しいグラスになみなみと注ぐ。あの黄金色を眺めながら、一日の終わりをかみしめる。いい日もあれば、悪い日もあるけれど、おれはそうして大学を卒業し、社会人としての生活を送ってきた。
「はじめて影浦に共感した。そうだよな。こんなに美味くて、美しいものはない」
「そうだろ。数百円程度で、あれはすげえよ。企業努力のたまもんだ」
 もう少し話したいな、と思って、そんな自分にびっくりした。着ている服を貶されるのも、何かと煽ったり攻撃したりしてくるところも、面倒で嫌だと思っていたはずなのに。
「……コーヒーでも飲んでいくか?」
 おれの誘いに、今度は影浦が目を丸くした。それから、わざとらしく両眉を上げてから顔をしかめた。
「このおれが満足するコーヒーが出せるって?」
 憎たらしい返答に、誘ったことを後悔したが、影浦はそのままおれの横を通り過ぎ、寮のエントランスをくぐった。
「うちのラガーはねえのか。喉が渇いてんだ。コーヒーなんてちんたらしたもんいらねえよ」
 外見から想像がつかない口調でそう言い、振り返って「早くしろ」と督促してくる。コーヒーに誘って「ちんたらしたもの」呼ばわりされたのは、生まれてはじめてだ。
「ラガーならいつでも冷えてる。好きなだけ飲めよ」

 
「悠くん」
 自室の前でポケットから鍵を取り出そうとしていたら、廊下の突き当たりから声が聞こえた。聞き間違いかと思ったが、そんなわけはない。この声を間違えるはずがない。
 はっとして振り返る。影浦が後ろにいることも忘れて、声を上げてしまった。
「周平?」
 驚いたせいで、一歩後ずさってしまった。隣で影浦が警戒のオーラを発しているのが分かる。
 灰色の、着古したパーカーのフードをかぶっている男が、上目遣いにこちらを見た。
「いきなり来てごめん。ちょっと、どうしても……急で申し訳ないんだけど、少しだけ用立てしてもらえない?」
 話し方がどこかおかしいことに気づいて、手をのばしてフードを落とす。――声を上げてしまった。
「どうしたんだその顔!?」
「ちょっとね、トラブっちゃった」
 周平の顔は見る影もないほどボコボコにやられていた。唇の端は切れ、右目の上が腫れ上がってほとんど目が開いていない。
「治療しないと」
「時間がないんだ。とりあえず、あるだけ貸してほしい。ここから離れなきゃ」
 ひどくおびえた様子で周平が言い、影浦が後ろから「おい」と声をかけてくる。
「成田」
「悪い、影浦あとで聞く。――周平、いまはこれだけしかない」
 財布に入っていた三万を手渡すと、周平はひったくるように受け取ってつぶやいた。
「これだけしかないの……仕方ないか、このあたりATMもないし……」
 周平の言葉に、後ろから剣呑な空気が放出されたのが分かって、胃が縮み上がった。頼むから今は何も言わないでくれ、と心の中で祈る。それが通じたのか、影浦は大きく息を吸い込み、ゆっくり溜息をついただけで済ませてくれた。
「いつもありがと。もう行くね」
 周平は紙幣を乱暴にポケットに突っ込むと、急ぎ足で寮の廊下を後にする。
 残されたおれと影浦の間には、なんともいえない空気が漂った。
 家の中に入ってからも、影浦は長い間黙っていた。物の少ない部屋だな、とつぶやいたきり、何も言わずに自分でグラスにラガーを注いでは呷っていた。ワンルームなので、ベッドの横にあるローテーブルの前で座るしかない。てっきり何か言われると思っていたから、肩透かしをくらったような気持ちでラガーを一緒に呷った。
「あれはお前の弟か?」
 アレ呼ばわりされたことにむっとしながら「そうだ」と返事をする。
「お前の部屋に物がないのも、ろくなスーツを買えないのも、あいつのせいか」
「違う、単に物欲が薄いんだ」
 自分の言葉が自分でも空々しく聞こえてうつむく。
「あの様子じゃ、金せびってくるのもはじめてじゃないんだろう。――クズだな」
 吐き捨てると、影浦はすっと背筋を伸ばして立ち上がった。
「周平がああなったのは、おれに責任があるから」
 心情とは裏腹に落ち着いた声が出た。影浦はおれの胸倉を掴んで立たせ、眉を寄せて険しい顔のまま言った。
「他人の人生の責任が自分にあってたまるか。お前の弟がクズなのは、弟自身のせいだ」
 パーフェクトな形をした影浦の目に射すくめられて、おれは息を呑んだ。分かっていたことを明言されただけなのに、頬を張られたような衝撃があって、しばらくの間掴まれたまま、ぼんやりと立っていた。


 

 翌日出社すると、支店のフロアに降り立った途端見知らぬ男三人に取り囲まれた。
「成田周平のお兄さんですよね?」
 ちょうど耳に突っ込んだままのイヤホンから、TMGEの『ドロップ』が流れてきてテンションが上がったところだったので、不機嫌を顔に出したままそいつらを見下ろした。
「誰だ」
 見るからに堅気ではない様子の男三人に、嫌な予感がした。ケガをしていた、どこかへ逃げようとしていた周平。翌日ガラの悪い男三人が押し掛けてくるなんて、あまりにも出来すぎている。見え透いたフラグだ――悪い方の。
「お兄さん、ちょっと外でお話しませんか」
 男のうち、一番背の高い(おれと同じぐらいの)、額を縦に走る傷のある男がサングラスを外して、ニヤリと笑った。野卑としかいいようのない笑みに、怖気が走った。
「お取込み中失礼します。そろそろ始業時間になりますので、今日のところはお引き取り願えませんか」
 気品にあふれていて柔らかいが、有無を言わせない声。影浦だ。
 フロアの入り口付近にはいつの間にかひとだかりができていて、それを阻むような形で、影浦がおれと男たちの前に立って微笑んでいる。
「なんだこいつ。関係ねえだろ、すっこんでろ」
 若くて血気盛んな様子の青年がドスの利いた声でそういうと、顔に傷のある男が手を上げてにっこり笑った。青年はおびえたように黙り込む。
「これはこれはご迷惑をおかけして申し訳ありません。しかし我々も、生活がかかっておりますので」
「成田と急ぎのお話があるようでしたら、会社を出たところに喫茶店がありますので、そちらでされてはいかがですか?私がご案内します」
 集まってきていた社員に目配せして席につかせてから、影浦がこちらに向かって歩いてくる。どうやら本当についてくるつもりらしい。おれは驚いて、ただ黙ったまま影浦の目を見た。何を考えているのか分からない、この男特有の業務用スマイル(とても柔和な笑み)をたたえたまま、こちらと目が合うとわざとらしく片目を細めて見せた。
 会社近くの喫茶店で、一番おくまった席に五人で座った。男たちは顔傷男を真ん中に奥に三人並んで座り、その正面にはおれと、なぜか影浦も座っていた。
「自己紹介が遅れました、私、こういうものです」
 KT債権回収株式会社 代表 入村 直
 差し出された名刺を黙読して、血の気が下がった。ありとあらゆる嫌な想像が頭の中を駆け巡っているとき、隣で影浦が名刺を手に取り、足を組んで、挑発的な表情でこう言った。
「なるほど。あなたはサービサーですね。個人債権の回収は不可能なはずでは?」
 入村がひょいと眉を上げ、獲物を前にしたへびのような顔でおれを見た。
「男ぶりのいいお兄さん、この優男はあんたの愛人か何か?」
「な……違います」
「ふうん、違うんだ」
 口笛を鳴らすように息を吐いてから、入村は歯を見せて笑った。
「なかなか賢い男のようだけど、残念、おれは弁護士資格を持ってるから個人債権も取り扱える。――単刀直入に言おう。成田周平は我々の深い付き合いのある店から、五百万もってトんだ。これは、本来なら警察に被害届を出すべき案件だが、先方は事を穏便に済ませたいとお考えだ。まあ、痛くもない腹を探られたくないってことだな」
 入村のフランクになった口調におどろいていたら、左側に座っていた若い男が突然、靴の先でおれのスネを蹴り上げてきて、声もなくテーブルに突っ伏した。
「おおかたろくでもない商売やってる店なんだろう?」
 影浦が低い声で言うと、入村は前歯の隙間に息を通して、わざと下品な音を鳴らした。
「まあそこは否定しない。あんたみたいな美形には一生縁のない店かもしれんが、おれらのような者は時々お世話になる。あんたも世間のルールは知ってるだろ?働いたら金を得る。労働の対価としてな。それ以外で人の金を持ち逃げしたら、単なる泥棒だ」
「証拠もないのに……信じられるか」
 あまりの痛みに掠れた声でおれが言うと、入村はふところからスマートフォンを取り出し、何かの映像を見せてきた。
「これ、店の防犯カメラの映像ね。信じたか?そこの美形お兄さんもみてよ。OK?」
 映っていたのは――店の金庫から金を持ち出して逃げていく、周平だった。
「確固たる証拠もあるし、本当にさ、警察に届け出てもいいし、おれもそう社長にアドバイスしたんだけどね。まあ社長の店はちょっとね……一度しょっぴかれてるし、ポリさんに目の敵にされてるからさ、あまり協力得られないだろうってのもあって」
 入村の部下がタバコをすすめ、手を振って断っているのを眺めていると、「やめたんだ。子どももいるし健康長生き、大切だろ?」と含みのある笑みを浮かべた。
「弟くんは長生きできるかなあ。無理かもねえ。こんなこともあるかと、実はね、社長があいつを拾ったとき、生命保険をかけてあるんだってさ。ああ、誤解しないでくれよ。おれはそっちはからきしだから。でも、危ないよね。社長はそっちの方々とも懇意にされているし、おれにできることは法的に借金を整理することだし……」
 言葉通り、震えた。周平の身に危険が及ぶかもしれない、そう考えただけで、声も出せないほど動揺した。
「代わりに払ってくれる人がいたら、周平くんは健康長生きできるかもネ」
 要するにこの一言を言いに来たのだ、と分かって、口を開こうとしたときだった。
 影浦がしれっとした声で「タバコを吸わせてくれ。あと電話を一本かけてもいいか」と言った。そのあまりの堂々とした様子に、おれだけではなく、入村と部下たちもあっけにとられた。
 影浦は長い足を組んだまま、優美な動きでタバコをくわえ、おれと同じライターの色違いで――確か、デュポンというとても高い代物だ――火をつけて、美味そうに煙を吸い込んだ。それから、細い糸のようにして入村の顔に煙をぶつけ、顎をあげてにっこりと笑った。
「ゴホゴホ」
「何しやがるてめえ!」
 騒ぎ立てる前二人を置いて、携帯端末を手に取った影浦は別人のような厳しい声で話し始めた。
「おれだ。『はつ』はいるか。ああ……悪かったよ、長いこと連絡もしないで。はつ、急で申し訳ないんだがおれの口座から五百万ほど用立ててほしい。振込先はあとで連絡する。あと佐伯先生に、おれの携帯に電話するよう伝えてくれないか。わかってる、次はちゃんと帰るから……ああ、じゃあ頼む」
 電話を終えると、影浦が入村に向かって言った。
「一括で払ってやるから借用書と完済証明書を用意しろ。あと振込先口座番号と名義だ。個人小切手を振り出してやってもよかったが、今手元にないんでな」
 目を丸くした入村に向かって、影浦はさらに言い募った。
「おれを騙そうなんて考えるんじゃねえぞ。今の会話はすべて録音して我が家の顧問弁護士に送ってある。いいか?おかわりなんて考えるなよ。その時は店とお前らともども豚箱入りにしてやる。あと今後成田に接触するようなことがあったとしても、同じようにする。これはお情けだ。脅迫行為に対して金を払うなんてマネ、普段のおれはしないんだが、とっととカタをつけたいからな。あと、クソ弟の窃盗の件もこれで示談だ。そっちの書類もいますぐ書け。映像はこっちに送ってもらうぞ」
 入村は両隣の部下と目を合わせて肩をすくめてから、借用書と完済証明書を作り始めた。半信半疑といった顔だったが、口座番号を書いてみせてからしばらくすると、顔色が変わった。
 携帯の呼び出し音が鳴って、影浦が出た。「はい、ああ、佐伯先生。ええ、そうですね。その際はよろしくお願いします」と短い応答をして電話を切ってから即座に電話をかけなおし、またさっきの『はつ』という女性に出るよう申し伝えてから、口座番号を言った。
「オンライン決済だと金額に上限があるんでね。はつに行ってもらった。十分後、残高を確認してみろよ」
 この間、おれはずっと黙っていた。黙って口を開けたまま影浦を眺めていた。どうしてこいつが周平の借金を肩代わりしてくれたのか、どうしておれをかばうような真似をしてくれるのか、どうしてだらけで頭が混乱していた。
「悪いけど確認させてもらうよ。今はスマートフォンで残高確認できるんだから便利な時代だよな」
 入村はそういっておれを見てから、テーブルにのせていたおれの手の甲を指でするっと撫でた。ぞっとして振り払うと、「つれないなあ」とねばついた声で言った。
「隣のお兄さんがこわーい顔してるから、これぐらいにしとこう。おい、確認しろ」
「………振り込まれています、五百五十万」
「迷惑料と利子もつけてやった。二度と顔出すんじゃねえぞ」
 喫茶店からガラの悪い男三人が出ていくと、店の雰囲気も心なしかゆるんだような気がする。
 隣に座っていた影浦が立ち上がってレジへと向かったが、「お代はいただいております」と言われて顔を歪め、こちらを睨んだ。
「おれじゃない」
「さっきのあいつらか。余計な事しやがって。奢られるのは嫌いなんだ」
「影浦、……どういえばいいのか……ありがとう。金は必ず返すから、借用書をおれにくれないか」
 店を出て、支店に戻るべく颯爽と歩いていく後ろ姿に声をかける。信号待ちでようやく影浦に追いついて腕を掴むと、うるさそうに振り払われた。
「返済も見返りもいらない。やった金だ、気にするな」
「そういうわけにいくか。頼むから返させてくれ」
「五百五十万なんておれにとってははした金だ。フェアに勝負をするのに邪魔になるから支払ってやっただけだ、ラッキーだと思って受け取っておけよ。その代わり……」
 信号が青に変わった。渡ろうとしたおれを置いて、影浦が歩道の上で立ち尽くしている。振り返り、来た道を戻ると、真剣な顔で腕を掴まれた。
「弟とは縁を切れ。一生だ」
「え?」
「簡単な条件だろうが。お前にとって害を為すだけの存在を、切り捨てろって言ってるんだ。そうしたらこの件は終わりだ」
 歩道の上で強い日光にさらされていると、めまいがした。右手で額をおさえ、ゆっくり頭を振った。
「それはできない。あんなやつでも、大切な家族なんだ」
「家族?」
 すぐそばで影浦の表情が軽蔑の色を浮かべている。もっともだ、と思った。自分でもどうかしていると思う。いつまでもこんな幻想を信じ込んでいるなんて。思い込んでいるなんて。
 けれどおれにはどうしようもないのだ。この感情を処理できるなら、とっくにやっている。できないからこそ、まだ拘っている、執着している。
「……気が変わった」
 影浦の表情が、軽蔑から酷薄な笑みへと変わった。
 おれの腕を掴んだまま電話をかけ、「影浦です。課長、さきほどの件は解決しました。ええ、人違いでした。成田があんな連中と付き合いがあるわけないじゃないですか。このまま営業に出ます。それじゃ」と一方的に切ってしまった。
 戸惑っているおれに向かって、影浦が言った。
「条件を守れないなら払ってもらう。安心しろ、分割でいい」
 安心から、おれは少し笑った。すると影浦が首を傾げ、目を細めてからとんでもないことを言い放った。

「お前の体で払え」