Right Action

4.

「どうしてこんなに売り上げが上がらないんだ!」
 今日も元気に新しい支店長が叫び声をあげている。
 朝礼という名のつるし上げ会が始まっても、おれも影浦も羽田もどこ吹く風で顔だけは神妙なフリをしていた。慣れてきた、ということもある。
「お前らは飾りか、給料泥棒か、何をしに街まわってんだ、ガソリンを消費して帰ってくるだけか?さっさと数字取ってこい!情けなくないのか、万年最下位支店だなんて言われて、負け犬根性がしみついてんのか、ああ?」
 いくらおれや影浦が営業として有能だとしても、配属されて三週間で契約をモリモリ取ってこられるほど甘い世界ではない。それは支店長も分かっていると思うのだが、彼は大声を上げて営業マンを詰めれば数字が上がると思っているきわめて古いタイプの管理監督者だった。まことに迷惑な話である。喚いた程度で数字が取れるなら、とっくにこの支店は最下位から脱している。
「そもそもなあ、おれの若いころは」
 定例の昔話、武勇伝、過去の偉人たちの言葉の引用などが始まったころには、すでに違うことを考えていた。主にいま、配属されている地であるここ、和歌山県のことなどだ。
 異動してくる前に和歌山県のことを調べたときは、美しい海や、熊野古道で有名な紀伊山地、それにありがたみが薄れそうなたくさんのパンダのことなんかが出てきて観光の街なのかと思っていた。
 ところが実際に住んで仕事をしてみると少し印象が違う。山と海と川があるところはおれの生まれ故郷とそっくりだけど、海も山の風も匂いがやはり異なっていた。
「ちょっと、成田先輩。朝礼終わりましたよ」
 羽田に耳打ちされ袖を引かれて、おれはようやく自席に座った。影浦は支店長の後ろ姿にこっそり中指を立てていたが、急に支店長が振り返ったので何事もなかったかのように、困った感じの微笑を浮かべて頭を下げた。

「匂いですか?うーん分かんないなあ」
 後輩の羽田がデスクの上でメールを送りながら返事をする。可哀そうな羽田はおれのリクエストで東京からここ和歌山まで一緒に異動させられた犠牲者だ。
 斜め前では、初夏だというのにまだ長袖のシャツにベストまで着込んでいる影浦が、涼しい顔でホットコーヒーを口にしていた。おれは手帳を取り出し、そこに貼ってある黄色い真四角のふせんをじっとみつめた。

『影浦の営業成績を超えてください』

 簡単に言うなよ、と内心苛立ちつつも、少しワクワクする。だからつい、毎日眺めてしまうのだ。
 影浦の担当地区もおれの担当地区も市街地だが、競争させるためなのか、条件は大体同じだ。人口も地区の特徴も平等になるように割り当てられている。ただし、新しく入ってきた新人営業の面倒をおれも影浦も言い渡されているので、実質的には山の手も海沿いも全部フォローしなければならないが。
「じゃ、行ってきます」
 営業車のキーを手に、立ち上がってホワイトボードに帰社時間を書き込む。影浦も同じタイミングで立ち上がり、競い合うようにホワイトボードに営業先を書き込む。
 社内の窓際に置かれた管理職の席からおれたちの様子を眺めてる和歌山支店の営業課長は、出た、とでも言いたげな顔をした。
「成田、お前の営業車エアコン壊れてただろ。大丈夫か?どうせ隣の地域だし、週明けには直るんだ。影浦にのせてってもらえよ。それか他の者の車を……」
「大丈夫です、まだそこまで暑くないんで。千歳、一緒に行くぞ」
「あ、は、ハイッ」
 かぶせ気味に返答したおれの言葉に、羽田が笑いをこらえている。影浦は、わざとらしく髪をかきあげて「だ、そうです」と優美に微笑んだ。
 今日は、調理師として飲食店で二年働いていたという新人営業の千歳の地区も一緒に回ることになっていた。別に付きっ切りで育てるわけではなく、初めの数回フォローしてその後見守る、ということになるのだが、この千歳という男、小柄でつぶらな眼をしたかわいらしい青年なのだが、いつも何かにおびえているかのように態度がおどおどしていて自信なさげで、申し訳ないが営業に向いていないように思える。
 新人をひとりずつ割り当てられたおれと影浦。ずるがしこいあいつは、さっさと営業経験のある新人、伊丹をとってしまった。
 事務室を出るときも自分が先だとばかりに肩をぶつけながらドアを開き、エレベーターのボタンを連打した。和歌山支店は当社の中でもかなり規模が小さい部類に入るので、このビルも自社ビルではなく間借りだ。三階と四階が鳳凰ビール株式会社のフロアである。
 エレベーターは六階で止まっていて動く気配がない。ちょうど昼休みの時間なので、昼食のために一斉に降りてくるのかもしれない。
「お先」
 階段を使うことにして、影浦の後ろを通り抜けて階段を駆け下りた。通り抜ける瞬間、何とも言えないいい香りが漂って(しかも、女性的ではないすごくいい匂いだった……)眉を寄せた。おそらく香水をつけているのだろうが、香りを売りにするビールを売る立場のものが香水をつけるなんて信じられない。常識がなっていない。どうして誰も注意しないんだ?
 階段を駆け下りる音が後ろから聞こえてきて、足を早めた。あいつとふたりになる時間は極力避けたい。苛立ちが増す一方だから。
 社用車に乗り込んでカーナビを設定していたら、影浦の車が駐車場から先に抜けていくのが見えた。あいつはナビも設定せずに営業をしているのかと疑うほど、動きが軽くて無駄がない。それに、乱暴そうに見えて運転が上手いのも腹が立つ。

「こんにちは、新しくこちらの地区の担当となりました、鳳凰ビールの成田と申します。本日はご挨拶に参りました、こちらは新人の千歳です」
「ち、千歳と申します!よろしくお願いいたします」
 例えるならハムスターだな、と思いながら、料飲店のオーナーに名刺を渡している千歳を眺める。
「ほお~木根さんの後任ですか。頼りなさそうに見えるけど……、大丈夫ですか?」
「千歳は新人ですので、私がしばらくの間一緒にお伺いします」
 すかさず後ろからフォローを入れる。担当地区は決まっているが、営業同士協力し合うのは当然だ。とくに、全国最下位の売り上げ店をどうにかするなんて、おれや影浦だけではどうしようもない。
 不安そうな顔をしているオーナーに対して焦りを覚えたのか、千歳が「成田さんはすごい人なんです。東京でバリバリ働いてた凄腕営業マンで、営業成績全国二位なんですよ!私も成田さんからたくさんのことを学んでお力になりたいと思います。よろしくお願いします」と余計なことを言った。
「へえ、すごいんですね、全国二位て。でもまた、なんでこんな田舎に?」
 さきほどまでの好奇心に満ちた視線から、やや冷ややかなものに変えて、小太りのオーナーがおれを見上げた。
 オーナーから見えないように千歳の太ももを後ろからつねり上げる。「いてっ!」と声を上げたのに知らないフリをして、「和歌山県が今年から重点地区になりまして。こちらは温暖な気候で食べ物がおいしくて、素晴らしいところですね」と微笑みかけた。
「やっぱり口上手いなあ、営業二位は」
 まんざらでもなさそうに笑いながら、オーナーはおれをのぞき込んできた。
「成田さんと千歳さんね。ハハッ、空港みたいやな。お力になれるほど注文とれるかわかりませんけど、よろしくお願いしますわ。……にしても、成田さんてシュッとしてはるな。身長何センチ?昨日来はった俳優みたいな兄さんも、背高かったけどな~」
 カウンターとテーブル席が三つの小さなビストロだが、紀南地区では漁港に近い地の利を生かして、観光客相手にずいぶん流行っているらしい。テーブルに置いてある予約表らしきものに目を走らせ……なんだって?俳優みたいなお兄さん?
「それは……弊社の人間ですか?」
「うん、確か名刺置いていかはったけどよ~。……これやな」
 名刺。社員はみんな決まった業者に発注して揃いで作るというのに、この男だけは自分の好きな印刷会社に特注で作らせているからすぐわかる。見るからに質のいい紙に、銀色の箔押しで鳳凰ビールのロゴが上品にあしらわれた、品のいいオリジナルの名刺。
「影浦さんだ……な、なんで?」
 となりで千歳がおののく。
――あいつ、またやったな。
 怒りで震えそうになったが、オーナーの前だ。なんとかこらえて話を繋ぎ、フェアの説明をして店を出る。千歳が半泣きの顔でおれの後をついてきて、「すみません」と謝ってきた。深呼吸をしてから立ち止まり、空を見上げる。
 東京からここに来て、まだ二週間しか経っていない。けれど、空の広さや時間の流れる速さまで違うとは思わなかった。空は広く、緑は深く、潮風はいつも生き物の匂いがした。本当に故郷みたいな街だ。距離にするとずいぶん離れているけれど。
「何に謝ってるんだ」
 なるべく声に感情をのせずに、千歳に向き直った。
「え…ええと……東京ですごい営業マンだった、とか、余計なひとことでしたよね……」
「分かってるならいい」
 え、と千歳が間抜けな声を上げて、おれのそばに来た。なんだよ、と眉を寄せると、千歳は首を振って「なんでもありません」と言った。
「初対面の人と話すとき緊張して、余計なことをしゃべってしまう。それは分かるけど、仕事にならないぞ」
「すいませんでした」
「謝らなくていいから、今後どうすればいいか考える。そもそも、お前は話す必要なんかないんだ。会社として伝えなきゃいけないこと以外は」
 よく晴れている。海岸線沿いにあるこの店は、あと二時間もするとランチタイムだ。いつまでもここにいるわけにはいかない。おれは車に入って、千歳を手招きした。
 運転は千歳がした。当然だ。これからは彼がひとりで回らなきゃいけない地区になるのだから。
「でも、コミュニケーションをとって、信頼関係を築いて…。それが営業じゃないんですか?」
「そうだ。でもお前の仕事は話すことじゃなくて、きくことだ。料飲店のオーナーが何を求めているのか、どんな店でどんな料理を出しているのか、店の景気はどうなのか、そういうことを聞き出して仕事にいかすのが営業だろ。あとな、それ」
「ふえっ?すみません!」
 まるで挨拶のようにすいません、と謝る千歳に、真剣な顔で言った。
「とりあえずすいません、はやめろ。何に対して謝ってるんだ。挨拶がわりに謝罪すんな。本当に謝罪しなきゃいけないとき、誠意が伝わらなくなる。今はすいませんじゃなくて、わかりました、でいいんだよ」
「わ、わかりました」
「分かれば良し。千歳には戦力になってもらわないと困る。あいつを……やっつけないといけないからな……」
 おれの顔によほど殺気がにじみ出ていたのか、千歳が青ざめたまま何度も首を縦に振った。萎縮させては教えるものも教えられないので、すぐに元の無表情に戻した。
「次だ。海沿いの店を周るぞ」
「はいっ」
 汗を拭きながら千歳が次の場所へ向かう。緊張をほぐすために、途中でみつけたコンビニでアイスコーヒーを買って手渡すと、千歳はこどものようにニコニコ笑って喜んだ。
 海沿いの料飲店や漁師さんに声をかけ、地元の定食屋で昼食をとってから市街地の担当地区へと足を延ばす。たくさんの人と話し、挨拶をかわして体を動かしたせいか、帰社したころには影浦に対する鋭い怒りの感情は消えていた。

 事務所に戻ると、課長が真っ先に気づいて声をかけてくれた。
「おかえりー」
 机を見れば、影浦はもう戻っていて涼しい顔でPCの画面に向かっている。忘れていた怒りを思い出して眉を寄せながら返事をした。
「ただいま戻りました」
 羽田が顔を上げて、こちらにやってきた。千歳は羽田と何か雑談をしてから、業務日誌を書くべくPCとにらめっこを開始し、影浦はおれの視線に対して鮮やかなまでの無視をきめこんでいる。
「成田先輩、おつかれっす。今日飲みに行きませんか?」
「お前の取引先か?人員が必要ならお互い様だから行くけど」
「やっさし~い、ってまあ、仕事ですもんね……実はですね、」
 今回の飲み代は会社持ちです、と羽田がウキウキとした声で言った。東京の街中ではないので、市街地であっても新店オープンがそうそうあるものではないのだが、だからこそ営業をかけるスピードがものをいう。少ないパイを奪い合うのが今のビール業界なのだ。
「影浦さんも来るんですよね。それで、来てほしいなあと思って。おれだけだとちょっと気まずいので……お願いします」
「そういうことか」
 うんざりして溜息が漏れそうになる。羽田は膝を落とし、耳元でささやいた。
「あと、支店長も来ます」
「辞退しても構わないならそうしたいところだけど、おれはお前に対して負い目があるからなあ。飲みの席でも説教されるのは勘弁してほしいけど……」
「なんで契約とれないのか、っておれらにいわれてもなあって感じですよ」
 羽田が愚痴を言うと、少し離れた席から影浦が言った。
「まだ分かんねえのか?この支店がなんでユウヒビールに勝てないのか」
「――影浦さんには分かるんスか?」
「当たり前だろ。何のためにおれが……」
 何かを言いかけてから口を閉ざし、影浦が立ち上がった。糸で上から釣られているかのようなピンと伸びた背筋と流れるような動作でこちらにやってきて、おれの席の前に立つ。
「成田、おれに何か言いたいことがあるんだろう?当ててやろうか、なんでおれのシマを荒らすんだ。お前の地域じゃねえだろう……ってとこか」
 感情を顔に出さないのは得意なはずだが、おそらく目を見開くか何かしていたのだろう。羽田が「それはルール違反でしょう」と眉を寄せて影浦を見た。
「分かんねえお前らは、相当バカだな。バカ同士で一生仲良しごっこしてろ」
 薄くて整った形をした唇に微笑を浮かべて、影浦が言い放つ。黙っていると、誰もがはっとするほど上品で整った顔立ちをしているのに、口を開くと人に憎しみしかバラまかない。
 唖然としているおれと羽田を置いて、「先に行きます」と影浦が事務所を出ていく。
 やられた。おれが言おうとしていたことなんて、あいつはお見通しだった。ああやって先手を打つことで、その意図を問いづらくされてしまった。
「さすがに、あれは言い過ぎでしょ。おれちょっと抗議してきます」
「やめとけ。言ったって無駄だ。あいつを黙らせたきゃ仕事でのしてやるしかない」
「でも、限度ってもんがあるでしょ。成田先輩が無口で忍耐強いからって」
 次第に声が大きく熱くなってきた羽田に、フロアの中が静まり返る。
「やめろって」
「止めないでください。おれ行きますから!尊敬してる先輩あんなふうにバカにされんの悔しい、もう我慢できないっす」
「瑛士」
 つとめて静かな声で名前を呼ぶと、シャツを腕まくりして出口に向かおうとしていた羽田が、弾かれたようにこちらを見た。
「気持ちだけありがたくもらっとく。あいつが無礼千万なのは今に始まったことじゃないし、慣れてきた」
 悔しいとしたら、あいつの態度じゃない。
 そう、あいつはおれの名前すら憶えていなかった。覚えていたのはおれだけだ。あのときのことも多分――
 暗い顔をしていたのか、勘違いした羽田が慌てて近寄ってきた。
「すいませんでした。成田先輩がそういうなら、やめときますから」
 羽田が小さい声で言った。横目で課長を見れば、わざとらしく目を天井の方へ向けている。おい、あれも部下だぞ。管理監督業務はどうした。物言いだとかふるまいだとか、注意してくれればいいのに、と思わなくもなかったが、おれはあいつに仕事で負けているので何も言えない。

 支店長が招かれた理由が分かった。
 一軒目は市内に新しくオープンするビストロのイベントだった。うちの会社からも近くて、おれたちが住んでいる社宅からは歩いて通える距離にある。
 和歌山県はフルーツの一大産地だ。漁港もあるから新鮮な魚介も安く手に入る。それゆえか、ふるまわれた料理やデザートはすべて美味しかった(酌してまわるのに忙しく、一口ずつしか食べられなかったが……)
「東京から来たんやったらこんなとこ退屈やろ?君ら若いし」
「いえいえ。何を食べても美味しくて空気も風景もキレイで、もう骨を埋める覚悟です」
「またまたァ~」
 さすがに接待が上手い。支店長が相手をしているのは、県の有力者たちだ。議員、連合町会長、商店街の会長、県庁の観光局幹部職員など。むろん公務員はあくまで『個人的に』集まりに私費で来ているに過ぎないが。
 このビストロは、代々この地域で議員をしている男の息子がオープンしたものらしい。
 名刺を交換したり挨拶を交わす合間に、店員の手伝いのようなことをしながら、オーナーとの接触を図った。積極的に空になったグラスや皿をさげようとするおれを観て、同い年ぐらいに見えるオーナーは「置いておいてください」「お気遣い申し訳ありません」と困ったような顔で笑っていた。
 年齢の話になって、驚いた。にこにこ微笑んだような顔をしている優し気なオーナーは、じつはおれよりも五つも年上だった。
 隣でその話を聞いていたほかの取引先の人間が、驚いてグラスを取り落としそうになり、テーブルに少しこぼれてしまった。それぐらい、驚きだった。
 手近な布巾で机をふいていると、彼がそっとおれの手を掴んだ。
「お気になさらないでください、成田さん。店のものがやりますので」
「いえ、これぐらいは」
 手を握られているような奇妙な状況のまま、間があって、突然大声で名前を呼ばれた。
「成田ァ!こっち来いよ」
 振り返ると、支店長とそのそばで無表情のまま立っている影浦が見えた。――めずらしい。外じゃいつも、何を考えているかわからない完璧な笑みを浮かべているあいつが。
 呼ばれてしまったので、会釈をして「またランチにお伺いしますね」とあいさつを終えてから支店長や有力者達のそばに馳せ参じた。なんとなく羽田を探すと、あいつはちゃっかり店の若い女の子やほかの取引先の女性と話し込んでいる。まったく。
「こちらのシェフは、欧州でミシュランガイドに載るようなレストランで修行されていたそうですね。お料理、どれもすごく美味しかったです」
 普段の口の悪さなんて全くうかがえない、完璧な営業用スマイルで影浦が言った。息子を褒められて嬉しいのか、議員もすっかりご機嫌だ。影浦は相手を持ち上げるのが上手く、すっかり機嫌がよくなった議員に「いい店がある」と強制的に連れていかれるハメになってしまった。
「君は全然しゃべらへんな」
 連れてこられたスナックのボックス席で、酔った議員はおれに絡み始めた。支店長はというと、散々議員と共に古い歌を歌い、盛り上げ、合いの手を入れ、店のママとデュエットした末すでに泥酔して、頭にネクタイを巻いたまま居眠りしているし、羽田は一軒目のあと女性と姿を消していた。もはや、まともに意識を保ってこの場にいるのは、影浦と議員とおれの三人だけだった。
「なんか面白いことのひとつでもいわれへんのか、なあ」
 答えに困って、席に散らかっている食べ終わった皿をまとめたり、飲み終わったグラスを店員に手渡したりしていたおれをみて、議員が言った。
「申し訳ありません、気が利かなくて」
「ほんまや。脱いで踊るとかなんかせんかい」
「私の裸なんて見ても面白くないですよ」
「そんなんみてから決めたるわ。それともなにか、不満か?」
 不満かどうかと問われたらすべてに対して不満しかないが、別に減るわけでもないし何かされるわけでもないし、これも仕事だと思ってネクタイに手をかけると、影浦が隣からさわやかな、それでいて有無を言わせない声を出した。
「やだなあ、馬渡議員。酔いすぎじゃないですか?こんなやつの裸なんか見たって楽しくもなんともないですよ。――成田、馬渡議員のタバコが切れてるから買って来いよ。ハイライトな。あ、ママもこっちにきてのもうよ」
 店に入るなり店の中の女性すべてを魅了していた影浦の誘いに、若いチーママもママも慌ててカウンターの中から飛び出してくる。早く行け、と目で合図されて、おれは慌てて店の外へ出た。ここからコンビニは遠い。多分、往復すると二十分ぐらいはかかる。
――また、助けられたのか、あいつに。酒の席で。
「くそ、なんで」
 舌打ちが漏れる。感謝よりも、苛立ちの方が勝っていた。普段は悪態しかつかないくせに、どうして。大体、おれだってあれぐらい切り抜けられる。あの頃とは違うのだ、あの、ライターのころとは――。
 早足でコンビニに駆け込み、タバコを買ってから、店に走った。東京よりも暗くて澄んだ夜だと思った。緑の匂いが濃くて、虫の鳴き声が聞こえた。いちおう繁華街だというのに、あたりに人影はまばらで、スーツ姿で走っている自分に注意を払うものも、だれもいなかった。どこからか、水の流れる音が聞こえた。用水路があるらしく、さらさらと、心を落ち着ける音がした。
 深呼吸してから店に入ると、議員はつぶれて支店長の横でいびきをかいていた。影浦が帰宅していることをひそかに祈っていたが、そいつは優雅に足を組み、支店長のタバコを勝手に吸おうと口にくわえたところだった。
「おかえり、役立たず」
「……悪かった」
「まあいいさ。こいつはおれでも対応に骨が折れたし。いやだねえ、持つべきじゃないやつが長いこと権力を持つと」
 顎を上げる。火をつけろということだろう。
 それぐらいなら、と思い、胸ポケットからライターを取り出して火をつける。小気味のいい金属音がしてフタが開き、キーンという独特の音を発しながらガス火が灯った。
 はじめ影浦は、首を傾げて美味そうにタバコの煙を吸い込もうとして――すぐに、おれの持っているライターに意識が奪われたみたいだった。
「どこでそれを」
「このジッポか?もらった」
「バカ野郎、それはジッポなんかじゃねえ。十八金でできてる限定モノのデュポンだよ」
 腕をつかんで揺さぶられる。そんな風に言われると、急に右手が重くなったような気がしてくるじゃないか。
「……思い出したぞ、お前、あのときの。見覚えがあるわけだ」
 いまだかつてないぐらい、じっと見つめられて視線を返す。
 近くでみた影浦の顔に、改めて視線を奪われた。洗練された焦げ茶色の髪に、優し気で上品な二重の目、長い睫毛、細くて高い鼻筋。
 本当にもったいない。こいつの顔がこれほどまでに美しいなんて。その上家がとんでもない金持ちだなんて。神様の不平等に憤りを感じる。
「覚えてないと思ってた。まあ、思い出してくれない方がよかったけど」
 返す、といってライターを影浦の胸に押し付けると、「一度やったものを返してもらっても困る。捨てるだけだ」と押し返された。
「それで拗ねてたのか。おれが忘れてたから腹を立てていたんだろ。可愛いとこあるじゃねえか」
 そんなわけないだろう、と怒鳴ろうとして、やめた。確かに自分でも不思議だった。どうしてほかのことには波立たないのに、こうまで影浦に腹が立つのか。服を脱げと言われても踊れと言われても、「それが必要なら」と割り切ることができたのに。
 ――おれは腹を立てていたのか。
 自分だけがあのことをまだはっきり覚えていて、影浦がすっかり忘れてしまったことに。
「拗ねてたわけじゃない。……悔しかったんだ」
 正面から睨みつけながらそういうと、影浦は、なんだかとても無防備な顔をした。こどものような、いつもの仮面が不意に外れたような表情だった。
「あの時もそういう顔してたな。お前、気を付けたほうがいいよ。特定の男に興味持たれるような雰囲気出してるから」
「特定の……?」
「男を好きな男。そのライターやったときも、クソ客にケツ触られて真っ青になって震えてただろうが」
 せせら笑うような口調で言って、影浦がおれの顔を覗き込んだ。
 これがせめて少しでも思いやるような口調であれば――いや、そうだったら余計に腹が立ったかもしれない、うん、そうに決まっている。
 影浦はもうこれでいい。今更いい人のような態度をとられても対応できないからこいつはもう未来永劫これでいい。
「あのときはどうもありがとう。でも絡まれたときの対応ぐらい身に着けてる。以降の手助けは不要だから覚えておいてくれ」
 影浦は眉を上げ、先ほどまでの表情からは打って変わって、仕事中に見せる微笑を浮かべた。完全武装の笑顔、と羽田が呼んでいるアレだ。
「今日の対応をみていて、とてもそうは思えなかったけどな。もしかしてケツで仕事でもとってんのかと疑ったわ」
 不思議な事に、影浦は営業用の笑みを浮かべているときよりも、おれ相手に好き勝手に皮肉を言っている時の方が生き生きとしているように見えた。やられる方は、相手への憎しみを募らせるだけなのだが。
 おれは立ち上がって、ライターを影浦の顔めがけて本気の速度で投げつけ……ようとして、肩のあたりに狙いを変えた。控えとはいえ、元ピッチャーである。顔に当たればそれなりのケガをしたことだろう。おれは影浦のありとあらゆるところを憎たらしいと思うが、こいつの顔だけは別だ。この顔でふつうに感じのいいやつだったなら、友人になりたいとさえ思ったかもしれない。美しい顔というのは不思議なもので、同性でも、眺めているだけで感心してしまうし、「心底こいつのことは嫌いなのだが、この顔だけは憎めない」と思ってしまう。
 ところがこいつのいいところは顔だけなので、おれの気持ちなどお構いなしにさらりと手のひらでキャッチして、逆に投げ返されてしまう。
「やったものだって言ってるだろ。返却は受け付けてねえんだ、持ち帰れ」
 影浦がさっと立ち上がった。店内の安っぽい照明の中でも、こいつのスーツが上質であることが見て取れる。ハリのある生地にはつやがあって、初夏だというのにベストをシャツの上に着ている。ジャケットは腕にかけていた。
「方法は別に問わねえよ。男でも女でも、寝て仕事がとれるならそうすりゃいい。まあ、そこまでしておれに勝てなかったら、みじめなんて言葉じゃ形容できないだろうけどな」
 顎を上げて見下ろすような顔をしていても、影浦の頬には長い睫毛の影ができていたし、高い鼻梁はへし折ってやりたいほどいい形をしていた。
「……お前はあるのか、仕事のために、客と寝たことが」
「あるよ。女とだけな。そこがお前とは違うところだ」
 愕然として叫んでしまった。あるわけないだろう、と。語尾がかすれてしまっていたが、それなりの声量だったので、寝てしまった議員も支店長もぴくりと動いた。
 カウンターの中から何事かと心配そうにホステスたちがこちらを見ている。おれは大きく深呼吸をしてから、「支店長はおれが送る」と言って鞄を手に取った。
「こいつは放っといていいよな。店の常連なんだろ」
 影浦が唾でも吐きそうな顔で、議員のほうへと顎をしゃくった。それから、その下品な仕草とは対極なほどに優雅な手つきでネクタイをほどき、見たことのない方法でするすると結びなおし、結び目の下にきれいなディンプルを作った。
「なんだ成田、もしかしてウィンザーノットを知らないのか?」
「ああ……。悪かったな。いつもふつうの結び方しかしないから」
 バカにするような、呆れたような笑みを浮かべたまま、影浦が言った。
「それはプレーンノットっていうんだ。最近じゃネクタイもスーツも細身が流行ってるから、どいつもこいつもそればっかりだな。ったく、そんなことも知らないで社会人やってるなんて驚きだ……ちょっと貸せよ」
 荷物をソファ席に置いてから、影浦が手を伸ばしてくる。
 止める間もなく、影浦の指がおれのネクタイに絡まり、目にもとまらぬ速さで抜いてしまった。おそらくこいつが身に着けているネクタイの半額、いや、三分の一の金額にも満たないであろうポール・スミスのネクタイを手に取り、しげしげと眺めてから、おれの首に引っかけて結び始めた。
「ウィンザーノットはブリティッシュスタイルの結び方だ。コツは細めのネクタイを使うことと、きちんとディンプルを作ること。型崩れしないし、きれいな三角が作れる。常識だろ。お前、パーティに出る機会はないのか?あと、新しいネクタイを使うこと……ちょっとこいつ、使い古しだな」
 息がかかるほど近い距離で影浦がそう言い、結び終えると離れていく。
「どうせ、見た目なんかどうでもいい、服なんか着られればいいと思ってるんだろう?」
 一度置いた荷物を拾ってから、影浦がつぶやいた。心を読まれたようで落ち着かない気持ちになったおれを、あいつは冷めた眼で一瞥して通り過ぎていく。
「人はな、見た目がすべてなんだよ。お前の誠意も熱意も商品知識も、はじめて会う客はみてねえんだ。服、髪型、立ち居振る舞い、そういうものがお前になるし、相手はそれを鳳凰ビールの営業マンだととらえる。だからおれは、見た目に気を使わない奴に、腹が立ってしかたねえんだ。客にとっても会社にとっても、これ以上の失礼はねえだろ?」
 ショックだったのは、買ったばかりのスーツをけなされたせいではなく、影浦の言葉が正論だったせいだ。
「じゃあな、ブラコン」
「か、」
 何も言う余地を与えず、影浦が店から出ていく。
 店に残されたおれは、悔しさで拳を握りしめたまま、長い間立ち尽くしていた。