Right Action

3.

『何聴いてんの?』
 影浦の、興味なんて一ミリもなさそうな声が聞こえる。おれが答えずにいると、やつは勝手に右耳のイヤホンを抜き取って、自分の耳に突っ込んだ。
『フー・ファイターズなんか聴くのか、お前』
 知っていることに驚いて視線を上げると、奴は顎を上げて、得意気にニヤリと笑った。いつもの営業用の、気品のある、美しい微笑ではない。とても野卑な、だからこそ魅力的な笑みだった。
『All My Lifeだろ。おれは、The Pretenderのほうが好きだったけど……』
 あの日以外にも、営業先で影浦と会ったことがある。何度か言葉も交わしたが、影浦はおれのことなんか認識していなかったし、名前も知らなかっただろう。
『もう聴かないけどな、あの手の音楽』
 興味をなくした影浦は、イヤホンの片方をおれの頭にぽいと投げつけた。苛立ち半分、疑問半分で、手のひらの中にあった缶コーヒーをベンチに置いた。
『なぜ』
 質問には答えずに、影浦は両手をあげて手のひらをおれのほうへ向けた。それから耳元に顔を寄せて、低い声で嘲るように囁いた。
『―――は、まだ持ってるのか?』

 柔らかそうなこげ茶色の前髪が、まつげの長い、形のいい眼にひと房落ちた。
 

***

「成田先輩がいるからまだいいですけどね」
 しゃれたパーマヘアを揺らしながら、羽田は昼間っからビールを呷っている。数か月前彼女に振られたおれと、異動のせいで近々彼女と遠距離恋愛になってしまうこいつは、『花見にでも行くか』と言って都内の公園をぶらついていた。
 来週から和歌山支店だ。取引先すべてに挨拶を終えて、おれたちは年休を取得させてもらった。
「なんなんすか、和歌山って。どこなんすか」
 機嫌が悪いのも無理はない。羽田まで異動することになってしまったのは、おれの軽はずみな言葉のせいだからだ。
 異動辞令が発令されるまでは半信半疑だったが、事務所に張り出されたそれを見て、おれは悟った。この世界は力を持ったごく一部の人間がそうでない大半の人間をいいように扱えるのである。それが悔しければ、自分も権力者になるしかないのだ。
 発令前に、一度だけ及川から電話があった。「誰か連れていきたい人間はいるか」「ほかの支店でも構わない」と彼は言った。和歌山支店では競合他社に営業が引き抜かれたり退職したりして、現地採用の営業マンが三人も欠員状態になっていた。
「じゃあ……羽田で」
 まさか実現するとは思わなかったが、本当に羽田には申し訳ないことをしてしまった。
「悪かったよ。本当に申し訳ない」
「どのみち年数的に異動だったから仕方ないし、いいっすよ、今日奢ってくれたら」
「奢るけど、これまでだって払わせたことないだろ」
「体育会系の人間ですもんねえ、成田さんは。名前は飛行機みたいなのに」
「飛行機はお互い様だな」
 羽田が笑ったので少し安心した。
 こいつが営業のイロハも分からない、スーツの似合わないぺーぺーの新人のころから、怒ったり宥めたり親身になったりしながら育ててきたから、嫌われたら滅茶苦茶悲しい。上司や先輩に嫌われるよりも、後輩に嫌われるほうがずっとつらい。まあ、こんなこと考えてるからおれは出世できないんだろうけど。
「覚えてます?おれが配属されてきたとき、成田先輩なんて言ったか」
「……いや?なんか言ったか」
 ちょうどいい草むらを見つけてふたりで腰を下ろす。風が強く吹いて、桜吹雪が全身に落ちてきた。
 膝を立てて座っている羽田が、おれをのぞき込んできて笑った。腕を伸ばし、髪についていたらしい桜の花びらをつまんで、風の中に放つ。
「空港かよ、って言ったんですよ、先輩は。自分のこと棚に上げて」
「ああ、それで空港コンビとか言われてたのか」
「でもそのおかげでチームに早く馴染めたんです。感謝してますマジで」
 誰が言い出したんだ、と思っていたが、どうやらおれだったらしい。羽田は肩を揺らして笑ってから、「ひとつだけお願いがあるんすけど」と低い声で言った。
「なんだ。今なら大概のこときいてやれるぞ」
「やった~、トばされるもんですねえ」
 羽田は真剣な顔をつくってから、「占いについてきてほしいんです」と言った。
「占い?」素っ頓狂な声が出た。星占いの話をしていたオーナーのことを思い出して、なんだ、世間では今占いが流行っているのか?と首を傾げた。
「すごくよく当たるらしいんですよ。新宿の父とか呼ばれてて」
「新宿か。まあ……いいけど」
 新生活が不安なんだろうな、と思うと、やはり申し訳なさがこみあげてくる。結婚秒読みだと噂されていた大学から付き合っていた彼女と遠距離恋愛になるわけだし、色々心配なんだろう。
 東京の桜も見納めだと思うと感慨深い。ビールの空き缶を手で小さくつぶしてから、おれと羽田は散り際の桜をぼんやりと眺めた。あたりが薄暗くなってくるまで他愛のない話をして、買い込んできたビールはすべて飲んでしまった。毎日のようにビールを売り込んで、嫌になるほど飲んでいるのに、オフの日に飲むのはまた格別だ。一番うまいのはやはり、仕事終わりの一杯だけれど。
 新宿に出るころには日が落ちていた。羽田が案内するままに、街中をすすんで裏路地の中に入り込んでいく。普段あまり足を踏み入れることのない街の、しかもいわくありげな店舗ばかりの薄暗い通りに少し不安になる。占いって、こんなところでやってるのか?
「そうだ、もうひとつお願いが」
「多いな。なんだよ」
「そろそろ名字じゃなくて名前で呼んでほしいです。瑛士で」
「お前は友達じゃなくて後輩だし。やだよ」
「またそうやって線を引く。先輩友達いないくせに~」
「いなくはない、少ないけど。何階だ」
「二階です、あ、すみません」
 ムッとした顔をしていたのか、羽田が笑って、指で眉間に触れてきた。手のひらでそれを振り払って、エレベーターの階数ボタンを乱暴に押す。
 エレベーターが開くと、フロアではフランツ・フェルディナンドの曲が大音量で流れていて、外見からは想像がつかないほどたくさんの人がいた。カウンターの中では体にぴったりとしたTシャツを着た若い女が酒を作っては手渡していて、一見するとバーのようだ。けれど壁際にテーブルが置かれてみんなが何か真剣な顔で相談したり、カードをのぞき込んだりしているところをみると、「占い」というのはうそではないらしい。
「その人ですよ、新宿の父」
 窓際で退屈そうにタバコをふかしてる中年の男を指さして、羽田が耳打ちしてくる。――どう見ても、冴えない窓際サラリーマン風だ……大丈夫なのか。
「こんにちは。予約してないんだけど、今大丈夫ですか?」
 愛想よく笑って羽田が声をかけると、男は無言のまま向かい側の椅子を引いた。空いている、ということらしい。
 ふたりがけのテーブルには向かい合わせに二脚の椅子と、荷物置きのためにもうひとつ小さな椅子が置いてあった。羽田はだれよりも早くその小さな椅子に座り、おれを『新宿の父』の前に座らせる。
「占いって、お前じゃないのか?」
「おれは後で大丈夫なんで。成田先輩もたまにはこういうので肩の力抜いたほうがいいよ」
 新宿の父……長いから新宿でいい。新宿は、何かよほど腹に据えかねたことでもあるかのように乱暴にタバコの火を消し、死んだ魚のような目でおれを見た。
「名前、生年月日、ここに書いて」
「……」
 おれが書かずに抵抗していると、羽田が勝手に記入してしまった。どうして知ってるんだお前は。
 男はおれの手首を掴んで、手相らしきものを眺めた。それから名前と生年月日を何かよくわからない表に照らし合わせて計算しはじめ、最後におれの顔をじろじろと、ぶしつけに眺めた。
「どっかで見たな。有名人?テレビに出てた気がする」
「弟だな。野球で有名だったので一時期よくテレビに出てました」
「あんたのほうが男前だよ」
 まるで同情するように言われても、ちっともうれしくない。
「それはどうも。はじめて言われましたけど」
 男は肘をついて、おれと羽田を交互に見た。それから億劫そうに口を開いた。
「嘘ついてて疲れない?」
 虚を突かれて、羽田のほうを見ると、彼もおれを見ていた。
「ついてませんが」
「違うよ。いまじゃなくてさ、生き方」
 男はぼさぼさの頭をがしがしと乱暴にかきむしってから、椅子の背もたれにもたれて腕を組み、溜息交じりにこう言った。
「あんたはずっと自分に嘘をついてる。その期間があまりにも長すぎて、自分でももう嘘だってことを忘れちまってる。そうしないと生きていけないと思ったんだろうな。でも、覚えておいたほうがいい」
 声が出てこなかったのは、男の言葉に心当たりがあったからだ。
「あんたの秘密と嘘は、いつかあんた自身を滅ぼすよ。嘘は内側から人を食う。得られるものは何もない」
 羽田が、隣から厳しい視線で新宿を睨んでいる。
「この人、となりのトトロ観て声もなく涙流すタイプの人間なんだよ。これほど善良で馬鹿正直な人いないと思ってるけど。それ、根拠あるの?どういう嘘か分かるの?」
「お前には関係ねえし、この男の問題だからな。知りたいんだろうけど、言わねえぞ」
 じろりと睨まれた羽田は悔しそうな顔で黙ったが、おれはそれどころじゃない。俯いて、拳を握りしめたまま「もういい」とうめくように言うと、新宿は「四千円になりまーす」と酒だかタバコだかに焼けた声で言った。
「これで。釣りはいらない。お前もこれで占ってもらえよ」
 一万円札をテーブルにたたきつけるように置く。
 ちょっと先輩、と声をかけられたが無視して、逃げるように店を出た。

 占いなんかほとんど「コールドリーディング」だ。営業でも応用される会話テクニックのひとつで、だれにでもあてはまりそうなことをいかにも「今あなたを見てわかった」かのように言って、相手を驚かせ信用させる技術のひとつだ。
 そう思っていたのに。さっきの新宿の言葉はまるで――おれの心を無理やり開いて覗いたみたいに的確で、まだ背中の汗が引いていかない。
 どうしてもこのまま帰る気にはなれなかった。
 水を買い、十五分ほど歩いて新宿中央公園に向かった。こちらの支店に勤めているときは、ビルの間に突如現れる公園というシュールな立地が気に入っていて、営業の途中に立ち寄ることがあった。
 水を飲み切って、ペットボトルをごみ箱に捨てた。花壇に腰かけ、両手で顔をおさえて考え込む。
 嘘と秘密。そんなの、だれにでもあるはずだ。大なり小なり、人間なら。
「忘れるわけない……」
 あの男が言った言葉で外れていたことがひとつある。『嘘を、嘘だということを忘れている』といっていたが、忘れるわけがない。覚えている。自分で自分を騙して生きてきたことも、そのために、ひとりの人間の人生を狂わせてしまったことも。
 ひどい気分だった。こんなにも落ち込むのは、奈乃香と別れて以来のことだ。
はじめに周平が去り、次に奈乃香が去った。
「あなたは私を愛したことなんか、一瞬だってなかったんでしょ?」
 違う、と言えなかったことを、おれはまだ悔いていた。どうして一言、「違う、そんなわけない」と伝えなかったんだろう。
 黙り込んだおれをじっと睨んでいた奈乃香は、答えを求めるように泣き出しそうな顔をしていた。
 何も言わないおれに業を煮やした奈乃香は、怒りにゆがんだ顔で叫んだ。
「あなたが愛していたのは、わたしじゃなくて、――」
 

「おい」
 いつの間にか眠っていたらしい。身体を揺さぶられて目を開くと、心配そうというよりは面倒そうな表情の――影浦がいた。
「こんなとこで寝てたら財布スられんぞ」
 一瞬で目が覚めた。慌ててろくに状況を把握せずに体を起こして、影浦と額をぶつけてしまった。
「いっ……てーな石頭」
「悪い、大丈夫か」
 額をおさえたまま俯いてしまった影浦に声をかける。まさか、こんなところで会うとは、と考え、そういえば前もここで、フーファイターズが好きなのかと話しかけられたことを思い出した。
「何やってんだ、ええと……」
 予想していたことだが、名前も知られていないと気づいて落胆が声に滲んだ。まあ、無理もない。いつも光の道を歩いてきた営業ナンバーワン男からすれば、自分の後ろにいた男のことなんか興味がなくて当然だ。
「成田だ。ちょっとな、占いの帰りだったんだ」
 影浦は一瞬変な顔をしたが、すぐにいつものしれっとした顔に戻った。
「そうだ、お前成田って名前だったな。顔も体格もいいのに、いつもクソダセースーツ着てんなあって思ってたんだった」
 まるで邪気なく他人をこき下ろして、影浦はうんうんと頷いた。カチンと来たものの、今は戦う気力がない。
「仕事にグッチだのダンヒルだのブルックスブラザーズだの着られるか。嫌味で仕方ないだろ」
 とりあえず反論したが、影浦にはまるでダメージを与えられない。
「それは着こなし方によるな。似合ってればどうってことねーよ。あとな、ここは重要だから説明させてもらうが、仕事中のスーツはすべて祖父の代から付き合いのある銀座のテーラーで作らせた一点ものだ。仕事で既製品は着ない主義でね。スーツは戦闘服だからフィット感が大切なんだ」
 心底どうでもいい。
 どうしておれは夜中の公園で身なりの話をこいつとしているんだろう。ばかばかしくなって、溜息をついて立ち上がった。
「待てよ。もう電車もねえのに、どうやって帰んだよ、イオンスーツ野郎」
「なんだイオンスーツ野郎って」
「ほら、イオンとかああいうショッピングモールにやっすいスーツ売ってるところあるだろ。お前、そこで買ってそうじゃん、可愛くもねえけどブスでもねえ彼女と、土日に映画見てイオンモールでスーツを買う、そういうイメージ」
 こいつは口を開いたら悪態しか零れ落ちてこないのか?いっそ塞いでやりたい。
 深い溜息をつくと、影浦が面白そうに片眉を上げた。
「ガムテープがこの場にないのが残念だ。あればお前の口をぐるぐるにまいて閉じてやったのに」
 いつの間にか花壇の上に立っている影浦が、腰に手をあてて仁王立ちのままワハハと笑った。とんでもない神経だ。どんなに攻撃しても「ミス」になる、絶対勝てない敵キャラを相手にしているような気持ちになって口を閉ざした。
「おれにそんな口をきくのはお前ぐらいだよ」
 月の光を背景に、影浦が目を細めた。やわらかそうな髪、高く通った鼻梁、ほほえんだようにみえる薄い唇、やさしげで完璧な形をした双眸は、薄いヘーゼル色をしている。黙っていれば、どこぞの王子と言っても差し支えないような容姿を、品のない言葉や口調で台無しにしているのがこの影浦仁という男だった。
「会社の給料でお前みたいな暮らしができるか。どうせ親のスネかじってんだろ」
 悪態をつきながら肩を回し、公園の外へと視線を移す。電車がないならタクシーを拾うしかない。とんだ出費だ。
「なんだ、おれのことを知ってるのか?」
「白々しい。お前がとんでもないこと言ったせいで、こっちはとばっちり食らってんだ。可愛がってた後輩に至っては人生狂わされたんだぞ、どうしてくれる」
 ライターのことは言わなかった。どうせ覚えていないだろう。
 なんのことか分からない、ととぼけた顔で影浦はいい、花壇から降りてきておれをのぞき込んだ。背が高い。おれも一八三センチあるし学生時代野球を長くやっていたから、かなり体格には恵まれている方だが、影浦はさらに背が高くて、手足が長くすらりとしている。
「成田ァ、おれに物が言いたきゃ、仕事で勝って見せろよ。万年二位の負け犬野郎が」
 さすがに腹が立って、胸倉を掴んでにらみつける。「いいね、その顔。最高」と影浦は笑い、すかさずおれの手を振り払って胸倉を掴み返してくる。
「勝てもしねえくせにいつも平然とした面しやがって。どうにかしてその顔、くしゃくしゃにゆがめてやりたいと思ってたんだ。間近で叩き潰せると思ったら楽しみだぜ」
 ドンと突き飛ばされて尻もちをつく。怒りよりも驚きのほうが勝って、黙って影浦を見上げた。ここまで憎まれるようなことをした覚えがない。どちらかというと、いつも勝てなくて比べられていたおれのほうが、こいつを恨んでもおかしくないはずなのに。
「逃げんなよ、成田」
 黙っていれば優し気で美しい眼に、怒りや憎悪を滾らせて、影浦が言った。
「おれは逃げも隠れもしない。辞令だからな」
 淡々とした声で応えると、影浦は鼻で笑った。
「そういうところがムカつくんだよ」
 影浦の去っていく後ろ姿は、相変わらず颯爽としていてカッコよかった。絶対に後ろを振り返らない、迷いも怯えもない。きっと後悔したこともないんだろう。
 後悔と迷いにまみれた自分の人生を振り返って、クソ、と悪態をついた。顔を見れば腹が立つのに、どうしてあいつはあんなにまぶしいんだろう。
 立ち上がって両手で頬を叩いた。屈服している場合じゃない。
「おれだってお前を見てるとムカつくよ」
 誰もいなくなった公園で、ひとり呟いた。
 他人にムカつく、だなんて思ったこと、ほとんどなかった。顧客相手なら時折あったけれど、同僚に対してこんな気持ちになったことはない。おそらく、ごく一部の関心のある人間以外に対して、おれはひどく冷淡で興味がない人間なのだ。
「絶対勝つ」
 野球をやっているときでさえ、勝ちたくて投げていたわけじゃなかった。それが、今はどうだ。腹の底から煮えたぎってくる闘志に、自分でも戸惑うほどだ。
 土のついたスラックスを手で払いながら、明日、最後の休みはスーツを新調しよう。そう決めて、大通りに向かって歩き出した。