Right Action

2.

 扉を開いてすぐに回れ右したくなった。
 そこにいたのは、難しい顔をした支店長――これは見慣れている――だけではなく、本社の営業本部長(営業成績で表彰されたときにひと目だけ見たことがある)、それに同じく本社の人間であろうが、見覚えのない眼鏡男の三人だった。
「人を間違えていらっしゃるのでは?」
 ドアの前で直立不動でいると、苦労性の支店長が首を振って、座り心地の悪そうな椅子へ座るよう促してくる。
「成田(なりた)悠生(ゆうせい)君ですね?」
 返事をせずに、まるで就職活動のときの『面接試験』のようだ、と思いながら眼鏡をした気難しそうな男を見た。彼はこちらを見ておらず、手元の紙をぺらぺらとめくりながら機械のような声で言った。
「私は人事戦略部の及川と申します」
「どうも、はじめまして」
 間抜けな挨拶は会議室の中で黙殺されて宙を漂った。言わなければよかった、と思いながら事態がどう転ぶのかを待つ。
 及川が咳払いをしてから続けた。
「成田悠生(なりた ゆうせい)、年齢は二十七歳。新卒で入社。鹿児島支店に配属され、業務用営業部門で二年連続売り上げ成績二位になって最下位支店を十二位まで持ち上げた。その後、現在の東京総括支社新宿支店に配属。長年ユウヒビール優勢だった渋谷区内のシェアを奪還、鳳凰ビール売り上げを一位にした」
 隣に座っている本社営業本部長の梶井は、唯一少し微笑んでおれに頷きかけてきた。機械(及川)が読み上げる自分の経歴や表彰歴などを他人事のようにきいていると「彼は優秀ですよ。影浦に比べると地味ですが」と褒められているのか貶されているのか分からないようなことを、さも慈悲深いといった顔で及川に言った。
 椅子に深く腰掛け、膝の上に拳を置くスタイルで、目の前でおれについての情報共有をしている三人を眺める。事前に情報のやり取りをしていないということは、よほど急いでやってきたということで、それほど何か切迫した状況なのだろう……あまり想像したくはないけど。
「成田君、昨年度本社の営業企画室から声がかかっていたはずですが」
 今度は支店長に向けて、及川が冷たい声で言った。
「ええ、面談も何度かいたしましたが、本人がどうしても『営業の現場から離れたくない』というものですから」
「その話ですが、成田くんを本社に持っていくのはちょっと」
「しかし……、そもそも影浦くんが……」
 何やら三人で言い合いを始めてしまった。
 退屈してきたおれは頭の中で、記憶の中の影浦仁をなぞった。忘れるなんて不可能だ。あまりにも鮮烈だった。あのときの、心底人を馬鹿にしたような、嘲るような眼差し、目尻の優しい正統派の美形然とした顔立ちにおよそ似つかわしくない、俗っぽい表情から繰り出される、下品で、容赦のない言葉。
 品のいい人間が自ら望んで下品になろうとしているかのようなちぐはぐな印象があって、それがまた影浦仁という男を分かりにくくしていた。
「成田君」
 及川が張り詰めたよく通る声でおれの名前を呼んだ。そういえば、この男の肩書は一体どういうものなんだろうか?今こうして首都圏本部長の梶井や支店長が黙り込んだところを見ると、相当な地位を持った人間なのだろうか。いや、そもそもうちの会社は、不正や癒着を防ぐために人事戦略部は独立した組織になっていたはずだ。つまり、聞いたところで肩書はあてにならない。なら聞かなくていい。
「これから私が言うことを真剣に聞いてください。これは、社長からの勅命です」
 頭痛がしてきた。そもそも一介の営業マン(せいぜいリーダー程度)にとって、支店長以上の人はみんな殿上人である。話をする機会もなければ、お会いする機会もない。当社はまだ珍しく社長が年に二回、特に成績がよかった支店や支社を回ったりするので顔だけは知っているが、おれは常に影浦の影に隠れている万年二位なので、さほど覚えめでたい社員ではないはずだ。
「はあ…はい」
「成田、情けない返事をするな」
 支店長に叱責されて頭を下げる。もうなんでもいいから早く終わらせてほしい。
「四月一日付の人事異動で、君を異動させます。場所は……和歌山支店です」
 和歌山県。
 一番初めにおれの頭に浮かんだのは、パンダの画像だった。
 確かフェイスブックだったかツイッターだったかなんだかで、上野動物園のパンダで盛り上がる関東民を前に、関西に住んでいる友人が冷ややかな調子で「和歌山にくればパンダなんて飽きるほどいる」「たった一匹生まれたぐらいで」とコメントしていた。何かと関東に対して対抗心を燃やしてくる友人は、神奈川の大学に通っていたとき親しくしていた友人で――確か、そいつの生まれ故郷が、和歌山だった。
「海も山も川もある、いいところですよ」
 なぜか憐れむような視線で及川が言って、急に顔を険しくさせた。
「和歌山支店は現在売り上げに苦戦しています。昨年度の売上成績は、業務用営業、量販営業ともに全支店中、最下位でした」
 試すように見据えられているが、おれが表情を変えなかったせいか、及川は続けた。
「そこに異動させるのは君だけではありません。影浦仁もそこへ行かせます」
 ここではじめて、驚きが顔に出たらしい。及川が「してやったり」というようにニヤリと笑った。
「あなたには、今年度末決算で、影浦の売上成績を上回ってほしいのです」
「ちょっと待ってください」
 意味が分からない。
「拒否権はありません。この命令には当社の命運がかかっていますので」
「どういうことだよ……」
 頭を抱えそうになる。
 人事異動。これは総合職のサラリーマンなら避けられない宿命であり、どのような僻地であろうとも受け入れるつもりだ。
 不満は……そりゃあもちろん、二十三区内で他社とバチバチ競い合いながら多数の料飲店を回る今と比べて、なんでまたそんな田舎に、と思わないでもなかったが、以前鹿児島支店に勤務したときは、「このままここで骨を埋めたい」と思うほど彼の地を気に入ってしまったので、知らない土地に行くのは怖いと同時に、楽しみでもある。
 だが、影浦が絡むとなると話は別だ。
「影浦と一緒に仕事をするのは嫌です。社会人ともあろうものが、このような甘えを口にするのは許されない。それは分かっていますが……どうしても、あいつとは考えが相容れません」
 及川が何か言う前に、支店長が不思議そうに首を傾げた。
「成田は影浦と配属先かぶったことなんかないだろ?」
「同じ首都圏で営業してますから、接点がないわけではないんですよ」
 及川はおれの陳情などまるで耳に入らなかったような顔で、人事情報等がつめられていたのであろうファイルを、パン!と音を立てて閉じた。虫けらの話など聞くに値しない、と言わんばかりの態度である。
「お願いですから説明してもらえませんか。私も会社員ですから、異動辞令が出れば従うしかありません。ですが、意味もわからず競争させられて、それに社運が懸かっている、などといわれては……納得できません。納得できないまま仕事をしたら、ご期待に沿う結果を出せないと思います」
 甘ったれた理屈だな、と言い終わってから自覚したが、及川はおれの言い分に少し考え込むようなそぶりを見せた。これは、押せば得られる予感がする。こういう駆け引きばかりしているので、「押して効果のある人間か否か」「あとどれぐらい押せば(契約が)取れるか」が本能的に察知できるようになった。
 本来「納得」という言葉は、取引先、つまりおれの場合だと料飲店や酒販店に得ていただくべきものであり、おれ自身が納得するかどうかなんてどうでもいい話である。仕事なのだ。仕事に納得なんて求めていたら、前に転がすことができない。大声を上げながら電車の窓を全部割りたくなるような理不尽や不義理だってぶつけられることがあるし、それが「仕事」で、その対価として「給料」をもらっている。
「お願いします」
 あと一押し、というときにだけ見せる、とびきり真摯な顔でじっと及川を見つめた。目力が強いとか目つきが悪いとかいわれるおれだが、こういうときはかなりの効果を発揮する。
「……いいでしょう。説明します」
 そう言ってから及川はジャケットを脱ぎ、おもむろに眼鏡をはずして拭きながら、おおまかに影浦の功績について説明をした。誰もが知っている内容だ。入社三年目以降、ずっと業務用営業成績一位を取り続けている天才営業で、見目麗しく人当り良く、まさに「鳳凰ビールの営業王」といっても差し支えない男。大体そのような内容だったが、及川があまりにも細かく丁寧に力説するので、もはや支店長も営業本部長もオーディエンスと化している。
「三月初旬、彼は突然社長室にやってきました。ああ、これは極秘事項ですが、当社の社長は影浦の親類です。そもそも影浦は旧華族の末裔で、彼の親戚縁者は政財界の様々な重要ポストについています」
 そこで一度言葉を切ってから、及川は、信じられないようなことを口にした。
「社長室にやってきた影浦はこういいました。『あまりにも毎日に手ごたえがない。この俺に勝ってやろうという、骨のある営業はいないのか。この会社はクソだ。つまんなすぎる。腐っている。腐ったミカンしかない。このままじゃ俺も腐ってしまう。これならいっそ、(今ビール業界最下位の座に甘んじている)ヨントリービールにでも行った方がマシだ。なぜならそこを一位にしてやるというやりがいがあるからだ』と」
「い、いくらなんでもたかが営業が、社長にそんな口はきかんでしょう?」
 営業本部長の驚きにおれのほうが驚きである。影浦のことをまるで知らないのだなと思った。
「社長は影浦の叔父にあたりますので……社長夫婦に子どもはいらっしゃらず、影浦を実の息子のようにかわいがっていたそうです。普段、影浦は社長と親戚縁者であることを何かに利用しようとするそぶりなど全く見せませんでしたので、我々も油断していました」
 なんだか様々なことが腑に落ちて、おれはぽかんと口を開けてしまった。
「社長はなんとしても影浦を当社に引き留めたいとお考えです。それは可愛い甥っ子として、だけではなく、敵に回ればとてつもない脅威になるからです。それに、影浦が一度言い出したらきかない性質であることも熟知していらっしゃいます。来年度影浦に勝つ者がいなければ、彼は本当にライバル他社のヘッドハントを受け入れて、業界シェア率を変えるでしょう。あの男はやると言ったら必ずやるのです。どんな手段を使ってもね」
「勝てというんですか……そんな規格外の奴に」
「申し訳ありませんが、あなたが勝てなかった場合……少し辛い状況が待っているかもしれません。つまり、あなたの大好きな業務、「業務用営業」からは離れていただく可能性が高いです」
 同い年なのにBMWに乗っているとか、仕事用のスーツと遊び用のスーツを使い分けていて、遊び用はハイブランドしか使わないとか、実家は田園調布にあって軽井沢に乱交用の別荘があるとか、他にもなんやかんや、どうとかこうとか、そもそも本当かどうか怪しい噂の数々に妬む気持ちにもならなかったのが、突然ふつふつと怒りがわいてきた。そんな奴と比べられて、万年二位で悔しくないのかだの、もっと闘争心を見せろだの、あげくの果てには無理やり同じ支店に異動させられて競争させ、「社運が懸かっているから一位になれ、無理なら営業をクビ」だと?久しぶりに脳内で社内の窓全部を奇声を上げながら割って回りたくなった。
――やらないけど。
「分かりました。納得はできませんが、理由を説明していただいたので心構えはできそうです」
「それは良かった。私は本社に結果を伝えに戻ります。では支店長、そういうことになりますのでよろしくお願いします」
 ジャケットを羽織り、眼鏡をかけて、及川は颯爽と会議室を後にする。後ろを慌てて営業本部長が追い、支店長が見送りに続いた。
 おれは、とてもじゃないけど立ち上がれない。
 こんな理不尽があっていいのか。あんまりだ。
「和歌山県の本を買おう……うまいものとビールがあれば、おれはなんとか生きていける…」
 両手で顔をおさえたまま、会議室の椅子から動けずにいると、前かがみになっていたせいで胸ポケットから何かが転がり落ちた。カツン、という音にのろのろと手を床に伸ばせば、冷たい感触が指に届いた。
「ラッキーアイテムはライターです……」
 いわくつきのライターを手に取り、がっくりと肩を落とす。
 さそり座の運気は最下位、みごと的中だった。