Right Action

17.

 誇らしげな笑みを浮かべた影浦と握手をした翌週、及川が和歌山支店にやってきた。
 会社員の辞令なんてなんの前触れも説明もなく、が普通だが、営業から飛ばされる前に説明でもあるのか?
 それよりも気になることがある。
 影浦は本当にこの会社を辞めるのだろうか。そして業界最下位に甘んじている他社へ行ってしまうのだろうか。自分の異動先なんかよりも、そのことのほうが気になって、落ち着いていられなかった。……外見に変化はなかったと思うが、内心は。
 苦い思いと一緒にわいてきた寂しさと悔しさで、胸が苦しくなってくる。結局、一度もあいつに勝つことができなかった。二位なんてもはや獲り飽きた。いつもならそれでよかったが、今回だけはダメだ。絶対に負けてはいけない戦いだったのに、あれほど必死に、なりふり構わずに営業して回ったのに、影浦に勝てなかった。
 いや、待てよ。もしかすると、あいつが本当におれのことを「特別気に入っている」としたら、辞めない可能性だってある。「心を手に入れたい」という(影浦比では)愛の告白に近い言葉に希望をかけてみるしかない。
 ノックをしてから応接室に入る。あの座り心地の悪いソファに、及川と支店長が硬い顔で座っているのをみたとき、ひとすじの希望に縋って浮上した気分は、最底辺まで落下した。
 ――まず間違いなく、いい話じゃない。
 開いている窓から桜の花びらが舞い込んで、点々と散らかっている。それを踏まないようによけながら、すすめられるままに彼らの正面に座った。
「影浦に勝てませんでしたね、成田くん」
 及川は眉間を指でおさえながら、落胆をにじませた声で言った。
「残念です」
 及川は首を振り、支店長は眉を下げておれを見た。営業成績で全国二位をとったはずなのに、こんなにも褒められず、喜ばれないなんてことがあるだろうか?ふつうに考えたらなかなかすごいことなのに、彼らにとって一位以外は等しくゴミだというわけだ。
「当初宣言していたとおり、影浦からは退職届が提出されました。四月は何度か引きつぎのために出勤してくれますが、来月以降、彼はいません。伝説の営業マン影浦仁という至宝を、我々は失うことになります」
「……ご期待に沿えず申し訳ありませんでした」
 やっぱり辞めるのか。
 影浦はそういう人間だ。一時の情に惑わされて一度決めたことを覆すようなことは、絶対にしない。
 分かってはいたが、ほのかな期待を抱いていた自分がばかばかしくなった。
「社長はひどく落胆しておいでです。持病の痛風がさらに悪化して寝込んでいらっしゃいます」
 それは単なるビールの飲みすぎで慢性的に尿酸値が上がっているところに追い打ちとなっただけであって、影浦が退職するせいでもないし、ましてやおれの順位は無関係だ、と叫びたかったが、拳を握りしめて耐えた。不労所得だけで生きていけそうな影浦と違って、貧乏なおれは組織の犬だ。逆らってクビになれば、明日の生活にも困ってしまう。
「さて、本題です。今月半ばの人事異動で、成田くんには異動していただきます。和歌山支店で一年間、のんびりできて良かったでしょう?これからは東京で、馬車馬のように働いてください」
 異動先でどんな仕事をするのか良く知らないが、少なくとも営業ほど面白い仕事ではないことは確かだ。無駄だと分かっていながら反論を試みた。
「自分でいうのもなんですが、私は営業に適性があると思います。これまで会社にそれなりの貢献をしていると思うのですが、どうしても異動しなければなりませんか」
 及川は眼鏡をはずしてそれをおれに向けながら、ふう、と厭味ったらしい溜息をついた。
「あなたの貢献は十分存じ上げておりますとも。あなたと影浦を営業部門から失うのは、はかりしれない損失です。しかしながらあなたは、これから先わが社の中枢を担っていく人物になっていただく必要があります。これは社長のお考えであり、人事としても異論はありません。つまり、幹部候補生としての異動であり、主任の役職もつきます。栄転というわけです。それでも納得できませんか?」
 おれはたぶん特殊な人間で、『出世するために』頑張ったことが一度もない。現実的に金は必要だったが、金のためだけに働いていた、というわけでもない。
 うつむき、膝の上で握りしめられている自分の拳をみつめた。社員は組織の駒だ。いいように扱われるのが嫌なら出世するか、自分で会社を創るしかない。自由と引き換えに組織に属し、安定を得ているのだから。

『ビールは美しいだろう?だから売ることにした』

 影浦の言葉を思いだして口元が緩んだおれを、支店長が見咎めた。こんなときに何を笑ってるんだ、という叱責を聞き流して、顔を上げた。
「それなら、やってみたい仕事があるのですが」

 影浦の退職はあっという間に噂になった。
 引き継ぎや業務整理の関係で多忙になったこともあり、四月に入ってからふたりで会ったのは数回だけだ。それも夜中、おれが寝ている間にやってきて布団の中に潜り込んで眠り、朝起きると帰っていたので、食事を共にする時間もなかった。
「花見にいく暇もなかったな……」
 窓の外ではすでに新緑が芽吹いている。支店沿いの道路には街路樹としてソメイヨシノが植えられているのだ。
 おれの声がきこえたのか、羽田が憂鬱そうな顔でこちらを見た。
「影浦先輩が辞めるってだけでも大ニュースなのに、成田先輩が五月一日付で異動するって噂になってて、おれはもう、毎日枕を濡らしてます。びしゃびしゃです。常に泣いてるから枕が乾く暇もないです」
 連れてきた羽田を置いて自分だけ東京に異動するなんて申し訳なさすぎるが、口外するなと言われているから何もいえない。
「異動ばかりは分からないな。和歌山はいいところだし、もっと居たいと思ってるけど」
 卓上カレンダーは今日、四月二十一日以前の日付がすべて赤で斜線を引かれている。毎日終業時に赤の油性ペンで線を引くのがルーティンのひとつなのだ。
 昨日で引き継ぎも業務整理もすべて終えた影浦は、退職の日までたまった年休を消化することになっていた。送別会はすでに終わっていたし、課のみんなで用意した餞別は前もって手渡し済で、出勤してくる必要がないのは確かだった。
「いなくなると寂しいですね」
 千歳がそんな風に言うのは意外だったが、素直に「そうだな」と同意した。
 昨日までの間、引継ぎの合間に入れ替わり立ち替わりやってくる女性社員たちの涙をハンカチで拭いてやり、餞別や花束を受け取り、さわやかな笑みで見送り続けた影浦も、さすがに疲れているだろう。二度と会えなくなるわけでもないのだし、と連絡したくなる自分をなだめているうちに、その日の業務が終わった。
『影浦がいないと張り合いがない。あの罵詈雑言がなつかしい』
 嫌味を言われ、バカにされ、偉そうに見下されてきた営業社員たちが口をそろえて寂しがっていることが可笑しい。
 物がなくなった影浦の机の上に置き去りにされたコーヒーの残りを勝手にみんなにふるまい、その美味さと香り高さに驚いた。まったく影浦という男は、仕事中に飲むコーヒー一杯にすら手を抜かないのだ。こんな男に誰も勝てるわけがない。

 帰り道で晩酌用の酒を切らしていることを思いだして、自宅に一番近いコンビニでビールを二本買った。すぐ近所に鶏肉専門店があって、から揚げと焼き鳥が絶品なのだ。適当に今晩のおかず程度の量を購入して少し気分が上がった。
 家に着くと、影浦がベッドに腰かけて雑誌を読んでいた。あまりにも自然にそこにいるので、帰ってからしばらくは気づかずに鼻歌を歌ってしまった。
「うわ、びっくりした。声かけろよ」
 影浦はパタンと音を立てて雑誌を閉じた。海外のファッション雑誌らしきそれをベッドサイドのチェストに置いて、「美味そうな匂いがするな」とほほ笑む。あまりに素直な表情だったので、心臓が跳ねた。いつもこんな顔をしていればいいのに。
「から揚げと焼き鳥買ってきた」
 影浦はベッドから立ち上がって、勝手に冷蔵庫を開けて何かを持ってきた。生ハムをふんだんにつかった高そうなサラダとチーズ、左手には冷えたビールグラス二脚が狭いローテーブルの上に並べられ、適当な夕飯が突然洒落たホームパーティの様相を呈して困惑した。
「ひとまず飯だ。いただきます」
 手を合わせている影浦をみていると、こんな神をも恐れない男ですら、何か信仰を持つのだろうか、と気になった。血液型も誕生日も、どこの大学を卒業しているのかも知らない。ふつうならとっくに話題になっていそうなことのほとんどを、おれは知らないままだった。
 寝るときの影浦のことはたくさん知った。透けるようなうすくてしっとりとした肌が赤ん坊のように水をはじくことも、完璧な形をした肩甲骨のことも、見た目からは想像できないほど力強い筋肉を持つことも、達する瞬間に見せる切なそうな苦しそうな顔も、乱暴な口調からほど遠い、熱くて優しい指のことも知っている。
 相変わらず会話の少ない食事だったが、一瞬だけ盛り上がった。影浦が持ってきたクラフトビールが、いまだかつてないほどに美味いビールだったのだ。華やかな香り、それでいてしつこくない後味、くせになるコク。
「うまい。でもなぜだろうな、昔どこかで飲んだような、懐かしい感じがする」
 どうしても思い出せない。でも何かに似ている。そう言って首を傾げながらほめたたえると、影浦は意味深な笑みを浮かべておかわりを注いできた。そして嬉しそうな顔で「普段はバカ舌だと思ってたが、ビールに関しては確かなようだな」と嫌味を言った。

「仕事を辞めて、どうするつもりだ?」
「なるほど、それがききたくておれを見てたわけか」
 風呂にも入ってあとは寝るだけ、という状態になってようやく問いかけることができたおれに、影浦が嘲るように鼻を鳴らした。
 それからたっぷり五分は沈黙が続いた。影浦は、黙っているというよりも言葉を慎重に選んでいるようで、それがどことなく不吉でそわそわしてしまった。
 無音に耐えられなくてリモコンで音楽を流す。WeezerのWhite Albumはここ数年で一番のお気に入りだ。カリフォルニアに行ったことなんか一度もないのに、彼らの歌をきいていると西海岸が思い浮かんでくる。明るさの中にほんの少しだけ混ぜ込まれた切なさと寂しさがたまらない。クオモの才能は学生のころからおれの心を強く掴んで離さないままだ。
 ひととおり現実逃避をしてから、とうとうおれは聞いた。
「同業他社へ行くのか」
 この質問をすると自分の責任が重くのしかかってきて辛いのだが、影浦はのんきな声で「いいや」と否定した。
「人脈もノウハウも十分得た。もうこの会社にいる理由はない。あえて別の同業他社に行く必要もないな」
 仰向けに寝転んでいる視線の先にあるのは、白い天井の壁紙だけだ。電気を消しているから、うっすらとしか見えないが。
「時間の使い方が多様化してる今、ビールもそうならなきゃ生き残れねえ。いつまでもラガーだけに固執して、業界ごと少しずつ死んでいくなんておれはごめんだ」
 身体を起こした影浦が、圧し掛かってキスをしながら服の中に手をいれてきた。濡れた舌が唇を舐め、首筋を通って喉を甘噛みする。指は腹筋を撫でてから巧みな強さで胸の先を抓み、身体が揺れたのを確認してニヤリと笑った。
「おれが……負けたせいか」
 情けないことに声がかすれた。気持ち良さと悔しさのせいだ。顔を反らして枕で隠そうとすると、影浦は無情にも枕を引っ張って部屋の隅に投げ捨ててしまった。
「責任を感じてるのか?なら今日はいつもよりサービスしてもらおうか。いい思いをさせてくれれば退職をやめて戻ってくるかもしれないぞ」
 憎たらしい口を閉じてやりたくて、影浦の肩を押して上に乗り、自分から口を塞いだ。驚いた顔をしているのをみると留飲が下がったが、そのあと優しく宥めるように背中を撫でられて、「負けた」と思った。
 暗闇の中でも光ってみえる影浦の薄い色をした眼が、はじめのころ、脅しのように関係を持った頃と全く違う熱をもっておれを射抜く。この眼でみつめられるとたちまち心も体もしびれたようになって、いやらしいことしか考えられなくなってしまう。
 影浦と寝てはじめて、セックスが好きなことを知った。女性と寝ていたころは淡泊な性質だと思っていたが、それは自分の性指向に合っていなかっただけだった。
 誰でもいいわけではなく、影浦に対してのみ、そうなる。少し身体を撫でられるだけで興奮し、もっと奥の方へ招き入れたいと思ってしまう。
 今だってそうだ。ねそべっている影浦の上で大きく足を開いたまま、入ってきやすいように穴が解されていくのを受け入れている。その間も自分のものを手で慰めていると、影浦が「淫乱め」と嘲りを含んだ声で言った。
「お前のせいだろ」
 こんな風になったのは。
 は、と息を吐きながら、影浦のものを埋め込む。毛布で頭を高くした影浦は偉そうにねそべったまま、ぴくりとも動かずに、おれが腰を動かすのを待っている。
「こんな自分知らなかった。……知らないままでいたかったのに」
 嘘だった。女性と寝てもまるで興奮しない、砂を噛むような日々が辛くてたまらなかった。人と違う自分を認めるのが怖くて、騙すことにばかり長けていった。
「お前のせいだ……、」
 今の自分が本当の自分なのだ。嘘偽りない、ありのままの自分。この男と寝るのが好きでたまらない。さわるのも、さわられるのも気持ち良くて、ほかに何もせずに一日中、ずっとこうしていたいほどに。
 影浦の腰に手をつき、上下に腰を動かす。気持ちいい、と上ずった声でつぶやくと、腰を掴まれて激しく上下に揺らされた。
「…っ、いい…、もっと」
 上半身を起こしてきた影浦がキスをして、おれの目尻を舐めた。泣いたわけでもないのに何故、と思ったけれど、そのしぐさはとてもやさしかった。
「悠生、おれが辞めるのはお前のせいじゃない。お前はよくやった」
 甘い声が耳元をくすぐる。同時に身体をひっくり返され、うつ伏せのまま犯された。うなじを押さえつけたまま背中を何度も噛まれ、激しい動きにベッドが大きく揺れる。隣に聞こえるのではないかと危惧するほどギシギシうるさいマットレスを、荒い息で引っ掻いた。熱くて苦しいのに、それを上回る気持ち良さで気を失いそうだった。
「仕事をしていて、あれほど楽しいと思ったのは初めてだった」
 振り返ろうとすると、またしても首を押さえつけられて阻止された。こっちを見るな、と低い声で影浦はいい、奥の弱いところを昂ぶりきったもので何度も擦りつけた。
「仁……、あ、…いく」
 顔がみたい。
 影浦が達するときの顔が、おれは一等好きなのだ。無防備な、切なそうな顔。おれの男だ、と思うのはあの瞬間だけで、どうしてもみたかった。
「いく、から……、前から、してほしい」
「ダメだ」
 却下されて、クソ、と悪態をついた瞬間、影浦が後ろから覆いかぶさってきた。中がじんわりと温かくなって、その感触でおれも達してしまう。
「おれがいなくて、寂しいか」
 荒い息交じりに、影浦が問いかけてきた。その声は冗談で返す余地のない、切迫した雰囲気を持っていて、つい正直に言ってしまった。
「……寂しい」
 覆いかぶさったまま手を握られ、握り返す。さっきまであんなに熱かったのに、すっかり冷えた指先に驚いて、もう片方の手で包み込んだ。
「お前がいないと、寂しい」
 多分笑うか、バカにするかどちらかだろう。
 そう考えていたのに、影浦は何もいわなかった。おれの上にのったまま、鼻先をうなじにこすりつけて、一度だけ鼻をスンと鳴らした。
 無理やり後ろを振り返ると、影浦の眼が濡れていた。泣いているのとは違う。感情が高ぶった時に眼を潤ませるのだ。それに気づいてからおれは、心が濡れるような、泣きたくなるような愛おしさを感じるようになった。
「こっち見んな」
 顔を手のひらで押し返され、ふたたび背中を向けると、後ろから強く抱きしめられた。
「おい、痛いぞ」
「おれはただ、お前と思いきり勝負してみたかったんだ。同じ条件で、邪魔の入らない場所で。思っていたよりも楽しませてもらった。だから何も気に病む必要はねえ」
 もしかして慰められているのか?まるでおれの上司はお前なんじゃないかと勘違いしそうになるぐらい上から目線の言い方だが、いい方にとらえるようにした。
「楽しんでいただけて何よりだ。こっちは異動がかかってたけどな」
 声をあげて笑った影浦がようやくおれの上から退いて、隣に寝ころんだ。腕枕の姿勢でこちらをしばらく見つめてから、急に身体を起こして真剣な顔をした。
「成田」
 寝そべったままで聞く雰囲気じゃなさそうだ。おれも身体を起こして、ベッドの上であぐらをかく。至近距離で見つめ合うのは照れくさい。汗ではりついた前髪をかきあげてから、影浦ははっきりした声で言った。
「画一的ではない、香り豊かで個性のあるビールは何だ?」
「クラフトビールだな。ビアフェスタにもたくさんブルワリーが参加してた」
「ああ。でもあれには欠点がある。市場規模が小さくて流通が安定してねえことだ。全国どこでもさっきのクラフトビールが味わえたらどうだ、……面白えだろ?」
 まさか、と思った内容を影浦が宣言した。
「おれは会社を創る。クラフトビールで収益を生み、安定供給できる会社を創るんだ」
 眉をひそめたのは、影浦がクラフトビール界隈の厳しい状況を知らないはずがないと思ったからだ。
「本気で言ってるのか?昨今のブームを生んだブルワリーの倒産、お前も知っているだろ、少ないロットで収益を生むのは大変なことなんだぞ!」
 ビールの製造は想像ほど簡単なことではない。まず莫大な設備投資が必要で、安定した品質を提供するには大手の資金力が必須だ。それでは小手のブルワリー、いわゆるクラフトビールメーカーはどうやって生き残っているのかというと、『安定しない品質をブームで乗り切って』きたのだ。大手が当然のように使用している濾過技術には金がかかるため、下面発酵によるペールエールの醸造(濾過が完璧でなくても味として成立するが、安定しない)をその時訪れた一時的な客足で補う、もしくはレストランと併設して飲食で儲ける。それがクラフトビールメーカーの実態だった。おれたち鳳凰ビールのように全国流通していなければ、安定していない品質が問題になることはない。つまり、『品質を安定させる』ことが全国流通への第一歩となるのだが、資金力の低い小さなブルワリーでは、それが難しいのだ。
 もちろんそんな会社ばかりではない。一部、設備投資と高い技術で品質を安定させ、全国流通に成功しているクラフトビールブルワリーもある。だがごく一部しかないのが実態だ。それは安定した品質を供給することの難しさのみならず、全国流通を実現する営業マンを雇うことの困難さ、つまり会社としての「マンパワー不足」にも起因している。
「資金はどうするつもりだ、どれほど金がかかるか……、それに一からクラフトビールを創るつもりか?……おい、まさか」
 おれの想像なんかお見通しの影浦が、誇らしげに笑った。
「そのとおり。さっきお前が飲んだ美味いクラフトビール。あれは倒産した、彗星ブルーイングのメンバーが作ったもんだ。三杯目は味が違ってたろ?あれは再生法を検討してると言われてる美瑛ブルワリーのもの。ほかにも数社、まとめて技術者を引っこ抜いて設備ごと買収した。かなり安く買い叩いたが、あいつら一族もクビくくるよりマシだろ」
 あんぐりと口を開いたままでいると、影浦が呆れ顔で「なんだその顔。ちんこ突っ込むぞ」と下品な冗談を飛ばしたが、おれは笑わなかった。
「足りてねえ設備は補充する。工場を見て回ったが、ありゃダメだな。安定した品質なんか夢のまた夢だ。おれの個人資産で一定水準まで引き上げる。まあそれも色々手はある。――流通方法だが、鳳凰ビールと提携することが秘密裏に決まってるから、全国流通の足がかりはつけた。あとは……」
 立ち上がった影浦は裸のまま仁王立ちしている。おれはそれを座り込んだまま、呆然と見上げた。
「……っ、問屋の特約店制度はどうする?あれが小手のブルワリーを軒並み潰してきたんだぞ!」
 おれの言葉なんかはじめから想定済だ、というように、影浦は凶悪な笑みを浮かべた。
「ぶっ壊す」
「なんだって」
「あんなクソみてえな古くせえ制度、業界のガンだ。おれの資金力、人脈、政財界の力つかって全部根っこから叩き壊してやる。業界を変えるにはスクラップアンドビルド、常識だろ?」
 驚きを通り過ぎて笑ってしまった。影浦は前に一度だけみせた、子どものような無邪気な笑みを浮かべておれを指さした。
「成田、お前も来い」
 ベッドから降りた影浦は、脱いだ服をすべて身にまとって跪き、おれの手を取った。
「営業から興味のねえクソ部署にまわされて、そのあとは組織のいいように使われ続ける。それでいいのか?」
 どう考えても偉そうな言い分なのに、心惹かれている自分がいた。おれは黙ったまま、文字通り王子のような行いで王様のような言葉を吐く影浦を見つめた。影浦はおれの指にキスをし、じっと見つめた。人を虜にするあの眼差しで。
「お前はおれに負けたんだろ。おれにいいように使われる、屈辱を味わってもらおうか」
 美しい顔に辛辣な言葉。これぞ影浦の神髄だ。心のうちに獣を飼い、王子の顔と交互に使い分ける。いつの間にか周りを巻き込み、夢中にさせ、心酔させる。生まれながらのアジテーターだ。
 おれは深呼吸をして、ベッドの下に降りた。眉をひそめた様子から、おれの答えを見抜いたのかもしれない。
「影浦。おれは、お前と一緒にいかない」
 これも想定済だったのか、影浦は落ち着いていて、静かな声でこう言った。
「それがお前にとって、お前の人生にとって、一番『正しい行い』だと思うのか?」
「正しい行い?」
 肌寒かったので、おれもTシャツと下着を身に着けた。影浦の指が伸びてきて、頬を撫でる。縋るような眼でみつめられて、心が騒いだ。
「ひとつひとつの行いと選択が、本当に正しいのかどうか。常に自分に問いかけろ」
 じいさんの受け売りだ、と頬をゆるめて、影浦が言った。
「あのクソじいさまが、方々に恨み買いまくってる王様が、そんなことよく言えたもんだって思うけどよ」
 おれが黙ったままでいると、苛ついた影浦が舌打ちした。
「何が不満だ。それとも不安なのか。安定を失うことが怖いのか」
 違う、そうじゃない。
 否定してすぐに、影浦が言い募った。
「お前が今まで生きてきた中で、本当に『自分の意思』だけで決めたことはいくつあった?周囲の人間や社会を伺って正しさを決めるんじゃなく、お前自身が正しいと、心からそうしたいと思う道と行動を選べ」
 思い返す。野球は、自分から始めた。ではやめたのは?周平に勝てないと察したからか。それとも新しい家族とうまくやるには、自分がひくことが一番だと思ったのか。負け恥をさらしながら投げ続けることがみっともないと思ったからか。
 考えてみれば、常にだれかの視線や考えが頭のどこかにあった。家から出たいから早く就職したい。就職するなら大手のほうが誰にも文句を言われないし周平を支えやすい。社員寮がある会社なら家から出やすい。そんな風に、自分の生きざまの大半を消去法で決めてきた。それはある種の安定をもたらしたし、幸いにも選んだ職に適性があったから、それなりに利益もあげてきた。
 だが――それが本当に、自分の人生を自分で選んできた、と言えるのか。
「誰かの期待や希望に応じ続ける。それは楽な道だ。自分で考えなくてもいい。失敗しても自分を責めずに済むし組織が守ってくれる。だがそれはな、人生を自分のものにしたとはいえねえ。自分の責任で考え、選び、行動を起こせ!」
 影浦の両手がおれの肩を揺さぶる。手のひらを通じて熱くて激しいこの男の本質が突き抜けてきて、いますぐにでも「行く。一緒に連れて行ってくれ」と言いそうになった。
 でも、違う。
 それはおれの「正しい行い」だとは言えない。ただ影浦の勢いと才能に引っ張られているだけだ。
 首を縦に振らないおれに業を煮やした影浦は立ち上がり、深いため息をついた。
「それが新しい会社の住所だ」
 名刺がひらりと落ちてきて、おれの頭の上に乗った。のろのろとした動きで手に取って眺める。暗いせいで、そこに書いてある内容はうまく読み取れなかった。
 目が合うと、影浦は何か言おうと口を開いたものの、最終的には何も言わずにぐっと引き結んでしまった。
 ドアの締まる音がして、はじめて少し後悔した。おれの企みが失敗したら、影浦と会うのはこれが最後になるかもしれない。
「今はまだ、正しくないんだ、影浦」
 そう、今はまだその時じゃない。
 勢い良く立ち上がってシャワーを浴び、布団の中に潜り込む。
 明日も仕事が待っている。数週間後には異動して、全く新しい部署につく。それだって影浦に言わせれば、「誰にでもできる仕事」かもしれない。けれどおれにとって、それは「愛すべき仕事」なのだ。
 やったことがない仕事だからこそ、やる意味がある。
 歯車には歯車の、意地と理由があるのだ。