Right Action

エピローグ(影浦視点)

 当初想定したよりも苦戦することになったのは、おれの計画に穴があったわけではない。
「代表、申し訳ありませんがこれは――決定事項ですので」
 冷たい声で担当者が言い放ち、席を立つ。おれは顔には出さずに、腹の中で中指を立てた。

 先の読めないクソが。命令された通りにしか動けない、脳みそ空っぽのお花畑が。
 提携先となるはずだった鳳凰ビールの突然の裏切り。おそらく裏で糸を引いているのは、父か長兄だ。もしかするとじい様も一枚噛んでいるかもしれない。鳳凰ビールの社長さえ……つまり、叔父さえ押さえれば問題ないという考えが甘かったのだ。
 資金繰りも設備投資も問題なく進んでいた。北海道に置いた拠点工場の準備は万端で、人選も滞りなかった。はつを秘書として雇い入れ、営業の人間には特に有能な人材のヘッドハンティングを確実に行った。本社は様々な利便性を考えて東京の一等地にした。おれが所有していた不動産の一部を利用することにしたので、費用は維持費や経費ぐらいで済んだ。
 すべてが順調だった。あとは社運をかけて開発した新しいクラフトビールを、全国の流通にのせるだけ。そこまでこぎつけるのに二年かかった。やっとだ。あとは販促、つまり提携先との連携で商品を一気に市場へと売り込むだけだった。
『業務提携の話ですが、白紙に戻させていただきたいのです』
 やられた、と思った。
 ここまで莫大な資金を投入し、後戻りのできない状態になってからの、提携解消。下手をすればこのまま倒産だ。あいつらは見事に――つまり、父と長兄(それにひょっとすると祖父も)は――おれの私財を空っぽにすることに成功したのだ。
 同業他社に当たるしかない。そう考えたおれは営業の人間を使ってその業務にあたらせたが、やつらは一人、またひとりと辞職願を出し、有能な人間から順番に会社を去ろうとした。条件面での交渉を行ったが無駄で、これもまた妨害のひとつなのだと悟った。
「あークソ、人が足りねえ!はつ、なんとかならねえのか」
 はつは有能な人間だから、常に二手、三手先を考えて動いている。だがさすがに、ここまでの妨害を受けるとは思わなかったのだろう、さすがに顔が青ざめていた。
「よほどおれを連れ戻したいらしいな、クソジジイが」
 父と長兄はおれを憎んでいるが、それよりも厄介なのは祖父の愛情と支配だった。成人してからも異常ともいえるほどおれに執着し、自由にさせるフリをして罠にはめたのだ。自分から泣きつき、戻ってくるように仕向けている。それが愛情なのだと勘違いしている。
 家の力や権力がおれの生を全く左右しなかったか、と問われれば、とうぜんそんなことはない。裕福なのも顔がいいのも頭がいいのも、血筋ゆえだと言われればそれまでだ。
「だが、いつまでも他人に支配される人生はごめんだ」
 おれは、誰の言いなりにもならない。自分で考え、自分で決めて道を開く。叩かれても防がれても邪魔をされても、絶対に折れない。
「ここまで来たのに!!」
 机をたたく。社長室とは名ばかりの、オープンスペースの事務室の中に仕切りを設けただけの場所で、おれは突っ伏して叫んだ。
 ――ここに、あいつがいたら。そう思いかけて頭をかきむしった。このおれが直接リクルートしようとして失敗したあの男とは、二年前から没交渉だったが、今となってはあいつの選択が正しかったのかもしれない。連れてきたら、苦しい思いをさせただろう。
「成田……」
 会いたかった。
 声が聴きたかったし、触りたかった。ほとんど気が狂いそうなほどに。
 本当は何度も会いに行こうとした。でも途中で足が止まったのは、偉そうなことをいっておいてまだ何も成し遂げていない自分が恥ずかしかったからだ。口だけの男。家の力がないと何もできない男、そんな風に、あいつには、あいつにだけは思われたくなかった。
「正しい行いだなんて、偉そうに言えたタマかよ」
 あいつが美味いといって顔を輝かせたビールを、全国に届けたい。
 どうすればいい。どうすればそれが叶い、お前に会える?
「仁さま、」
 はつの慌てたような声に顔を上げる。フロアはすでに暗い。腕時計は夜中の五時を指していて、夜というよりもはや朝だ。ここにはおれとはつ以外に人はだれもいない――はずだった。

「待たせたな。業務提携先、見つけてきたぞ」

 目の前に成田がいた。
 見間違えかと眼を擦ったが、地味なシャツ、地味なスラックスに身を包んだ大柄な男は、確かに見覚えのある鷹の眼をしておれを見下ろしていた。
「お前は嫌がるかもしれないが、提携先候補はあのユウヒビールだ。クラフトビール業界に手を伸ばしたいと考えていたものの、あまりに金がかかるのと、人脈もノウハウもないから躊躇していたらしい。ある程度案をまとめてきたから眼を通してくれ」
 書類を投げられて、慌てて目を走らせる。
「もちろんまだ案だぞ。こんな話一介の社員ができるもんじゃないからな。ここから先は代表様の出番だろ。ひとまず下調べと地ならしはしておいた」
 見事な内容だった。成田にこんな能力があったとは――つまり、業務提携に関する業務に長けていたとは、知らなかった。
「銀行に知り合いがいてな。情報はそこからもらったんだ――あと、はつさんに協力してもらって、おれは既にお前の会社の社員ってことになってるけど、それでいいか」
 声もなく首を縦に振ると、よかった、と無表情のままつぶやいた。
 ネクタイを緩めて肩を回す成田は、呆れるほど二年前のままだった。コーヒーを買いに行くような気軽さで提携先を持ってきて、昨日も会ったかのような気楽な態度でおれに接していた。
「すぐに来れなくて悪かったな。何しろ、身に着けるべきノウハウが多くて。営業しかできない社員なんて、新しい会社にいらないだろ?色々できないと役に立てないだろうと思って、悪いと思いつつも前の会社を利用させてもらった。細かい状況は逐一、はつさんから聞いてたぞ。勝手にすまない」
 はつが潤んだ眼でコーヒーを持ってきた。成田はおれのデスクに軽く腰掛け、美味そうに飲んだ。
「はつさん、ありがとうございます、美味しいです」
 ぼんやりとした顔のまま、おれは成田を見上げていた。絶望しかけていたはずなのに、そんなことははるか遠くに吹っ飛んでいた。
「あとECはどうなってる?いまの時代そこを抜きには売れないぞ。そっちも一応、いくつか話を持ってきた」
 頭が急速に回転していくのが自分で分かる。車のエンジンと同じだ。ガソリンに火が点いてピストンが動き出すあのイメージだ。
「そっちはとっくに動いてる。複数の大手ショッピングサイトに出店する予定だ。ただ、もう少し知名度を上げてからになるが。はつ、資料はあるか。成田に渡してくれ」
 髪をかき上げ、軽く振る。視界がクリアになってきた。そうだ、まだやるべきこともやれることもたくさんある。
 なにより――おれはもうひとりじゃない。
「ほかに……何か言うことはないのか?」
 問いかけた声がかすれてみっともないことこの上なかったが、成田はようやく資料から視線を離してこちらを見た。デスクから腰を上げると、指で俺にも立つよう促してくる。こいつ、二年の間にずいぶん偉そうな真似をするようになったじゃないか?
 業腹におもいながらおれも立ち上がって、成田と視線を合わせた。
 黒い短髪にまっすぐな眉。その下で意思を燃やしている、黒々とした鋭い双眸が、まばたきもせずにおれを見据える。
「仁」
 ああ、この声で名前を呼ばれることを、おれがどれほど待ちわびたか、お前には分からないだろう。何度夢にみたか、会えないことが、触れないことがどれほど苦しかったか、想像もできないだろう。
「おれが必要か?」
 低い、海の深くからきこえてくるような声で、成田が言った。
 その問いは腹立たしく、悔しく、だが何よりも、腹の底が熱くなるほど嬉しかった。
 だからおれは、意地を張る暇もなく返事をした。
「ああ。お前が必要だ、悠生」
 その言葉がゆっくりと成田に染み渡っていく様をみていると、胸に細い剣をゆっくり刺されたような心地がした。
 成田ははじめ、悲しそうな透明な眼でじっとおれを見た。嘘も、見栄も、虚勢もない、澄んだ眼だ。
 だまって見つめ返すと、不意に少年のように無邪気に笑った。
 その瞬間、感情が理性を凌駕してしまって、机を踏み越えて成田を抱きしめた。はつが驚いてお盆を落とした音がしたが、構いやしない。
 痛みと幸福は同じ性質なのだということを、このとき初めて知った。それらはおなじ原料でできている。体温と同じ温度をしていて、強く握ったり落としたりすると簡単に壊れてしまう。
 今まで抱きしめた女は、キスをした女は、抱いた女は、一体何だったんだろう?同じ人間だったはずなのに、成田とそれ以外ではまるで違うもののように感じる。こんな感情を他人に抱いたことはなかった。こんなに切実に、手に入らなければ生命の危機とばかりに欲しがったことはなかったし、抱きしめただけで息苦しくなるほど感情がたかぶるなんてことが、自分に起こり得るとは思わなかった。成田の匂いが、体温が、形が、存在そのものが、泣きたくなるほどありがたかった。
 ひととおり満足するまで抱きしめ、キスをしてから手を離すと、成田は紅潮した頬でおれを睨みつけていた。はつを探すと両手で隙間を作りつつ顔を隠しており、どうやら怒っているのは、はつに見られたことが恥ずかしかったらしい。それこそ今更だと思うが。
「悠生、お前にとってそれは、『正しい行い』か?」
 あえて尋ねたのは、これから先の道が決して楽なものではないことを知っていてほしかったからだ。一部上場大手企業に勤めて営業に回るのとは訳が違う。信じられないほどの困難が、これから先、何度も道を塞ぐだろう。
 問いかけられた成田は、視線を窓の外へ移して、指で自分の顎をなぞりながら言った。

「思いだしたんだ。二年前飲んだ…お前が売ろうとしてるビールが、何に似ていたのか」

 彗星ブルーイングのビールはラガーじゃない、ペールエールなのに、そんなはずはないのに……でも、確かに似ていたんだ。
 ――あれは、味を変える前の鳳凰ラガーに香りが似ていた。
 つまり、お前が成人した日、祖父と飲んだ美味いビールに似ているんだろう――?

「お前が美しいと、美味いと思ったものを、一緒に売りたい。それがおれにとって、『正しい行い』なんだ」
 おれの口からは「ああ」だか「おう」だかわからない、ためいきのような相槌しか出てこなかった。一体どうなってるんだ、おれとしたことが。
「全部上手くいったら、あのビールで乾杯しよう」
 成田の言葉に、とりあえずうなずく。伸びてきた指が、おれの頬を撫でて涙を拭った。
 窓の外では、のぼり始めた日がビル群を白く照らし、新しい日が来たことを知らせていた。