Right Action

16.

 まぶしさに目がさめた。
 光がまぶたの裏を赤くみせるほど明るくて、目をこすりながら身体を起こす。窓の外はまだ暗い。明るいと感じたのは部屋の照明だった。
 風呂場でセックスしたことまでは覚えている。のぼせて、苦しくてやめて欲しくて、何度もそう伝えたのに影浦がやめなかったから、そのまま意識を失ったことも。
「あいつめ」
 一発殴ってやらないと気が済まない、と思い影浦の姿を探す。隣の布団はめくれていて、すでに抜け出した痕跡があった。
 身体は清められたのか、汚れていない。さらりとした浴衣の感触が気持ち良い。
伸びをひとつしてから立ち上がり、ふすまを開く。昔から頑丈なのが取り柄だったし、それはいまでも変わっていないらしい。
 誰もいない和室を歩いて冷蔵庫を開き、水を飲んだ。空気がひどく乾燥していて、そのせいか喉が痛む。咳払いをしてから足袋を探して履き、広縁に向かった。コーヒーの匂いはそこから漂っていた。
「おい」
 ガラスの引き戸を開くと、影浦が窓の外を眺めながら足を組み、優雅にコーヒーを飲んでいた。
「飲むか?特別におれが淹れてやったぞ」
 殴ろう、と思っていたのに、手渡されたカップから漂うこうばしい香りに拍子抜けしてしまい、黙って隣の椅子に座った。あざやかなマスタード色をしたセーターを着ている影浦は、窓の外に見えるライトアップされた日本庭園と、そこに積もった雪をみていた。
「飲んだら着替えろ。見せたいものがあるんだ」
「こんな、まだ暗い時間に?」
 影浦が腕時計をのぞき、歌うように「五時半。さわやかな朝だな。おはよう」と言ったので、やっぱり殴りたいな、と拳を握りしめた。
「どこへいくんだ」
 立ち上がり、帯をほどいて浴衣を脱ぐ。着替えようとしただけだったが、うしろから影浦の視線を感じて落ち着かない。着るものを探そうとすると、「脱衣所に一式置いてある」とご親切に教えてくれた。
「お前が行きたがっていた場所だ。黙ってついて来い」
 用意されていた服は登山服のような重装備で、登山用の下着、スパッツ、ウールのセーターにウールのパンツ、分厚い靴下に手袋に帽子と、一体どこへ、何をしにいくのか気になって仕方がない。
 広縁から出た影浦も、和室で靴下を二重に履き、ダウンコートを羽織った。同じものを投げられて慌てて拾う。
「早く。間に合わねえぞ」
 急かされて、財布だけをポケットに突っ込み、まだ暗い外へ出る。旅館の正面にあるロータリーには、なんと冬用スタッドレスにタイヤを変えたBMWが止まっていて、すでに車内が適温にあたためられていた。
「仁さま、路面が凍結しているところがございますので、お気をつけていってらっしゃいませ」
 はつさんがにっこり微笑んでからお辞儀をしてくれて、おれはいたたまれない気持ちになって目をそらした。彼女がここまで大切にしている、身分の尊い……世が世なら口を利くことも許されなかったような男(腹立たしいが事実らしい)と、ゆうべ散々はしたないことをしてしまった。本当に申し訳なく思う。
 助手席から彼女に手を振って、見えなくなってから窓を閉めた。
 やはり乗り心地としてはアルファロメオよりもこちらの方が優れているな、とか、温かいコーヒーのカップまでドリンクホルダーに用意されているなんて、影浦のやつは果たして、ひとりで生活はできるのか?などと考えている間に、目的地に到着した。
「着いたぞ」
 車のヘッドライトが照らす暗い山道を四十分ほど走ってから、影浦がそう言った。
道路沿いに設けられた休憩所に車を停め、コートを羽織る。薄暗い道路を縦列になって歩いた。
「ここは龍神スカイラインにある道の駅だ。こんな時間だから当然開いていないが駐車はできる」
 吐く息が白い。コートのポケットに入れてきた手袋をはめて、駐車場の端へ歩いていく影浦を追いかけた。影浦は腕時計を眺め、安全柵に腕をのせて「下は崖だ。落ちるなよ」といって笑った。
 まだ暗い上に、霧がたちこめているのでほとんど何も見えない。数メートル先の影浦すらかすんでみえるので、おれは影浦の隣まで歩いて行って、柵に腕をのせた。清冽な空気が肺を満たしては白い息となって吐き出される。しばらくの間、お互いの呼吸音だけがきこえた。
「あと五分」
 柵に片腕をのせてもたれている影浦は、おれのようにあからさまに寒がってはいなかった。そういえばこいつ、口は悪いし唯我独尊で傲慢極まりない男だが、環境に対して不平不満を述べることは少ない。仕事に対してもそうだ。そういうところは尊敬している。
 薄暗かったあたりに少しずつ光が差してきて、影浦の横顔を縁取る。淡い色をした髪と完璧な造形をした横顔に見とれてしまいそうになって、あわてて山の方へと視線をそらした。
「霧が晴れてきた。運が良かったな」
 影浦がそうつぶやき、山の方へと顔を向ける。
 標高千メートルを誇る紀伊山地の山々が、赤い光に照らされて燃えていた。
 山のすそに広がる雲海が荘厳で、異界に迷い込んだのかと思うほど、怖くて美しかった。
「――すごい」
 両手で柵を握りしめ、息をするのも忘れてその風景に見入った。
「紀伊山地は面白い場所だよな。神も仏も共存してる。太古の時代から自然崇拝をもとにした神道があり、空海がひらいた仏教があり、争うことなく同じ場所にある」
 顔を向けると、影浦は山ではなくこちらを見ていた。
「神仏習合ってやつか」
 おれの言葉に、影浦は目を細めた。
「そうだ。美しい場所を奪い合うのではなく、共生している。世界中で宗教を原因とした戦争が勃発してるっていうのに、神やら仏やらがひしめきあっても知らん顔で信仰してる。まったく、おおらかでいい加減で、最高だろう?」
 影浦がめずらしく穏やかに微笑んでいる。
 おれはその表情を胸がつまるようなきもちで眺めてから、もういちど朝日を見た。すっかり明るくなり、すべての輪郭がくっきりとした風景と、鼻の奥が痛くなるような冷たい空気を、頭の奥、深いところに焼き付けた。
 いつか影浦と別れて、一緒にいたことを後悔するようなことになっても、今日のことを覚えておきたい。
「ああ。最高だ」
 逆の斜面は護摩壇山だ、と説明してくれる影浦の声を聞きながら、感動して、嬉しいのに、どうして切ないのだろうか、といった、恋愛脳の歌詞に出てくるようなことをぼんやりと考えたが、答えは出なかった。

 車に戻ってシートヒーターのありがたみをかみしめていると、影浦は車を発進させずに腕を組み、溜息をついた。
「疲れたなら運転を代わるぞ。一度この車、運転してみたかったんだ」
 多分断るだろう、と思いながら提案したが、案の定影浦は首を振った。
「……来たかったんじゃなかったのか?」
 ハンドルに肘をつき、不機嫌そうな顔で影浦が言った。
「何の話をしてるんだ」
 コーヒーの残りを飲もうとすると、腕をつかまれて阻止された。仕方なく影浦をみると、眉をよせた影浦が顔を近づけてくる。
「高野山に来たかったんだろう、違ったか?あまり楽しそうには見えないな」
 ゆうべ手伝ってもらった礼のつもりだったが、と目を伏せた影浦を、衝動のまま抱きしめてしまった。早朝とはいえ、いつ誰が来るかわからない駐車場で。おれは恋愛で頭がバカになっているのかもしれない。
 おれを喜ばせるために連れてきてくれたのか、と問えば、きっと影浦は「そんなわけねえだろ、勘違いするな。借りを返しただけだ」とでも毒づくことだろう。目に浮かぶようだ。
 けれど、もうわかってしまう。分かりやすい言葉がひとつもなくても、影浦は行動で伝えてくる。本人にそのつもりがなくても、もしかすると無意識でも、影浦の不器用な真心が嬉しかった。
「いてえよ、馬鹿力」
 うめき声にはっとして、腕を離す。感情がたかぶると行動で示してしまうところは、おれも影浦と同じだった。言葉で気持ちを伝えるのが苦手だ。選んだ言葉が本当に心に沿っているのか考えはじめると、いつまでも悩んでしまうから。
「ああ、悪い……、ちゃんと、嬉しかったぞ。おれはこういう顔だから、分かりにくくてすまないな」
 言い終わる前に影浦が覆いかぶさってきて、唇に噛みついた。言葉のとおり、下唇を噛まれたのだ。
 驚いて突き飛ばそうとすると、座席がバタンという音をたてて後ろに倒れた。目にもとまらぬ早業で、あっという間に圧し掛かられて、おれは目を白黒させながら影浦の背中を叩いた。
「ここをどこだと思ってるんだ、外だぞっ」
「朝の七時半だぞ。誰もいねえよ」
 手のひらが頬を包み、耳の後ろをくすぐってからセーターの中に入ってくる。まさか、という気持ちと、影浦ならばやりかねない、という危惧が交互に頭をよぎり、手のひらで顔をぐいぐい押してこの場を回避しようとする。
「暴れんなよ、はじめてでもあるまいし」
 うんざりとした調子で言われて、おもわず叫んでしまった。
「車でやったことなんかない!おれはお前とは違って常識があるんだ」
 さっきの手慣れた押し倒し方、どう考えても常習犯だ。いつもこんなことをしているのだろうか?と想像して、自分でもわけがわからないほど腹が立った。
「バカいえ。女と車でヤったことなんかねえよ。シートが汚れるだろうが」
 眉を上げた影浦に油断した隙に、セーターがインナーごと首までたくしあげられた。昨日散々吸われたり噛まれたりして敏感になっている胸の先を、長い指がいやらしく撫でてきて、そんなつもりはないのに背筋がふるえた。
「や、めろ……」
 指は無遠慮に胸を撫でまわしてからあばらを撫で、腹筋をくすぐってから下着の中に進入した。冷たい指が下生えをかきわけてそこに辿りつくと、のしかかって耳を舐めていた影浦は顔をあげて、ニヤリと笑った。
「本当にやめてほしいのか?」
「きまってるだろ……」
 声に説得力がなくなっていく。息が荒くなって、顔があつくてたまらない。
 左手で自分の顔を隠そうとしても、影浦がそれを許さない。隣のシートから器用におれのボトムと下着、それにスパッツを足首まで脱がせ、キスをしながら右手でそこを扱いた。
「ん、んんっ、影浦、いやだ、んうっ、いや……」
 腰が浮く。服をすべて着たままの影浦が、熱っぽい眼差しでおれをじっと見つめ、掠れた声で「やりたい」とひとりごとのように言った。指がぐちゃぐちゃと音をたてながらおれのものを擦り、くびれのあたりをしつこく撫でられる。その間も影浦の舌がおれの口の中を好きなように蹂躙した。こんないやらしいことに精通しているとは思えない、優しげで麗しい顔が興奮で紅潮し、しつこくおれの舌をなめたり吸ったりする。
「い、いく、も、やめろ!」
「お前ならいいぞ。……どれだけ汚しても」
 耳元で熱い息を吹き込まれ、ささやかれて、影浦の手の中で達してしまった。こんなところで。外で。車の中で。
 熱い飛沫が自分の腹に飛んで、しばらく呆然としてから、自身のベルトを外そうとしている影浦の腹を半分ぐらいの力で殴った。
「うっ」
 半分はやさしさだ。あと半分は、気持ち良くイってしまった自分への戒めでもある。
「これ以上するつもりなら、手加減しないからな」
 うめき声と共におれの上に倒れ込んだ影浦は、憎々しげな声で「戻ったら、泣いても喚いても気が済むまでブチ犯してやる」と恨み言を言った。それから何度か深呼吸をして、前かがみになったまま運転をし、旅館に戻った。

 自分から誘ってきたのにどういうことなんだ、と文句を言っている影浦を、おれは怪訝な表情で振り返った。
「抱きついてきただろ。あれはそういうことなんじゃないのか?」
 用意されていた豪華な朝食を食べ終えると、今度はふたりで大浴場へ向かった。内湯は素晴らしかったが、あそこに入ると多分良からぬことになってしまうな、と思ったおれが、なんとか回避しようと持ち出した作戦がこれだ。
「なんとなくああしたくなっただけで、誘ったつもりは全くなかった」
 いうなれば感謝のハグだが、口が裂けてもそんなことは言いたくなかったので濁した。
 影浦は浴衣を脱ぎ、脱衣かごの中にきちんとたたんでから仕舞った。言葉づかいだけを乱暴にしても、全身から漂うエレガントな雰囲気を消し去ることができない男。その奇妙なギャップをいじらしいと思ってしまうのだからお手上げだった。
 浴衣を肩から落とすと、人がいないのをいいことに影浦が後ろからうなじを指で撫で上げてきた。髪が短いからか、影浦の指が頭皮をなぞる動きをまざまざと感じてしまい、首をすくめて避けた。
「おれの歯型が残ってる」
 後ろから影浦の匂いがして心臓が跳ねた。昨日寝たときも思ったことだが、風呂に入ったあとでも影浦からはあの香水の匂いがした。染みついているのだろうか?このままだと影浦の匂いをかいだだけで反射的に興奮する変態になってしまう。
 腰を抱かれ、首筋に息がかかって、妙な気持ちがわいてきそうになり慌てて振り払う。
「もし週明け消えなかったら損害賠償を請求するからな」
「金で解決できるならもっとつけてもいいってことだな」
 影浦の軽口を無視して、脱衣所から早足で浴場に入る。一番奥の洗い場で乱暴に身体を洗った。影浦はひとつ飛ばした隣に座り、ゆっくりとした動作で髪を洗っている。
 頭を洗い終えて立ち上がってから、仰天した。洗い場の鏡に映る背中から太もも、それにふくらはぎにいたるまで、ありとあらゆる場所に欝血痕と噛み痕があったのだ。
「影浦!!」
 声を張り上げても、犯人は頭を流しているところでまるで聴いていない。
 影浦の背中を平手でビタンと叩いて、そのまま周囲を注意深くチェックした。誰もいない。チェックアウト直前の時間だからかもしれないが、運が良かった。男とふたりで親しげに話しながら入浴している男の全身にキスマークがあったら、誰だって何事かと思うだろう。よくもこんな、ヤクザの情婦みたいに全身に痕を残してくれたな。当分外で裸になれない。
「いてえな、何しやがる」
 不満を訴えた影浦を無視して、おれは露天風呂に向かった。これだけひどいとハンドタオルで隠せるものではないので、もはやあきらめて、タオルは頭の上にのせた。平手で背中を叩いたことで少し気が晴れたものの、しばらく日常生活に気をつけよう、痕跡が消えるまでセックスは自粛しようと決めた。
 露天風呂から見える空はよく晴れていたが、さすがに年末にもなると外気が冷たい。熱くもぬるくもない絶妙な温度設定の湯はとろみがあって、体の芯から温もってくるようだった。
 朝から美しいものを見て、美味いものを食べ、温泉に浸かっている。贅沢すぎて不安になった。こんなことをしていて本当にいいのだろうか。
「いいのかな……おれだけこんな」
 朝の清潔な空気の中に立つ湯気をながめながら、周平のことを考えた。あいつは今、どこで何をしているんだろう。ちゃんと寝ているのだろうか。飯は食べているのか?
 影浦なら知っているのだろうが、「おれに任せてくれ」と言われて頷いた手前、きくことができない。影浦を疑っているわけではなく信頼に足る人間だと確信しているが、それと身内を心配する気持ちとは別ものだ。
「何考えてる」
 いつの間にか入ってきた影浦が、正面から問いかけてくる。湯気のせいで顔はよく見えないが、その声はすでに、おれが考えていた内容を見抜いているような響きがあった。
「――野球選手の選手生命が平均何年か知っているか」
 水音がして、影浦が立ち上がったことが分かって顔を上げる。そのまま隣にやってきた影浦は伸びをしてから「いや、知らない」と答えて、視線で先を促してきた。
「約九年。でもこれは、長い選手が平均を引き上げているだけで、実際には四年目の引退が最多なんだ」
「そんなに短いものなのか」
「ああ。ポジションにもよるんだが、捕手は寿命が長い。平均十年だったかな。内野手も、身体能力が高い人間が多くてポジション変更が柔軟にできるから、十年」
 湯をすくって顔を湿らせてから、影浦が言った。
「投手は体に負担がかかる」
「そうだな。だから平均して八年と、短くなる。これも長い人間をいれての年数だ。引退の平均年齢は二九歳。才能があっても、プロ野球選手として長くやっていくのはすごく難しい」
 目を閉じると、あのサイレンの音がきこえる。甲子園のマウンドに立つ周平の、堂々とした後ろ姿と、青い空に一筋走ってみえた飛行機雲。ブラスバンドの応援ソングと、チアの声。かけつけたたくさんのファンや保護者、選手の家族の声援。
 あの耳がおかしくなりそうな音の嵐を、周平は静寂に変えたのだ。
「野球選手に限らず、スポーツ選手の引退後の生活は厳しい。おれはそれが分かっていた。自分に才能がないことよりも、そのことのほうが身に染みていた。それなのに、周平には自分の希望や夢を押し付けてしまった。あいつの人生を狂わせた責任は、やっぱりあると思う」
 影浦は黙っていた。「他人の人生の責任が自分にあってたまるか」といつか影浦が言ってくれたが、周平は他人じゃない。家族だった。もっとできることがあったはずだ。おれも継父のように、周平を追い詰め、ほかの道を閉ざした人間のひとりだと思っている。
「周平はすごい投手だったんだ。本当に……」
 最後のボールがミットの中に吸い込まれたとき、誰も声が出なかった。一瞬の静寂のあと、割れんばかりの歓声が球場を覆った。
「お前は、信じないだろうけど」
 大好きだったものが続けられなくなっても、人生は続いていく。周平だけじゃなくて、たぶん今、この瞬間も、日本のどこかで、誰かが好きなものをあきらめているんだろう。
「いつか見せろ」
 怒るか、呆れるかだと思っていたのに、影浦の声はやさしかった。
「どうせあるんだろ、そのときの動画」
 おどろいて、とっさに声が出てこなかった。
「ああ、……あるけど」
「今はまだいい。でもいつか、見てやるよ。……おれの気が向いたら」
 真剣な顔だった。冗談や嫌味ではなく、本心で言っているのだと分かる。
 おれが黙っていると、影浦は先に風呂から上がって脱衣所へ行ってしまった。

 和歌山での一件以降も、おれたちの関係に著しい変化は訪れなかった。
 出勤し、ビールを飲み、他人にすすめる。ときどき契約が入って、その日のビールを特別美味く感じながら飲む。これまで何年も続けてきた日常だ。
 しいて変化を挙げるなら、乾杯用のグラスがふたつに増えた。会社の寮から会社に近いワンルームマンションに引っ越した。
「あとは乗馬をするようになったかな」
 二週間に一回程度の頻度で、奈乃香が電話をかけてきた。彼女なりにおれを心配してくれているらしいが、人妻になったのに前の男に電話をする行為は問題ないのだろうか?
『乗馬?なにそのセレブな趣味!』
「誘われてはじめたら、楽しくてハマってしまった。おかげで休日のアルコール摂取量が減ったぞ」
 馬に失礼な気がして、乗馬をする前日は酒を飲まなくなった。影浦の乗馬に付き合わされるのは日曜が多かったため、土曜日は必然的に休肝日となった。
『暇だとなんとなく飲んじゃうってあるもんね。いいじゃない、彼氏の趣味に影響されるって誰でもあるよ』
「彼氏はやめてくれ……」
 うなるようなおれの声をきいて、奈乃香が笑った。動揺するのを面白がっているのだ。
『あの人の趣味なら、乗馬っていうのも分かるな。馬に乗っていたら王子様そのものでしょうね。いや、違うか……王子様っていうより王様だね』
 たった一度あっただけなのに影浦の本質を掴んでいる。女は恐ろしい生き物だ。おれは少しだけ笑った。
 電話を切って窓の外をみると、雪が降っていた。
 出窓に浅く腰かけてネクタイをゆるめ、自分でいれたコーヒーを飲む。視線は自然と、窓の外を通る道路へ引き寄せられた。ある種の期待をもって眺めてしまう道路。もう見間違えることのない車のヘッドライトを想像していると、本当にその車がやってきて、来客用の駐車場に素早く入ってきた。

 狭い玄関でつま先をそろえられている、影浦の靴に目がとまった。
 濡れたように光っている最高級の革靴。うっとりするほど端整な靴が、狭い玄関で燦然とかがやいている。
「ジョージ・クレバリーの「ケイン」だ。美しい靴だろう?雨水に強く、頑丈でシンプル。営業マンの戦闘靴だ。革靴はやはりイギリスのものに限る」
 そう説明しながら、影浦は勝手に家に上がりこんだ。
 ワンルームマンションだから、ドアをあけるとすぐそこにベッドがある。長身の自分にとって手足がはみださないベッドはクイーンサイズ以上になってしまうため、以前より広い部屋を借りられたことはありがたかった。周平に金を渡さないだけでこんなにも経済的に楽になるなんて、おれは今までどれほど無意識に、そして当たり前のように、周平を甘やかしてきたんだろう。
「おれの馬の何がそんなに気に入らねえんだ。駄馬に乗るよりも、絶対楽しいぞ。いい馬はいい車と同じだ。身体に吸い付くように思い通りに動く」
 先日馬をプレゼントされそうになって断ったことをまだ根に持っているらしく、ベッドに腰かけた影浦は不満を隠さずにふてくされた顔で言った。手のひらにはシャンパンとグラスふたつが用意されている。高価なものを受け取らないおれに、何かしらものを与えようとする。何度言っても変わらず女のような扱いをしようとしてくることに、おれは少し苛立った。
「乗馬には付き合ってるだろ。それに、トントンは駄馬じゃない、ちょっと神経質で人間が嫌いなだけだ」
 おれの反論に影浦が片眉を上げ、溜息をついた。
「馬にトントンだなんて名前をつける、あの乗馬クラブの品性を疑うね」
 それだけ言うと、影浦は自分で注いだシャンパンをぐいと煽った。隣に腰かけ、グラスを受け取る。
 乗馬クラブのトレーナーも、トントンは少し神経質だから、とあまり気が進まない様子だったけれど、おれはあの牡馬がとても好きだった。反抗的で、神経質で、決して人間などに心を許したりはせんぞ、という気骨のあるところが気に入っていた。
「トントンは少しずついうことをきいてくれるようになってきたぞ。はじめから言いなりの馬なんてつまらないだろう、心を通わせることに意味があるんだ」
「乗馬に営業精神を持ち込むな」
 ひとくち飲んだだけで頭の中が幸福物質で満たされそうになるほど美味いシャンパンだった。おれが少し笑うと、影浦は目を瞠ってから咳払いをした。
「あきれた。成田はどこにいても成田だな」
「どういう意味だ」
「過剰になじまず、浮くわけでもなく、そのままそこにいる」
 褒められているのかけなされているのかわからない。影浦と一緒にいるとそういうことがよくある。
 分からない、というかわりに顔を動かしてそちらを見ると、影浦は肩をすくめてみせた。
「まあいい。おれはお前と楽しいおしゃべりをしにきたわけじゃないんだ。さっさとすませて、メシにしようぜ」
 こいつ一流の誘い文句に、つい顔が不機嫌になってしまう。でも寝たらすぐにとろとろに溶かされてしまうのだ。あついフライパンの上に投げ込まれたバターみたいに。それが分かっているから、おれは抵抗せずにベッドの上に押し倒されることにした。


***

 今年度の営業成績が全国ベースで明らかになる日、おれは、影浦が家に持ち込んだスーツとネクタイを身に着けて自席に座っていた。どれほど断っても返そうとしても、あいつは物をプレゼントすることをやめなかったので、近ごろではあきらめて着ている。
 一度本気で怒ってやめさせようとしたとき、影浦はひどく傷ついた、こどものような顔をした。おれはその表情を見て、怒りよりも切なさが勝ってしまって、何も言えなくなった。
 セックスや金で人の心を得ようとする男。誰も愛したことがないから、人を愛する方法が分からない。――そんな想像はうぬぼれだろうか?あんなに美しくて聡明で、何もかも持っているのに。
「おれは両親と長兄に嫌われてんだよな。その分祖父の愛情がおれに傾けられる。それによって余計に父や長兄に嫌われるわけだ」
 皮肉っぽく言った影浦の声や態度は飄々としていて、いわゆる「心の傷」といわれるようなものはどこにも見当たらなかった。両親からの愛情を知らないのに、影浦本人はまるでそのことを気にしていないのだ。むしろ穏やかな笑みすら浮かべて、こんなことを言った。
「おれとお前は少し似てるな」
 じっと見つめられると、心臓がきしむようだった。ああもう手遅れだ、と思いながら、おれは反論した。
「どこが。まるで似ても似つかないだろう、おれはお前みたいに美形じゃない」
 影浦がほがらかに笑った。おれもつられて少し笑うと、唇が近づいてきて、やさしく触れて離れていった。
 せつなくて抱きしめてやりたいと思うのに、影浦は自分の弱さを人に悟られるぐらいなら、死んだ方がマシだというような男だから、俯いてそっとため息をつくことしかできない。
 ――どうしようもなく好きになってしまった。周平に対して一方的に恋情を募らせていたころとは違って、それは熱く脈打っていて、赤く濡れていて、いまにも破裂しそうなぐらいだった。本当は言ってやりたかった。物なんて何ももらわなくても、セックスなんてしなくても、おれはお前のことを嫌いになったりしないと。
 けれど言えなかった。そういう湿度のある情は、もっとも影浦の嫌うところだと知っていた。これまで影浦が続けてきた女性関係はいつもそうだった。肉体関係だけでいいと公言する影浦に情を移した瞬間、どんないい女も問答無用で捨てられてきたのだ。
 あいつはおれが思い通りにならず、反抗的で、媚びないところがめずらしくて気に入っている。だから、おれはそうあり続けなければいけなかった。

***

「……成田先輩、大丈夫ですか?顔、ひきつってますけど」
 気遣ってくれた千歳に頷いてみせる。斜め前の影浦に視線を送ると、いつもどおり、落ち着いた笑みを浮かべてコーヒーを飲んでいた。すべての営業社員が緊張する日も、あいつにとってはほかの日と同じで、なんら変わりないのだ。おれだってこれまではそうだった。自分の順位なんて何位でもいいと思っていたのに、こんなに胃が痛くなって、自分の恋愛感情に想いを馳せて気を逸らさなきゃいけないほど緊張しているのは影浦のせいで、のんきな横顔に腹が立った。
 普段は液晶モニターで全店共有されている営業成績の速報だが、年度の優秀者を発表するときだけは、朝礼の時間に支店長自ら行われる。該当者が支店にいない場合は紙ベースで回覧されるだけだから、発表が行われるということはこの中に、年間契約数ベスト三に入ったものが存在している、ということになる。
 支店長が課長の隣に歩いてきて、営業社員全員が一斉に立ち上がった。近くの部署も聞き耳を立てているのが離れていても分かる。フロアには張り詰めた空気が流れており、事務の社員や総務の社員が偶然を装って営業課の近くで立ち止まっていた。
「早く終われよ、長いのは鼻毛と眉毛だけにしやがれ」
 支店長の長い前置きに、影浦が小声で悪態をついた。羽田が肩をふるわせ、千歳が顔をそむける。おれは下唇を強く噛んで笑いをこらえた。
 手元の手帳を開き、メモを眺めた。黄色い正方形のふせんに書かれた文字を眺めながら、以前感じていた気持ちとは全然ちがうものが湧いてくるのを、止めることができなかった。
「さて、それでは平成三十年度成績上位者を発表する。三位に該当するものは和歌山支店内の社員ではないので、回覧を見ること」
 人事部の及川はいまごろ、どんな顔をしているだろうか。結果については先に耳に入っているはずだ。
「それでは、第二位――」
 窓の外を眺めると、満開の桜が重そうに枝を垂らしている。空はよく晴れていて、ところどころにビールの泡のような雲が浮かんでいた。
 思えばあれから一年しか経っていないのだ。春が過ぎ、夏が来て、冬が終わり、春がくる。好むと好まざるとにかかわらず、それらすべてに影浦がいた。春は反目し合い、夏は一緒に雨上がりの虹を眺めて、冬は紀伊山地に降り注ぐ朝日を見た。いいことも悪いこともあったが、これまでの人生を全部足しても足りないぐらい、濃度が濃い一年だった。
「最後に、第一位は」
 拍手の音がきこえる。
 ぼんやりしていたせいで二位も一位もききそびれてしまって、焦って周囲を見回す。
「しまった。誰だって?」
 羽田の袖を引く前に、振り返った影浦と目が合った。
 満面の笑みでこちらに向かって歩いてくる。その様子をみて順位を悟ったおれは、一歩前へ出て影浦に右手を差し出した。