Right Action

15.

 これまでさまざまな場所で宴会やパーティの手伝いに駆り出されてきたが、温泉というのはさすがにはじめてだ。
 ここは高野山のふもとにあたる場所で、天然の温泉を源泉かけ流しで味わうことができる名湯らしい。
 一体何人来るのかと思ったが、意外にも宴会場に来ている人数は十人程度だった。社長は上座に座っているが、隣の席の最も良席とされる場所はまだ空席のままで、おれはなんとなく嫌な予感がした。
「基本はもてなすだけでいい。酒を適当に注文したり、注いでまわったりしてくれりゃあ終わりだ。もちろんおれの役割もそれだな。末弟ってやつはやっかいだよ、永遠に下っ端業に従事させられる」
 瓶ビールを優雅な手つきで注いでみせながら、影浦が言った。
「それこそ人を雇ってさせればいいんじゃないのか。……ワインにしますか?」
 礼子さんに声を掛けると、あなたはそんなことしなくていいのよ、と腕を引かれたが、知らない人間の中で仕事以外の話をするほうが面倒くさい。おれは「業務の一環ですから」と答えて、ふすまの向こうに控えている店の人間にワインを頼んだ。
「これがおれの、年に一回のご奉公だからな。人にやらせるんじゃ意味がない」
 畳の宴会場はテーブルとイスが置かれていて、正座しなくていい分気楽だった。立ち回って酌をしたり、グラスの中身を確認するのは少し骨が折れたが、こんな場所は今まで数えきれないほど経験してきている。酒癖の悪い上司や逆らえないオーナーに比べたら、マナーがよく品のいい影浦家の人々は、接待相手としては少し物足りないぐらいだった。
 はじめに社長に注ぎにいき、少しだけ話をした。影浦がビールを頼みに席を外したとき(もちろん、鳳凰ラガーの瓶ビールだ)、声を低くして彼は言った。
「仁に勝てそうか?」
「頑張ってはいますが、手ごわいです」
 社長は鷹揚に笑った。
「だろうな。まったくとんでもない子だろう。ぜひ跡取りに欲しいんだが、兄はともかく父が首を縦に振らなくてね」
 兄はともかく、というところにひっかかりを感じた。社長の兄ということは影浦の父親だと思うが、『ともかく』とはどういうことだろう。父親でありながら、同意を得られそうだということなのか?金持ち一家の事情はよく分からないから、おれは黙って社長の話を聞いた。
「私達夫婦には子どもがいなくてね。仁をぜひ養子に迎えたいんだ。まあ、父が許可をしない限りは難しいが。私は世襲制度には反対だから、仁の次はまた誰か、優秀なものが継げばいい。一族で固めるなんて前時代的なやり方じゃあ生き残れないよ」
 おれはビールを注ぎながら、彼の言葉の意味を考えていた。
「成田君に全社運がかかっているんだ。ダメだったら、私が直接仁を説得するけどね、ひとのいうことをきくような簡単な子じゃないから。……よろしく頼むよ」
「精一杯つとめさせていただきます」
 頭を下げ、その場を辞そうとすると、ふすまが開いて男がひとり入ってきた。

「仁はどうした?和歌山くんだりまで来てやったってのに、姿がみえねえな」

 驚いたのは、その偉そうな口の利き方のみならず声や立ち居振る舞いにいたるまで、影浦にそっくりだったからだ。
 目力のある初老の男は、大股に宴会場に入ってきて、あいていた上座にどっかりと座った。その瞬間、ゆるんでいた空気がピンと張り詰めたのが分かる。全員が、あの男の一挙手一投足に注意を払い、様子をうかがっている――赤の他人のおれにも分かるぐらいに、顕著だった。
「お祖父さま、ご無沙汰しております」
 すかさずお酌にやってきたのは礼子さんだった。彼女の顔をみると、険しい表情をしていた男もふわりと目元を緩めた。
「礼子、元気そうだな。順調か?」
「おかげさまで。……わたしたちの可愛い仁は、今ビールを…、戻ってまいりましたね」
 ふすまの向こうから、仁さまはそのようなことなさらないでください、という必死な様子のはつさんの声と、あんなところにずっといたら息が詰まる、という影浦の声が聞こえてくる。相変わらず自由な奴だ、と男が苦笑して――それはとてもやさしい、愛おしさがにじんでいるような笑みだった――影浦が入ってくると同時に、彼は右手を軽く持ち上げた。
「仁、こっちへ来て座れ」
「うわっ、マジで来たのか……、寺阪はどうしたんだ、じい様…おっと、会長のいるところ寺阪ありだろ」
「あいつなら廊下で待ってらあ。ほら、飲めよ」
 大柄というわけではない。影浦ほど長身ではないし、顔立ちも上品ではあるが目立たない平凡なものだ。けれどオーラが、存在感が影浦と似ている。人を従わせる力と魅力に満ちているのだ。
 こちらにやってきた影浦は、立ったままのおれをちらりとみて、「そこ座れよ。空いてるだろ」と着席を促してきた。いや、社長の隣を定席にはしたくない。座らないおれをみて、影浦が祖父らしき男のとなりに座った。
「この男は?」
 突然こちらに話がむいてきて、おれは少し狼狽した。顔には出さなかったと思うが。
「影浦さんの同僚で成田と申します」
 おれの返答に、社長がのんびりと付け加えてくれた。
「彼は仁のつぎに優秀な営業マンですよ、お父さん。ふたり同時にいなくなったら鳳凰ビールは倒産だ…なんちゃって」
 おれはこういう事態(ダジャレやつまらないギャグへの対処)になれているので、「ははは」と不自然ではない程度に笑い声をあげたが、ほかはだれも笑わなかった。上流階級というのはかくも厳しいものなのか。一般家庭に生まれ育ったおれにはよくわからないが、ダジャレに対して愛想笑いのひとつすら許されないとは。影浦が逃げたくなる気持ちが少しわかった。
 社長が咳払いした音をBGMに、じっとこちらをみつめてくる男……待てよ、この男が影浦の祖父なら、この人が三友財閥を率いる影浦一族の当主なのか?
「いい眼をしてるな。折れねえ勝負師の眼だ。営業は天職だろう?」
 腰をかがめても立ったままだとどうしても視線が高くなってしまうので、たたみに片膝をついて話をきいた。
「毎日やりがいを感じています。――いまのところ影浦さんには勝てませんが、そのうち完膚なきまでに負かしてやろうと頑張っているところです」
 祖父の隣に座った影浦が、「できるもんならやってみろ」と得意げに言う。会長と呼ばれた男は面白そうな顔をした。
「仁、いい友人ができたじゃねえか。成田だったか?」
「はい」
「仁に勝ちたきゃなあ……デスクに虫を仕込んでやれ。こいつ、虫が大の苦手なんだよ、笑えるだろう?男なのに悲鳴あげて逃げるからやってみろ」
 おれがよほど驚いた顔をしていたのか、彼は表情を見てげらげら笑った。それから影浦の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて、「楽しんでいけよ。ここは明日まで貸し切りだ」と告げて立ち上がり、部屋を後にした。
「ジジイ!余計なこと言いやがって。大体来たばっかりだろうが、どこいきやがんだ」
 いきりたつ影浦に対して、ふすまを開けた執事が冷ややかに言った。
「会長はお忙しいのですよ。このあと大阪で会議一件、明日は京都で会合が二件あります。タイトな予定の中、仁さまにお会いするためだけにここまで来られたのです」
「へえ。それはお忙しい中…お心遣い痛み入ります。わざわざありがとうございます」
 営業をしているときの丁寧な口調に切り替えて影浦がいうと、周囲からどっと笑い声が上がった。寺阪氏はわずかに不快そうな顔をしていたが、「車を回してあります」と会長を案内して去っていった。
「まったく。仁、おじい様に対してなんて口の利き方をするの」
 礼子さんに説教されている様を見るのは楽しい。会社では影浦に説教する人間なんて誰もいない。課長も支店長も、影浦にはどこか遠慮している。
 おれは席を移動して、下座に座っていた親戚縁者の方々に酒を注いで周った。彼らはいろいろなことを教えてくれた。この酒席は影浦に会いたい会長自らが毎年温泉地で行っているもので、今回は影浦(仁)が和歌山にいるから、というだけの理由でこの温泉旅館で開催されたのだという。ほかにも、今日来ていないのは影浦の長兄と両親だけだとか、彼らは影浦と折り合いが悪いのだとか、そういった内容だった。
 ひととおり周り終えてから、あいている一番下座の席に座って料理をつまんだ。和歌山県の生マグロやイセエビは全国屈指で有名だ。船盛りにされたイセエビの刺身は肉厚で引き締まっていて絶品だった。これを食べられただけでも、ついてきてよかったと思えるほど。
「美味そうに食べるな、君は」
 抑揚のない声で急に話しかけられて、慌ててビールを注ごうとしたが、「手酌主義なので」と断られた。植物のように気配が希薄な男だ。髪が長く、うしろでしばっている。日本のサラリーマンでこの髪型はあり得ないが、職業が浮かんでこない浮世離れした雰囲気があり、上品だが印象に残らない顔立ちをしている。
「今日のメインはクエ鍋らしい」
「……!」
 声には出さなかったが、内心歓喜した。クエはハタ科の高級魚で、関東だとかなり値が張るのだ。日高町の料飲店オーナーが「和歌山に来たらクエを食え!」と何度もダジャレまじりに教えてくれたのだが、まだ食べたことがない。
「飲み物はビールでいいですか?焼酎や日本酒もあるようですが」
 ひかえめに置かれたメニューをみながら男に声をかけると、彼は軽く肩をすくめた。
「きみは店の人間じゃないんだろう?他人のグラスを気に掛ける必要はない。子どもじゃないんだ、自分でなんとかする。目の前にある食事を楽しんだらどうだ。ほら、私の刺身を分けてあげよう、君が空腹なのは目に見えて明らかだ」
 率直な物言いだったが、おれはこの男に好感を抱いた。面白い男だ。
 歳はおれよりも五、六歳上といったところだろうか。どこか流浪の民のような、この世のすべてを些事とでも受け止めていそうな超然とした雰囲気がある。
「あー疲れた。おれもここで飲ませろ」
 影浦がおれの隣に座って、勝手になみなみとビールを注いできた。もはや習慣で返杯してやると、美味そうにグラスを空にした。
「智晴兄、ボストンからよく来てくれたな」
「年に一度の家族の集まりだろう。なるべく参加しないとな」
 この人が影浦のもう一人の兄だったのか。全然似ていないから気づかなかった。
「仁にも会えることだし」
 このとき影浦が浮かべた表情が、今日一番『弟っぽい』笑顔だった。
「成田、次兄の智晴だ。もうひとり長兄がいるんだが、今日は来てない」
 智晴さんはおれをじっとみてから少し首を傾げた。
「仁のご友人。はじめまして。もしよければ誕生日を教えてもらえませんか」
 多少面食らいながら月から言おうとすると、「日にちだけで結構」と遮られる。隣で影浦が「またそれかよ」とつぶやいてビールを呷っている。
「二十九日です。それが何か」
 さきほどまでの無表情が吹き飛ぶほどの驚愕をうかべ、勢いよく立ち上がって影浦を見た。椅子が倒れて大きい音がしたので、部屋の中の全員がこちらに注目した。
「大変だ。彼は二十九日、仁は三十一日だろう……双子素数じゃないか!…素晴らしい。来年は幸運な一年になりそうだ…」
 理由は全く分からないが喜んでもらえて何よりだ。彼はおれの右手を強く何度も握りしめてきた。おれは何が何だか分からないまま真顔で左手をそえて握手を返した。
「今年は解けそうなのか?」
 影浦は顔をしかめておれの腕を引き、無理やり握手を引きはがした。そろそろと椅子に座ると、ふたりとも同じようにした。
「リーマン予想のことをいっているなら、どうだろうな。まだもう少しかかりそうだ」
 もっとも、時間はたっぷりある。
 彼はそう言ってぼんやりと天井を眺めた。瞑想でもしているのかと思い影浦に尋ねると、「智晴兄は数学者だ。ああやってぼんやりしてるときは、大体今研究してる問題のことを考えてる。ミレニアム懸賞問題って知ってるだろ、あれのうちの一つが智晴兄の研究対象だ」と返ってきた。
 ……いつも仕事をしている和歌山県にいるはずなのに、遠いところにきたような感じがするのは、さっきから社長だの、会長だの、執事だの、数学者だの、おれの通常の生活圏では接点のない人物とばかり話をしているせいだろうか。無性に家が恋しくなった。
 あの狭い六帖のワンルームで、ビールを飲みながら録画してあるプレミアリーグを観たい。
 冬場はMLBもオフなので、サッカーを見ることが多い。スポーツをみながらビールを飲む、これが楽しいのであって、別段野球じゃなくても構わない。
 ため息をつき、刺身の次に出てきた料理に手をつけようとすると、「部屋で食え。別で用意させる」といって影浦がおれの手をひっぱたいた。腕時計を確認するとすでに夜の八時を過ぎており、おれの空腹は限界に達していたが、用意されているのなら仕方がない。料理を無駄にしてしまうのは忍びないし、箸を置き、グラスを呷ってビールを飲んだ。

 気を遣わせて悪かったな、と影浦が小さい声で言うので、おれは手に持っていたグラスを落としそうになってしまった。
「お前らしくもない……、熱でもあるのか?」
「ああそうか。二度といわねえよ」
 部屋をとってある、と言われてここへ引きずられてきたのは夜の九時を過ぎてからだった。そのころには皆酔いが回ってすっかり場が砕けており、おれたちはお役御免となった。 
 広い部屋だった。部屋食が持ち込まれているこの十二帖ほどの部屋のほかにも、部屋付き露天風呂が窓の外にみえる。一部屋一部屋が独立した建物になっている、と部屋に入ったとき影浦が説明してくれた。
 向かい合って座りながらふたりでクエ鍋をつつく日がくるなんて想像できなかった。
 この状況を客観的に想像すると少し面白くなってしまって、おれは笑いをかみ殺した。
「何笑ってんだ」
「いや。面白くていい人たちだな、影浦の兄姉は」
 クエは想像していたよりも食べやすく、うまみのある魚だった。ぷるぷるした部位や鶏肉のような部位はそれぞれ味や食感が違っていて、これは雑炊もうまいんだろうなあと楽しみで仕方がない。
「お前に会わせたかった」
 なぜ、とは聞かなかった。おれが考えるべきことなんだろう。影浦が身内におれを引き合わせたかった理由。……自己開示の一種?だとしたら、心を開いてくれている、ということだろうか。わからない……。
「楽しかったし、会えてよかった」
 おれの言葉に、影浦は「そうか」とだけ言って黙々と料理を口に運んだので、おれもそうした。
 はつさんが整えてくれた鍋料理だが、彼女は「あとはおふたりでどうぞ」といって早々に出ていってしまったので、追加の具材はおれや影浦が適当に入れた。どちらにも料理の心得がないのだが、影浦はやはり上品で、盛り付け方やよそい方が丁寧だった。食べるときもそうだ。何の物音もさせずに食べる。箸の使い方が美しく、決して口の中いっぱいに頬張ったりしない。
「今日智晴兄が遅刻してきた理由、なんだと思う」
 刺身、鍋料理、雑炊にデザート。すべて食べ終えてテーブルの上もきれいに片付いたころ、影浦がそう問いかけてきた。
「それはクイズか?」
「ああ。当てれば賞金百万円やるよ」
 おもむろに影浦が服を脱ぎ始め、おい、と声を荒げると小馬鹿にされた。
「自意識過剰か。風呂に入るんだよ。この部屋は露天風呂がついてるんだ」
 はつが用意してくれた日本酒がある、と言いつつ裸になった影浦が風呂場へと歩いていく。
「一緒に飲みたければ来い。梵 超吟 純米大吟醸で月見酒できるぞ」
 魅力的な誘いだった。おれは黙って立ち上がり、影浦に続いて服を脱いで、風呂場に入った。

 野外なので風が冷たい。急いで身体や頭を洗って湯舟に浸かった。檜でつくられた浴槽は香りがよく、冷たい風にさらされてもちょうどいい温度になるように加温されている。
 畳四畳分はある、大きい露天風呂からは空がよく見えた。偶然にも満月で、まさに影浦がいう月見酒にはぴったりだった。
「はつは気が利くな。冷で置いて行ってくれるとは」
「ああ、最高の贅沢だな。今度なにかお礼をしないと」
 ガラスの徳利と猪口は月明りで青白く光っている。湯舟のすぐそばに氷の入った桶が置かれていて、そこに一升瓶が突き刺さっており、徳利に移して飲むらしい。
 手渡された猪口を受け取って飲み干してから返杯すると、影浦が目を細めた。
「答えは分かったか?兄貴が遅刻した理由」
「いや、分からない」
 額から汗が流れて猪口の中に落ちそうになるのを、影浦の指が防いだ。右手の人差し指がおれの汗を拭い、そのまま唇をかすめていく。目を合わせると、炎のように揺らいでいる欲望が見えた。多分おれも同じ目をしているんだろうな、と思い目をそらす。指がはなれていき、それが惜しくて、気を逸らすために手酌で日本酒を飲んだ。つめたく、芳醇な味がする。すごくいい酒なんだろう。風呂に入っていることもあって、いつもより早くアルコールがまわっていく。
「因数分解」
「え?」
「だから、日本についてから通り過ぎる車のナンバープレートを因数分解して遊んでたら夢中になって、約束を忘れたんだと」
「なんだそれは」
 おれが吹き出したので、影浦も同じように頬をゆるめた。
「昔からそうなんだ。智晴兄は過集中のきらいがあって、日本の大学院にいたころは数学のことを考えすぎて、風呂上りに裸のまま外に出て逮捕されたことがある」
「大変だな、家族が」
「まったくだ。尊敬してるけどな」
 手を伸ばして、影浦が猪口をもっている右手に触れた。なんだよ、とつぶやいた影浦が、猪口を浴槽の縁に置いてこちらを向いた。
「ごめん、痕がのこってしまった」
 影浦の右手の甲、中指の骨のところにはいまだに傷跡が残っている。周平を殴った時に切れた傷で、見た目よりも深く傷ついていて結果的に縫うことになってしまったのだ。
「義弟のことが気になるか」
 落ち着いた声で影浦が言った。おれは正直に「少し」とこたえた。
「あいつのことはおれに預けてくれ。悪いようにはしない」
 黙っていると、「それとも、」と低い声で影浦が問いかけてきた。
「まだ好きなのか。あんなクズのことが」
 そうじゃない、と答えようとして、おれは黙った。そうじゃない、なら、どうだというんだ。それを説明してどうする。影浦のことが好きになりました、というのか。とても言えない。
「……なんとかいえよ」
 顔を上げると、あのときと同じ顔をした影浦がいた。千歳と寝たとき、ホテルの外で待っていたときの影浦だ。焦ったような、必死な顔。この顔をみると勘違いしそうになる。
「あんなクズでも、弟なんだ。心配はする」
 瞬間的に怒りを膨らませた影浦が、ぐっと顔をしかめた。怒鳴られるかもしれない、と身構えたものの、影浦は何も言わなかった。ただ大きく息をすって、細く長く吐いた。精神統一の一種かもしれない。
「おれは……、お前の義弟が、羨ましいのかもしれない。そこまで愛されて、許されるなんて」
 こどものような、ひどくたよりない声だった。おれも猪口を置いて、影浦にちかづいてのぞき込んだ。お湯のせいだけではなく、顔が熱い。
「分かったんだ。お前の身体じゃなくて、心が欲しい」
 ひゅ、と息を呑む音がした。おれの立てた音だ。あまりにびっくりしたので、声が出てこなかった。
「だからお前の義弟に腹を立てたんだと思う。あれほど殴ったのに、まったく後悔も罪悪感もない。まだ許せない。成田を侮辱してもいいのはおれだけだ」
「侮辱はだれにもされたくないぞ」
 間髪いれずに突っ込むと、影浦がはっ、と声をあげてわらった。
「抱かれながら侮辱されるのは好きだろう?――知ってるぞ」
 急に顔を近づけて耳元でささやかれて、反射的に頬をひっぱたいてしまった。
「いてえ、何しやがる」
「近づくな、身体じゃなくて心が欲しいんだろ」
 まるで告白じゃないか。そう思いながら、おれは叫んだ。
「くれるのか?なら我慢してやるよ。心がないなら身体だけ強奪する。そのうちほだされるかもしれないしな。お前、そういう感じがするし」
「どういう感じだ、ふざけるな」
 手のひらで湯を掻いて思いきり影浦にひっかけた。のぼせそうだ。もう出ないと自分が何をしでかすか分からない。そう思って湯舟の縁に足をかけると、肩をつかまれてまた湯の中に引きずりこまれた。
「返事は?」
 すぐそばにある影浦の顔。汗をにじませ、頬を紅潮させたうつくしい顔は、いつになく真剣だった。
「おれだけのものになれ。後悔はさせない。いい思いをさせてやるぞ」
 告白というにはあまりにも上から目線の言い様。こみあげてきた喜びが、一瞬で引っ込んでいくのを感じた。
「その言い方が気に食わない。おれは物じゃないし、なにかを「してやる」なんて言われるのは腹が立つんだよ。自分で稼いで、欲しいものは自分で買う、自立した別の存在だ。まずは相手に敬意を払うことを覚えろ」
 影浦は目を見開き、怒りを露わに言い放った。
「てめえ、人が下手に出りゃ調子に乗りやがって。このおれが……こんな屈辱ははじめてだ」
「それだ。それをやめろ、その『俺様目線』を」
「おれは生まれつきこういう性格だ、お前が慣れろ」
 どうかしてる。こんなやつが好きだなんて。
 自分でも呆れてものもいえない。
 でも仕方がない。恋は思い込みだし、コントロール不可の衝突事故なのだ。
「影浦」
 そっぽを向いてしまった肩をつかむと、胡乱な目でこちらを振り返る。その油断しきった唇に自分のものを重ねた。熱くて、うすい塩味がした。
 ぽかんとしている影浦。こいつ、こんな顔もするんだなあ、と思うと愛おしさがこみあげてきて、もういちどキスして今度は舌でくちびるを舐めた。途端に火がついたような眼で、影浦がおれの肩を掴んでぐっと抱き寄せる。胸がぶつかり、髪をつかまれて、深く口づけられる。舌が入ってくるとすぐに負けた。影浦のキスは丁寧で、執拗で、この上なく性的だった。
「成田、……返事」
 耳を噛みながら急かされて、顎を上げる。溜息まじりに、おれは言った。
「お前の心もおれにだけ寄越せ。それならくれてやるよ」
 唇が首筋へと落ちていく。つめたくて気持ちがいい。目を閉じ、その感触に集中していると、影浦が怒ったような口調で言った。
「偉そうなのはどっちだ、まったく」
 この意地の張り合いが実におれたちらしい。
 おれも影浦も、意地でも「好き」や「愛している」という言葉を使わなかった。適しているとも思えないし、予感があった。
 関係が仮に「恋人」になるとしても、長持ちしないだろう。ほぼ間違いない。
 まず、性格があまりにも合わない。どちらも意地っ張りで、負けず嫌いで、プライドが高い。それに住む世界も違う。おれは平民で影浦は華族の家柄、世が世なら殿上人だ。破綻は目に見えている。
 それでも、今はいい。
 この、頭の中に火が点いて、頭の中からつま先まで全部トロトロに溶けてしまうキスが手に入るなら、ほかのことは後回しだ。
「一夫多妻は許さないからな。女は全部切れよ、このヤリチン野郎」
 ひとまず釘をさすと、影浦は蕩けたような顔で笑った。
「ハッ、言うじゃねえか。そっちこそ二度とケツにおれ以外入れんじゃねえぞ、堅そうな顔してるくせに誘われりゃあふんわりセックスしやがって、このクソビッチ」
 頬をつねるとつねり返され、立ち上がると、影浦も後を追った。このままじゃのぼせて倒れる。
 憎まれ口を叩き合いながら浴室を出ると、影浦が居室のふすまをパーンと開けてこちらを見た。そこにはぴったりとくっつけてならべられた布団が二組と、ご丁寧にティッシュとコンドームまで用意されていた。
「浴衣を脱がせるところからさせろよ」
 急いで出たので、適当に着た浴衣はもう半分脱げそうになっている。その帯をつかまれ、ほどきながら布団に押し倒されただけで、欲情で頭の中が真っ白になった。
「影浦、」
 のしかかってきた男の耳元で、ささやいてやる。
「早くしろ」
 浴衣のすそを割って入っていた手のひらが、乱暴に襟をひらいていく。ほとんど脱げた浴衣の背に影浦が手を回して引き抜き、部屋の隅へ放り投げる。
 おれは手を伸ばし、影浦の浴衣の帯をほどいて肩から落とした。ほどよく筋肉のついた身体は、おれよりも白く、陶器のように滑らかな肌をしている。
 そっと唾液を飲み込みながら、おれは反応を示している影浦の中心の部分に手を這わせた。それを撫でさすりながら、疑問が頭に浮かぶ。
「お前は女が好きなんだろう。よくおれ相手に勃つな」
 自分でも体格がいい方だと思う。手も足も大きく、背が高くて、肩幅も広い。体つきはどう見ても男で声も低くて、女のような要素はひとつもない。
「そうだ。お前と違って異性愛者だったはずなんだ。なのに……」
 憎々しげにそう言ってから、影浦が膝立ちになり命令した。
「舐めろよ。これが好きだろ?」
 言われるまでもなくそうするつもりだった。
 おれはあぐらをかいたまま、目の前に出された、少し兆した影浦のものを、根本から先端にかけて舌でしつこく愛撫した。
 血管を浮き上がらせ、みるみるうちに固くなっていく性器を、舌で、唇で触れる。先を強く吸いながら右手で擦ると、真上から悩ましげな溜息が落ちてくる。
「……、こっちを見ろよ」
 口いっぱいに含んだまま視線を上げると、両手で頬を包んでから、おれの前髪をかき上げた。
「いい顔だ」
 上あごにこすりつけられた丸い先端の裏側を、吸いながら何度も舐めると、影浦はあの完璧なアーモンド・アイズに憂いをのせて、短い息を吐いた。
「っ、…その眼がいい。お前そのものをあらわしている、その眼。誰にも媚びない、従わない眼……」
 自分ではわからないところを褒められても、悦びはわいてこない。けれど育っていく影浦のものは正直に興奮を示してきて、つられるように自分の身体も熱くなった。
「抜くぞ」
 もっとしつこく愛撫したかったのに、影浦はあっさり腰を引いて性器をぬいてしまった。鼻先すぐそばに濡れた反り返ったものがみえて、つい名残惜しそうな顔をしてしまう。
 てのひらで肩を押され、仰向けに布団の上に転がされた。反射的に閉じようとする足を強引に開いて、影浦が圧し掛かってきた。
「惜しそうな顔をするなよ。安心しろ、今からいやってほどくれてやる」
 右の膝裏を持ち上げられ、大きく足を開かれて、羞恥で顔をそむけた。開かれた右足をぐっと顔に押し付けるようにしてから、足首を噛まれる。
「いっ……」
 足首につけた歯型を舐めて、そのままふくらはぎを、太ももの裏側を、舌がぬるぬると這っていく。興奮をみせ先を濡らしているおれのものには触れもせずに、そのまま腹部にキスを落とし、右の乳首に歯を立てた。
「あ、っ……影浦……」
 口元に拳を持っていこうとすると、影浦の手がのびてきて、首にまわすように誘導される。両腕を影浦の首に絡ませると、伸びあがってきてキスされた。舌はやわらかく、好き勝手に口の中を蹂躙していく。敏感な粘膜をしつこく舐められて、足がもぞもぞした。自分のものが、痛いほど硬くなっている。
 顔をなでる指が発火しているのかと思うほど熱かった。舌が抜かれてもねだるように口を開けたままでいると、影浦が真剣な顔でじっとこちらを見つめてくる。いつもの捕食者の目ではなく、力のこもった熱っぽい視線だ。何かそこに意味や答えがこめられているような気がして、荒い息を吐きながら見つめ返す。
「成田……」
 その視線と声と熱い手のひらが、何を意味しているのか教えてほしい。
 それとも意味なんかないのか。おれが意味を欲しいと願っているだけで。
 鼻先が触れ合って汗が混じりあうほどの距離で、影浦が舌を差し出す。おれはそれをちろりと舐めて、自分から頭を上げてキスをむさぼった。影浦の香水の香りが、鼻腔を通じて頭の中、体の隅までいきわたっていく。
 顔をそむけたり背を向けようとするたびに、影浦の手がのびてきて正常位に戻されてしまう。身体をずり上げて逃げようとしても引き戻され、しまいには「これ以上無駄な抵抗をしたら、帯で腕を縛るぞ」と耳元でささやかれてしまった。
「やさしくしてやってるだろ。何が不満だ」
 耳を噛まれ、舌で音をたててなめられ、産毛が逆立つ。低くて甘い声で何度も「いれたい」「早くお前のなかに入りたい」と請われて、もはや逃げる気持ちなんてとっくになくなっていた。
 この声で名前を呼ばれたい、と思ったけれど、ほとんど呼ばれたことがない下の名前よりも、名字のほうが影浦の声になじんでいる。名前で呼び合う甘さや隙も、おれたちにはまだなくて、それなのに体の急所をさらし合う、一番弱さを見せ合う行為をしているなんて、恋愛感情は恐ろしいと思った。
「……顔を見られるのが嫌なんだ。恥ずかしいから」
 ローションを手のひらにだしていた影浦が、おれのことばにふっと笑った。くそ。だから言いたくなかったんだ。けれど言わなければ。おれは両腕で顔を隠して続けた。
「後ろからしてくれ。そのほうが集中できる……うあっ!?」
 冷たい指がおれの足のあいだ、奥深くに進入してきて、思わず悲鳴をあげた。左手で右膝の裏側をもった影浦は、ぐいっと足をひらかせて顔に押し付け、右指でおれの中を容赦なく解した。
「あ、まってくれ、…や、いやだ」
 指はすでに知り尽くしている。どこを押せばどうなるのか、どんなふうに開かせればいいのかを。
 荒い息を吐きながら、影浦は最短でおれの後ろを準備して、自分のものをいりぐちにあてがった。先端をぬるりといれようとしてから、突然引き抜いて身体を離す。
「ああ、忘れてた」
 手慣れた様子でコンドームをつけた影浦に、おれは驚愕のまなざしを向けてしまった。
「なんだその顔。お前が避妊しろっていったんだろ……、おい、顔を隠すな。お前の目をみながらやりたいんだ」
「悪趣味め。最悪だ」
 両手首を掴まれ、正面から根元まで突き入れられて腰が浮いた。肩甲骨に力が入って身体が反り返る。手首を掴んだまま引かれて、激しく腰を動かされ、濡れた音が部屋の中を満たす。がくがくと揺さぶられるままに身体が揺れて、体の奥深くから滾ってくる快感に抗えずに両足を影浦の腰に巻き付けた。
「はっ……、お前は自分で気づいてないけどな。……無意識に男煽ってんだよ。誰にも媚びねえかと思ったら、急に笑ったり。相手に関心なんか、ないくせに」
 腰を抱えられ、奥を激しく突かれて身もだえする。身体が熱い。汗が噴き出して、このまま溶けてしまいそうだった。
 手首が解放されてすぐ、影浦の背に縋り付いた。いつ触ってもさほど熱くならない背筋が、今はおどろくほど熱い。背骨をなぞって爪を立てると、指の腹で胸の先をしつこく揉みこまれ、声を我慢することができなくなった。
「あ……、ああっ、はあっ」
 中の敏感なところをごりごりと擦られたあげく、両足を大きく広げられて、最奥まで打ち込まれた。肌がぶつかるはしたない音と、眉を寄せ、赤い頬で汗を流す影浦の顔が、ぎりぎりで保っていた理性の糸をちぎっていく。
 一度も触られていないのにガチガチになった自分の性器が、影浦が腰を揺らすのと同じリズムで揺れている。抱え上げられた両足はおれの心情をあらわすように影浦の腰を強く挟んでいて、物欲しそうに腰が揺れている。
 気持ちいい。さわってほしい。めちゃくちゃにしてほしい。もっと、もっと奥の奥まで汚されたい。ほかの誰でもなく、影浦に。
「いく、影浦、いく」
「エロい顔だな。……好きなだけいけよ」
 達した自分の精液が、腹と胸を汚す。影浦がイッたばかりの敏感なそこに今日はじめて触れてきて、根本からぬるぬると擦った。中と外、同時に刺激されるあまりに強い快感に、顎をのけ反らせ、両手を突っ張る。
 目の前が真っ白になった。
「仁、……」
 何かとんでもないことを口走ってしまったような気がするが、よくわからない。
 その言葉をきいた影浦は勢いよくおおいかぶさってきて、息苦しいほど濃厚なキスをした。
 

「ああ、もう、無理だ……あっ、あっ、抜いてっ、抜いてくれ」
 湯が跳ねてパシャパシャと音をたてている。汗を流すぞといって連れていかれた部屋付きの露天風呂で、立ったまま犯されて必死で声を殺した。
 浴槽のふちを掴んで立ったまま、肩を噛まれる。信じられないぐらい奥まで、影浦の性器が入り込んできて中を圧迫した。腹をさわるとどこにあるのかわかるぐらい硬くて大きいものが、腰を掴んで強く打ち付けられて、あまりに気持ちが良くて泣きながら懇願した。
「影浦、頼むから、……ああっ、いく、またいく」
 避妊なんて一度目だけだった。影浦の熱くて太いものが執拗に出入りを繰り返すそこは、何度も中に出されたせいですでにぐちゃぐちゃに濡れて、出された精液が音を立てて太ももを流れ、湯舟の中にとけていく。
「気持ちいい……、成田、お前の身体、最高だ」
 後ろから指がすべってきて、胸の先を乱暴に抓られた。中の浅い、気持ちのいい場所を影浦のものがしつこく穿ってきて、立っていられなくなる。
「いい。気持ちいい。影浦、影浦…」
 湯舟の中に沈みそうになったところを、両腕で抱えられた。浴槽のふちに座った影浦の上に背中を向けて座らされ、背面座位で身体を揺らされる。ぎちぎちに狭い穴の中を目いっぱい満たされ、擦り上げられて、気持ち良さにどんどん理性が飛んでいく。
 影浦の膝を手で持って、自分でも身体を揺らす。突き上げる動きが速くなってきて、顎をのけぞり背を反らすと、切羽詰まった声で影浦がおれの名前を呼んだ。
「悠生」
 強く抱きしめられた瞬間、熱い迸りが身体の中に放たれた感触があって、同時におれも達してしまった。あまりにイキ続けたせいで薄くなり、透明に近くなった精液が、とろりと漏れて湯舟に落ちる。
「ほかの男に触らせるな。お前の身体はすべておれのものだ。髪一本でも許さない。……わかったか?」
 おれの身体はおれのものだ。言葉はそう頭に浮かんできたのに、おれは壊れた人形のように首を縦に振った。つながったまま湯の中に移動しようとした影浦は、思いついたように性器を抜いて、背を向ける形でおれを立たせた。
 両手で尻たぶを開かれて、中出しされた精液があふれてくる様を、じっと観察された。
「エロい。垂れ流しだぞ、成田」
 ひっぱたこうかと思ったけれど、そこで意識は途絶えた。激しすぎるセックスと、のぼせたことによる意識の喪失。
 最後に覚えているのは、湯の中に倒れ込む直前に見えた、影浦の驚きと焦りに満ちた表情だった。