Right Action

14.

 ビアフェスタをはじめとしたイベント時期の営業が功を奏したのか、料飲店との大型契約が相次いだ。この調子で取れれば、和歌山支店の売り上げは全国ベスト一0入り間違いない。
 個人の営業成績でも、影浦に肉薄している。まず個人目標値は半期ベースでは達成できたので、あとは年間ベースでの前年更新と、影浦に追いつくことさえできれば。
「さすがですねえ、成田先輩。全国ベースでこの成績……」
「東京出たときは『さすがに成績落ちるだろう』と思ったけど、そうでもなかったな。上にいるやつは毎年同じだけど。にしても新宿支店の連中はなにやってんだ、あれだけ販路開いてやったのに不甲斐ない」
「成田先輩の後任なんて絶対いやだなあ、比べられるし……。ふつうの営業は取引先ごとのノートなんて書いてないですって。ほらあの、家族関係から何から、仕入れた情報全部書いてるやつ。すっごい高値で売れそうですよね、アレ」
 千歳が笑い交じりに言った営業ノートは、新入社員のころから書き続けているものだ。日報なら業務でも記入するがそれとは違う、料飲店ごとに聞き取ったオーナーの趣味、好物、家族構成、性格的長所と短所、好む商品の傾向、料理の味やジャンル、日々のやりとりや要望、その処理内容を詳細に書き取ったもの。すべてを頭にいれていれば文字にする必要などないのだが(そしてそれを平然と行っているのが、くやしいことに影浦仁である)、アウトプットしないと忘れてしまうので、どんなに細かい、関係ないと思えることでもすべて書きこみ、自宅でたびたび読み返している。
「取り扱いには細心の注意を払ってるけどな。個人情報の塊だし。店の名前とオーナーの名前は暗号化して別表にしてある」
「すごい、そこまでしてるんですか。僕には無理だ……」
 肩を落とした千歳の頭をわしわしと撫でて、こちらを見返してきた千歳に「ひとそれぞれやり方があるから」と励ました。
 支店の入り口にある液晶モニターには、社内情報のみならず、営業成績の月間グラフと個人名が表示されている。今年度から、営業部だけがモニターでみるのではなく、全社員が観ることのできるようにする、と本社からお達しがあり、月間ベース、四半期ベース、半期ベースの営業成績が、氏名とともに全社表示されているのだ。
 外まわりから帰ってきてコーヒーを飲んでいるおれと千歳は、見慣れたトップの氏名を指さし、眼を見合わせて笑った。その名前はもちろん『影浦 仁』で、『五年連続トップ』という文字と一緒に、グラフ上部に金メダルのような画像が表示されている。
 支店の入り口には観葉植物がいくつかと、応接用にしきられたブースがいくつか、それにこの液晶画面とソファが設置されている。営業社員は成績さえあげていればそれなりに自由な風土があるので、勤務時間中にこうしてコーヒーを飲んでいても、特段お叱りを受けることはない。ソファに座って液晶画面をみるともなく眺め、冷えた指と身体をあたためた。一二月は、いくら温暖だといわれる和歌山県でも、風がつめたくて体に堪える。カイロや登山用のスパッツで腹をあたためても、冷たいビールを飲む機会は退職するまで減らないから、もはやあきらめの境地だが。
「にしても、影浦先輩ってやっぱり化け物ですね。こっちきてからもトップ維持してるなんて信じられないです……新宿支店とは市場規模が違うはずなのに」
 最近驚いたのは、影浦が紀南の販路を開いたことだ。漁師たちは漁にでるとき、大量の酒を買い込んで船に積み込む。そこに目を付けた影浦が、海手の料飲店と和歌山支店の量販店部門営業を巻き込んで展開した営業活動で、前年比一四五%の売り上げを達成した。
「――一年前だ。ユウヒビールに競合他社の営業先を奪う専門チームができて、うちの会社は相当苦戦を強いられてたんだよ。契約したら安心して油断が生まれるからな、そこに奪いにくるわけだ。ふつうは新規店舗に営業をかけることが多いだろ。それは、既存店取りに行くのがなかなか難しいからだよ。向こうも義理があるしな。そこを狙いにきたのがユウヒビールの専門チームだ。例えるなら「寝取り屋」みたいなもんだな。新宿支店は相当してやられたってきいてるけど、影浦の契約先だけは、ひとつも裏切らなかった。それどころか、奪われたほかの営業が担当してた料飲店まで、あいつひとりで奪い返したんだ」
 そこまで話してふと、自分が熱くなっていることに気づいて沈黙した。おそるおそるとなりを見ると、千歳は呆れた顔を隠さなかった。
「ふつう、振った相手の前でほかの男ほめます?ほんと鈍いというか……無神経というか……」
「ごめん……申し訳ない」
 陳謝すると、千歳はいいですけどね!と言って笑ってくれた。
「影浦先輩が天才なのは事実だし。知ってますか、あのひと国Ⅰ受かってたらしいですよ。あ、いまは国家公務員総合職っていうんですっけ。大学在学中に……でも官庁訪問せずに弊社入社したんですって」
 おれはあまり驚かなかった。そもそもビールが美しくて好きだから、という理由だけで、就職先を決めるような、そしてそこで常に一位を誇るようなクレイジーな男だ。一般の物差しでは測ることができない。
 液晶画面が時折自動で切り替わり、支店ベースの営業成績が表示される。和歌山支店は先月末時点で一二位。前年最下位だったことを思えば、相当なものだ。まあこれも影浦に言わせれば、「おれが来たんだから当然だ」ということになるんだろうが。
「さあ、今日は業務終了後クリスマスパーティの手伝いだな。もうひと頑張りだ」
 使い捨てのプラスチックカップを取り外して、ごみ箱に捨てる。立ち上がった千歳が後ろをついてきて、「はあ、今月二日酔いの日多すぎだよ」と愚痴をこぼした。

 クリスマスから元旦にかけて、酒類メーカーは稼ぎ時の繁忙期だ。料飲店担当もそれは例外ではない。
「商工会議所のパーティか?頑張れよ、ミスター鳳凰」
「そのあと営業先にもお手伝い行くんですよね、頑張ってください、ミスター鳳凰」
 PCの電源を落としながら、課長に引きずられていく羽田に声をかけた。悪ノリした千歳もおれの後に続いてからかってから、羽田の横をすり抜けていく。
「お先に失礼しまーす」
「おう。千歳、頑張れよ」
 課長がハッパをかけてから、おれたちの方を向いた。腕はまだ羽田を捕まえたままだ。
「影浦と成田は?」
 今日はどの営業も取引先に丁稚奉公する日なので、就職してからこの方、クリスマスを恋人と祝ったことがない。
「おれは今年奉公先がないので、影浦がおろしてる料飲店のパーティを手伝うことになりました」
 眉を上げた課長の表情の意味はわかる。お前ら最近仲がいいな?の意味だろう。
「ずるい!成田先輩、こっち手伝ってくださいよお。地元有力者のパーティなんかヤダ~~堅苦しいこと間違いなしじゃないっすか!」
 羽田がこちらに縋り付こうとして、課長に引っ張り戻される。気の毒だとは思うが、影浦の案件は人手がいるのだ。
「甘えんなよミスター鳳凰。今月成績悪ィぞ。お前は取れて当然なんだからおれを越えに来いよ」
 影浦までのってきた。羽田が「うるさいですよ!あっ課長痛いっ、ひっぱらないで」と叫びながら連行されていく。なんとなく後ろを振り返ると影浦と目が合って、どちらともなく笑い合った。
「着替えろよ。悪いがスーツはこっちが持ってきたものを着てもらうぞ。おれのメンツにかかわるからな」
 フロアを見渡すと、まだ営業部にいるのはおれと影浦だけだった。部長も課長もほかの営業も、みんな時間外労働に出かけている。
 デスクの前で立ったまま紙袋を手渡され、中身を確認すると、以前渡されたフルオーダーのスーツとは別物が入っていた。見るからに仕立てたばかりのそれを取り出して「いや、だから、こういうのは……」と断ろうとすると、今度はデスクにドンと、靴の入った箱を置かれ、その上には三本の美しいネクタイが並べられた。
「サンローラン、エルメス、ヴァレンティノ……迷ったから全部やるよ。ネクタイはこの中からおれが合わせてやるから三分以内に着替えて来い。異論は許さん。お前のダサい服装で損をするのはこのおれだ。言うことをきいてもらうぞ」
 更衣室でシャツを脱ぎながら、あの日のことを思いだしてひとりで赤面した。ビアフェスタの日だ。影浦が周平を半殺しにした日、あいつの家で手当てをした後のことだ。

****

 あの日、何もなかった。つまりキスしかしなかった。
 何度かキスをしたあと、「部屋の中のものはどれも好きに使っていい。泊って帰れ」といい残して、影浦は先に寝室にいってしまった。
 何度となく来ていたのに、家のなかをゆっくり見て回ったのは初めてだった。いつもは玄関と風呂と寝室、もしくは玄関と寝室ぐらいしか使わない。セックスしたらすぐに帰るだけの関係だったから、それで良かったし何の疑問も抱かなかった。
 着替えを探しているときに、ものすごく広いウォークインクローゼットを見つけた。クローゼットというにはあまりにも広かった。その部屋自体が服屋のようにみえた。壁沿いに色やカテゴリーに分けて、ブランドをそろえて吊るされている衣類と、下部に棚がしつらえられて並べられた靴は、どれも選び抜かれていて、見ているだけで圧巻だった。
 寝間着は下着の棚に収められていた。シャワーを浴びてから、夢のような着心地のそれに袖をとおすと、影浦の匂いがした。
 ソファで眠ろうと横になりしばらくすると、寝室の扉が開く音がした。影浦はそのままリビングを通り抜けて浴室の方へ行き、シャワーを浴びたり寝仕度を整えてから、おれのそばに立った。育ちがいいこいつにとって、昼間と同じ服装のまま眠るなんてことは、どうしても許せないことらしい。
「おい」
「なんだ」
 身体を起こそうとすると、腕をつかまれ寝室に引いて行かれた。どすどすという足音と怒ったような背中に眉をひそめる。
「ソファでいい」
「黙れ。おれのベッドを貸してやるっていってんだ。泣いて感謝しやがれ」
 強い力で布団の中に引きずり込まれる。こいつの布団やマットは、過剰な表現でもなんでもなく、天国のような寝心地なので引力がすごい。後ろから抱き込むようにして、影浦が腕をまわしてくる。おれは男と寝たことがない女学生のように緊張しながら、背を丸めて後ろの影浦を警戒した。
「……何もしねえから早く寝ろ」
 髪の中にささやかれた声は眠気でとろんとしていた。しばらくの間息をひそめていると、後ろから寝息が聞こえてきた。
 おそるおそる振り返ると、影浦はすでに深い眠りについていた。安心したような、あどけない寝顔だった。
 後ろから抱き着かれている体勢がはずかしくてふりほどこうとしたが、そのたびに影浦が唸り声をあげてますます強く抱きしめられ、あきらめておれも目を閉じた。
 うなじにあたるつめたい鼻先と吐息がくすぐったく、寝入りまで時間がかかってしまった。
 

****

「成田、早くしろ」
 思いだしていた張本人に声をかけられて、飛び上がりそうになった。振り返ると、不機嫌そうに腕を組んでいる影浦が、更衣室の入り口にもたれていた。
「もう終わった。……なあ、影浦。このスーツ、どう考えてもビール屋が立ちまわるような服装じゃないぞ。少し、派手じゃないか?」
 着替え終わって、姿見で自分の姿を確認する。ジャケットやスラックスは光沢のあるダークブルーの生地にグレーのストライプが入っていて、シャツは薄いピンクのクレリックだ。靴は変わらず、エドワード・グリーン。重厚な黒が上品な輝きをみせている。
「成田にしては上出来だ。――お前、外見はいいからな」
 それはこっちのセリフだ、と言いたくなったがやめておいた。
 シャツの襟を立ててじっと立っていると、影浦がエルメスのネクタイを首にかけてきて、するすると結びはじめた。
「このタイは細身だからな。今日はセミウィンザーノットだ。見てみろ」
 鏡の前に立っている自分が、普段とは別人のようだ。素晴らしいスーツや小物に身を包んでいると、姿勢まで良くみえる。
「よく似合ってる」
 隣でニヤッと笑った影浦は、おれとは対照的な、明るいグレーのスーツに着替えている。やはりどこから見ても、パーティの手伝いというよりはパーティの参加者のようだ。
「さすがにこの格好はまずくないか」
 支店を出て、駐車場へと歩いていく影浦の後を追う。車のキーを手のひらで弄びながら、影浦がこちらを見た。
「コートを持ってきた。会場についたら着ろよ。庭を通り抜けるまで時間がかかるからな。乗れ、そっちじゃない、右だ」
 立ち止まった場所に鎮座していたのは、いつものBMWではなく、アルファロメオのスパイダーだ。しかも真っ赤な、左ハンドルのマニュアル車。あまりに派手すぎて、立ちすくんでしまう。
「行けば分かる。この格好で何の問題もない」
 運転席から助手席のドアを開けられ、しぶしぶ乗り込む。どうせこいつの考えていることなんてわからないんだ、と割り切って、言われたとおりに乗り込んだ。

 アルファロメオは抜群の加速をみせながら阪和自動車道、京奈和自動車道を駆け抜けていく。車のルックスに恐れをなしているのか、後ろにつけられた車は次々と追い越し車線から左車線に道を譲っていき、影浦は慣れた様子でするするとスピードを上げて目的地へ車を走らせた。
 DJが曲名をつげて、さきほどまでとは全く毛色の違う、明るいロックナンバーが流れはじめる。トム・ヨークからずいぶん雰囲気が変わって、ストレートな恋の歌だ。ベイビーユー。「今夜は帰らずに隣にいてほしい」、という内容の歌詞に、またしてもあの日を思い出してしまった。
「……このジャンルは普段聴かないが、お前は好きなんだろ、こういうのが」
 影浦がかすれた声で言った。もしかして、こいつも同じことを考えていたのだろうか。いや、まさか。そんなはずはない。
「この歌みたいにみんなが素直になれたら、すれ違って別れるとか、意地を張り合ってけんかになるとか、なくなるんだろうな」
 おれの答えに、影浦は眉を顰めた。バックミラーを見ると、後ろから来た黒のワゴンがわざと車間距離を詰めてきている。
「このおれを煽りやがるとはいい根性だ」、と独り言をいってから、アクセルを踏み込む。信じられないぐらいの加速。ハンドルを巧みに操りほかの車をよけながら、あっという間にワゴンをちぎってしまった。
「あ、あぶないだろ」
「あんなのが後ろにいやがるほうがあぶねえだろ。それとも譲ってやれとでもいうのか、このおれに。道はなあ、譲られるものであって譲るもんじゃねえんだよ」
 緊急車両は別だ、と付け加えたのをきいて安心した。さすがの影浦でも道路交通法は守るらしい。
 さっきの話だが、と前置きしてから、影浦が言った。
「恋愛の歌をきいてもピンと来ないんだ。だから避けてきた」
 不服そうな顔をしているのが面白かったが、顔には出さずに「だろうな」と頷いた。たしかに。影浦が恋愛の歌や失恋の歌を聴きながら「わかる」とか「超しみる」とか言って泣いているところは想像できないし、少し気持ち悪い。
「さっきの歌みたいに、『帰したくない』とか『ずっとそばにてほしい』とか歌詞でよくあるだろう。あれがいまいち……女とヤったら早く帰ってほしいし帰りたいし、そのあとは全部惰性というか義務というか、やむなく優しくしていたからな。デートなんか面倒の極みだろ。見たいものも欲しいものも、ひとりで見に行くし買いに行く。ふたりで行動する理由がわからなかった。興味のない話をきいたり、相手に理解できない話を説明したり、面倒なことしかない。相手が言ってほしい言葉は想像がつくから、仕事と同じように接していたが」
 冷めた横顔を道路照明灯がときおり白やオレンジでふちどる。この完璧な顔に憧れている女性がどれほどいるのかしらないが、すべてのファンの女性に今の言葉をきかせてやりたい。目を覚ませ。「仁さま」などともてはやしている男は、ソシオパスの疑惑があるぞ。
 にしても、そんな男がなぜあの日「何もしないから帰るな」と言ったのだろう。聴いてみたくなってしまった。
「なら、どうしてあの日おれに『帰るな』と言ったんだ。ケガをして心細かったのか」
 どんな憎まれ口が返ってくるか期待しつつ前をみていると、思いのほか長い沈黙が車内を支配した。
「………」
「冗談だ。そんなに怒るなよ」
 ペットボトルの水を一口飲んでから影浦に手渡そうとすると「いらねえ」と低い声で断られた。
 そこからは不機嫌をあらわに黙り込んだ影浦を無視し続けている間に、目的地らしき場所に到着した。

 自分の目でみても現在地がいまいち納得できなかったので、グーグルマップでも確認してみた。そこは間違いなく「温泉」と書かれている。
 目の前にあるのは宴会場でも飲食店でもなく、旅館だった。
 入口は立派な薬医門だ。車から降り、投げられたコートを受け取る。みにまとった瞬間、見た目から想像できない軽さと柔らかさ、それに温かさに慄き、これがカシミアのコートか……と深刻な顔をしてしまった。
「なんだその顔は。サイズは合ってるだろ?」
「ぴったりだ」
 立ち止まった影浦がこちらへ歩いてきて、コートの上から手のひらで肩のラインをなぞった。
「ヒギンズ教授も悪くねえな。原石をみつけて磨いて光らせるのはなかなかの愉悦だ」
 視線は合わなかった。すぐそこにある顔をみることができなかった。喉が渇き、心臓が普段より活発に血液を送った。
 自分から「もう寝ない」と宣言したのに、おれは影浦に欲情していた。それも、以前よりも強く。――手に入らない心まで欲しがってしまうほどに。
「足元に気をつけろ。雪が積もっていて滑りやすいぞ」
 気を付けて歩くことに集中して、気持ちを落ち着けよう。まずは深呼吸だ。試合前によくやっていた、メンタルトレーニングの内容を思い出す。右足を出し、足が雪を踏みしめる感覚に集中する。次は左足。『いま、ここ』に集中することで雑念を消すのだ。
 広い日本庭園を歩いて五分ほど経ったころ、前で影浦が立ち止まった。
「ついたぞ」
 入口には本物の火がくべられ、橙色に燃えていた。古い木造家屋だが、よく手入れされていて趣がある。
「お待ちしておりました、仁さま。もう皆さまお揃いです。さあ、お荷物とお上着を」
 待ち構えていたはつさんが、おれと影浦の上着、それに鞄を預かり、建物の中へと案内してくれる。この人、どこにでも現れるな……。一体何者なんだろうか。忍者の末裔か?
「話がみえない。何の仕事だ」
 長い内縁になっている廊下を歩いていると、前から女性がやってきた。
「仁!ああ、わたしの可愛い仁、元気そうでなにより!」
 豊かな黒髪を腰のあたりまで伸ばした、気が強そうな美人が影浦に抱き着いて頬にキスをした。影浦はよけたり嫌がったりせずに受け入れていて、頭のなかで不穏なリズムでドラムが鳴る。困った――これは嫉妬だ。
「あら、お客様がいたのにごめんなさいね。仁のお友達?」
「姉の礼子だ。こっちは同僚の成田悠生。――姉さんこそ元気そうで何より。智晴兄はもう来てるのかな」
 姉ときいて不穏なリズムは解消された。礼子です、と微笑みながら差し出された右手を、強すぎず、弱すぎずの力で握り返す。
「はじめまして」
「まあ、大きい手。それにとても熱いのね」と礼子さんが歌うように言った。
 智晴さまは少し遅れて来られるそうです、とはつさんが遠慮がちに伝えてきて、影浦は黙って頷く。礼子さんはおれをじっとみつめてから「また哀れな仁の信者かしら。男性はめずらしいわ」と心配そうに首を傾げた。
「信者?」
 影浦が先に歩いていく。礼子さんはおれの隣を歩きながら、憂鬱そうな、小さい声で説明した。
「仁はあのとおり、美しい子でしょう?それにとても賢くて。昔から周囲には仁の機嫌を取って、賛同するだけの取り巻きか、心酔してついて回る信者ばかり。親友も本当の恋人も、ひとりもいなかったわ。ずっと心配していたの。仁は、他人を信用しないから仕方がないのかもしれないわね。あんな家で育てばそうなっても無理はないわ……」
 伏せた睫毛の影がふるえていた。彼女が本当に影浦を心配していることが分かる。何か特別な事情があるのだろうな、ということも想像できたが……、
「影浦。これから何をするのか説明してくれ。いますぐに。それがないなら帰る」
 まずはそれだ。おれはこいつの部下でも下僕でもないので、黙って従う義理はない。
 隣で礼子さんが固まっておれを見上げている。大体みんな、影浦を特別視しすぎているのだと思う。家柄と顔と頭がいい男に「おれに従え」と命令されて、圧倒されていうことをきいてしまう、というのは実に日本人的でありがちな気はするが、そこまで人間は単純なのか。少なくともおれは、苛々する。誰かにコントロールされるなんてまっぴらだ。球種は自分で選びたい。これだから「物静かに見えて我が強い」などと陰口をたたかれるのだろうが。
「お前は、ほんっとに黙っていうことをきく、ってことができねえ野郎だなあ」
「どうもありがとう」
「褒めてねえよ」
 身内の飲み会だ、と影浦はしぶしぶ説明した。
「その手伝いをお前に頼みたいんだ」
「業務外だな」
「業務といえば業務だぞ?叔父が来るからな」
 影浦の叔父。つまり、……弊社の代表取締役社長じゃないか。
「荷が重い。帰りたい。温泉だけ入って帰っていいか」
 隣で礼子さんが吹き出した。
「ごめんなさい。なんだか……仁が振り回されているなんて、はじめて見たものだから。楽しくって」
「おどろくだろう姉さん。こいつはこういうやつなんだよ」
「低い声で淡々と話すのがまた面白いわよね。素敵」
 何が「素敵」だったのかまるで分からないが気に入られたらしい。初対面の人に気に入られる、これは営業マンとしてはしてやったりである。
「この業務が終わったら、いいもの見せてやるよ」
 相変わらずの上から目線にくるりと方向を変えた。
「そうか。帰る」
 舌打ちと笑い声。影浦と礼子さんだ。
「どうしろってんだ、クソ」
「お願いしてくれたら考える」
 長い沈黙があった。おれは笑うのを必死で我慢した。
「………手伝ってくれ、頼む」
 そっと後ろを盗み見る。影浦は苦渋に満ちた顔で、拳を握りしめていたので、なんだかぎゅっと抱きしめてやりたくなった。頼み事ひとつするのにこんなに苦労する、プライド激高男をかわいいと思ってしまうなんて。おれも相当焼きが回っている。

「了解。具体的に何をすれば?」