Right Action

13.

 周平はうすく笑っていたが、その表情から感情を読み取ることは難しかった。
「五百万、悠くんが肩代わりしてくれたんだってね。ありがとう」
 ベンチに座っているおれと、立ったまま見下ろしてくる周平は、しばらくの間黙って視線を交わした。
 くたびれたパーカーに穴のあいたジーンズ、色あせた黒のダウンコートを着ている周平は、かつての面影がまったくない。ひどく痩せていて、髪はぼさぼさに絡まり合っており、無精ひげがのびていた。
「お前いままで、どこで何をしていたんだ」
 恫喝するような声が出てしまった。すぐに後悔して黙り込む。
 冷たい風が吹いて、周平のコートを揺らし、通り過ぎていく。上着は持ってきたが、企業ブースの中に置いてきてしまった。スーツのジャケットだけでは寒い。
「そうやってすぐ黙る。変わらないね」
 ぽつりと言ってから、周平がベンチに座る。ひと一人分ほどのスペースを開けた隣に座った周平は、少し枯れた、丘の芝生を眺めていた。
「あちこち転々としてたよ。友達なんかとっくにいなくなったから、主に都会のネットカフェとかね。仕事は何やっても続かないし……、おれは野球しかできないからさ、悠くんと違って」
 嫌味のわりには攻撃力の低い言い方だった。おれは黙って周平の横顔を眺めた。本当に、これがあの周平だろうか?誰にでも好かれた、輝いていた、あこがれてやまなかった義弟なのか。
「インターネットしてたら、偶然みつけたんだ、悠くんがこのイベントに出てるの。ミスター鳳凰なんかバカみたい。でも楽しそうで、いいなあ。悠くんは昔からそうだよね。おれを野球から逃げられなくしたのは悠くんなのに、自分はあっさりやめて勉強しだして、いい大学入っちゃうし。いまだって大手メーカー営業職だしさ。小賢しいっていうか、抜け目ないよね」
 やっぱり、と落胆した。
 あの書き込みは、周平なんだろう。理由は憎んでいるから。おれが成功することが許せないから。
 冷えた指先から感覚がなくなっていく。隣に座っている周平は、落ち着いた声で言った。
「悠くん。おれ多分、一生許せないと思う」
 ――ああ、もう戻れないんだ、と目の前が暗くなる。キャッチボールをした夕暮れにも、ふたりで毛布にくるまってゲームをした台風の夜にも。
 この結果を招いたのは自分なのに、息がうまくできなくなるほど悲しかった。
「だって楽だから。悠くんはひどい人間で、おれの人生を台無しにしたんだって思ってるほうが楽だから。そうしてる限りおれは何もできない、前にすすめないただのクズだってわかってるのに、今はもうそれしかないんだ。悠くんの人生の汚点になって、幽霊みたいに付きまとって不幸をまき散らすしか存在意義がみつけられない」
 どうしてあんなことしたの、と周平が言った。
「家を出ていく前も教えてくれなかったよね。どうして奈乃香だったの。いつからふたりはそうなってたの?教えてくれたって苦しいだけだし、十年前のことなんか今更どうにもならないよ。分かってる。でも同じことをずっと考えてしまうんだ。あのときまで――確かにおれは幸せだった。甲子園で完封してから、野球で生きていこうって決めてた。それなのに……どうして?悠くんはおれのことが嫌いだったの」
 苦しみに満ちた声。顔を上げると、立ち上がった周平が目の前に立っていた。
「――ちがう、そうじゃない」
 周平の顔がゆがんだ。笑いだしそうな顔だった。
「なにが違うんだよ。ふたりで産婦人科から出てくるところ見られて、地元で噂になったよね。問い詰めたら奈乃香は子どもをおろしたって言った。ねえ、いまさら言い訳なんていいから、本当のこと教えてよ!」
 手がのびてきて、おれのシャツを掴んで立たせた。間近で見る周平の眼は、すっかりすさんで倦んでいて、心がすくんだ。
 息を吸おうとくちびるをひらいても、ひゅうひゅう音がなるだけで、うまく声にならない。つめたい空気が喉や顔を冷やして、全身が固まっていく。このまま何もいわずに全身が石になれたら、と望んだけど、そんなことできるわけがなかった。
「――悠生の子どもじゃない!」
 大声に、おれと周平は驚いてそちらを見た。丘を駆け上ってきたのは、久しぶりに会った奈乃香だった。その隣で、影浦がポケットに手を突っ込んで立っている。
「あのときおろしたのは、悠生の子どもじゃない」
 ああ、知られてしまった。これでおれの罪はもう隠せない。
「……なんだって?」
 手がゆるんで、おれは咳込んでベンチに座り込む。近くに来た影浦が、どこで買ってきたのか紙コップに入ったホットコーヒーを手渡してきたので、ありがたく受け取って半分ほど飲んだ。凍り付きそうだった身体が溶けていく。
「周くん、あなたの子どもだったんだよ。悠生は、ついてきてくれただけ」
 憎むならわたしを憎んで、と奈乃香が勇ましい顔で言った。
 付き合っていたときは長かった奈乃香の髪が、肩の上できれいに切りそろえられて風に揺れていた。

 ――頼まれたの。周くんの父親から。

 そう切り出した奈乃香は、もう何もかも話すことに決めたみたいだった。止めることをあきらめ、おれはベンチに座ったまま成り行きを見守った。
 影浦がこちらに歩いてきて、隣でタバコに火を点け、美味そうに煙を吐き出した。柔らかい髪を指で耳にかける仕草をみつめていると、おれの視線に気づいたのかこちらを見下ろしてきてすっと目を細めた。
 あのときあったこと。
 およそ十年前のことだ。思い出そうとすると、いつも出てくる風景がある。
 雪の積もった玄関でしゃがんで周平を待っている奈乃香と、一度は放置して家の中に入ったものの、気になって家の中に招き入れた、あの日のおれの姿だった。

****

「周平は今日遅いとおもう」
 奈乃香はけなげに笑ってから、肩をすくめた。
「うん、知ってる。周くん人気ものだから。ここで待ってていいですか?周くんのお兄さん」
 その日は雪が降っていた。神奈川県はほとんど雪が降らないのでよく覚えている。朝、周平は嬉しそうに雪を踏みしめていた。
 家の前で周平を待っていた奈乃香の横を通りすぎて、家の中に入る。母親は毎日帰りが遅くて、父は編集者との打ち合わせとやらで家にいなかった。さすがに周平がいないときに奈乃香を家にあげるのはためらわれた。誤解をされてもかなわない。
 リビングのテレビボードの下をあさってホッカイロを探しながら、ふと思った。さすがに今日は寒すぎて、こんなもので暖をとれるとは思えない。周平はおそらくいつものように友人の家をはしごして楽しんでいるのだろうし、帰りが何時になるか分からない。
 家から出て、肩につもった雪を振り払っていた奈乃香に声をかけた。
「もし嫌じゃなかったら、家の中で待っていればいい」
 おれの声に、奈乃香は大きな目をはっとみはって、それから眉を下げて笑った。
「ありがとう。周くんからきいてたとおり、やさしいんだね」
 そういって、てぶくろをした手でおなかを撫でる。うつむいた顔の表情はよくわからなかったけれど、ぽつりと雪の上に雫がおちて、奈乃香が泣いていることに気づいた。
「……もう、どうしたらいいのかわかんないよ。――助けて」
 顔を上げた奈乃香は、顔がずぶぬれになるほど泣いていた。
「妊娠してる。周くんの子なの。どうしよう、どうしよう」
 慌てて家の中に招き入れて、暖房を強めにきかせた。寝室から毛布をとってきてかぶらせ、リビングのソファに座らせる。
 頭がガンガンした。
 周平が、彼女を、妊娠させた?プロ野球選手になるはずの周平が、高校二年にしてすでにスカウトが複数家にきている周平が、おれと父さんの夢と希望を一心に背負った周平が。高校生で女をはらませたなんて、とんでもないスキャンダルだ。球界入りどころじゃない。
 真っ青になったおれの表情をどうとらえたのか、奈乃香は震えながらぎゅっと自分自身を抱きしめた。
「親には絶対言えない。……許してくれないもん、殺されちゃうかもしれない」
 奈乃香の両親はともに大学教授で、子どものころから厳格に育てられてきたのだという。周平と付き合うこともいまだに反対されているらしい。
「周くんにいうのも怖い。だって周くんは……」
 言わなくても分かった。周平は、一途な人間とは言い難かった。誘われればどこにでも顔を出したし、奈乃香以外にも寝ている女は複数いるみたいだった。
 周平から女の気配を感じるたびに、おれは嫉妬と怒りに苦しんだ。女にうまれていたら、たとえ遊びでも周平と寝ることができたのに、と考え、汚れた自分の考えを嫌悪した。最低だと思った。自分を慕ってくれている弟を、そういう目でみているなんて。
「あいつふらふらしてるし、子どもっぽいからな。気持ちは…わかる」
 声がかすれた。奈乃香はソファの上で俯いて涙をこぼし続けた。
「周くん、野球選手になるんだよね。子どもなんかできたって知れたら……それどころじゃなくなっちゃうよね。わたしだって自信ない。無理だよ」
 泣きじゃくる奈乃香にアドバイスできるほど大人じゃなかった。せいぜいタオルをもってきて、涙をぬぐうよう手渡すことぐらいしかできない。
「おれは何も言えない。……もうじき父さんが帰ってくるから、三人で相談しよう」
 そうしてふたりで継父の帰りを待ち、打ち明けた奈乃香に、彼は言ったのだ。
「悠生くん……一生のお願いだ。こんなのはひどい頼み事だって、分かっているけれど。周平のかわりに、病院について行ってやってくれないか?」
 継父は泣き出しそうな顔で、声を震わせながら頼み込んできた。
「周平は、いまが大事な時期なんだ。もしもこんなことが公になれば、あいつは致命傷を負うことになる。頼む、悠生くん」
 ダイニングテーブルに向かい合って座っている継父は、いつもよりもさらに他人に見えた。全員が青白い顔をして、小さい声で囁くように話していた。
「そんな、周平の子どもなのに、何も知らせずに……、できない」
 おれの反論に、継父はため息をつく。奈乃香はおれと彼を交互に見て、俯いていた。
「だってなっちゃんだって、産みたくないんだろう?どうやって育てる、無理だよそんな。まだ学生なのに。そうだろ?」
 堕ろすなら早いほうがいい。そう言った継父は、冷たい顔でおれを見つめた。
「周平のためなんだ」
 継父からは見えないように、膝の上で手のひらをぎゅっと握りしめた奈乃香の指を、そっと握った。痛いほどの怒りと悲しみが伝わってくる。
 それなのにおれは頷いた。後になって何度このときの夢をみても、答えは同じだった。『YES』。周平が野球選手にならないなんて、想像できなかった。おれの想いや奈乃香の傷などどうでもいい。それだけはどうしてもあってはならないことだった。
 ――本当に?
 手術室から出てきた奈乃香の声が、まだ頭に残っている。意識を取り戻したベッドの上で、彼女は泣きながらそう言った。
 ――本当に、これが周くんのためになるの?
 奈乃香の冷たい指。冷たくて細くてやわらかくて、どれほど強く握りしめてもおれの体温は移らなかった。
「ごめん、許してくれなんていわない。……おれのことを憎んでくれ」
 憎むなんて言葉で収まることじゃなかった。おれはたぶん、心のどころかでこれが周平に知られてしまうことを知っていた。隠し通すことなんてできないだろうと。
 病院から出たところを同級生に見られていたのがその日のことで、翌日には奈乃香の子どもをおろさせた、弟の彼女を寝取った兄、という設定で噂になっていた。進学校だったから、こんなうわさがでること自体がめずらしく、あっという間に地元にも広がった。母は怒り狂い、事実関係を確認することなくおれをクズだと、最低だと罵った。こんな人間に育てた覚えはないと毎日責められたのに、継父は決して真実を口にしようとしなかった。この人は周平の親で、母親を愛しているが、おれは所詮他人なのだ。
 周平は怒り狂っておれを殴り、家の中は物理的にも関係的にもめちゃくちゃになった。
「弟の女を寝取るなんて、お前なんか家族じゃない。最低のクズだ、おれの前から消えてくれ」
 おれは、大学を機に街を出た。住んでいた街が高級住宅地だったことと、奈乃香の親が「訴訟を起こす」と騒いだことで、住んでいられなくなった。最終的には弁護士を挟んで示談になったらしいが、詳しいことは知らされなかった。
 周平は、奈乃香と別れた。その後球界入りと同時に寮に入って家を出ていった。
 それから実家にはほとんど帰っていない。
 奈乃香と再会したのは、就職してしばらく経ったころだった。羽田空港で鹿児島行きの飛行機をまっていると、カートを引いたCAの奈乃香に声をかけられたのだ。それをきっかけに付き合い始め、数年付き合って、結局別れた。

****

 おれと奈乃香の話を聞き終えた周平は、うそだ、と絞り出すような声で言った。
「うそだ。なんでだよ。そんなことする意味ないだろう、嘘つくな!……おれの子どもだったなんて、そんな……、嘘をつくなよッ」
 おれにつかみかかろうとした周平の腕を、影浦が止めた。肩を押し、近づくなと低い声で恫喝する。
「嘘だと思うなら、家に帰ってお父さんにきいてみればいい」
 静かな声で奈乃香が言った。まだ継父に対して怒っているのだ。無理もない。
「だってそんなのおかしいでしょ、悠くんが黙ってる意味がわかんないよ。言うでしょ?!なんで言わなかったの、そこまでして、おれに野球選手になってほしかった?」
 ずっと黙ってきいていた影浦が、低い、あざけるような声で言った。
「野球選手だ?自暴自棄になってろくなトレーニングもせず遊び惚け、肩こわして一年で首になった投手が、偉そうに。てめえなんか選手のうちに入るか、甘ったれのクソが」
 美しい顔に笑みを浮かべている影浦は、これまで見たことがないほど凄みがあった。絶句した周平は、視線をふらつかせてからおれを睨んだ。
「ねえ、なんで。本当にわからないんだ。どうして、悠くんは……、違うって言わなかったの。いまだに同級生には会えないんでしょ?それぐらい噂になっちゃったから。そんなのふつう、言うよね?どうして、……お金だって。いままで何度も借りては踏み倒したのに何も言わなかった。五百万だよ?ふつうの金額じゃない。そこまでした理由はなんなの?血もつながってないのに……ッ、答えてよ!!」
 黙って立ち上がると、周平はおびえたように一歩後ろにさがった。正面から目を見据え、息を吸った。
「おれがクズなのは事実だ。お前に何も言わずにいろと言われて、従った。周平には知る権利があったのに言わなかった。間違いなくおれの罪だ」
 いつのまにか隣に奈乃香がやってきて、おれの左手を握った。あのとき悠生もこうしてくれたでしょ、と囁かれ、心強い気持ちでいっぱいになる。
「あとは……、」
 後ろにいる影浦の表情が気になる。どんな顔をしているんだろう。怒っているのか、呆れているのか、それともどちらでもないいつもの無表情だろうか。
「好きだったんだ」
「――え、」
 自分の声が落ち着いていることに安堵した。みっともなく震えたり動揺したりすることなく、言えた。
「周平のことが好きだった。特別な意味で」
 後ろで何かが落ちる音がした。振り返ると、影浦がライターを落としたらしく、身を屈めて拾っていた。知っているはずなのに、どうして驚いたんだろう?それとも偶然だろうか。
 周平はおどろいた表情のまましばらく固まっていた。
「うわ、……はは、うそでしょ」
 上ずった声でそう言い、奈乃香を見る。彼女は何もいわずに周平をみつめた。沈黙が重く痛くのしかかってくる。長い間、誰も何も言わなかった。
 周平は口元をおさえ、半笑いを浮かべた。
「きもちわるい」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「気持ち悪いって言ったんだよ。気持ち悪い、そんなやつと長い間一緒に暮らしてたなんて、気持ち悪い!」
 傷つく暇がなかったのは、その言葉が染み渡る前に影浦が周平にとびかかったからだ。一瞬だった。呆然としている間に、影浦は馬乗りになって周平を殴った。
「影浦、なにをするんだ、やめろ!」
 止めようとするおれを振り払い、奈乃香の悲鳴などまったく意に介さず、影浦は拳で、容赦なく周平を殴った。襟をつかんで右頬を殴り、抵抗しようとした周平の髪をつかんで地面にたたきつけ、左頬も殴った。あまりに突然のことだったからか、周平は殴られるがままだった。まるでサンドバッグみたいに、鈍い音を立てながら殴られていた。
 鼻血が吹き出し、眼の横が切れて、周平の顔が血まみれになる。腕をつかんで引き離そうとしても、後ろから羽交い絞めにしても振り払われ、まるで敵機にロックオンしたヘルファイアみたいに、執拗に周平にのしかかって殴り続けた。
 奈乃香は恐怖と驚きで芝生の上にへたりこんでいた。おれは影浦を止めようとしては突き飛ばされ、振り払われ、最後には周平と影浦の間に飛び込んで殴られる羽目になった。食らったのはたった一撃だったのに、気を失いそうになるほど痛かった。
「周平が死んでしまう」
 意識を失ってぐったりしている周平をかばうように両手を広げて覆いかぶさる。影浦は冷静な声で「どけ。こんなやつ死んだほうがいい」とつぶやき、おれをおしのけようとした。
「お前を犯罪者にしたくない。頼むからもう、やめてくれ」
「うるせえ。そのドクズ殺してやるからそこをどけ、それとも、お前も一緒に死にたいのか」
 色素の薄い眼が爛々と光っているさまをみて、おれは、こんなときなのに美しいと思ってしまった。
 影浦はうつくしい。いつも強くてまっすぐで、決して折れない。
 こんな人間になりたかった。傷ついたことがない男。うらやましい。おれはバカで不器用で言葉しらずだから、いつも全身傷だらけだ。失敗しては、人を傷つけて自分も傷ついている。
 多分鼻血ぐらいは出ているだろう。祝日といえども、厳密にいえば勤務時間中なのに。
一体何をやってるんだろう。弟に告白して、気持ち悪いといってフラれ、影浦が殴りかかって、おれも殴られた。客観的にみれば滑稽極まりないのに、胸の奥が泣きそうになるほどあたたかかった。
「怒ってくれてありがとう」
 正面から、影浦を抱きしめる。膝立ちのまま、さらに周平を殴ろうとする影浦を、抱きしめて止めた。
 実際には、しがみつく、が近かったけれど、ようやく影浦は拳をおろした。
「嬉しかった」
 もっとたくさん言葉をもっていたらよかったのに。
 どうしていつも、こんなにどうしようもない、バカみたいな言葉しか出てこないんだろう。今胸の中に渦巻いている熱くて優しい複雑怪奇きわまりない不思議な気持ちを、うまく表現する言葉がほしい。
 影浦は膝立ちのまま両腕をだらりと垂らした。
 抱きついているおれを、奈乃香が不思議そうに見ていた。

 気を失っている周平は、かけつけてきたはつさんと毅然とした紳士、その手下のような男たちによって回収されていった。紳士がてきぱきと指示を出し、はつさんは応急処置をした。
「仁さま。あまりご当主に心労をかけないでいただきたいものです。近々お顔をみせにいらしてください、必ずです。それを約束してくださるならこの件、内密に処理いたします」
 袖をまくり、右手の拳にできた傷にハンカチをまいた姿で、影浦は舌打ちをした。
「本家に顔出せばいいんだろ。わかったから消えろ。でもメシは食わねえぜ、あの家でメシくってもまずいだけだからな。いつ毒殺されるかわかったもんじゃねえし」
 さっと顔を曇らせた紳士が、声をひそめて叱責した。
「そのようなこと、冗談でもおっしゃらないでください」
「とぼけるなよ。寺阪は知ってんだろ、母がおれに寄り付かない理由も、父や兄貴がおれを忌み嫌ってる理由も、全部」
 自嘲するように言った影浦に、紳士が声をかぶせる。
「なんのことか、まったくわかりません。お嬢様も駅までお送りいたします、後ろの座席へどうぞ。ああ、さきほどの男性なら鎮静剤を打ちましたから、暴れる心配はありませんよ」
 きょとんとしている奈乃香の背中に手を当て、乗るように促す。
「信頼できる人たちだから、甘えるといい。……今日は来てくれてありがとう。次は一緒に、美味い物でも食おう。なんでも奢るよ」
 車にのりこもうとしていた奈乃香が振り返り、にっと笑った。久しぶりに見た奈乃香の笑顔だった。
「じゃあ、うんと高いやつお願いしちゃおっかな。またね」
「では、仁さま。約束を忘れないでくださいね。……車を出しなさい」 
 寺阪と呼ばれた男が、運転席にいる、黒づくめの男に指示を出す。
 黒のハイエースが周平と奈乃香をのせて消えて行く。まるで誘拐みたいだ、とひとりごちると、はつさんが「まあ人聞きのわるい。けれど確かに、映画などではよく見かけますものね」といって、クスクスわらった。
 その声ではじめて、身体の力が抜けていく。長い一日だった。
 つられておれも微笑むと、影浦がおれの顔をのぞきこんで、しかたがないなというように、笑った。

 おれはミスター鳳凰になれなかったし、営業活動はほとんど終わらせていたので、その日はイベント終了と同時に帰ることができた。影浦は「体調が悪い」と理由をつけて打ち上げを断り、はつさんの運転で影浦の家に行った。彼女が「成田さまも殴られてケガをされておいでです!仁さまのおうちできちんと手当をさせてくださいませ!」といって譲らなかったのだが、正直この申し出はとてもありがたかった――影浦ともう少し話がしたいと思っていたから。
 あいかわらず自分の生活が虚しくなるほど豪華なマンションの一室に足を踏み入れると、はつさんはおれたち二人をソファに座らせ、救急箱を手にきりきりまいだった。影浦の手に巻いたおれのハンカチを取り、「まあ、なんて痛ましい!仁さまの美しい手が……なんということでしょう」と嘆き目を潤ませ、おれの頬のあざをアイスノンで冷やすよう指示をして「成田さまの精悍なお顔が……ひどいことがあったものです」とため息をつく。まったく忙しい人だ。しゃべりながらも全く手がとまらない有能さが面白くて、おれは少し笑いながら彼女と、憮然としている影浦をみていた。
「成田さま、こちらが消毒液になります。ガーゼと包帯はこちらに…、あとお任せしてもよろしいでしょうか」
「えっ」
 驚いたおれに、立ち上がったはつさんが両手でガッツポーズをしてみせた。なんだこれは――応援されている?
「それでは、邪魔者は失礼いたします」
「おい」
 影浦が不機嫌そうな声を出したのにも構わず、はつさんは礼儀正しく頭を下げ、廊下へと出ていく。その後ろ姿を見送ってから、隣の影浦に声をかけた。
「じゃあ、おれで悪いけど手当てさせてくれ」
 手をとり、脱脂綿で丁寧に消毒していく。痛え、もっと優しくしろ、と文句を言われながらも、周平の歯でついたらしい拳の傷を消毒し、ガーゼを貼って、包帯を巻いた。
「意外と手慣れてんな」
「まあ、周平がケガしたのをよく手当てしてたからな」
 周平の名前が出た途端険悪になった空気に、しくじった、と思った。今あいつの名前なんか出す必要はなかったのに。このケガの原因は、周平だというのに。
「影浦は……意外と気が短くてけんかっ早いんだな」
 警察沙汰になったら、お前が負けるぞ。おれがそういうと、影浦はへっ、と小馬鹿にしたように笑った。警察の上には山ほど知り合いがいるんでね。あいつらは上から言えばどんなことだってまかり通る世界だ、とうそぶく影浦に、そいつは羨ましい、と平坦な声で返事をした。
「大体、あのクズが被害届なんか出せるかよ。おれは五百万はらってやった恩人だぜ。そんなことになればあいつこそブタ箱よりも怖いヤクザのお兄さんに突き出されちまうんだからな」
 そこまで計算していたとは、さすが影浦、ゆるぎない性格の悪さと計算高さだ。
「それもそうだな。はは、あのときの周平の顔。思いだすと少し……笑える」
 影浦が殴りかかった時、よほど驚いたのか「なんで」の「で」の口のまま吹っ飛ばされていたのが脳裏に焼き付いていた。そうだよな、どうしてこいつに殴られなきゃいけないんだよ、って思うよな。おれだって思う。どうして影浦があんなに――。
「なあ」
「なんだ」
 包帯を巻き終え、座ったままとなりの影浦を見た。左手でほうたいを何度か撫でてから、影浦がこちらをみる。その顔は少し疲れていた。無理もない。影浦財閥のご令息ともあろうものが、とびかかって人をボコボコに殴る大立ち回りをしたのだ。
「どうしてあのとき、怒ってくれたんだ」
 眉をひそめ、眼をそらされる。睫毛が長いな、とおもいながらおれは続けた。
「おれなんかのために」
 いきおいよく振り返った影浦が、「お前のためじゃねえ」と吐き捨てたけれど、その頬は少し赤くなっていて、あまり説得力がなかった。
「分からない。ただ腹が立ったんだ。怒りで目の前が真っ赤になるなんてこと、はじめてだ……それも、他人のことでなんて」
 顔が熱い。変な声を出してしまいそうだった。
 かわいい、という言葉が浮かんできて、慌てて否定する。
 相手はあの影浦だぞ。可愛いなんて言葉とは最もかけ離れた、日本とブラジルぐらい距離がある、影浦だというのに。
「殴りたいと思ったから殴った。後悔はしていない」
 鼻をならし、ソファに座ったまま胸をそらしてそう言った影浦がおかしくて、とうとうおれは声をあげて笑った。
「ニュースに出てくる犯人じゃないんだから、お前…」
 手のひらで顔をかくして笑っていると、影浦が腕をつかんできた。人前でこんなに笑うのははじめてかもしれない。どうしてもこらえきれなくて笑い続けていると、苦りきった声が言った。
「成田」
 視線を上げる。
 すぐそこに影浦の顔があって、あ、と声を出す前に、唇が重なった。
「もっと笑え」
 唇を甘噛みされて身をよじる。キスをし返すと、腕が背中にまわって強く抱き寄せられた。
 おまえこそ、おれの前で愛想のいい笑みなんてみせないだろ――そう言おうとして、やめた。おれをソファに押し倒し、真上で見下ろしながら、影浦も破顔した。

 それは間違いなく、今まで見た中で一番素直で無邪気な、可愛い笑顔だった。