Right Action

12.

 ビアフェスタの当日、会場となった公園は朝早くからにぎわっていた。
「楽しみだねー!クラフトビール、たくさん出店してるみたいだよ」
「そうなんだ。わたしはミスター鳳凰が何気に楽しみかな」
 故郷に近いイントネーションがちらほらきこえてくるから、ここが和歌山県だということを忘れそうになる。
 ビールチケットが一緒になっている前売り券の売り上げは上々で、航空会社の協賛を得られたおかげで他県、それも関東からの観光客が、例年になく流れてきているようだ。
 広場の中央に見えるイベントステージでは、ジャズバンドの演奏や、バンドの演奏、ミスター鳳凰の結果発表などが行われる予定だった。今日は見事な秋晴れで、入場者数はかなりの数が見込まれる。
 秋らしい薄雲を刷いたような空を見上げ、眼を細めた。夏が終わると淋しい。秋や冬は苦手だ。
「成田先輩、自信あります?」
 話しかけてきたのは羽田だった。ミスター鳳凰の発表は開場後すぐなので、おれたちは普段のようなイベントの手伝いが主ではなく、広報と一緒に舞台袖でスタンバイしている。アイドルでも俳優でもないのに、不思議な気持ちだ。気が進まないことこの上ない。
「最下位でいいから早く終わってほしい」
 率直な感想に羽田が笑った。
 だがこのイベントのおかげで、ビアフェスタは周知され集客力が上がったのだから、結果的に影浦の仕掛けは成功している。
「羽田先輩には負けたくないなあ、僕は」
 千歳がネクタイをゆるめながら言った。ふ、と息を吐くように笑うと、羽田が「見てろよ、最後の追い上げでぶっちぎってやっからな」と鼻息荒く言って、おれと千歳を指さした。
 中間発表以降の順位は、おれたちにも伏せられている。どちらにせよさして興味もないし、知りたいという気持ちはないのだが――
「昨日、課長と影浦先輩が公式アカウントがどうとかってひそひそ話し込んでたの、なんだったんでしょうね」
「分からない。おれはSNSを見ないから……」
「おれもなんすよね。千歳は?知ってるか?」
 用意された簡易テントに置かれた丸椅子は硬くて小さくて、とても褒められた座り心地ではなかった。温かい飲み物やストーブが用意されていたので、寒くはなかったが。
広報が用意してくれた毛布やひざ掛けをスラックスの上にのせたまま、おれと羽田は千歳を見た。彼は眉を寄せ、「知らないんですか?」と声をひそめて言った。
「なんなんだ。教えてくれ」
 問いかけても、千歳は顔を曇らせたまま首を振り、何も言わない。
 焦れた羽田が「じゃあ今から確認してみっか」と携帯を手に取ると、急に大きい声で「やめろって」と叫んだ。
 千歳らしくない様子に、おれと羽田は目を見合わせた。
「あんな書き込み……いい気分になるもんじゃないし、たぶんもう削除されてますから。やめましょうこの話」
 千歳が必死な様子でおれを見て言ったので、ピンときた。何か、誹謗中傷の類だ。それもおそらく――
「何か、書かれてたのか。おれのこと」
 ここのところ、あのことを隠し続けることが辛くなっていた。こんな風に顔や名前を表に出せば、いつかこうなると予感していた。その日が来ただけのことだ。
「千歳」
「……もう消えてますよ。ブロックしたって言ってましたから」
 おれと千歳を交互にみていた羽田が、首を傾げて眉を寄せた。
「何の話してるんですか、ふたりとも」
 音楽が聞こえて、舞台袖に影浦と広報の課長がやってきた。彼らは落ち着いた顔で、おれたちを見た。
「直前に申し訳ありませんが、打ち合わせとは少し発表方法を変更させてもらうことになりました。三人とも舞台に上がってもらって、ミスター鳳凰の発表、という予定でしたが、いまここで内示します。舞台に上がるのは一位になった営業さんだけにさせていただきます」
 細面の、神経質そうな広報課長の隣で、影浦は羽田、千歳と視線をうつし、最後におれを見た。千歳と寝た翌日以降、ずっと多忙を極めていたので、至近距離で目が合ったのはあれ以来のことだったが、その視線は射るように強く、憎しみとも怒りともつかない、強い感情が宿っていた。
「投票の結果――一位は、鳳凰初絞りの、羽田君に決定した」
 おれは視線をそらさなかった。影浦の眼を見返し……いや、『猛禽のような』といわれる目で、睨み返した。自分が一位ではないことにほっとしていることを、この男にだけは見抜かれたくない。ことさらにいつも通りの顔で、視線だけで影浦を射返した。
 何分ぐらいそうしていただろうか。その間に、発表の方法や手順が羽田に説明されていくが、おれが先に影浦から目をそらした。
 喜んでいる羽田と、あからさまに自分じゃなくてよかったという顔をしている千歳を確認してから、「おめでとう」と素直な言葉を送った。羽田は嬉しそうに「やってやったぜー!」と手をあげて笑った。
「羽田くんには、男性票、女性票ともにバランスよく集まっていました。千歳くんと成田君はほぼ同数でしたが、二位が成田くん、三位が千歳くんでしたよ。千歳くんは女性票が多くて、出だしは良かったんですが後半失速しましたね。成田くんは、やはり鳳凰ラガーということもあって男性人気が高かったです。投票締め切り間近にバタバタと得票したみたいです」
 広報課長はさらさらとよどみなく説明し、最後に羽田に「名前を呼ばれたら、舞台に上がってきてください」と言ってその場を去った。影浦は何も言わず、振り返りもせずそのあとについていく。おれは俯き、両手のひらを強く握った。多分、影浦にあのことを知られてしまった。もしかすると、軽蔑されたかもしれない。
 いや、そんなことは今更どうでもいい。影浦相手に、軽蔑も羞恥も今更だ。もっととんでもないことを、あいつとは共有した。
 発表が終わったら、さっそく料飲店ブースを周って営業をかけよう。今日はクラフトビールのブリュワリーもたくさん来ている。それにユウヒビールの取引先も。
 奪われてしまった和歌山県のシェアを取り戻す、いいチャンスだ。おれは仕事をするためにここにきたのであって、おれ自身が誰にどう思われようが、どうでもいい。
 頭に叩き込んだ「本日の営業先」をリストにして順番を思い描きながら、ミスター鳳凰の発表が終わるのを、じっと待った。

 嬉しそうな羽田や記念撮影を放ったらかして、おれは人混みをすり抜けながら料飲店を回った。まずは取引先に挨拶を済ませ、そのあと、今日の目的である未契約の料飲店のブースを周って名刺を配った。
「おやおや、これはこれは。都落ちの成田さんじゃあないですか」
 県内ではユウヒビールの一番の取引先といっていい大手居酒屋チェーンのブースで話し込んでいると、後ろから厭味ったらしい、聞きなれた声がして振り返る。
「……都落ちだなんて和歌山の方に失礼ですよ、ユウヒビール元新宿支店、営業部の黒瀬さん」
 いつも通り話したつもりだったが、思いのほか低い声が出た。黒瀬は、以前東京で営業をやっていたころ、しょっちゅう客を奪い合ったライバルのうちの一人だ。驚くべきことに今年の九月、あとを追うようにユウヒビール和歌山支店に移動してきた。
 黒瀬は相変わらずだった。過剰なほど整髪料を塗りたくったオールバックの黒髪も、いささか低い身長を気にしているかのような、肩で風を切って偉そうに歩くさまも。
 奴は、革靴を前に突き出すこいつ独特のスタイルでこちらに歩いてきて言った。
「オーナー、その男と話さない方がいいですよ。そいつは――イテェ!!」
 何かろくでもない事をいいかけたらしい黒瀬を黙らせたのは、どこからともなく飛んできた、四角く細いライターだった。黒瀬の頭に当たってこちらに飛んできたデュポンのライターをキャッチすると、数メートル先で影浦が薄く笑ってこう言った。
「悪いな。手が滑った」
 そのまま悠然とこちらに歩いてきた影浦は、おれに視線をくれることなくオーナーに話しかけた。内容は、その居酒屋チェーンで今月から始まった新しいメニューのことと、それに合う飲み物の話だった。
 女性オーナーは、おれや黒瀬とあいさつしたときよりもワントーン高い声で、両指を胸のところで組みながら影浦と盛り上がった。
「今日は地鶏のメニューを出されているのですね」
 おれたちが話しているのはブースの後ろ、飲食店の関係者が出入りするバックヤードのような場所だ。彼女は店をアルバイトに任せておれたちの相手をしてくれていた。
「ええ。和歌山の梅干しを乾燥させて刻んだものを食べて育っているので、お肉がとてもやわらかくて美味しいんです」
「へえ、あとでひとつ、いただいて帰ろう。今日は何かお困りのことや、お手伝いすることはございませんか?なにせユウヒビールの黒瀬さんは、来るのが遅い上に無礼な人だから」
 なんだと、と叫んでとびかかろうとする黒瀬を羽交い絞めにして手のひらで口を閉じる。
「そうなんですよね、黒瀬さんはお願いがあってもレスポンスが遅くて」
「ユウヒビールさん、あんなに普段熱心な営業スタイルをとられているのに。意外ですね」
「契約をとるまでは熱心でしたね。そのあとは全然です」
 穏やかな笑みを浮かべたまま、自社製品を推すでもなく、何かを渡すでもなくオーナーの話を引き出し、要望やユウヒビールに対する不満を見事に聞き出したところで、影浦がさりげなく名刺を手渡す。
「失くされたとお聞きしたので。もしよろしければ、もう一度お受け取りいただけますか?」
 箔押しされた、あの美しい名刺だ。長い指で、優美に腰を折って差し出されたそれを、まるで王子様に手渡された舞踏会への招待状であるかのような眼でみつめてから、女性が受け取る。
「以前はウチも、鳳凰ビールさんにお世話になっていたんですよ。ユウヒビールで発売されたウルトラドライと、そちらのラガーが味変えちゃったことが重なって、変えちゃったんですけど」
「ええ。確かに味は変わりましたが、実は来年の四月、以前の味に近い、しかも以前よりも美味しいビールに品質改良する予定です。良ければ一度、お試しいただけませんか」
 聞いたことのない情報に目を丸くしたおれの横で、ユウヒビールの黒瀬が「影浦!こっちの客に声かけんじゃねえ、ルール違反だろうが!」と叫んだ。このままじゃもめごとを見せることになってしまう。
「オーナー、お忙しいところ、お時間をいただきましてありがとうございました」
 おれはふたりのやり取りのあいだに割って入って頭を下げた。彼女はちらりとブースの繁忙状況を確認した後で、にっこり笑った。
「いえいえ。影浦さんはよくお声掛けくださって、何も契約できないのにすごく丁寧で……お話できるだけで嬉しいんです。味、変わったら声かけてくださいね」
 忙しいオーナーの元から離れて、影浦と黒瀬の腕を引っ張る。簡易トイレの裏にある、イベント関係者用の休憩スペースに入った途端、影浦は黒瀬を睨みつけて言った。
「何がルール違反だ。メディア使ってこっちの悪い情報を流したのはてめえらユウヒビールだろうが。熱心なんて言葉があきれる、ストーカーみたいにしつこく付きまとって販路を先に横取りしたのもそっちだろ。ポッと出の成金ビール会社が、調子こいてんじゃねえ。炭酸で頭くるってんじゃねえのか。いや、狂ってんのは舌もか。あんな味でウチとやり合えると思ってんなら大間違いだ。味覚がくるってる罪で今すぐ死ね」
 明らかに火がついた黒瀬の顔をみて、おれはため息をついた。わざと怒らせようとしている。
「なんだと!?影浦てめえ、言わせておけば!」
 黒瀬が影浦の胸倉を掴んだところで、光が差しこんだ。間髪入れずにその情報を提供してやる。
「あ、ユウヒビール和歌山支店の支店長」
 本当のことだった。どうやら彼もこの絶好のビジネスチャンスに顔を出しているらしい。誰かと談笑しながら、休憩スペースの中に入ってきた。
「やべ!くそ、覚えてろ」
 掴んだ胸を突き飛ばしてから、まさに遁走と言った様子で、黒瀬が走って逃げて行った。
「あの手の捨て台詞を現実世界で言うやつがいるなんて驚きだな」
 呆れが混じった声に、影浦が振り向く。至近距離でこいつの顔をみるのはいつぶりだろうか。相変わらず、鼓動が落ち着きをなくすほど整った顔だ。目にかかる柔らかいダークブラウンの髪は、いつみても丁寧にブローされている。
 その下にある色素の薄い眼が、忘年会シーズンになるとよく道端にぶちまけられている吐しゃ物をみるような眼でおれを見た。
「成田。おれを騙すとはいい度胸してるじゃねえか」
「何の話だ」
 影浦はちらりと休憩スペース内に視線を走らせ、おれの腕を掴んで物陰へ誘導した。確かにここだと取引先とかち合う可能性がある。黙ってあとをついていきながら、シャツにかかる襟足の髪を眺めた。あの髪の柔らかさを知っている。どんな匂いがするのかも。
「計算したらあと一回足りねえじゃねえか。払え」
 まさかこいつ、計算したのか?おれとのセックスをひとつずつ思いだして?
 吹き出しそうになったがなんとか堪えた。怒らせると面倒だし、一生懸命積算している影浦を想像すると、なんともいえない温かい感情が胸にひろがった。嬉しいような、ばかばかしいような、虚しいような気持ちだ。とても形容しがたい。
「気づいたのか。確かに端数を考えたらあと一回だな。振り込むから口座番号を教えろ」
 こいつと寝るのが嫌になったから騙したわけじゃない。その逆だ。説明する予定は一生ないけど。
 休憩ブースから少し歩いた遊歩道は、うっそうとした森の中を通っていて、ほとんど人影がない。会場に流れていた音楽や人の声もほとんど聞こえず、日陰になっているせいで肌寒かった。
「金なんかいらねえ。ヤらせろ」
 おれの胸倉を掴み、木に押し付けてくる影浦の顔は、あの日と似ていた。BMWの上で、こいつの頭越しにカラスが飛んでいるのを眺めた日だ。
「もうお前とは寝ない」
 物分かりの悪い子どもにいってきかせるようにゆっくり言うと、影浦は苛立ったように拳で木の幹を叩いた。
「成田、てめえに選択肢はねえんだよ!」
 どうしてそんなに必死になるんだ、ほかの穴を探せばいいだろ。
「何を言われても絶対に、二度と、お前とは寝ない。どけ」
 唇を噛んでおれを睨みつける影浦。一般人ではとても手が届かない、フルオーダーのシャツやスーツに身を包んだ、生きる世界が違う男。それがなぜ、高い靴を泥で汚し、ささくれひとつない指を握りしめて木の幹を殴ったりするんだろう。凡庸な男とのセックスに、影浦が執着する理由が分からない。
「ほかを当たれよ。差額は金で払う、お前と肉体関係を持つのはもうやめだ」
 ――いや、心の底ではわかっている。
 影浦はただ、思い通りにならないものに執着しているのだ。おれに執着しているわけじゃなく。勘違いすると痛い目をみる。
「お前楽しんでたじゃねえか。男とセックスするのにハマってんなら、おれでいいだろうが。気持ち良くて借金もなくなる。しかもこのおれと寝られるなんて、そこらへんの汚い親父に身体売ることを考えたら、どれほどの僥倖だと思ってんだ。お前にとっていいこと尽くしのはずだろ」
 完全に上から物を言われているのに、必死な顔を見ていると腹も立たず、どちらかというと、愛おしさのようなものがこみあげてくるのだから、おれも相当焼きが回っている。
 おれは息を深く吸いこみ、ゆっくりと吐いた。それから影浦の腕をとって、掴んでいた手のひらをそっと外させる。
「影浦はおれのことを知らなかっただろ。でもおれは違う。お前のことをずいぶん前から知っていた。――ライターの件以外にも」
 木のあいだから差し込んできた光が、影浦の薄い色をした虹彩を照らしている。こいつが怒った顔をしているのはデフォルトだ。営業先にはだれもがひれ伏すような完全無欠の微笑を浮かべているが、おれが相手となると、無表情か、やたらとふてぶてしい笑みか、怒っているかのどれかをしている。中でも最も発生率の高いものが、「怒っている顔」だった。
「ゴールデンゾーン総取り事件。あれには度肝を抜かれた」
 あ、という形に開いた唇を眺める。驚いたとき、本当にあどけない顔をする。ずっとそういう顔でいればいいのに、と思う。
「……埼玉のか。あの頃はコンビニの営業活動が自由にできたからな。なんで知ってるんだ、お前」
 採用二年目、埼玉支店で量販店営業を担当していた影浦は、コンビニのリーチインクーラーのゴールデンゾーン(お客様が最も手に取りやすい位置のこと)を軒並み、鳳凰ラガーや初絞りで埋め尽くすことに成功した。方法は、コンビニのオーナーが店頭に立っている夜間時間、午前零時から~四時の時間帯に営業に回るという型破りなものだった。
 当時は今ほどワークライフバランスが声高に叫ばれてはいなかったものの、全体的な残業の縮減や経費削減が厳しく言い渡されている中、影浦は営業担当の半分を夜間のシフトに変更することを本部に了解させた。数字が上がらなければ自らをクビにしていい、と豪語した結果、こいつは見事にやってのけたのだ。競争の激しいコンビニの酒類置場、横一列を鳳凰できれいに染めてみせた。
「あとは、営業マン強制工場連行事件。これも影浦だろ……作り話じゃないよな?」
 会社で頭ひとつ抜きんでた存在として目立ちはじめた影浦は、周囲の営業担当たちがあまりに商品知識に乏しいことに気づき、激怒。交流を持っていた鳳凰ビール製造工場の工場長に依頼し、営業をバスに蹴り入れ、週に一回製法や理念、製品知識をレクチャーさせた。
「そんなこともあったな。なんだ成田、もしかしてお前、おれのファンなのか?」
 小ばかにするようにせせら笑った影浦の眼を、真摯にみつめた。
「すごい奴だと思ってたよ。おれみたいに…愚直に営業先を周ったり、信頼関係を築いて契約をとる……基本活動でしか数字をあげられないやつとは、全然違うと」
 今回だってそうだ。ビールの擬人化人気投票なんて、思いつきもしなかった。
 だから、影浦と比べられて万年二位だと陰口をたたかれても、悔しくなかった。仕方がないと思っていた。
「お前には理念があり、主体性がある。――勝利へのこだわりも」
 影浦は黙っておれの話に耳を傾けていた。さっきまで襟首をつかんでいた両腕は、だらりと身体の横で力をなくしてぶらさがっている。
「影浦仁という営業マンは、おれにとってあこがれの存在なんだ。だから……、そのままでいてほしい。あんな関係はもう、やめよう」
 どうしてだろう、仕事のことならもっとなめらかに話せるのに、こいつと対峙するとうまく言葉が出てこなくなる。
 あまりにへたくそな自分の説明にいら立って視線を落とす。影浦の汚れてしまった靴をしばらく見ていると、掠れた小さな声が、「それなら、」とつぶやいた。
 続きを聞き出そうとしたところで、おれの携帯端末が鳴った。悪い、とことわってから画面を確認すると、羽田からメッセージが届いていた。
『成田先輩、さっき千歳が言ってた弊社SNSアカウントへの書き込みですけど、わかりました。多分これだと思います。あの、おれ全く気にしませんし、成田先輩がこんなことするわけないって思ってるから、大丈夫です』
 画面のスクリーンショットを確認すると同時に固まってしまった。
 ――だから、あのとき影浦と広報担当は、おれと千歳を舞台に上がらせなかったのか。あれは、正確にはおれを人前に出したくなかったのだ。
 黙って画面を影浦に見せると、はっとした顔で影浦がおれの携帯を奪った。
「見るな。くだらない中傷だろ」
 そこに書かれていた言葉を読み上げた。
「成田悠生は弟の女を寝取って堕胎させた、最低のクズ」
 おれのせいでいい、そう思って生きてきたのに。影浦の視線があまりにもよどみなく真っすぐだから、声がふるえた。
「やめろ」
 嫌悪感のにじんだ声で、影浦が制止する。
 影浦。
 軽蔑されてもいいなんて、嘘だ。
 お前にだけは本当のことを知ってほしい。おれたちはなにひとつ似ているところなんてないし、共感したこともないけれど、尊敬している。自分にはない才能を両手に抱えながら、傲慢に障害をなぎ倒していく影浦仁のことを。
「おれがクズなのは本当だ。でもあれは……」
 声が詰まる。こみあげてきたものを抑え込むために、はっ、と短い息を吐く。
「待て。場所を変えるぞ。ここは寒いし、足元がわりい」
 背を向けて、影浦が歩きはじめる。おれは黙ってそのあとをついて歩いた。黙々と歩く影浦を追って、会場になっている広場から離れた、小高い丘に出た。公園内ではあるものの、こちら側には何もないから、人影どころか何の音も聞こえない。
 促されるままにベンチに座った。ここで待ってろ、と言ったきり、影浦は急ぎ足でどこかへ歩いていき、すぐに姿がみえなくなった。
 髪の隙間を風が通り抜けていき、みるみるうちに身体が冷えていく。うつむき、影浦が戻ってくるのを待っていると、足元に影が差した。

「悠くん、ここにいたんだ。探しちゃったよ」

 人懐こくて甘い声。何かを頼まれたら、それがどんなことでも嫌とは言えなかった、あの声だった。
 こんな場所できこえるはずはないのに、確かにそれは周平の声で、すべての音と思考が停止した。